四限が終わってから、俺はラウンジでハヤトと合流した。
他の人も連れていくんじゃないかと内心かなり心配していたけど、ラウンジの席に座り、一人スマホをいじるハヤトを見てホッとした。森岡や他のサークルメンバーには声をかけていないらしい。よかった。
「早く行こーぜ」
目が合うなり、ハヤトが椅子を立つ。
「こんな時間からやってないよ。オープン時間まで待たないと」
「チッ。だりーな」
すでにイライラしているハヤトを「まあまあ」となだめつつ、俺たちが向かったのはいつも行く居酒屋チェーン店。
ハヤトとのサシ飲みはだいぶ久しぶりになる。もちろんその余韻に浸る間もなく、バーのオープン時間まで、俺はまずい酒を飲みながらハヤトから彼女の愚痴を聞かされ続けたのだった。
九時になる少し前に会計し、居酒屋を出る。俺たちが【Bar OnyX】の前に着いたのは、九時を五分ほど過ぎてからだ。
「あの野郎、ぜってー泣かす」
居酒屋を出てから店に向かう途中、ハヤトはずっとこんな調子だった。ポキポキと指の関節を鳴らす姿は、どこからどう見ても喧嘩腰だ。
そんなハヤトの横を歩きながら、俺は小さく懇願する。
「お願いだから喧嘩はしないでよ」
声が今にも降りだしそうな夜空に溶けていく。こんな俺でも、もしもの時はハヤトを止めなくちゃならないんだよな。俺にできるかなと不安が胸をかすめる。でも今は弱音なんて吐いてる場合じゃない。
【OPEN】のプレートが掛けられたドアをおそるおそる開け、最初に俺が入る。
黒沼は……いるかな。ドキドキしながら店内に目を凝らした瞬間、「よ」と横から声をかけられた。
ドキッとして身を引く。イケメンバーテンダーとしてビシッとキメた黒沼が、レジの横に立っていた。
「もっと堂々と入れよ。そんなゆっくり入ってこられると、逆にビビるん、だけど――」
話の途中で、黒沼の目が俺の背後にいく。俺の後ろにいるのがハヤトだと認めた同時に、黒沼の表情が固まった。
「へ~、中はこんな風になってんのか」
ハヤトが店内をぐるりと見回した。大きな声が、薄暗いバーの中で浮いて聞こえる。まだ案内されていないにもかかわらず、ハヤトはズカズカと店の中央まで足を踏み入れていく。
「ご、ごめん……どうしてもここに来てみたいって頼まれて」
黒沼にコソッと伝えたが、聞こえなかったらしい。黒沼ははぁと肩から脱力したあと、強張っていた表情にぱっと笑顔を貼りつけた。
「いらっしゃいませ。当店は初めてですか?」
「あ? どう見たって初めてだろ」
早速喧嘩を吹っかける勢いのハヤトにひやひやする。そして今さらながらソワソワした。このまま黒沼が昼間のように応戦しないだろうか。もしそうなったら、すぐに二人の間に入らないといけない。
俺はそこで自分の失態に気がついた。
ここは昼間の学食より人の目が無い。ハヤトは酒も入っていて、日中よりカッとなりやすい状態だ。黒沼とハヤトの間にひと悶着起きれば、掴み合いになるかもしれない。黒沼とバーテンダーの共通点を見つけやすくなり、バーテンダーの正体が黒沼だとバレてしまうかもしれない。
昼間、ハヤトと約束した時点でそこまで考えが及ばなかった自分を責める。今さらながら後悔がドッと押し寄せてくる。
けれど俺の心配も余所に、黒沼は営業スマイルを崩すことなく、ハヤトに「失礼しました」とにこやかに返した。
「ご案内しますね。では、こちらへどうぞ」
黒沼が案内してくれたのは、カウンターの中央席だ。幸い他のお客さんがいない。それだけが救いだった。
横並びに座った俺たちにおしぼりを出すと、黒沼はメニューを開いてハヤトに渡した。
「メニューの中からお選びいただけますが、お好きなフレーバーがあれば、そちらをベースに作ることもできますよ」
「そんなもんいらねえ。ビールで」
「ビールお一つですね。お客様はどうされますか?」
「お、同じもので……」
黒沼は「かしこまりました」と答え、カウンターに設置されたビールサーバーからビールをグラスに注ぎ始めた。
「なあ」とハヤトが俺を呼んだのは、黒沼が離れたあとだ。
「あいつだろ?」
ビールを注いでいる黒沼を見ながら、ハヤトが顎で指摘する。
この前の土曜日に、俺と一緒に歩いていたイケメンが目の前のバーテンダーだと早速ピンときたらしい。実際はハヤトの勘違いだが、ハヤトにとってはつまり自分の彼女をたぶらかしている相手がそこにいるということになるわけで……。
俺が答えずにいると、
「やっぱりな」
ハヤトはカウンターに肘をついて、黒沼を睨みつけた。
「お待たせいたしました」
黒沼がハヤトと俺の前に、円形のコースターを置き、その上にビールの注がれたグラスを乗せた。
敵意を剝き出しにされていることを察してか、黒沼の言葉も動作も、いつもより全体的に丁寧な気がする。いや、いつも丁寧なんだけど、なんていうのかな。ばか丁寧というか、距離を感じさせるというか……。
萎縮しながらビールを飲む。黒沼と飲んだ時は美味しく感じた味も、今日はただただ苦いだけだ。
「バーテンさんさぁ、名前なんていうんすか?」
ビールを一口飲んだハヤトが、早速ジャブを打ち始める。ただ黒沼の蝶よ花よ的な接客のおかげか、ハヤトの口から本日初めての丁寧語を聞いた。
黒沼は胸元のネームプレートを見せるようにくいっと引っ張り、「ショウといいます」と自己紹介をした。
「へー名前もイケメンっぽいすね」
「恐れ入ります。お客さんたちは今日どこかで飲まれてからいらっしゃったんですか?」
「まあ、そっすね」
「いいですね。うちは二軒目三軒目で来られるお客さんも多いんですよ。元々開店直後は空いてることが多いんですけど、今日は雨予報が出てるじゃないですか。客足悪いと思っていたんで、お客さんたちが来てくれてよかったです。ほんと、ありがとうございます」
感謝されて悪い気はしなかったようだ。ハヤトは得意げに鼻をフンと鳴らした。
「こいつはよくこの店に来てるんすよね?」
ハヤトが俺の肩に手を乗せ、バシバシと叩いてくる。
「そうですね。懇意にしてもらってます」
「こいつにこんなオシャレな店似合わないんじゃないすか? 大丈夫っすか? 浮いてません?」
「そんなことないですよ。自分が分量をミスしてしまった時も、嫌な顔ひとつしないでいてくれましたし」
「どうせ気づかなかっただけだろー?」
ハヤトはワッと笑い、俺に向かって言った。
「違います。相手を気遣えるということですよ」
「フォローされてんじゃん。よかったな。こんなイケメンにかばってもらえて」
下手出るバーテンダーに気を良くしたハヤトは、フルスロットルで俺をいじってくる。いつものことだ。俺は「どうせバカ舌だよ」とぶうたれた振りをしながら、ちらりと黒沼を見た。
一瞬目が合ったような気がしたが、すぐに逸らされてしまう。あれ? となり、少しショックだった。
でもハヤトは大学の黒沼と、バーテンダーのショウが同一人物だとは気づいていない。たしかに今の状況では、俺は下手に黒沼と絡まない方がいいだろうと思い直した。
昼間のようなピリピリした空気になるかもしれない――そう危惧していただけに、にこやかに会話している二人を見て拍子抜けした。同じく安堵もした。
俺が心配していた最悪の事態にはならないんじゃないか、と。
「お次はどうされますか?」
ビールを飲み終わる頃になり、俺たちは黒沼に促された。ハヤトはハイボールを、俺は黒沼おすすめのカクテルを追加で頼んだ。
「あれ、バーテンさん、なんか可愛いのつけてません?」
ハイボール用の炭酸水が入った小瓶の栓。それを開けようとした黒沼の手にあるものを見て、ハヤトが指摘した。
黒沼の手にあったのは、青いカクテル――ブルーハワイのキーホルダーがつけられた栓抜きだった。見た瞬間、俺にはわかった。だってそれは俺が前にあげたもの。ガチャガチャで取ったカプセルトイだったから。
このタイミングでふいにあのキーホルダーと再会するとは思っておらず、俺の心拍数は急激に跳ね上がった。
「それどうしたんすか?」
「ああ、これはお客様からいただきました」
「あ~バーテンさん、モテそーっすもんね。ちなみにどんな客でした?」
ハヤトは気を良くしていたものの、ここに来た理由を忘れてはいなかったらしい。もしかしたら、自分の彼女があげたものかもしれないと勘ぐっているのか、さりげなく詮索していた。
黒沼はなんて答えるんだろう。俺からもらった……とはさすがに言わないよな。いや、言うのかな。もし俺からもらったって黒沼が言ったら、俺はどんな反応をすれば――
「普通に男性の方ですよ。べつに自分に好意があってとか、そういうんじゃないです」
「自分はいらないからあげるって?」
「そんな感じだったかと思います」
ハヤトの質問に答える黒沼はあくまで笑っていたけれど、どこか寂しそうに見えた。
黒沼がいつか夢を叶えることができますように。あのキーホルダーは、俺が「応援してる」と言って渡したものだ。あの日、黒沼は顔が赤くなるほど嬉しそうに受け取ってくれた。
なんだか今日の黒沼はテンションが低い。俺からもらったものだと知られたくない気持ちがあるのはわかるけど、いらないものをもらったみたいな言い方をされるのはちょっと……。
密かにショックを受けている中、俺の前に細長いカクテルグラスが置かれる。透明なオレンジ色のカクテルだ。俺が「あ、ありがとうございます」と小さく言うと、
「こちらアプリコットフィズといって、甘めのカクテルになります」
黒沼は他人行儀に短く説明した。
いつもより感じる距離が、より一層寂しさを募らせる。寂しさに目を向けないよう、俺は出されたカクテルを口にした。
「……おいしい」
黒沼が作ってくれるお酒はやっぱり美味しい。爽やかで甘くて。時折見せてくれる黒沼の優しい目みたいだ。だけどどうして今日は舌の奥がピリピリするんだろう。喉がきゅっと苦しいんだろう。
「俺それ飲んだことねえわ」
ハヤトはそう言うと、断りなく俺のグラスに手を伸ばした。当然のようにグラスを奪われる。ハヤトはゴクゴクとグラスの半分まで飲むと、俺の手に戻してきた。
「あっま。おまえよくそんな甘い酒飲めるな。女子かよ」
「お、男だって甘いお酒飲んだっていいだろ」
言いながら黒沼にチラッと目をやる。黒沼は昼間、俺の皿から勝手に唐揚げを奪っていたハヤトにきつく注意していた。
「ダメとは言ってねえし。でも俺には良さがわかんねーわ」
「わかんないって言ってるわりに結構飲んでるじゃん」
「いやいや、そんぐらい飲まないと普通味なんてわかんないだろ。なあ?」
ハヤトはカウンターの中でグラスを拭く黒沼に同調を求めた。黒沼は「どうでしょうね」と笑顔で答え、背中を向ける。グラスを後ろの棚にしまう後ろ姿は、まるで俺たちのやり取りに微塵も興味なんてなさそうに見えた。
さすがに店の人間として立っているこの場では、注意をするほどのことではないと判断したのかもしれない。俺からグラスを奪って飲んだハヤトを見ても、口を出すどころか表情一つ変えていなかった。
それから黒沼とハヤトが揉めることなく、ハヤトと二人で飲む時間が続いた。その間黒沼はテーブルを拭いたり、レジ横で店長さんとシフトの確認をしたり。時々カウンターの中に戻ってきては、ハヤトが注文したお酒を作りながら愚痴を聞いたりしていた。
「ってかさ、陰キャってまじ変なところで声でかくなりません? 俺、あれめっちゃキモいなってずっと思ってて」
「あーそういう人いますよね。急に大きな声出されると、自分もちょっとびっくりします」
「だよね⁉ しかもそいつ、俺に向かって『おまえは陽キャなのか』って。いやいやいや、どう見てもおまえに比べたら陽キャだろって。俺、呆れて笑っちゃったっすもん」
「よく笑って済ませられましたね。自分ならムカついて水かけちゃうかも」
「それ! つい俺もやっちゃってぇ。向こうもさすがにそこまでやられると思ってなかったみたいで、ポカンすよ。めっちゃマヌケな顔してたわ」
実際水をかけた相手が目の前にいるとも知らず、ハヤトはまるで武勇伝のごとく今日の出来事を話している。
ハヤトが気づいてしまったらどうしよう。考えると胃がキリキリと痛い。
でもハヤトは黒沼と目の前のバーテンダーの指に、同じ星のタトゥーがあることを知らない。それだけが救いだった。
しばらく経った頃だった。店のドアが開いて、本日二組目のお客さんが入ってきた。
若い女性だ。シンプルなヒールで底上げされた身長に、長い髪の先をくるんと巻いた気の強そうな美人だった。連れはいないようで、「いらっしゃいませ」と黒沼が声をかけるや否や、つかつかと店内に入ってきてハヤトの後ろに立った。
「ちょっと何やってんの⁉」
女性の声に、ハヤトがビクッとする。振り返ると、さっきまで陽気に赤らんでいた顔がサッと青ざめた。
「ちょ、えっ? 美結さんっ? なんでいんのっ?」
美結と呼ばれた女性はハヤトにスマホの画面を突き付ける。
「GPS見たら、ハヤがここにいるって出てたの! なんで私の推しの店に勝手にいるわけ?」
「これはそのっ、こいつがよく来る店でっ。連れてってくれるっていうからさ~……」
「嘘つくな。どうせ私の話聞いて嫉妬して、また暴走したんじゃないの?」
「暴走って、今回はそこまではまだ……」
「ほぉら、してるじゃない」
どうやらこの女性がハヤトの彼女らしい。大学では威張りまくっているハヤトが、みるみるうちに小さくなっていった。
「ショウ様申し訳ございません。うちのバカ彼氏、何か失礼なことしたり言ったりしていませんか?」
「大丈夫ですよ」
「もう本当に学ばないんだから。何度も言ってるでしょ⁉ 推しと彼氏は違うって!」
「で、でも美結さん、いつもそのバーテンの話ばっかするし……」
「略すな。バーテンダー様と呼べ」
「はい」
ハヤトの彼女は「ほら、ハヤがこれ以上失礼なこと言う前に帰るよ!」とハヤトの腰を叩き、椅子から立たせた。年上の彼女と聞いていたが、気持ちがいいほど豪快な女性だ。
ハヤトは強制的に自分が飲んだ分の会計をさせられたあと、彼女に引かれるような形で店を後にした。
嵐のような二人が去り、一気に店内が静かになる。
俺は閉まったドアを見て、「様……?」と首を傾げる。ハヤトの彼女が黒沼のことを様付けしていたことが不思議で、思わず疑問を口にした。
俺のひとり言に、レジ横に立っていた店長さんが「あの人はねー」と苦笑いで教えてくれる。
「バーテンダーを主人公にした韓国ドラマにハマったことがきっかけで、うちに来てくれるようになったのよ。ほら、知らない? 『魔女と聖者の一滴』って配信ドラマ。最近話題になってるんだけど」
「すいません、俺ドラマは全然知らなくて」
店長さんは「まあそうだよねー、あれ女性向けだから」とハヤトが座っていた席を拭き、空いたグラスを下げた。
店長さんがキッチンに戻り、店内が黒沼と俺の二人きりになる。
ハヤトが帰ってからというもの、黒沼の声を一言も聞けていないことが気になった。グラスを拭いたり、足元の冷蔵庫にお酒の小瓶を補充したり。まるで俺が……お客さんが一人もいない時みたいに、黙々と手を動かしていた。
もしかして怒っているのだろうか。俺がハヤトを連れてきたことに。
「あ、あの……」
カウンターの中におそるおそる声をかける。
黒沼はギロッとこちらを睨みつけ、「なに」と低い声で返事した。黒沼が怒っていることは火を見るよりも明らかだった。
「俺、帰った方がいい……かな」
「知らない。好きにすれば」
「……」
会話が途切れる。さっきまでニコニコと接客していた人と同一人物とは思えないほど、黒沼の放つ空気は重たい。
「……お会計、お願いします」
すぐに黒沼から伝票の挟まれたバインダーを無言で差し出される。早く帰ってほしそうな態度に触れ、俺は首の後ろが急激に冷えていくのを感じた。
レジの前。伝票にあった金額を払い、お釣りをもらっている時だった。
「今日、どうしてあいつをここに連れてきた?」
急に問われ、一瞬言葉に詰まった。
「ハ、ハヤトに連れて行けって言われて、それで――」
「なんで今日? 昼のことがあったから? つーか、俺がここで働いてるって言ったの? あいつに」
「言ってないっ。それは絶対に言わないよ……」
「じゃあなんで? なんで望月がここに来たいとか言い出すんだよ」
畳み掛けるように責められてパニックになる。混乱状態の頭で、俺はなんとかハヤトがこの店のイケメンバーテンダーに嫉妬していたことを説明した。
昼間の件とは別件であること。自分の彼女がバーテンダーバージョンの黒沼に、たぶらかされているとハヤトが勘違いしていたこと。イケメンバーテンダーに一言文句を言うつもりで、店に来たことを――。
「昼間の勢いを見て、何をするかわからないと思ったんだよ……ハヤトがさ。だから連れて来たっていうか、いざとなったら俺が間に入るつもりで今日一緒に来たというか……」
「昼間みたいに、俺があいつと同じレベルになると思ったってこと?」
「同じ、レベル?」
「水の掛け合いでもするって?」
呆れたように笑うと、黒沼は奥歯を噛みながらひとり言のように呟いた。
「元々あんなヤツに自分から絡むとか……終わってるんだよ、俺からしたら」
黒沼は苛立った様子で整えた前髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる。目線とため息を足元に落としたあと、悔しさとも悲しみともつかない目で、俺の目を見た。
「どんな客が来たって、自分を殺して接客する。その覚悟で俺はここに立ってる」
「……っ」
「なんで花川に、そんなこと心配されなくちゃならねえの?」
「ご、ごめん……」
「馬鹿にするなよ」
黒沼は声を震わせる。大きな目が赤く濡れている。
俺がハヤトを連れて来たことじゃない。黒沼は昼間のようなことが起きるんじゃないか――と、俺がその心配をして来たことに対して怒っているんだ。
理解した瞬間、俺はとんでもないことをしてしまったと思った。頭が真っ白になった。
黒沼からしてみれば、店の中は聖域だ。そこでお客さんと言い争うなんて、選択肢にもないのだ。たとえその相手が、どんなに罵声や水を浴びせてこようとも。
バイトとはいえ、黒沼はプロだ。いつか自分の店を持ちたいという夢もある。黒沼が真剣にバーテンダーという仕事に熱心に打ち込んでいたことは、俺が一番知っていたはずだ。
「……っ、ごめんなさい……っ俺、なんてことを……っ」
その場に崩れる勢いで、俺は黒沼に謝罪した。応援したくて渡したキーホルダーの意味を手放したのは黒沼じゃない。俺だったんだ。
浅はかな考えでハヤトを連れてきたこと。そして自分がついてきてしまったことを、俺は激しく後悔した。
「結局さ、花川は自分が一番可愛いんじゃないの。俺がどう思うかとか……どんな思いでいたかなんて、少しも考えてない。そうだろ?」
「俺は……っ」
自分が可愛いなんて思っていない。でも……黒沼の俺言葉に、俺は何ひとつ言い返すことができなかった。
「好きなやつが雑に扱われてるんだぞ。目の前でずっと……っ。助けたくても、俺は何もできない。へらへら笑って、酒を作ることしかできないんだ」
「……っ」
「今日初めてこの仕事を恨んだ。そんな俺の気持ちが……おまえにわかんのかよ?」
黒沼の涙声が、耳の奥までこびりつく。
何か言わなきゃ。何か言わなきゃ。黒沼に謝らないと、ここで終わってしまう。
「く、黒沼、俺……っ」
その時、キッチンから店長さんが「どうしたの?」と心配そうに顔を覗かせた。
「大丈夫……? なにかあった?」
俺たちの重苦しい雰囲気を察したようで、黒沼と俺の顔を交互に窺っている。
「すいません、大丈夫です」
黒沼は瞬時に声と表情をいつものそれに切り替える。レジドロアをガチャンと閉め、レジの中から出ると、俺の横を通って店のドアを開けた。
早く出て行ってくれ、ということだろうか。
謝りたい。謝らなくちゃ。そう思うのに、今日は何を言っても黒沼は聞いてくれないだろう。もどかしかった。
でも今日の俺に残された道は一つ。
俺は黒沼が開けてくれたドアから店の外に出た。
俺の体がドアの向こう側に移動するのを確かめたあと、黒沼の表情が再び歪んだ。
「俺はこの仕事を嫌いになりたくない。もうここには来ないでくれ」
「……え」
「悪いけど」
そう言うと、黒沼は俺の返事を待たずしてドアを閉めた。ガタン、と閉まるドアの音が空々しく辺りに響く。ドアにかけられた【OPEN】の看板が頼りなく揺れる。
いつの間にか外は大雨が降っていた。ザーザーと雨が地面を叩く音が、エントランスを包んでいる。
俺はしばらくの間、そこに立ち尽くしたまま動くことができなかった。
他の人も連れていくんじゃないかと内心かなり心配していたけど、ラウンジの席に座り、一人スマホをいじるハヤトを見てホッとした。森岡や他のサークルメンバーには声をかけていないらしい。よかった。
「早く行こーぜ」
目が合うなり、ハヤトが椅子を立つ。
「こんな時間からやってないよ。オープン時間まで待たないと」
「チッ。だりーな」
すでにイライラしているハヤトを「まあまあ」となだめつつ、俺たちが向かったのはいつも行く居酒屋チェーン店。
ハヤトとのサシ飲みはだいぶ久しぶりになる。もちろんその余韻に浸る間もなく、バーのオープン時間まで、俺はまずい酒を飲みながらハヤトから彼女の愚痴を聞かされ続けたのだった。
九時になる少し前に会計し、居酒屋を出る。俺たちが【Bar OnyX】の前に着いたのは、九時を五分ほど過ぎてからだ。
「あの野郎、ぜってー泣かす」
居酒屋を出てから店に向かう途中、ハヤトはずっとこんな調子だった。ポキポキと指の関節を鳴らす姿は、どこからどう見ても喧嘩腰だ。
そんなハヤトの横を歩きながら、俺は小さく懇願する。
「お願いだから喧嘩はしないでよ」
声が今にも降りだしそうな夜空に溶けていく。こんな俺でも、もしもの時はハヤトを止めなくちゃならないんだよな。俺にできるかなと不安が胸をかすめる。でも今は弱音なんて吐いてる場合じゃない。
【OPEN】のプレートが掛けられたドアをおそるおそる開け、最初に俺が入る。
黒沼は……いるかな。ドキドキしながら店内に目を凝らした瞬間、「よ」と横から声をかけられた。
ドキッとして身を引く。イケメンバーテンダーとしてビシッとキメた黒沼が、レジの横に立っていた。
「もっと堂々と入れよ。そんなゆっくり入ってこられると、逆にビビるん、だけど――」
話の途中で、黒沼の目が俺の背後にいく。俺の後ろにいるのがハヤトだと認めた同時に、黒沼の表情が固まった。
「へ~、中はこんな風になってんのか」
ハヤトが店内をぐるりと見回した。大きな声が、薄暗いバーの中で浮いて聞こえる。まだ案内されていないにもかかわらず、ハヤトはズカズカと店の中央まで足を踏み入れていく。
「ご、ごめん……どうしてもここに来てみたいって頼まれて」
黒沼にコソッと伝えたが、聞こえなかったらしい。黒沼ははぁと肩から脱力したあと、強張っていた表情にぱっと笑顔を貼りつけた。
「いらっしゃいませ。当店は初めてですか?」
「あ? どう見たって初めてだろ」
早速喧嘩を吹っかける勢いのハヤトにひやひやする。そして今さらながらソワソワした。このまま黒沼が昼間のように応戦しないだろうか。もしそうなったら、すぐに二人の間に入らないといけない。
俺はそこで自分の失態に気がついた。
ここは昼間の学食より人の目が無い。ハヤトは酒も入っていて、日中よりカッとなりやすい状態だ。黒沼とハヤトの間にひと悶着起きれば、掴み合いになるかもしれない。黒沼とバーテンダーの共通点を見つけやすくなり、バーテンダーの正体が黒沼だとバレてしまうかもしれない。
昼間、ハヤトと約束した時点でそこまで考えが及ばなかった自分を責める。今さらながら後悔がドッと押し寄せてくる。
けれど俺の心配も余所に、黒沼は営業スマイルを崩すことなく、ハヤトに「失礼しました」とにこやかに返した。
「ご案内しますね。では、こちらへどうぞ」
黒沼が案内してくれたのは、カウンターの中央席だ。幸い他のお客さんがいない。それだけが救いだった。
横並びに座った俺たちにおしぼりを出すと、黒沼はメニューを開いてハヤトに渡した。
「メニューの中からお選びいただけますが、お好きなフレーバーがあれば、そちらをベースに作ることもできますよ」
「そんなもんいらねえ。ビールで」
「ビールお一つですね。お客様はどうされますか?」
「お、同じもので……」
黒沼は「かしこまりました」と答え、カウンターに設置されたビールサーバーからビールをグラスに注ぎ始めた。
「なあ」とハヤトが俺を呼んだのは、黒沼が離れたあとだ。
「あいつだろ?」
ビールを注いでいる黒沼を見ながら、ハヤトが顎で指摘する。
この前の土曜日に、俺と一緒に歩いていたイケメンが目の前のバーテンダーだと早速ピンときたらしい。実際はハヤトの勘違いだが、ハヤトにとってはつまり自分の彼女をたぶらかしている相手がそこにいるということになるわけで……。
俺が答えずにいると、
「やっぱりな」
ハヤトはカウンターに肘をついて、黒沼を睨みつけた。
「お待たせいたしました」
黒沼がハヤトと俺の前に、円形のコースターを置き、その上にビールの注がれたグラスを乗せた。
敵意を剝き出しにされていることを察してか、黒沼の言葉も動作も、いつもより全体的に丁寧な気がする。いや、いつも丁寧なんだけど、なんていうのかな。ばか丁寧というか、距離を感じさせるというか……。
萎縮しながらビールを飲む。黒沼と飲んだ時は美味しく感じた味も、今日はただただ苦いだけだ。
「バーテンさんさぁ、名前なんていうんすか?」
ビールを一口飲んだハヤトが、早速ジャブを打ち始める。ただ黒沼の蝶よ花よ的な接客のおかげか、ハヤトの口から本日初めての丁寧語を聞いた。
黒沼は胸元のネームプレートを見せるようにくいっと引っ張り、「ショウといいます」と自己紹介をした。
「へー名前もイケメンっぽいすね」
「恐れ入ります。お客さんたちは今日どこかで飲まれてからいらっしゃったんですか?」
「まあ、そっすね」
「いいですね。うちは二軒目三軒目で来られるお客さんも多いんですよ。元々開店直後は空いてることが多いんですけど、今日は雨予報が出てるじゃないですか。客足悪いと思っていたんで、お客さんたちが来てくれてよかったです。ほんと、ありがとうございます」
感謝されて悪い気はしなかったようだ。ハヤトは得意げに鼻をフンと鳴らした。
「こいつはよくこの店に来てるんすよね?」
ハヤトが俺の肩に手を乗せ、バシバシと叩いてくる。
「そうですね。懇意にしてもらってます」
「こいつにこんなオシャレな店似合わないんじゃないすか? 大丈夫っすか? 浮いてません?」
「そんなことないですよ。自分が分量をミスしてしまった時も、嫌な顔ひとつしないでいてくれましたし」
「どうせ気づかなかっただけだろー?」
ハヤトはワッと笑い、俺に向かって言った。
「違います。相手を気遣えるということですよ」
「フォローされてんじゃん。よかったな。こんなイケメンにかばってもらえて」
下手出るバーテンダーに気を良くしたハヤトは、フルスロットルで俺をいじってくる。いつものことだ。俺は「どうせバカ舌だよ」とぶうたれた振りをしながら、ちらりと黒沼を見た。
一瞬目が合ったような気がしたが、すぐに逸らされてしまう。あれ? となり、少しショックだった。
でもハヤトは大学の黒沼と、バーテンダーのショウが同一人物だとは気づいていない。たしかに今の状況では、俺は下手に黒沼と絡まない方がいいだろうと思い直した。
昼間のようなピリピリした空気になるかもしれない――そう危惧していただけに、にこやかに会話している二人を見て拍子抜けした。同じく安堵もした。
俺が心配していた最悪の事態にはならないんじゃないか、と。
「お次はどうされますか?」
ビールを飲み終わる頃になり、俺たちは黒沼に促された。ハヤトはハイボールを、俺は黒沼おすすめのカクテルを追加で頼んだ。
「あれ、バーテンさん、なんか可愛いのつけてません?」
ハイボール用の炭酸水が入った小瓶の栓。それを開けようとした黒沼の手にあるものを見て、ハヤトが指摘した。
黒沼の手にあったのは、青いカクテル――ブルーハワイのキーホルダーがつけられた栓抜きだった。見た瞬間、俺にはわかった。だってそれは俺が前にあげたもの。ガチャガチャで取ったカプセルトイだったから。
このタイミングでふいにあのキーホルダーと再会するとは思っておらず、俺の心拍数は急激に跳ね上がった。
「それどうしたんすか?」
「ああ、これはお客様からいただきました」
「あ~バーテンさん、モテそーっすもんね。ちなみにどんな客でした?」
ハヤトは気を良くしていたものの、ここに来た理由を忘れてはいなかったらしい。もしかしたら、自分の彼女があげたものかもしれないと勘ぐっているのか、さりげなく詮索していた。
黒沼はなんて答えるんだろう。俺からもらった……とはさすがに言わないよな。いや、言うのかな。もし俺からもらったって黒沼が言ったら、俺はどんな反応をすれば――
「普通に男性の方ですよ。べつに自分に好意があってとか、そういうんじゃないです」
「自分はいらないからあげるって?」
「そんな感じだったかと思います」
ハヤトの質問に答える黒沼はあくまで笑っていたけれど、どこか寂しそうに見えた。
黒沼がいつか夢を叶えることができますように。あのキーホルダーは、俺が「応援してる」と言って渡したものだ。あの日、黒沼は顔が赤くなるほど嬉しそうに受け取ってくれた。
なんだか今日の黒沼はテンションが低い。俺からもらったものだと知られたくない気持ちがあるのはわかるけど、いらないものをもらったみたいな言い方をされるのはちょっと……。
密かにショックを受けている中、俺の前に細長いカクテルグラスが置かれる。透明なオレンジ色のカクテルだ。俺が「あ、ありがとうございます」と小さく言うと、
「こちらアプリコットフィズといって、甘めのカクテルになります」
黒沼は他人行儀に短く説明した。
いつもより感じる距離が、より一層寂しさを募らせる。寂しさに目を向けないよう、俺は出されたカクテルを口にした。
「……おいしい」
黒沼が作ってくれるお酒はやっぱり美味しい。爽やかで甘くて。時折見せてくれる黒沼の優しい目みたいだ。だけどどうして今日は舌の奥がピリピリするんだろう。喉がきゅっと苦しいんだろう。
「俺それ飲んだことねえわ」
ハヤトはそう言うと、断りなく俺のグラスに手を伸ばした。当然のようにグラスを奪われる。ハヤトはゴクゴクとグラスの半分まで飲むと、俺の手に戻してきた。
「あっま。おまえよくそんな甘い酒飲めるな。女子かよ」
「お、男だって甘いお酒飲んだっていいだろ」
言いながら黒沼にチラッと目をやる。黒沼は昼間、俺の皿から勝手に唐揚げを奪っていたハヤトにきつく注意していた。
「ダメとは言ってねえし。でも俺には良さがわかんねーわ」
「わかんないって言ってるわりに結構飲んでるじゃん」
「いやいや、そんぐらい飲まないと普通味なんてわかんないだろ。なあ?」
ハヤトはカウンターの中でグラスを拭く黒沼に同調を求めた。黒沼は「どうでしょうね」と笑顔で答え、背中を向ける。グラスを後ろの棚にしまう後ろ姿は、まるで俺たちのやり取りに微塵も興味なんてなさそうに見えた。
さすがに店の人間として立っているこの場では、注意をするほどのことではないと判断したのかもしれない。俺からグラスを奪って飲んだハヤトを見ても、口を出すどころか表情一つ変えていなかった。
それから黒沼とハヤトが揉めることなく、ハヤトと二人で飲む時間が続いた。その間黒沼はテーブルを拭いたり、レジ横で店長さんとシフトの確認をしたり。時々カウンターの中に戻ってきては、ハヤトが注文したお酒を作りながら愚痴を聞いたりしていた。
「ってかさ、陰キャってまじ変なところで声でかくなりません? 俺、あれめっちゃキモいなってずっと思ってて」
「あーそういう人いますよね。急に大きな声出されると、自分もちょっとびっくりします」
「だよね⁉ しかもそいつ、俺に向かって『おまえは陽キャなのか』って。いやいやいや、どう見てもおまえに比べたら陽キャだろって。俺、呆れて笑っちゃったっすもん」
「よく笑って済ませられましたね。自分ならムカついて水かけちゃうかも」
「それ! つい俺もやっちゃってぇ。向こうもさすがにそこまでやられると思ってなかったみたいで、ポカンすよ。めっちゃマヌケな顔してたわ」
実際水をかけた相手が目の前にいるとも知らず、ハヤトはまるで武勇伝のごとく今日の出来事を話している。
ハヤトが気づいてしまったらどうしよう。考えると胃がキリキリと痛い。
でもハヤトは黒沼と目の前のバーテンダーの指に、同じ星のタトゥーがあることを知らない。それだけが救いだった。
しばらく経った頃だった。店のドアが開いて、本日二組目のお客さんが入ってきた。
若い女性だ。シンプルなヒールで底上げされた身長に、長い髪の先をくるんと巻いた気の強そうな美人だった。連れはいないようで、「いらっしゃいませ」と黒沼が声をかけるや否や、つかつかと店内に入ってきてハヤトの後ろに立った。
「ちょっと何やってんの⁉」
女性の声に、ハヤトがビクッとする。振り返ると、さっきまで陽気に赤らんでいた顔がサッと青ざめた。
「ちょ、えっ? 美結さんっ? なんでいんのっ?」
美結と呼ばれた女性はハヤトにスマホの画面を突き付ける。
「GPS見たら、ハヤがここにいるって出てたの! なんで私の推しの店に勝手にいるわけ?」
「これはそのっ、こいつがよく来る店でっ。連れてってくれるっていうからさ~……」
「嘘つくな。どうせ私の話聞いて嫉妬して、また暴走したんじゃないの?」
「暴走って、今回はそこまではまだ……」
「ほぉら、してるじゃない」
どうやらこの女性がハヤトの彼女らしい。大学では威張りまくっているハヤトが、みるみるうちに小さくなっていった。
「ショウ様申し訳ございません。うちのバカ彼氏、何か失礼なことしたり言ったりしていませんか?」
「大丈夫ですよ」
「もう本当に学ばないんだから。何度も言ってるでしょ⁉ 推しと彼氏は違うって!」
「で、でも美結さん、いつもそのバーテンの話ばっかするし……」
「略すな。バーテンダー様と呼べ」
「はい」
ハヤトの彼女は「ほら、ハヤがこれ以上失礼なこと言う前に帰るよ!」とハヤトの腰を叩き、椅子から立たせた。年上の彼女と聞いていたが、気持ちがいいほど豪快な女性だ。
ハヤトは強制的に自分が飲んだ分の会計をさせられたあと、彼女に引かれるような形で店を後にした。
嵐のような二人が去り、一気に店内が静かになる。
俺は閉まったドアを見て、「様……?」と首を傾げる。ハヤトの彼女が黒沼のことを様付けしていたことが不思議で、思わず疑問を口にした。
俺のひとり言に、レジ横に立っていた店長さんが「あの人はねー」と苦笑いで教えてくれる。
「バーテンダーを主人公にした韓国ドラマにハマったことがきっかけで、うちに来てくれるようになったのよ。ほら、知らない? 『魔女と聖者の一滴』って配信ドラマ。最近話題になってるんだけど」
「すいません、俺ドラマは全然知らなくて」
店長さんは「まあそうだよねー、あれ女性向けだから」とハヤトが座っていた席を拭き、空いたグラスを下げた。
店長さんがキッチンに戻り、店内が黒沼と俺の二人きりになる。
ハヤトが帰ってからというもの、黒沼の声を一言も聞けていないことが気になった。グラスを拭いたり、足元の冷蔵庫にお酒の小瓶を補充したり。まるで俺が……お客さんが一人もいない時みたいに、黙々と手を動かしていた。
もしかして怒っているのだろうか。俺がハヤトを連れてきたことに。
「あ、あの……」
カウンターの中におそるおそる声をかける。
黒沼はギロッとこちらを睨みつけ、「なに」と低い声で返事した。黒沼が怒っていることは火を見るよりも明らかだった。
「俺、帰った方がいい……かな」
「知らない。好きにすれば」
「……」
会話が途切れる。さっきまでニコニコと接客していた人と同一人物とは思えないほど、黒沼の放つ空気は重たい。
「……お会計、お願いします」
すぐに黒沼から伝票の挟まれたバインダーを無言で差し出される。早く帰ってほしそうな態度に触れ、俺は首の後ろが急激に冷えていくのを感じた。
レジの前。伝票にあった金額を払い、お釣りをもらっている時だった。
「今日、どうしてあいつをここに連れてきた?」
急に問われ、一瞬言葉に詰まった。
「ハ、ハヤトに連れて行けって言われて、それで――」
「なんで今日? 昼のことがあったから? つーか、俺がここで働いてるって言ったの? あいつに」
「言ってないっ。それは絶対に言わないよ……」
「じゃあなんで? なんで望月がここに来たいとか言い出すんだよ」
畳み掛けるように責められてパニックになる。混乱状態の頭で、俺はなんとかハヤトがこの店のイケメンバーテンダーに嫉妬していたことを説明した。
昼間の件とは別件であること。自分の彼女がバーテンダーバージョンの黒沼に、たぶらかされているとハヤトが勘違いしていたこと。イケメンバーテンダーに一言文句を言うつもりで、店に来たことを――。
「昼間の勢いを見て、何をするかわからないと思ったんだよ……ハヤトがさ。だから連れて来たっていうか、いざとなったら俺が間に入るつもりで今日一緒に来たというか……」
「昼間みたいに、俺があいつと同じレベルになると思ったってこと?」
「同じ、レベル?」
「水の掛け合いでもするって?」
呆れたように笑うと、黒沼は奥歯を噛みながらひとり言のように呟いた。
「元々あんなヤツに自分から絡むとか……終わってるんだよ、俺からしたら」
黒沼は苛立った様子で整えた前髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる。目線とため息を足元に落としたあと、悔しさとも悲しみともつかない目で、俺の目を見た。
「どんな客が来たって、自分を殺して接客する。その覚悟で俺はここに立ってる」
「……っ」
「なんで花川に、そんなこと心配されなくちゃならねえの?」
「ご、ごめん……」
「馬鹿にするなよ」
黒沼は声を震わせる。大きな目が赤く濡れている。
俺がハヤトを連れて来たことじゃない。黒沼は昼間のようなことが起きるんじゃないか――と、俺がその心配をして来たことに対して怒っているんだ。
理解した瞬間、俺はとんでもないことをしてしまったと思った。頭が真っ白になった。
黒沼からしてみれば、店の中は聖域だ。そこでお客さんと言い争うなんて、選択肢にもないのだ。たとえその相手が、どんなに罵声や水を浴びせてこようとも。
バイトとはいえ、黒沼はプロだ。いつか自分の店を持ちたいという夢もある。黒沼が真剣にバーテンダーという仕事に熱心に打ち込んでいたことは、俺が一番知っていたはずだ。
「……っ、ごめんなさい……っ俺、なんてことを……っ」
その場に崩れる勢いで、俺は黒沼に謝罪した。応援したくて渡したキーホルダーの意味を手放したのは黒沼じゃない。俺だったんだ。
浅はかな考えでハヤトを連れてきたこと。そして自分がついてきてしまったことを、俺は激しく後悔した。
「結局さ、花川は自分が一番可愛いんじゃないの。俺がどう思うかとか……どんな思いでいたかなんて、少しも考えてない。そうだろ?」
「俺は……っ」
自分が可愛いなんて思っていない。でも……黒沼の俺言葉に、俺は何ひとつ言い返すことができなかった。
「好きなやつが雑に扱われてるんだぞ。目の前でずっと……っ。助けたくても、俺は何もできない。へらへら笑って、酒を作ることしかできないんだ」
「……っ」
「今日初めてこの仕事を恨んだ。そんな俺の気持ちが……おまえにわかんのかよ?」
黒沼の涙声が、耳の奥までこびりつく。
何か言わなきゃ。何か言わなきゃ。黒沼に謝らないと、ここで終わってしまう。
「く、黒沼、俺……っ」
その時、キッチンから店長さんが「どうしたの?」と心配そうに顔を覗かせた。
「大丈夫……? なにかあった?」
俺たちの重苦しい雰囲気を察したようで、黒沼と俺の顔を交互に窺っている。
「すいません、大丈夫です」
黒沼は瞬時に声と表情をいつものそれに切り替える。レジドロアをガチャンと閉め、レジの中から出ると、俺の横を通って店のドアを開けた。
早く出て行ってくれ、ということだろうか。
謝りたい。謝らなくちゃ。そう思うのに、今日は何を言っても黒沼は聞いてくれないだろう。もどかしかった。
でも今日の俺に残された道は一つ。
俺は黒沼が開けてくれたドアから店の外に出た。
俺の体がドアの向こう側に移動するのを確かめたあと、黒沼の表情が再び歪んだ。
「俺はこの仕事を嫌いになりたくない。もうここには来ないでくれ」
「……え」
「悪いけど」
そう言うと、黒沼は俺の返事を待たずしてドアを閉めた。ガタン、と閉まるドアの音が空々しく辺りに響く。ドアにかけられた【OPEN】の看板が頼りなく揺れる。
いつの間にか外は大雨が降っていた。ザーザーと雨が地面を叩く音が、エントランスを包んでいる。
俺はしばらくの間、そこに立ち尽くしたまま動くことができなかった。
