三年生になってから、ほぼ毎日歩く道。昨日までは足が重かったけれど、今日は不思議と足取りが軽い。
早く黒沼に会って伝えたい。
その思いだけで、視界がいつもよりクリアに見えた。
電車に乗り、大学のキャンパスを目指して歩く。大学まであと少しというところで、スマホの着信音が鳴った。
相手はハヤトだった。昨日黒沼のバイト先で別れてから、一回も連絡を取っていない。今さらながら、昨日あのあと大丈夫だったかな、とふと思った。
応答ボタンを押し、電話に出る。
『おつー。昨日まじやばかったわー』
相変わらず大きな声が電話口に響く。店に連れて行ってくれた礼を言うでも、途中で帰ったことへの謝罪でもなく。ハヤトは一方的に自分の話を始めた。
でも今までの俺は気にしたことがなかった。だってこれがハヤトで、そんなハヤトと一緒にいることを選んできたのは自分だったから。
「そっか。大変だったんだ。でもよかったじゃん。お互い誤解が解けて」
『まあ、それはそうなんだけどさー』
ハヤトの話を聞きながら、俺は大学へと足を進める。
『そういやさー、今日森岡とサークルの後輩のやつらと飲むんだけど、伊澄も来いよ』
「今日?」
『そー。沢田ってやついるじゃん。二年の。あいつ、最近カラオケでバイト始めたらしくてさー。ちょい安くしてくれるんだって。あ、ついでに合宿の部屋割りも今日発表するか。じゃ、やっぱ伊澄も強制参加で』
俺はその場で立ち止まった。もう流されない。ギュッとスマホを握り締め、緊張で震えそうになる声を絞り出す。
「ごめん。今日は行けない」
『はっ⁉ 何言ってんの。冗談キツイんだけど』
「本気だよ。ちなみに合宿も行けない。俺が単位ヤバいの知ってるよね?」
『はあっ⁉ ふざけんなよ! 誰が酒持っていくんだよ!』
「参加する人たちでそれぞれ持っていけばいいんじゃないの。俺は親から留年はさせないって言われてるし、合宿に参加してる場合じゃないんだよ」
『そんなこと知らねえよ! おまえ三年なんだぞ、無責任すぎんだろ』
「そりゃ今まで曖昧だった俺も悪いけど、合宿の参加は強制じゃないでしょ。しかもまだ参加するかしないか言える時期だよねっ?」
『それは……っ』
事実を突きつけられ、さすがにハヤトも言い返せないようだ。
「キャリーケースは貸す。でも俺の家までとりにきてよ。じゃないと貸さないからね!」
『ちょっ、待っ――』
「じゃあ俺もうすぐ大学着くから、また!」
ハヤトとの会話を強制終了し、俺は電話を切った。
スマホを耳から離すと、手が小刻みに震えていた。心臓もバクバクしている。
「い、言った………………」
緊張と勢いで汗ばんだ顔を上げ、俺は天を仰いだ。絶対に言えないと思っていた相手に、俺は言ったんだ。
段々と腹の底から何かがこみ上げてくる。興奮だろうか。それとも高揚? どっちだっていい。
たぶん俺はこれからもハヤトのことを嫌いにならないだろう。嫌いになる必要もないし、距離を置くつもりもない。楽しそうなことに誘われたら乗る。自分からも誘う。
でももし乗り気になれないことで誘われたり、予定が合わなかったりした時は今日みたいに断ればいいんだ。
本当はもっと早くこうしていればよかった。そうすれば、黒沼を傷つけることもなかったんだろうな。
……と考えて、俺は両手でバシッと頬を叩いた。危ない危ない。気持ちがまた自己嫌悪に傾くところだった。
もう後悔するのはやめにする。いくら悔やんだって、過去には戻れないのだから。
キャンパス内の正門から各教室棟へと続く銀杏並木。青々しい木の葉の影が、地面に揺れている。
門からキャンパス内に入ると、横に広がった学生のグループがしゃべりながら歩いていた。
今日の一限の講義は、黒沼も取っている。教室で会えたら、講義終わりに声をかけよう。無視をされるかもしれない。二日酔いで初めて出会った時みたいに、舌打ちをされるかもしれない。それでもいいから……と意気込んで、目的の教室棟に向かって歩いている時だった。
学生グループのさらに奥――俺の数メートル先を歩く後ろ姿に、目が留まった。
モサモサ頭にモノクロのチェックシャツを着た背の高い男――。
間違えるはずがない。
「あーーーーっ!」
俺は所かまわず叫び、見つけた喜びを爆発させた。「はっ? なにっ?」と顔見知りでも何でもない学生らが俺の方を振り返る。
当然、黒沼の耳にも俺の声は届いたらしい。振り返って俺を認めると、ゲッという顔をしてダッシュで逃げ出した。
「えっ! に、逃げるのっ⁉」
無視とか舌打ちをされることまでは予測していたが、まさか『逃げる』コマンドまであったとは。
この調子じゃ、教室で会っても逃げられてしまうのでは? 瞬時に判断した俺は、中庭の方へと逃げる黒沼の背中を走って追いかけた。
「ちょっと! 待って!」
足が長いせいか、黒沼の走るスピードはなかなかに速い。追いつけないかもしれない。挫けそうになりながらも、俺は必死で足を動かした。
黒沼の背中が中庭から図書館裏の小道へ入っていく。その頃には黒沼との距離がかなり縮まっていた。
手を伸ばせば届く距離に黒沼がいる。はやる気持ちを抱えたまま、俺は腕をガッと伸ばした。黒沼の肩の服を掴もうとした手が、大きく半円を描き空振る。
「わっ!」
前のめりに転びそうになったと同時に、黒沼が振り返った。目が合った時には、俺は黒沼を押し倒す体勢で倒れていた。
「いってえ……」
上から痛そうなうめき声がする。ハッと我に返った俺は、両手をついて顔を上げた。
「黒沼大丈夫⁉」
そこでようやく、俺は黒沼の胸に倒れ掛かってしまったことを知った。
「なんなんだよ……まったく」
「ごめん、黒沼が逃げるからつい」
「普通逃げるだろ! 急に叫びながら迫いかけられたら!」
黒沼は上体を起こし、ずれた眼鏡を直しながら言った。
「俺、黒沼に言いたいことがある」
「……聞きたくない」
黒沼がそっぽを向く。まだ怒っているようだ。そりゃそうか。昨日の今日だ。聞く耳が持てなくて当然だ。でも俺はこのタイミングを逃したらだめだと思った。言わなくちゃいけないんだ、今。
俺はゴクッと唾を飲み、黒沼を見て言った。
「俺、黒沼が好きだ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。俺たちのいる図書館裏の小道に風が流れてくる。近くの木からサアッと葉の擦れる音がする。
風に揺れた前髪と眼鏡の奥に、まばたきを忘れた黒沼の目が見えた。その目には、必死な面持ちで黒沼を見つめている俺の顔が映っていた。
「……うそ」
ぽつっとこぼした黒沼に、俺は「うそじゃないよ」と吹っ切った笑顔を向けた。
「俺は黒沼が好き。どんな黒沼も好きだけど、黒沼が笑うと、俺は世界一幸せになっちゃうんだよ。黒沼の笑顔は俺のぜんぶだから」
「……っ」
黒沼は顔をくしゃりと顔を歪ませる。
昨日拒絶した相手から地面に押し倒され、告白されている状況だ。黒沼からすれば、迷惑どころの話ではないかもしれない。
だから断られてもおかしくないと思っていた。最悪キモがられてしまうこともありえると覚悟していた。
でも――。
「……はは」
しばらくすると、黒沼は頭をガクッと下げ、力なく笑い出した。
「平謝りされながら、昨日の言い訳を聞かされると思ってんだけどな」
「言い訳なんてしないよ。黒沼が馬鹿にされたって思っても仕方ないことを、俺はしたわけで……本当に弁明の余地もございません。俺の無神経さと配慮の至らなさが、完全にアウトでした」
俺は黒沼の胸の上から離れる。立ち上がり、腰を九十度曲げて詫びた。
「でもこれだけは言わせて。黒沼の仕事に対する姿勢を馬鹿にしたことは、一度もないよ」
俺の言葉を聞いたあと、黒沼もゆらりと立ち上がった。地面にあるトートバッグを拾って肩にかける。
「言い訳しないって言ったばっかなのに」
俺はハッとなり、「そうじゃん! 今のめちゃくちゃ言い訳だったね⁉」と慌てる。
そんな俺を見ながら、「悪い。揚げ足取ったわ」と黒沼はポケットに手を突っ込んで笑った。
「もういいよ。何回も謝ってほしいわけじゃないから」
「ほんと? 靴舐めなくて大丈夫?」
「なんだそれ。まあ、昨日は赤羽さんに尻に敷かれてる望月も見れたしな」
「赤羽さん?」
「望月の彼女さん。いいお客さんだよ。スタッフにやたら腰が低くて、なぜかスタッフ全員の名前に様付けしてくるけど」
「そうなんだ」
癖の強い彼女とチャラチャラしているハヤト――意外といい組み合わせなのかもしれないと思った。
そんな風に考えていたら、黒沼が「なあ花川」と俺を呼んだ。
「俺が好きなの?」
真っ直ぐな目が再び俺を捕らえた。ドキッとする。そうだった。俺はたった今、黒沼に告白をしたばかりだ。ということは、返事があるということなのだ。
覚悟していたけれど、いざ本人の口から断りの言葉を聞かされるとなるとちょっと怖い。いや、やっぱりすごく怖い。
「す、好き……です」
まさかもう一度言うことになるとは。かあっと頬が熱く火照る。真っ赤になった顔を見られないよう、俺は腕で口元を隠しながら目を逸らした。
その腕をそっと退けさせたのは、黒沼の男らしい手。星のタトゥーを乗せた指に触られた箇所に熱が灯る。全身の神経がそこに集中する。
黒沼は俺の手を優しく掴んだまま、
「俺の口から言うって約束したのに、ダサいな」
と自嘲した。続けて、
「酒くせえわ人が借りた本を貸せとか言ってくるわ、すぐキャッチに捕まるわ、平気で約束破ってくるわ――大丈夫かコイツ、って最初は思ってたのにな」
黒沼にしてきた数々の悪行を思い返し、上昇気味だった体温がちょっと下がる。
今考えると俺、かなり失礼なことばかり黒沼にしてきていないか? いやしてるよな。
こんなに印象が最悪な状況で告白するなんて、無謀すぎただろうか。冷や汗がこめかみを垂れる。終わった――と軽く天を仰いでからも、黒沼は話すのをやめない。
「いつか自分の店もちたいって、俺、何気なく花川に話したじゃん。そのあと『ファンになった』って言いながら、キーホルダーくれてさ」
思い返すと、自分は随分と思い切ったことをしていた。思えばあの頃からずっと、俺は黒沼に惹かれていたんだ。
「いきなり渡されて困ったよね」
「いいや。なんかよくわからないけど嬉しかったよ。死ぬほどな」
「死……まじ?」
なんだか物騒な言葉にドキッとする。聞き返した俺に、黒沼は「まじ」と言い切ってもう一度俺を見た。
「褒められるのも、ファンですって応援されんのも正直慣れてる。でもさ、慣れてるから見えるんだよ」
「なにが?」
「その裏にある下心ってやつ」
黒沼は淡々と言う。
「望月に振り回されてる花川を見るたび、イライラしたよ。なんでコイツは文句の一つも言わねえのって。流されやすすぎだろって」
「……」
「イライラしてイライラしてイライラして……気づいたら花川のことばかり考えるようになってた」
しゃべり疲れたのか、黒沼は大きく肩で息をする。
「流されやすいくせに俺のアピールには全然流される気配がないし……メンタル弱そうに見えて、案外図太いところもあってさ。どっちなんだよって何回も思ったし、正直昨日の件はめちゃくちゃ堪えた」
何も言えなかった。自分がいかに黒沼を傷つけてきたかがわかり、自信がさらになくなった。
「良く言えば下心がなくて純粋、悪く言えば優柔不断でフラフラしてる。でも結局さ、そういうとこ全部ひっくるめて、俺は花川が好きなんだなって」
真っ暗だった目の前にうっすらと光が差す。
本当に? 黒沼が俺のことを好き? 信じられなくて、軽くパニックになった。
「……うそ」
黒沼とまったく同じ反応をしてしまい、思わず二人で苦笑いした。
「噓じゃない。俺も花川が好きだ」
「……っ」
胸がいっぱいになる。心の底では望んでいたけど、半分以上諦めていた言葉。
キャパオーバーだ。どうやって受け止めたらいいのかわからない。俺は昂ぶった感情のせいで目に滲んだ涙を、ゴシゴシと腕で拭いた。
少しの沈黙のあと、黒沼が言う。
「前に聞いたことあるじゃん? 抱きしめてもいい? って」
「えっ、あっ、う、うんっ」
「あれ、もう一回聞いてもいい?」
緊張と嬉しさで、俺は餌を求める鯉のように口をハクハクさせながら「うん」と頷いた。
「お願い。ギュッてさせて」
「えっ――」
てっきり同じ文言で質問されると思っていた。でも実際に黒沼が口にしたのは、質問じゃない――懇願だ。
たまらない気持ちになった途端、黒沼の大きな体に正面から包まれる。爽やかなシャンプーとせっけんの匂いに鼻をくすぐられる。
ドキドキした。そしてやはり、自分の両手をどこに置いたらいいか俺はわからない。あわあわと空で水かきのように腕を動かしていると、黒沼に指示された。
「手、俺の背中に回して」
「……こ、こう?」
俺はおそるおそる黒沼の広い背中に両腕を回し、そっと置いた。
「もっと強く。服握っていいから」
「でも皺がついちゃう……」
「じゃあ皺つける気で握ってよ」
難しい。だけど黒沼の願いに応えたかった。俺は意を決して黒沼の服をギュッと握り締めた。腕に力が入ったのか、黒沼の圧と体温がより近く感じられるようになった。
「し、心臓の音……めっちゃ聞こえんね」
そこには俺の心臓と同じスピードで動く鼓動があった。同じ……同じなんだ。その音を聞くだけで、黒沼が俺と同じ気持ちであることを知れた。嬉しいのに、なぜかまた涙が出てきそうになる。
「俺も聞こえるよ、花川の心臓の音」
「やばい……なんか泣きそう」
「ふっ。なんで」
「わかんない。黒沼のことがめちゃくちゃ好きで、泣きそう」
「いいよ泣いても」
「恥ずいから後にする」
わけのわからないことを言う俺を、黒沼は笑わなかった。
「大事にします。俺と付き合ってください」
俺を抱きしめたまま、黒沼が耳元で言った。柔らかい声が耳に触れ、そこでもうダメだった。我慢していた涙が溢れ、頬を伝う。
「……こん、な……っ俺でよけ、れば……っ」
そして俺も約束したかった。黒沼と、もう流されない自分に。
「おれ、も……っ黒沼のこと……大事に、させて、くだ、さ……っ」
黒沼は「うん」と返事をすると、俺の背中を擦ってくれた。
一限の開始を告げるチャイムが鳴り響く。黒沼と抱きしめ合ったまま、俺は梅雨の終わりを感じていた。
早く黒沼に会って伝えたい。
その思いだけで、視界がいつもよりクリアに見えた。
電車に乗り、大学のキャンパスを目指して歩く。大学まであと少しというところで、スマホの着信音が鳴った。
相手はハヤトだった。昨日黒沼のバイト先で別れてから、一回も連絡を取っていない。今さらながら、昨日あのあと大丈夫だったかな、とふと思った。
応答ボタンを押し、電話に出る。
『おつー。昨日まじやばかったわー』
相変わらず大きな声が電話口に響く。店に連れて行ってくれた礼を言うでも、途中で帰ったことへの謝罪でもなく。ハヤトは一方的に自分の話を始めた。
でも今までの俺は気にしたことがなかった。だってこれがハヤトで、そんなハヤトと一緒にいることを選んできたのは自分だったから。
「そっか。大変だったんだ。でもよかったじゃん。お互い誤解が解けて」
『まあ、それはそうなんだけどさー』
ハヤトの話を聞きながら、俺は大学へと足を進める。
『そういやさー、今日森岡とサークルの後輩のやつらと飲むんだけど、伊澄も来いよ』
「今日?」
『そー。沢田ってやついるじゃん。二年の。あいつ、最近カラオケでバイト始めたらしくてさー。ちょい安くしてくれるんだって。あ、ついでに合宿の部屋割りも今日発表するか。じゃ、やっぱ伊澄も強制参加で』
俺はその場で立ち止まった。もう流されない。ギュッとスマホを握り締め、緊張で震えそうになる声を絞り出す。
「ごめん。今日は行けない」
『はっ⁉ 何言ってんの。冗談キツイんだけど』
「本気だよ。ちなみに合宿も行けない。俺が単位ヤバいの知ってるよね?」
『はあっ⁉ ふざけんなよ! 誰が酒持っていくんだよ!』
「参加する人たちでそれぞれ持っていけばいいんじゃないの。俺は親から留年はさせないって言われてるし、合宿に参加してる場合じゃないんだよ」
『そんなこと知らねえよ! おまえ三年なんだぞ、無責任すぎんだろ』
「そりゃ今まで曖昧だった俺も悪いけど、合宿の参加は強制じゃないでしょ。しかもまだ参加するかしないか言える時期だよねっ?」
『それは……っ』
事実を突きつけられ、さすがにハヤトも言い返せないようだ。
「キャリーケースは貸す。でも俺の家までとりにきてよ。じゃないと貸さないからね!」
『ちょっ、待っ――』
「じゃあ俺もうすぐ大学着くから、また!」
ハヤトとの会話を強制終了し、俺は電話を切った。
スマホを耳から離すと、手が小刻みに震えていた。心臓もバクバクしている。
「い、言った………………」
緊張と勢いで汗ばんだ顔を上げ、俺は天を仰いだ。絶対に言えないと思っていた相手に、俺は言ったんだ。
段々と腹の底から何かがこみ上げてくる。興奮だろうか。それとも高揚? どっちだっていい。
たぶん俺はこれからもハヤトのことを嫌いにならないだろう。嫌いになる必要もないし、距離を置くつもりもない。楽しそうなことに誘われたら乗る。自分からも誘う。
でももし乗り気になれないことで誘われたり、予定が合わなかったりした時は今日みたいに断ればいいんだ。
本当はもっと早くこうしていればよかった。そうすれば、黒沼を傷つけることもなかったんだろうな。
……と考えて、俺は両手でバシッと頬を叩いた。危ない危ない。気持ちがまた自己嫌悪に傾くところだった。
もう後悔するのはやめにする。いくら悔やんだって、過去には戻れないのだから。
キャンパス内の正門から各教室棟へと続く銀杏並木。青々しい木の葉の影が、地面に揺れている。
門からキャンパス内に入ると、横に広がった学生のグループがしゃべりながら歩いていた。
今日の一限の講義は、黒沼も取っている。教室で会えたら、講義終わりに声をかけよう。無視をされるかもしれない。二日酔いで初めて出会った時みたいに、舌打ちをされるかもしれない。それでもいいから……と意気込んで、目的の教室棟に向かって歩いている時だった。
学生グループのさらに奥――俺の数メートル先を歩く後ろ姿に、目が留まった。
モサモサ頭にモノクロのチェックシャツを着た背の高い男――。
間違えるはずがない。
「あーーーーっ!」
俺は所かまわず叫び、見つけた喜びを爆発させた。「はっ? なにっ?」と顔見知りでも何でもない学生らが俺の方を振り返る。
当然、黒沼の耳にも俺の声は届いたらしい。振り返って俺を認めると、ゲッという顔をしてダッシュで逃げ出した。
「えっ! に、逃げるのっ⁉」
無視とか舌打ちをされることまでは予測していたが、まさか『逃げる』コマンドまであったとは。
この調子じゃ、教室で会っても逃げられてしまうのでは? 瞬時に判断した俺は、中庭の方へと逃げる黒沼の背中を走って追いかけた。
「ちょっと! 待って!」
足が長いせいか、黒沼の走るスピードはなかなかに速い。追いつけないかもしれない。挫けそうになりながらも、俺は必死で足を動かした。
黒沼の背中が中庭から図書館裏の小道へ入っていく。その頃には黒沼との距離がかなり縮まっていた。
手を伸ばせば届く距離に黒沼がいる。はやる気持ちを抱えたまま、俺は腕をガッと伸ばした。黒沼の肩の服を掴もうとした手が、大きく半円を描き空振る。
「わっ!」
前のめりに転びそうになったと同時に、黒沼が振り返った。目が合った時には、俺は黒沼を押し倒す体勢で倒れていた。
「いってえ……」
上から痛そうなうめき声がする。ハッと我に返った俺は、両手をついて顔を上げた。
「黒沼大丈夫⁉」
そこでようやく、俺は黒沼の胸に倒れ掛かってしまったことを知った。
「なんなんだよ……まったく」
「ごめん、黒沼が逃げるからつい」
「普通逃げるだろ! 急に叫びながら迫いかけられたら!」
黒沼は上体を起こし、ずれた眼鏡を直しながら言った。
「俺、黒沼に言いたいことがある」
「……聞きたくない」
黒沼がそっぽを向く。まだ怒っているようだ。そりゃそうか。昨日の今日だ。聞く耳が持てなくて当然だ。でも俺はこのタイミングを逃したらだめだと思った。言わなくちゃいけないんだ、今。
俺はゴクッと唾を飲み、黒沼を見て言った。
「俺、黒沼が好きだ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。俺たちのいる図書館裏の小道に風が流れてくる。近くの木からサアッと葉の擦れる音がする。
風に揺れた前髪と眼鏡の奥に、まばたきを忘れた黒沼の目が見えた。その目には、必死な面持ちで黒沼を見つめている俺の顔が映っていた。
「……うそ」
ぽつっとこぼした黒沼に、俺は「うそじゃないよ」と吹っ切った笑顔を向けた。
「俺は黒沼が好き。どんな黒沼も好きだけど、黒沼が笑うと、俺は世界一幸せになっちゃうんだよ。黒沼の笑顔は俺のぜんぶだから」
「……っ」
黒沼は顔をくしゃりと顔を歪ませる。
昨日拒絶した相手から地面に押し倒され、告白されている状況だ。黒沼からすれば、迷惑どころの話ではないかもしれない。
だから断られてもおかしくないと思っていた。最悪キモがられてしまうこともありえると覚悟していた。
でも――。
「……はは」
しばらくすると、黒沼は頭をガクッと下げ、力なく笑い出した。
「平謝りされながら、昨日の言い訳を聞かされると思ってんだけどな」
「言い訳なんてしないよ。黒沼が馬鹿にされたって思っても仕方ないことを、俺はしたわけで……本当に弁明の余地もございません。俺の無神経さと配慮の至らなさが、完全にアウトでした」
俺は黒沼の胸の上から離れる。立ち上がり、腰を九十度曲げて詫びた。
「でもこれだけは言わせて。黒沼の仕事に対する姿勢を馬鹿にしたことは、一度もないよ」
俺の言葉を聞いたあと、黒沼もゆらりと立ち上がった。地面にあるトートバッグを拾って肩にかける。
「言い訳しないって言ったばっかなのに」
俺はハッとなり、「そうじゃん! 今のめちゃくちゃ言い訳だったね⁉」と慌てる。
そんな俺を見ながら、「悪い。揚げ足取ったわ」と黒沼はポケットに手を突っ込んで笑った。
「もういいよ。何回も謝ってほしいわけじゃないから」
「ほんと? 靴舐めなくて大丈夫?」
「なんだそれ。まあ、昨日は赤羽さんに尻に敷かれてる望月も見れたしな」
「赤羽さん?」
「望月の彼女さん。いいお客さんだよ。スタッフにやたら腰が低くて、なぜかスタッフ全員の名前に様付けしてくるけど」
「そうなんだ」
癖の強い彼女とチャラチャラしているハヤト――意外といい組み合わせなのかもしれないと思った。
そんな風に考えていたら、黒沼が「なあ花川」と俺を呼んだ。
「俺が好きなの?」
真っ直ぐな目が再び俺を捕らえた。ドキッとする。そうだった。俺はたった今、黒沼に告白をしたばかりだ。ということは、返事があるということなのだ。
覚悟していたけれど、いざ本人の口から断りの言葉を聞かされるとなるとちょっと怖い。いや、やっぱりすごく怖い。
「す、好き……です」
まさかもう一度言うことになるとは。かあっと頬が熱く火照る。真っ赤になった顔を見られないよう、俺は腕で口元を隠しながら目を逸らした。
その腕をそっと退けさせたのは、黒沼の男らしい手。星のタトゥーを乗せた指に触られた箇所に熱が灯る。全身の神経がそこに集中する。
黒沼は俺の手を優しく掴んだまま、
「俺の口から言うって約束したのに、ダサいな」
と自嘲した。続けて、
「酒くせえわ人が借りた本を貸せとか言ってくるわ、すぐキャッチに捕まるわ、平気で約束破ってくるわ――大丈夫かコイツ、って最初は思ってたのにな」
黒沼にしてきた数々の悪行を思い返し、上昇気味だった体温がちょっと下がる。
今考えると俺、かなり失礼なことばかり黒沼にしてきていないか? いやしてるよな。
こんなに印象が最悪な状況で告白するなんて、無謀すぎただろうか。冷や汗がこめかみを垂れる。終わった――と軽く天を仰いでからも、黒沼は話すのをやめない。
「いつか自分の店もちたいって、俺、何気なく花川に話したじゃん。そのあと『ファンになった』って言いながら、キーホルダーくれてさ」
思い返すと、自分は随分と思い切ったことをしていた。思えばあの頃からずっと、俺は黒沼に惹かれていたんだ。
「いきなり渡されて困ったよね」
「いいや。なんかよくわからないけど嬉しかったよ。死ぬほどな」
「死……まじ?」
なんだか物騒な言葉にドキッとする。聞き返した俺に、黒沼は「まじ」と言い切ってもう一度俺を見た。
「褒められるのも、ファンですって応援されんのも正直慣れてる。でもさ、慣れてるから見えるんだよ」
「なにが?」
「その裏にある下心ってやつ」
黒沼は淡々と言う。
「望月に振り回されてる花川を見るたび、イライラしたよ。なんでコイツは文句の一つも言わねえのって。流されやすすぎだろって」
「……」
「イライラしてイライラしてイライラして……気づいたら花川のことばかり考えるようになってた」
しゃべり疲れたのか、黒沼は大きく肩で息をする。
「流されやすいくせに俺のアピールには全然流される気配がないし……メンタル弱そうに見えて、案外図太いところもあってさ。どっちなんだよって何回も思ったし、正直昨日の件はめちゃくちゃ堪えた」
何も言えなかった。自分がいかに黒沼を傷つけてきたかがわかり、自信がさらになくなった。
「良く言えば下心がなくて純粋、悪く言えば優柔不断でフラフラしてる。でも結局さ、そういうとこ全部ひっくるめて、俺は花川が好きなんだなって」
真っ暗だった目の前にうっすらと光が差す。
本当に? 黒沼が俺のことを好き? 信じられなくて、軽くパニックになった。
「……うそ」
黒沼とまったく同じ反応をしてしまい、思わず二人で苦笑いした。
「噓じゃない。俺も花川が好きだ」
「……っ」
胸がいっぱいになる。心の底では望んでいたけど、半分以上諦めていた言葉。
キャパオーバーだ。どうやって受け止めたらいいのかわからない。俺は昂ぶった感情のせいで目に滲んだ涙を、ゴシゴシと腕で拭いた。
少しの沈黙のあと、黒沼が言う。
「前に聞いたことあるじゃん? 抱きしめてもいい? って」
「えっ、あっ、う、うんっ」
「あれ、もう一回聞いてもいい?」
緊張と嬉しさで、俺は餌を求める鯉のように口をハクハクさせながら「うん」と頷いた。
「お願い。ギュッてさせて」
「えっ――」
てっきり同じ文言で質問されると思っていた。でも実際に黒沼が口にしたのは、質問じゃない――懇願だ。
たまらない気持ちになった途端、黒沼の大きな体に正面から包まれる。爽やかなシャンプーとせっけんの匂いに鼻をくすぐられる。
ドキドキした。そしてやはり、自分の両手をどこに置いたらいいか俺はわからない。あわあわと空で水かきのように腕を動かしていると、黒沼に指示された。
「手、俺の背中に回して」
「……こ、こう?」
俺はおそるおそる黒沼の広い背中に両腕を回し、そっと置いた。
「もっと強く。服握っていいから」
「でも皺がついちゃう……」
「じゃあ皺つける気で握ってよ」
難しい。だけど黒沼の願いに応えたかった。俺は意を決して黒沼の服をギュッと握り締めた。腕に力が入ったのか、黒沼の圧と体温がより近く感じられるようになった。
「し、心臓の音……めっちゃ聞こえんね」
そこには俺の心臓と同じスピードで動く鼓動があった。同じ……同じなんだ。その音を聞くだけで、黒沼が俺と同じ気持ちであることを知れた。嬉しいのに、なぜかまた涙が出てきそうになる。
「俺も聞こえるよ、花川の心臓の音」
「やばい……なんか泣きそう」
「ふっ。なんで」
「わかんない。黒沼のことがめちゃくちゃ好きで、泣きそう」
「いいよ泣いても」
「恥ずいから後にする」
わけのわからないことを言う俺を、黒沼は笑わなかった。
「大事にします。俺と付き合ってください」
俺を抱きしめたまま、黒沼が耳元で言った。柔らかい声が耳に触れ、そこでもうダメだった。我慢していた涙が溢れ、頬を伝う。
「……こん、な……っ俺でよけ、れば……っ」
そして俺も約束したかった。黒沼と、もう流されない自分に。
「おれ、も……っ黒沼のこと……大事に、させて、くだ、さ……っ」
黒沼は「うん」と返事をすると、俺の背中を擦ってくれた。
一限の開始を告げるチャイムが鳴り響く。黒沼と抱きしめ合ったまま、俺は梅雨の終わりを感じていた。
