黒沼にレポートを見てもらった土曜日から三日が経ち、火曜日になった。
 土曜日は天気に恵まれたものの、翌日の日曜日から天気は崩れ、この三日間はどんよりとした灰色の雲が空をずっと覆っている。連日今にも降り出しそうな空模様。幸いにもリュックの中にある折り畳み傘はまだ使わずにいる。

「おはよ」
 講義が始まる前、大教室の廊下側の席に座っていると、黒沼が声をかけてきた。
「お、おはよう」
「そこ座っていい?」
「どうぞどうぞ」
 俺は置いていたリュックをどけ、席を空けた。席を取っておいてと頼まれたわけじゃない。でも黒沼が隣に来てくれたらいいな。こっそり期待しながら席を取っておいたことは内緒だ。
 黒沼は「サンキュ」と席に着いた。

 今日はもちろん大学バージョンの服装だ。重たい前髪とビン底眼鏡。それに白黒のチェック柄シャツ。
 前はダサいなあとか地味だなあと思っていたけれど、今ではちょっと可愛く見えるから不思議だ。『好き』の力ってすごい。
 大学で黒沼の本当の姿を知っているのは自分だけ。誰かに自慢したい気持ちと、秘密にしたい気持ち。そんな相反する気持ちを持てることが幸せに感じた。
「先週はありがとね。ビール代、本当に払わなくて大丈夫だったかなぁ?」
「言っただろ。店長のサービスだから気にするなって」
「そうだけどさ……」

 俺たちが黒沼のバイト先のバーに夜ご飯を食べに行った日。お会計をしようとしたら、伝票からビール二杯分の金額が引かれていた。
 間違えていたら大変だ。「ビールの分が入ってなくないですか?」と伝票を持ってきた新人君に聞くと、店長からのサービスだと教えてくれた。
「それより、こっちこそゴチソーサマでした」
 隣に座った黒沼が、砕けた敬語で言った。
 そうだ。サービスしてもらったことに意識が向かっていたせいで忘れていた。俺は自分が奢ったことを、今になって思い出した。

「当然じゃん。黒沼のおかげでレポートが進んだんだよ~。こちらこそありがとう」
「一人でできなかったら、またいつでも頼ってくれていいから」
「うん。心強い」
 黒沼は「応援してるわ」と励ましてくれた。黒沼に言われたら、なんだかできそうな気がしてくる。

 講義が終わったあと、俺たちは大教室を出て学食へ向かった。食事は一日一食でもつ燃費のいい黒沼だが、昨日はバイトの前後に夜ご飯を食べる時間を確保できなかったらしい。
 なんとか寝る前にバイト先でもらったナッツを口に入れたそうだが、さすがに足りず、今も腹が減っているとのこと。
「体に悪すぎでしょ! モデル通り越してリスじゃん」
「いや、リスよりは食ってる」
「リスの食べる量知ってんの?」
「知らない」
「ほら~、もう今日はAとBどっちもいっちゃいな」
 俺は食券売機の前にある立て看板を指差した。そこに貼られているのは、日替わり定食の写真。A定食のメインのおかずは唐揚げで、B定食のメインのおかずは焼きサバだ。
 黒沼の長身には、たくさんの栄養が必要なはず。俺はリアルにどっちもいった方がいいと思い、本気で黒沼に薦めた。

 一方、当の本人は、
「お盆二つも持ちたくない」 
 とのこと。結局B定食に唐揚げを単品でつけ、ご飯を大盛りにすることで話が落ち着いた。

 定食のお盆を手にした俺たちが座ったのは、数台の自販機が並ぶ隣の席だ。出入口も近いため人通りが多く、他の席に比べて空いていることが多い。穴場の席でもある。俺たちはそこで向かい合わせに座った。

 定食を食べていると、聞き慣れた声に話しかけられた。
「あれー、伊澄じゃん」
 近づいてきた声にビクッとして、箸を持つ手が止まる。
「――と、黒沼ぁ? なになに。おまえらいつの間にメシ食うぐらい仲良くなっちゃってんのよ?」
 ハヤトだ。俺と黒沼のちょうど真ん中に立ち、テーブルに手をつく。俺の皿から唐揚げを一つつまんで、自身の口の中へと放り込んだ。
 俺が食べているおかずやお菓子を、ハヤトが勝手に食べることは珍しいことじゃない。でも黒沼の目には異様な光景に映ったらしかった。

 前回ハヤトに絡まれた時には、一切開かなかった黒沼の口元。そこがため息とともに、
「今許可取ったのか?」
 と動き、低い声がハヤトを詰めた。

 俺にはドスの利いた声だとわかる。けれど低音すぎたせいで、ハヤトの耳には聞こえなかったようだ。ハヤトは「ぁあ?」とわざとらしく黒沼の顔に耳を近づけた。
「もっとハッキリ言ってくれないと聞こえないんですけどぉ~?」
 煽るようなハヤトの口調。見ているだけでひやひやする。

 黒沼は煽りに乗らず、今度は声のボリュームをしっかり上げてもう一度言った。
「今花川の許可取ったのか、って聞いてるんだよ」
 急に大きくなった声量にビビったのか、ハヤトが黒沼からバッと耳を離した。
「は? まじキモいんだけど。つか陰キャって声のボリューム変なところで上がるくね?」
 ニヤニヤ笑いながら、ハヤトは黒沼にも聞こえるよう俺に耳打ちした。俺が返答に困っているうちに、黒沼の襲撃は続々と放たれた。

「無断で人のもの食っておきながら、ヘラヘラしてる奴の方がよっぽどキモいだろ」
「は……――はぁあっ⁉」
「質問に答えない。論点をずらす。この時点で自分の非を認めることになっているんだから、素直になった方がいいと思うけど」

 まさかいつも馬鹿にしていた黒沼から反撃されるとは夢にも思っていなかったようだ。ハヤトの表情から余裕が消え、手をわなわなとさせていた。
「てかおまえさ、陰キャのくせに誰に口利いてんの?」
「逆に聞きたい。あんたがよく使う『陰キャ』とか『陽キャ』って何? 陰キャをナメてるみたいだけど、あんたは『陽キャ』なのか?」
「……こっの野郎!」
 ハヤトは顔を真っ赤にしながら、目の前にあったコップの水を、黒沼の顔にバシャッと浴びせた。

 瞬間、時が止まったみたいにその場が凍り付いた。
 首から上だけ濡れた黒沼。激しく肩を揺らし、黒沼に罵声を浴びせるハヤト。俺たちに集まる好奇心の目――。
 さすがに周囲が騒然としたことで、俺は目の前で起きたことをやっと理解した。
「ちょ、ちょっと! さすがにやりすぎだってば! 黒沼大丈夫⁉」
 俺は今にも掴みかかろうとしているハヤトを押さえ、黒沼に尋ねた。黒沼の髪はもちろん、眼鏡もチェックシャツの襟まで濡れている。
 拭きたいだろうけど、きっと周りが注目している今、眼鏡を外すことは避けたいはずだ。

「ここは俺に任せて、黒沼は顔拭いてきて!」
「べつにここで拭ける」
 俺の気遣いもむなしく、眼鏡を外そうとフレームに手をかけている。

 そんな……。大学では目立ちたくないと言っていたのに、どうしてそんな投げやりなことを言うんだろう。大学三年生のここまで、ひっそり隠れて大学生活を送ってきたんじゃないのか。そんな人間とは思えないような発言をする黒沼に、俺は悲しくなった。同時に沸々と怒りも沸いた。
「もう! 向こうで拭けって言ってるだろ! 全部水の泡になってもいいのかよ!」
 ここ最近の中で一番大きな声を出して訴える。冷静になったのか、黒沼は苦々しさの中に驚きを含んだ顔で「すまん」と言った。
「すぐ戻ってくる」
 トイレへと走っていく黒沼を見届けたあと、俺は興奮しているハヤトを自販機列と壁の隅に追いやった。

「ハヤト落ち着いて」
「クソが。芋野郎が調子乗ってんじゃねえよっ」
「もういいじゃんっ。人が見てるよ」
「つーかおまえもさあっ! なに電話無視ってんだよ」
 興奮状態のハヤトは俺の手を激しく振り解いた。

「電話?」
「こないだの土曜。飲みに誘ってやったのに出ないとか、まじナメてんの?」
 土曜日は……黒沼にレポートを見てもらい、その後バーに行った日だ。
 ハヤトから電話がかかってきたのもその日で、バーにいる時黒沼に「出るな」と言われた。でも黒沼のせいにするつもりは微塵もない。
 
 たしかに黒沼の言葉があったからハヤトの電話には出なかった。でも出ないと決めたのも、実際に出なかったのも自分だ。
「ごめん……その日はちょっと用事があって」
「用事? 他のヤツと飲んでたんだろ?」
 え、と俺は顔を上げた。ハヤトと目が合う。視界が動揺で揺れ、俺はあからさまに目を伏せてしまった。

 見られていたんだ。たしかにあそこらへんはこの大学の学生はもちろん、ハヤトたちがよく飲み歩いているエリアでもある。
 でも今までは平日が多かったし、ハヤトたちがよく行く居酒屋チェーンはもっと駅寄りだ。まさかあの日、たまたまとはいえ近くで飲んでいるとは思わなかった。
 
「電話に出ねえくせに、おまえとイケメンがバーから出てくるの見かけてさ。まじふざけんなってブチギレそうになったわ。あれ誰? うちの大学のヤツ?」
 黒沼との言い合いの余韻が残っているのか、ハヤトの言葉尻はいつにもまして強い。イライラした様子で、ハヤトがイケメンの正体を問い詰めてくる。
 今さっき自分が水をかけた相手だとは、少しも疑っていないようだ。

「あ、あの人はあそこのバーで働いてるバーテンダーさん。あの日はオフで、たまたまお客さんとして店に来てたみたいで……」
 嘘は言っていない。言っていないけど、イケメンの正体が黒沼だとバレないためにも、必要があれば俺は嘘をつく覚悟でいた。
「バーテンとプライベートで飲むとかどんな関係だよ」
「どんなって、普通に店員と客だよ」
 どんな関係だっていいだろ。今はまだ……それ以上でもそれ以下でもないのだから。
 自分の心の声に傷つく。俺は太ももの横に置いた拳をぎゅっと握り締めた。

「まあいいや。黒沼が目の前から消えたら、ちょい冷静になったわ」
 ハヤトはカッとなったことで暑くなったのか、前髪を掻き上げて汗ばんだ額を晒した。
「おまえさ、あの【OnyX(オニキス)】って店、よく行ってんの?」
「よくってほどじゃないけど、たまに」
「へー。伊澄のくせにシャレてんじゃん」

 通うようになったきっかけまでは、幸い気にならないようで安心する。
「あのバーテン、名前なんつーの?」
「俺からは言えないよ。名前はほら、個人情報だし」
「じゃあ、あの店にいついんの?」
「聞いたことないからわかんないよ」
 ハヤトは苛立った態度で「は? 使えねーな」と顎を上げた。

 どうしてハヤトはイケメンバーテンダーの情報を探ろうとしているんだ? もしかして、黒沼とイケメンバーテンダーが同一人物だと気づきはじめているとか……?

 疑いが焦りを呼び、俺は「どうしてそんなこと気になるの?」とハヤトに探りを入れた。
「俺の彼女、そこの店に最近行くようになってさ。イケメンがいるって、もう毎日毎日キャーキャーキャーキャーうっせえの」
 デートしている時や電話している時など、イケメンバーテンダーの話を聞かされてうんざりしているとハヤトは言う。どうりで今日のハヤトはピリピリしているし、いつにも増して怒りの沸点が低いと思った。

 ハヤトはチッと舌打ちする。
「人の彼女に酒飲まして金巻き上げやがって。やってることがクソなんだよ」
「ちょっと待って。黒ぬ――あの人はお客さんから注文されたお酒を作って出してるだけだよ。それが仕事なんだから、そんな言い方しなくても」
「じゃあおまえはさあ、俺の彼女がバーテン野郎に色目使ってるって言いてえの?」
 どこをどう切り取ったら、その解釈になるんだろう。俺は「そんなこと言ってないじゃん」と否定した。

「ハヤトの彼女さんはあの人を推してるだけなんじゃないの? きっとハヤトが心配するようなことはないと思うけど」
「おまえは俺の彼女の何を知ってんだよ」
「それは……」
 確かに俺が今言ったことはあくまで想像の域を越えない。だって俺はハヤトの彼女に会ったことはないから。ハヤトと付き合っているとしても、他の女性客みたいにハヤトの彼女が黒沼にガチ恋してないとも限らない。
 俺はそれ以上何も言えず、うつむいて口を閉じた。

「俺も連れて行けよ」
「え? どこに」
「今の流れでわかんねーのかよ。バーテン野郎の店に決まってんじゃん」
「な、何しに行くの」
「挨拶すんだよ。そのバーテン野郎に」
 そう言ったハヤトの目が一瞬ギラついた。絶対にただの挨拶じゃ済まないことは明白だ。

「む、無理……ていうか、やめて」
「は?」
 ハヤトは俺にガンを飛ばした。
「そんな喧嘩腰でお店に行ったら、迷惑でしょ。お店にも他のお客さんにも……」
「喧嘩なんてしねーよ。俺はひとこと言うだけだわ。『他人の彼女に手出さないでもらえます?』ってな」
「それが喧嘩腰って言うんだよ……」
 駄目だ。ハヤトの中では黒沼が――イケメンバーテンダーが自分の彼女をたぶらかしていることになっているんだ。そう思い込んでしまうほどに視野が狭くなっているんだ。

 今のハヤトは危険だ。俺が今ここで断ったとしても、一人で――それだけじゃない、森岡や他のサークルメンバーを連れて店に乗り込むかもしれない。

 さっき黒沼に水をかけてしまう勢いのままバーに行ったら、黒沼にも他のスタッフさんたちにも迷惑をかけるどころじゃ済まない。
 でも俺がいれば……?
 俺がハヤトについて行けば、興奮したハヤトをなだめて止められる。店に危害を加えそうになったら、ハヤトを店の外に連れ出すことだってできる。

「……わかった。俺も一緒に行く」
 俺は断腸の思いで、ハヤトの要求を呑むことにした。
 ハヤトは「無駄に渋ってんじゃねーよ」と俺の肩をグーパンで軽く殴ってくる。

 一緒にバーへ行くことを約束すると、ハヤトの昂ぶっていた気持ちもだいぶ落ち着いたらしい。
「じゃあ、今日の夜な。逃げたら承知しねーから」
 と言い残し、学食から出て行った。

 黒沼がトイレから戻ってきたのは、それからすぐのこと。
「待たせて悪い。望月は?」
 きょろきょろと辺りを見渡す黒沼に「もう行ったよ」と教えたあと、俺はハヤトに代わり再度黒沼に謝罪した。
「服、大丈夫だった?」
「水だったからまあ。そこまで濡れてないし、すぐに乾くだろ」
「眼鏡は?」
「問題ない」
 俺はホッと胸を撫でおろした。

 ひと安心して、はたと気づいた。ハヤトと約束してしまったけど、今夜店に黒沼はいるのだろうか。行ったところで、もしイケメンバーテンダーがいなければ、ハヤトの心証はもっと悪くなりそうな気がする。より一層イケメンバーテンダーへの怒りが募ってしまいそうで、後が怖い。
「そういえば黒沼って、今日バイト?」
 尋ねると、黒沼は水で濡れたテーブルの上をティッシュで拭きながら顔を上げた。
「そうだけど。なに、試飲しに来てくれんの?」
 そう聞き返してきた黒沼の目は優しげで、さっきまでハヤトに向けていた冷淡な目とはほど遠い。今日ハヤトを連れていくつもりでいる自分に、ふと罪悪感が湧く。

「ごめん、その時間はレポートやりたいから、試飲には行けないんだけど……夜行ってもいい?」
「俺がシフト入ってる時間ってこと?」
「う、うん」
 断られるかな……おそるおそる見上げると、黒沼の口元が綻んでいるのが見えた。嬉しそうな表情だ。
「分量ミスんないように気をつける」
 つまりOKということだろうか。俺は「ありがと」と言い、もぐ……っと冷めたからあげを箸で口に運んだ。

 どうしてこの時、ハヤトと一緒に行くことにしたのか。そして、そのことを黒沼に伝えなかったのか。

 俺はこの後、ものすごく後悔することになる。