急いで来たつもりだったが、広い教室の席は先に来た学生でほとんど埋まっていた。
 さすが毎回律儀に出欠確認をする講義なだけある。講師のいる教卓と、ホワイトボードから近い前の席しか空いていなかった。

 うう。前の席って苦手なんだよな。なんかボッチの人とか、学生なのかそうじゃないのかわからない年齢層高めなおじさんとかが座ってるし。

 それにこの講義は、俺の所属しているテニスサークルの仲間は誰も取っていない。つまり頼れる人がいないということだ。
 新年度早々、初めて受ける講義に絶望する。ただでさえボッチになるのが苦手な俺が、無事にこの講義でやっていけるのだろうか。心配だった。

 どこか一つでも後ろの方の席が空いてないかな。それは授業前のガヤガヤに紛れて、廊下側の壁に沿って歩いていた時だった。

「ここ、空いてます」

 俺がキョロキョロしていたのを見かねてか、一人の男子学生が声をかけてくれた。
 昆布のようにうねった黒髪。もっさりした前髪に半分隠れた、牛乳瓶の底みたいに分厚いレンズの黒縁眼鏡。特徴のない鼻と唇。
 着ているのは、深緑色の大きなチェック柄のシャツだ。しかもボタンをきっちりと首の上まで留めている。

 うわあ。めっちゃ地味……というかダサい。ひと昔前のオタクというやつだろうか。
「あ、あざます」
 親切にしてもらった手前軽く頭を下げ、俺は地味系男子の隣に座らせてもらった。隣から「チッ」と舌打ちが聞こえてきたのは、俺が椅子に腰を下ろした直後のこと。

「酒くさ」

 小声だったけれど、それは明らかに俺に対して向けられた言葉だった。だってこの場で酒の匂いをプンプンさせているのは、きっと俺ぐらいだから。

 え、今の聞き間違いじゃないよな? 驚きのあまり声が出せない。突然の振る舞いに、拾ってくれた財布で頬を引っ叩かれたような気分になった。

 俺の動揺をよそに、いつの間にか講義が始まっていたらしい。講師と留学生のチューターが、前方の席から小さな紙らしきものを配り始めていた。
 前の席から回ってきたのは、マーク式の出席カードだ。出欠確認に間に合ってよかった。俺はホッとしつつ、自分と地味系男子の分を取って後ろに回した。

 サークルの先輩から、この授業は毎回出席さえすれば基本的に単位が取れると聞いた。つまりこの出席カードを記入して出せば、俺の単位取得は約束されたも同然。
 強気になりながら、筆箱を取ろうとリュックを漁る。その時になって、俺は気づいた。

 あれ? 筆箱が…………ない。
 うそだろ。え、なんで。リュックの口をかっ開いて奥まで見たけれど、それらしきものは見当たらない。

 そういえば昨日新しいリュックに替えたんだった。前のリュックに筆箱を入れっぱなしなのかもしれない。どうしよう。せっかく二日酔いの体に鞭打って来たのに。欠席扱いはめちゃくちゃ困る。

 絶体絶命のピンチに陥った俺は、チラッと隣の地味系男子に目をやった。関わりたくない相手にこんなことを頼みたくないが、藁をもすがる思いだった。
 俺は勇気を振り絞って「あの」と小さく声をかけた。
「シャーペン貸してくれませんか……?」
「は?」
 地味系男子の眼鏡が物騒に光る。

「す、すいません。筆箱忘れちゃって」
「チッ。どーぞ」
「ありがとうございます。すぐ返しますんで」

 ちょっと待って。今また舌打ちしたよな。行動は優しくないわけじゃないけど、なんか感じ悪くないか? なんなんだこいつは。情緒不安定すぎない?

 借りたシャーペンで出席カードを記入したあと、俺は地味系男子にすぐ返すことにした。腫れ物を扱うように渡す俺の手から、地味系男子が左手で受け取る。

 その際、出席カードに書かれた男の名前をちらっと見る。名前の欄には達筆な字で『黒沼将也(くろぬましょうや)』と書かれていた。

 そしてもう一つ。相手の左手の人差し指に、俺は目が留まった。第一関節の内側に小さな黒い星が見えたのだ。ドキッとした。

 え、もしかしてこれってタトゥー?
 それは一センチにも満たないくらいの大きさの刻印だった。しかも内側だから、けっして目立つわけじゃない。
 問題はそのタトゥーを入れている超本人。どんなにシンプルだとしても、タトゥーが入っている種類の人間には見えない。そんな男の肌に、タトゥーがあるのが意外だった。

「なに?」
 俺は無意識にジロジロ見ていたらしい。地味系男子がチクリと言った。
「な、なんでもないです」

 ダメだ。なんかこいつ怖いんだけど。
 一連から察した俺は、地味系男子との関わりをなかったことにするよう、教科書とルーズリーフをせこせこと机の上に出した。
 無事に授業が終わったあと、俺はすぐに席から離れた。地味系男子から逃げたかったのももちろんあるけれど、一番の理由は授業中に送られてきたサークル仲間のハヤトから送られてきたラインだ。

『一限が終わる頃に俺らも大学行くから、学食の席取っといてー』
 いつもの自己中な頼みに俺は眉をひそめた。ハヤトは俺が遊んでいるとでも思っているんだろうか。
 二限も授業があるからやだなぁ、と思いつつ、俺は『ういー』と返事した。

 一限の教室を出て学食へ向かう。まだ空席だらけの学食で、俺は定位置の窓際のテーブルを確保する。まだハヤトたちは来ていない。

 二限は第二言語の小テストがある。ハヤトたちが来るまでの間に、ちょっとでも勉強しておこうかな。
 俺がリュックの中から単語帳を取り出そうとすると同時に、「おつー」と声が降ってくる。首に手を回され、ぐいっと吊り目の男に引き寄せられる。望月隼人ことハヤトだ。
 ブリーチで傷んだ金髪に、下はダメージジーンズ。耳のピアスと匂いのキツい香水が、いかにも遊んでいる大学生という感じの装いだ。

 テニスサークルこと飲みサーの仲間の一人で、二年前、大学に入学したばかりの頃に初めてできた友達でもある。
 一人でサークル勧誘の荒波に揉まれていた俺に、ハヤトの方から声をかけてくれたことがきっかけで仲良くなった。それ以来、いろんなサークルの新歓を一緒に巡ったし、今のサークルに決めたのもハヤトの誘いがあったからだ。

「場所取りサンキュな。てか伊澄、二限あんの?」
「あるよ。中国語」
「へー。じゃあ今度福来亭(ふくらいてい)のオッサンと中国語で喋ってみてよ」
「いや、喋るのは無理。ていうかあの店のおじさん、バリバリ日本語じゃん」
「でも喋れるんじゃねえの? 母国語だし」
「そりゃまあ、そうだろうけどさ」
 たまに行く町中華のおじさんの話には、すぐ飽きたらしい。ハヤトは「じゃあこれから二限の教室行く感じ?」と急に話題を戻した。

「うん。授業の場所、十号館でさ」
「うっわ。めっちゃ遠くね。ここからどんくらいだっけ?」
「軽く五分以上かかるかな。だから早く行っときたいんですよ、俺は」
 それに休み時間の間に少しでも勉強しなきゃまずい。昨日も飲み会で結局勉強できなかったのだ。

 イスから立ち上がろうとした俺の肩に、ハヤトの手がぐっと圧をかけてくる。
「そういやさ、伊澄も今日の新歓来いよ」
「え、今日もあるの? 昨日あんなに飲んだじゃん」
「昨日は普通の飲み。本番は今日よ。なに、もしかして二日酔い?」
「絶賛二日酔いだよ……」
「いいじゃんいいじゃん。迎え酒しようぜ」

 何がいいのかさっぱりわからない。
 だって昨日も一昨日もハヤトたちサークルメンバーで飲んだばかりだ。まだ就活の時期じゃないし、ハヤトたちは留年の心配がないから毎日遊んでいられるのだろうけれど。

「ごめん。さすがに迎え酒できるキャパ残ってない」
「は~? 伊澄がいないとつまんないじゃん。今度二郎奢るからさ。な?」
 二郎ラーメンは誘い文句として魅力的すぎる。それに俺がいないとつまらないと言われて、悪い気はしなかった。

「くっ……、絶対奢れよ」
「奢る奢る。あ、でも全マシは無しな。俺今金欠だから」
「逆に全マシは無理だわ。完食できる気がしないって」
 こうやって毎回誘いに乗ってしまう自分が情けない。なんだかんだ俺って、ハヤトの誘いを断れないんだよな。ああ、流されやすいこの優柔不断な性格のせいで損してることって、俺が気づいていないところで結構あるんだろうなぁ……。
 
 俺はハヤトと今日の飲み会参加を約束したあと、ため息をつきながら二限の講義がある教室に向かった。