おにぎり休憩を挟んだあと、気まずさの余韻を残したまま、俺は黒沼にレポートを見てもらった。
今回のレポートの要点だけじゃない。今後にも活かせるようにと、黒沼はレポートの書き方をほぼ初心者の俺にも、わかりやすく説明した。
その時間は、まさに昼の十二時から夜の八時まで。貴重な一食の夕飯も食べずに、黒沼は俺のレポートに付き合ってくれたのだった。
「レポートって、真面目に取り組むとこんなに疲れるものだったんか……」
俺は背中から大の字で仰向けになり、脱力して言った。
「慣れればもっと効率よくできるよ。今日は初めてのやり方でやったから、そう感じてんのかもな」
「俺、今までめっちゃ適当にやってたわ……」
「それがわかってよかったじゃん」
よかったのだろうか。でも、黒沼に教えてもらった書き方やポイントを駆使すれば、きっと単位は取れる気がした。
「黒沼ありがとう。本当に今日は助かったよ」
「あとは一人でできそう?」
「なんとか。わからなくなったらまた聞くかもですけど……」
控えめにほのめかす。ありがたいことに、黒沼はタブレット端末をトートバッグにしまいながら、「いいよ」と承諾してくれた。
「それよりメシどうする?」
気まずさの名残りを払拭するように、黒沼がこちらに顔を向け、尋ねてくる。
「えっ? メシって、夜ご飯のこと?」
「そうだけど」
まさか夜ご飯を一緒に食べる流れになっているとは思わず、俺は素っとん狂な声が出た。俺のお母さんがいれば、きっと食べていけと言うだろう。でも今夜は町内会の集まりがあるらしく、夜はいない。
お母さんは俺たちがレポートをやっている時にちょっと顔を出し、黒沼に挨拶をしていった。黒沼も手土産を渡しながらおにぎりのお礼をお母さんに言い、その時だけは俺たちの雰囲気も和んだ。
「夜ご飯は特に用意してないから、二人で適当に食べてね」
と言い残していったお母さんの言葉を思い出す。あれはきっと、外に食べに行ってもいいし、家のものを好きに食べてもいいという意図で言ってくれたのだろう。
ハヤトの電話から気まずくなった雰囲気では、当然夜ご飯の件は流れるとばかり思っていたけど。
「どうしようかな……お母さん、特に用意してないって言ってたから、外に食べに行く?」
「俺が作ろうか?」
黒沼の提案に、俺は「いやいや!」と首を激しく横に振った。
「わざわざ家まで来てもらってレポートを見てくれたんだよ⁉ その上夜ご飯まで黒沼に作ってもらうのはさすがにちょっと……」
「気ぃ遣う?」
「いや、死ぬ。俺の心が死ぬ。罪悪感で」
もちろん黒沼の手料理は食べてみたい。でもあくまで好奇心の範囲内だ。実現してほしいとまでは思っていない。
「駅の方でなんか食べようよ。黒沼に今日のお礼もしたいし」
「お礼がほしくて今日来たわけじゃないんだけど」
「それはわかってるよ! 俺が勝手にお礼したいって思ってるだけ! 黒沼は気にしないでいいので!」
腰を重たそうにしている黒沼を立ち上がらせ、俺は財布とスマホを持って部屋を出た。
八時ともなれば、外はすっかり暗くなっていた。段々夏に近づいているのか、夜の風も前より少し肌ぬるい。梅雨の時季だけど、今日は雨が降っていなくてよかった。
黒沼と夜道を歩くのは初めてだ。黒沼のバイト先の近くでキャッチから助けてもらった時以来だろうか。
バイト中はかっこよくキメている黒沼だけど、日常ではダサいビン底眼鏡とチェック柄の姿しか俺は知らない。日常でオンモードの黒沼と二人並んで歩けるなんて夢みたいだ。
駅周辺に着いたのは、家を出て十数分後。商店街にあるラーメン屋や牛丼屋、居酒屋のチェーン店を見て、俺は一気に不安を覚えた。
今日のお礼として、黒沼に奢りたいという気持ちは変わらない。でもチェーン店でいいのか? そんな疑問がふと沸いたのだ。
でも駅周辺にはほぼチェーン店しかない。ちょっとオシャレな店があったとしても、今は行ったことがない店に冒険するタイミングじゃないだろう。
俺の迷いを察してか、俺の隣にいた黒沼が助け船を出してくれた。
「もし花川に店の候補がないなら、俺の知ってる店でもいい? ここからちょっと移動するけど」
なんてありがたいんだ。黒沼のおすすめのお店なら、きっと間違いないはずだ。俺は「もちろん!」と二つ返事し、黒沼の提案に乗った。
黒沼が乗り込んだのは、俺がいつも大学に行く時に使う方面の電車だった。もしかして黒沼の一人暮らししている家もこっちの方向なのかな。
なぜか黒沼の家の近くの店を想像していた俺は、駅に降りてびっくりした。
「あれっ? ここって武蔵平じゃん。黒沼の家もここにあるの?」
ホームの上で聞くと、黒沼は「俺のアパートはもう一つ先の駅」と答えて歩き出した。ちなみに武蔵平駅は俺たちの通う大学の最寄り駅。見慣れた駅だ。
「お店って、黒沼の家の近くじゃないんだね」
「なんで残念そうなの」
ニヤリと笑みを浮かべ、黒沼が意地悪っぽく言う。
「えっ、いや……てっきり黒沼の家の方かなって思ってたから」
確かにちょっと残念だった。黒沼のテリトリーに入れてくれるのかなと、少し期待していた自分がいる。
改札を出て、大学がある出口とは反対の出口に出る。繫華街の明かりが見えてくる。そこまで見えて、俺はようやく黒沼が目指している場所にピンときた。
「もしかして、今から行くお店って【OnyX】?」
それは黒沼のバイト先のバーだ。
黒沼は振り返り、「やっと気づいたか」と笑った。
「なんだー。遠回しな言い方するから他のお店かと思ったじゃん。て……あれ? もしかしてこれからバイト?」
「いいや、今日はシフト入ってない」
つまり一緒に飲むということだろうか。黒沼のバイト先は俺が普段行くような居酒屋とは違う。何回か行って思ったけれど、客層がずいぶんと落ち着いているのだ。一人でしっぽり飲んでいる大人のお客さんや、女性の二人組、男女のカップルなど……。
店の内装も落ち着いているから、お客さんみんなが内緒話をしているみたいな雰囲気を醸し出している。
そんな空間に、黒沼と二人きりで飲みに行く――。まるでデートみたいだ。そう考えた瞬間、俺の顔がぼっと赤くなるのを感じた。
【OnyX】が入っているテナントビルは繫華街を入ってすぐの所にある。あっという間に店の前にたどり着く。慣れた手つきでドアを開ける黒沼の後に続き、俺も店内に入った。
相変わらず今日も混んでいるけれど、まだカウンターの席がちょっと空いている。学生の街ということもあって、むしろ平日より土日の方が空いているらしい。
「あらら。見たことある顔だと思ったら、ショウ君とお友達だ」
出迎えてくれたのは店長さんだ。驚きつつもすぐに営業スマイルになる。
「なーにー? 今日も稼ぎにきたかー?」
黒沼に茶々を入れながら、肘で黒沼の腕を突く真似をした。
「違いますよ。今日はメシ食いに来ただけです。奥のテーブルいいっすか?」
「えー、カウンターも空いてるよ?」
「カウンターにいたら、ミネの作る酒に口も手も出そうなんで」
カウンターに立っていた新人君が「手も出ちゃうんすか⁉ ショウさんひどい~」と泣きマネをする。ミネというのが彼の名前らしい。
大学では自分を隠していても、ここでは素の自分を出すことができるんだ。そういう場所が黒沼にあってよかったなと、俺は改めて思った。
店長さんに案内してもらったのは、カウンターから離れた壁際の小さなテーブル席。二人席になっており、頭上に吊り下げられている暖色照明のおかげで、ムーディーな雰囲気だ。
黒沼と俺がそこに座ると、店長さんがおしぼりを持ってきてくれた。
「なに飲む?」
「俺はビールで。花川は?」
「じゃ、じゃあ俺もそれで」
「はーい。二人ともビールね。食事はどうする? 今日は黒ビールのカレーと赤ワインのビーフシチュー、あとオムライスもできるよ」
店長さんが指を折りながら、食事系のメニューを口頭で教えてくれる。
黒沼はカレーを、俺はオムライスを注文する。黒ビールのカレーも気になったけれど、もしビール味のカレーが出てきたら食べられる自信がない。ちょっとビビッてしまった。
店長さんがビールを持ってきてくれたあと、俺たちは静かにカンパイした。
一口飲むと、苦い麦の味が舌をピリッとさせた。
「もしかしてビール苦手?」
どうしてそう思ったのか、ビールを一気に半分ほど飲んだ黒沼が聞いてくる。
「ううん、好きだよ。でも普段ノリで飲んでるから、なんか味がいつもと違う感じがする」
「ああ、外国のビールだからかな」
「そうなんだ。黒沼はビール好きなんだ?」
お酒を作っている姿は何度も見たことがあるけれど、飲んでいる姿は初めてだ。見慣れないがために、ちょっと緊張する。新鮮な光景が、俺を現実から遠ざけていく。
「まあな。甘い酒苦手だし」
「え、そうなの⁉ 甘いカクテル作ってたじゃん。試飲させてくれたカクテルも甘いものばかりだったよね?」
「だから花川に頼んだんだってのもある。俺だと甘い酒、あんま量飲めないから」
俺は「なるほど」と感心した。
そうこうしているうちに、カレーとオムライスが運ばれてくる。
食べながら、俺たちは二杯目のビールを頼んだ。気づけば俺の部屋で感じていたわだかまりが薄れているのを感じつつ、あっという間に俺はオムライスを食べ終えた。
「はー美味しかった。固めの卵っていいよね。トロッとした半熟系のオムライスも嫌いじゃないけど、俺はここみたいに卵が固めの方が好きなんだー」
黒沼は「わかる」と言いながら、カレーの最後の一口を口に入れた。
「今度はカレーも食べてみようかな。ビールの味はしないってさっき言ってたよね?」
「ビールが好きな人間でも、ビール味のカレーなんてさすがに食いたくないと思う」
「それなー」
俺はほろ酔いのテンションで笑った。
ちょうどアルコールが回ったタイミングだ。今なら言えそうな気がする。俺は言いづらいことを切り出すことにした。
「さっきは……ごめんね」
カレーを食べ終えた黒沼が、「うん?」と皿から顔を上げる。
「ハヤトの電話。黒沼と一緒にいたのに、一人でいるって言っちゃって」
「まあ、俺といるってバカ正直に答えたところで、何言われるかわからないしな。べつに気にしてない」
さっきまで和やかだった空気が一変する。気にしてないと言いつつ、一時でも気を悪くさせてしまったことに俺は申し訳なくなった。
「ハヤトたちと一緒にいる時ってさ、大雨の中にいるみたいなんだ。大雨に打たれて楽しい時もあるけど、足元が滑ったり転びそうになったり……びしょ濡れになって気持ち悪いなって思う時もあったり」
我ながら例えがひどいという自覚はある。でも俺は口を開かずにはいられなかった。
「傘を……自分の傘をちゃんと持っていればいいんだろうけど、俺にはそれが無くて。ひたすら大雨の中を、手ぶらで歩いてるみたいな感じがするんだ」
黒沼は俺の手元に目を落としながら、静かに聞いていた。
「……俺、意味不明なこと言ってるよな」
俺は目を伏せて苦笑した。なんてわかりにくい例えだろうか。ああ、高校生の時に国語をもっとちゃんとやっておけばよかった。
黒沼が口を開いたのは、少し沈黙を置いたあとのこと。黒沼は俺の目に視線を合わせて言った。
「しんどいだろ。傘も差さないで大雨の中を歩くってのは」
その言葉を受け取った瞬間、心がふっと軽くなった。
自分のマイナスに傾いた肩を、ポンと真ん中に戻されたような。
「お、俺は……」
しんどかったのかな。ハヤトたちと一緒にいて。でもいい奴だと思う自分もいる。だって大学に入学したばかりの時、初めて話しかけてくれたのはハヤトだった。
しんどい。
その言葉を口にしてしまったら、あの時声をかけてくれて嬉しかった気持ちとか、この二年間の楽しかった思い出を、すべて否定してしまうような気がした。
何も言えない。うつむくことしかできない。そんな俺を、黒沼は決して責めたりしない。それがありがたくて……自分が情けなかった。
黙りっぱなしの俺に、
「俺は?」
黒沼が質問してきたのはその時だ。
「え?」
「俺といる時はどんな天気?」
「なにそれ。考えたことないよ」
「じゃあ今考えてみて」
「えー? なんだろ」
数秒ほど時間をもらい、俺は黒沼と一緒に過ごしている時の自分の気持ちを考えた。
「雨上がりの夕暮れ……かなぁ」
「その心は?」
「んーと、もう帰らなくちゃいけないんだけど、水溜りとか壁に張り付いてるナメクジが気になるから帰りたくない、でも今日の夜ご飯は何だろうって、帰り道をわくわくしながら歩いてる感じ」
やはりわかりづらかったのか、黒沼は「ん?」と難しい顔をする。
「雨で一日中どんよりしてる日にさ、雲の隙間から夕焼けが見えるとテンション上がらない? その時の気持ちに似てるかな」
「あのー……ちなみに楽しいって認識で合ってる?」
俺はコクコクと首を縦に振った。
「合ってる合ってる。俺は黒沼と一緒にいる時間が楽しいよ」
そこでようやく、俺の言いたいことが伝わったのだろう。黒沼の表情が柔らかくなる。
一緒にいると楽しい。
黒沼にそう言ってから、俺も気になった。黒沼も俺と一緒にいて楽しいだろうか。俺だけが楽しいと思っていたら、ちょっと……いや、かなり寂しいかもしれない。
ほろ酔いの勢いに任せ、俺からも尋ねた。
「黒沼は? 俺と一緒にいて、楽しい?」
俺の質問に、黒沼は歯切れ悪く「あー……」と斜め下に目をやった。ちょっと苦笑いなのは、どうしてだろう。不安になった。
「まあ、だるいなって思う時もあるけど」
「だるい⁉」
衝撃的な発言に、頭をガンッと殴られたようだった。なんだそれ。ショックすぎる。面と向かって言われ、ショックを通り越して目の前がくらくらした。
「すまん。言葉間違えた。だるいっていうのは花川じゃなくて周りのことで……あぁ、いや、今は何言っても駄目だな、俺は」
一人でぶつぶつ独り言を呟くと、黒沼は首の後ろを掻きながら、ちょっと言いにくそうにもっと衝撃的な言葉を発したのだった。
「……俺も好きだよ」
え。
くらくらしていた視界が急にクリアになる。俺は目をパチパチさせて黒沼を見た。今、好きって言ったよな。
「花川とこうやって喋ってる時間」
キョトンとしながら、続けて言い渡された言葉を反芻する。俺はすぐに自分の勘違いに気づいて焦った。
あ、そっちか。そうだよな。危ない危ない。まじで勘違いするところだった。
俺のことを、そういう意味で好きなわけないんだよな。黒沼が俺と同じ気持ちだなんて、そんな奇跡が起きるはずない。
好き発言の破壊力に負けて、『俺も好きだ』と返す前でよかった。
俺はドキドキと高鳴った胸を手で擦った。頼むから静かにしてくれ。俺はうるさい心臓に向かって必死に言い聞かせた。
「よ、よかったー。ほら、黒沼ってあんまり人とつるみたくないって言ってたじゃん。俺迷惑かけてないといいなーって思ってたから……」
その時だった。俺のスマホが鳴ったのは。
本日二回目の着信音。嫌な予感がして、俺はテーブルの上に置いていたスマホにチラッと目をやった。
俺の表情を見て、黒沼も誰からの着信か察したのだろう。
「望月?」
怒ったような声で、俺のスマホを鳴らす相手を当ててきた。
さすがに出ない方がいい。わかっている。でも少しでも迷っている素振りを見せたら、黒沼をイライラさせてしまうんじゃないか。だったらいっそのこと電話に出て、後でかけ直すって言った方がいいかもしれない。
うん。そうしよう。
俺はスマホに手を伸ばした。応答ボタンを押そうとした次の瞬間。
「出るな」
黒沼の強く低い声に、俺の指はピタッと止まる。まるで飼い主に命じられた犬のようだった。
鳴り続けるスマホから、俺は目の前の黒沼に視線を移した。目が合うと駄目だった。
手が勝手に震えだし、俺は持っていたスマホを落としてしまう。ガチャッと床に落ちたスマホが、黒沼の足元に逃げる。
「ご、ごめ……っ」
これは……恐怖だろうか。黒沼に対してなのだろうか。それともハヤトの電話に出ないことに対してなのか。
わからないけど、震えが止まらない。とりあえずスマホを拾わなくちゃ。俺は椅子から腰を浮かし、身を屈めてスマホに手を伸ばした。
けれどスマホを先に拾ったのは、黒沼の右手だった。星のタトゥーが俺のスマホを拾い上げ、俺の顔の前に差し出す。
「あ、ありがとう……」
スマホを受け取るため、顔を上げたその時だ。黒沼の綺麗な顔が近づいてきて、俺の耳元で囁いた。
「俺が花川の傘になる」
「え……」
「その時がきたら、俺の口から言わせて」
それだけ告げると、黒沼の口は俺の耳元から離れた。俺の手にスマホを乗せ、素知らぬふりでカウンターの中にいる新人君に会計を頼んでいる。
俺はその光景をぼんやり目で追いながら、無意識のうちに耳たぶをつねるように触っていた。
さすがに聞かなかった振りはできなかった。だって黒沼の息がかかった耳たぶは、まだこんなにも熱い。
黒沼は残りのビールに手を伸ばしている。俺は尋ねた。
「言うって……なにを?」
黒沼はこちらに視線を戻したものの、それには答えなかった。ただ目を細め、優しく微笑むだけだ。
なに、その笑顔。
胸がトクン、トクンと脈打つ。みぞおちが震えるぐらい切なくなる。
これも『好き』という感情のひとつなのかな。だったらもう、俺はいい。誰かを好きになるのは、これが最後でいい。
顔が熱いのも、呼吸が速いのも、きっとアルコールだけのせいじゃない。
ハヤトからかかってきた電話は、いつの間にか切れていた。
今回のレポートの要点だけじゃない。今後にも活かせるようにと、黒沼はレポートの書き方をほぼ初心者の俺にも、わかりやすく説明した。
その時間は、まさに昼の十二時から夜の八時まで。貴重な一食の夕飯も食べずに、黒沼は俺のレポートに付き合ってくれたのだった。
「レポートって、真面目に取り組むとこんなに疲れるものだったんか……」
俺は背中から大の字で仰向けになり、脱力して言った。
「慣れればもっと効率よくできるよ。今日は初めてのやり方でやったから、そう感じてんのかもな」
「俺、今までめっちゃ適当にやってたわ……」
「それがわかってよかったじゃん」
よかったのだろうか。でも、黒沼に教えてもらった書き方やポイントを駆使すれば、きっと単位は取れる気がした。
「黒沼ありがとう。本当に今日は助かったよ」
「あとは一人でできそう?」
「なんとか。わからなくなったらまた聞くかもですけど……」
控えめにほのめかす。ありがたいことに、黒沼はタブレット端末をトートバッグにしまいながら、「いいよ」と承諾してくれた。
「それよりメシどうする?」
気まずさの名残りを払拭するように、黒沼がこちらに顔を向け、尋ねてくる。
「えっ? メシって、夜ご飯のこと?」
「そうだけど」
まさか夜ご飯を一緒に食べる流れになっているとは思わず、俺は素っとん狂な声が出た。俺のお母さんがいれば、きっと食べていけと言うだろう。でも今夜は町内会の集まりがあるらしく、夜はいない。
お母さんは俺たちがレポートをやっている時にちょっと顔を出し、黒沼に挨拶をしていった。黒沼も手土産を渡しながらおにぎりのお礼をお母さんに言い、その時だけは俺たちの雰囲気も和んだ。
「夜ご飯は特に用意してないから、二人で適当に食べてね」
と言い残していったお母さんの言葉を思い出す。あれはきっと、外に食べに行ってもいいし、家のものを好きに食べてもいいという意図で言ってくれたのだろう。
ハヤトの電話から気まずくなった雰囲気では、当然夜ご飯の件は流れるとばかり思っていたけど。
「どうしようかな……お母さん、特に用意してないって言ってたから、外に食べに行く?」
「俺が作ろうか?」
黒沼の提案に、俺は「いやいや!」と首を激しく横に振った。
「わざわざ家まで来てもらってレポートを見てくれたんだよ⁉ その上夜ご飯まで黒沼に作ってもらうのはさすがにちょっと……」
「気ぃ遣う?」
「いや、死ぬ。俺の心が死ぬ。罪悪感で」
もちろん黒沼の手料理は食べてみたい。でもあくまで好奇心の範囲内だ。実現してほしいとまでは思っていない。
「駅の方でなんか食べようよ。黒沼に今日のお礼もしたいし」
「お礼がほしくて今日来たわけじゃないんだけど」
「それはわかってるよ! 俺が勝手にお礼したいって思ってるだけ! 黒沼は気にしないでいいので!」
腰を重たそうにしている黒沼を立ち上がらせ、俺は財布とスマホを持って部屋を出た。
八時ともなれば、外はすっかり暗くなっていた。段々夏に近づいているのか、夜の風も前より少し肌ぬるい。梅雨の時季だけど、今日は雨が降っていなくてよかった。
黒沼と夜道を歩くのは初めてだ。黒沼のバイト先の近くでキャッチから助けてもらった時以来だろうか。
バイト中はかっこよくキメている黒沼だけど、日常ではダサいビン底眼鏡とチェック柄の姿しか俺は知らない。日常でオンモードの黒沼と二人並んで歩けるなんて夢みたいだ。
駅周辺に着いたのは、家を出て十数分後。商店街にあるラーメン屋や牛丼屋、居酒屋のチェーン店を見て、俺は一気に不安を覚えた。
今日のお礼として、黒沼に奢りたいという気持ちは変わらない。でもチェーン店でいいのか? そんな疑問がふと沸いたのだ。
でも駅周辺にはほぼチェーン店しかない。ちょっとオシャレな店があったとしても、今は行ったことがない店に冒険するタイミングじゃないだろう。
俺の迷いを察してか、俺の隣にいた黒沼が助け船を出してくれた。
「もし花川に店の候補がないなら、俺の知ってる店でもいい? ここからちょっと移動するけど」
なんてありがたいんだ。黒沼のおすすめのお店なら、きっと間違いないはずだ。俺は「もちろん!」と二つ返事し、黒沼の提案に乗った。
黒沼が乗り込んだのは、俺がいつも大学に行く時に使う方面の電車だった。もしかして黒沼の一人暮らししている家もこっちの方向なのかな。
なぜか黒沼の家の近くの店を想像していた俺は、駅に降りてびっくりした。
「あれっ? ここって武蔵平じゃん。黒沼の家もここにあるの?」
ホームの上で聞くと、黒沼は「俺のアパートはもう一つ先の駅」と答えて歩き出した。ちなみに武蔵平駅は俺たちの通う大学の最寄り駅。見慣れた駅だ。
「お店って、黒沼の家の近くじゃないんだね」
「なんで残念そうなの」
ニヤリと笑みを浮かべ、黒沼が意地悪っぽく言う。
「えっ、いや……てっきり黒沼の家の方かなって思ってたから」
確かにちょっと残念だった。黒沼のテリトリーに入れてくれるのかなと、少し期待していた自分がいる。
改札を出て、大学がある出口とは反対の出口に出る。繫華街の明かりが見えてくる。そこまで見えて、俺はようやく黒沼が目指している場所にピンときた。
「もしかして、今から行くお店って【OnyX】?」
それは黒沼のバイト先のバーだ。
黒沼は振り返り、「やっと気づいたか」と笑った。
「なんだー。遠回しな言い方するから他のお店かと思ったじゃん。て……あれ? もしかしてこれからバイト?」
「いいや、今日はシフト入ってない」
つまり一緒に飲むということだろうか。黒沼のバイト先は俺が普段行くような居酒屋とは違う。何回か行って思ったけれど、客層がずいぶんと落ち着いているのだ。一人でしっぽり飲んでいる大人のお客さんや、女性の二人組、男女のカップルなど……。
店の内装も落ち着いているから、お客さんみんなが内緒話をしているみたいな雰囲気を醸し出している。
そんな空間に、黒沼と二人きりで飲みに行く――。まるでデートみたいだ。そう考えた瞬間、俺の顔がぼっと赤くなるのを感じた。
【OnyX】が入っているテナントビルは繫華街を入ってすぐの所にある。あっという間に店の前にたどり着く。慣れた手つきでドアを開ける黒沼の後に続き、俺も店内に入った。
相変わらず今日も混んでいるけれど、まだカウンターの席がちょっと空いている。学生の街ということもあって、むしろ平日より土日の方が空いているらしい。
「あらら。見たことある顔だと思ったら、ショウ君とお友達だ」
出迎えてくれたのは店長さんだ。驚きつつもすぐに営業スマイルになる。
「なーにー? 今日も稼ぎにきたかー?」
黒沼に茶々を入れながら、肘で黒沼の腕を突く真似をした。
「違いますよ。今日はメシ食いに来ただけです。奥のテーブルいいっすか?」
「えー、カウンターも空いてるよ?」
「カウンターにいたら、ミネの作る酒に口も手も出そうなんで」
カウンターに立っていた新人君が「手も出ちゃうんすか⁉ ショウさんひどい~」と泣きマネをする。ミネというのが彼の名前らしい。
大学では自分を隠していても、ここでは素の自分を出すことができるんだ。そういう場所が黒沼にあってよかったなと、俺は改めて思った。
店長さんに案内してもらったのは、カウンターから離れた壁際の小さなテーブル席。二人席になっており、頭上に吊り下げられている暖色照明のおかげで、ムーディーな雰囲気だ。
黒沼と俺がそこに座ると、店長さんがおしぼりを持ってきてくれた。
「なに飲む?」
「俺はビールで。花川は?」
「じゃ、じゃあ俺もそれで」
「はーい。二人ともビールね。食事はどうする? 今日は黒ビールのカレーと赤ワインのビーフシチュー、あとオムライスもできるよ」
店長さんが指を折りながら、食事系のメニューを口頭で教えてくれる。
黒沼はカレーを、俺はオムライスを注文する。黒ビールのカレーも気になったけれど、もしビール味のカレーが出てきたら食べられる自信がない。ちょっとビビッてしまった。
店長さんがビールを持ってきてくれたあと、俺たちは静かにカンパイした。
一口飲むと、苦い麦の味が舌をピリッとさせた。
「もしかしてビール苦手?」
どうしてそう思ったのか、ビールを一気に半分ほど飲んだ黒沼が聞いてくる。
「ううん、好きだよ。でも普段ノリで飲んでるから、なんか味がいつもと違う感じがする」
「ああ、外国のビールだからかな」
「そうなんだ。黒沼はビール好きなんだ?」
お酒を作っている姿は何度も見たことがあるけれど、飲んでいる姿は初めてだ。見慣れないがために、ちょっと緊張する。新鮮な光景が、俺を現実から遠ざけていく。
「まあな。甘い酒苦手だし」
「え、そうなの⁉ 甘いカクテル作ってたじゃん。試飲させてくれたカクテルも甘いものばかりだったよね?」
「だから花川に頼んだんだってのもある。俺だと甘い酒、あんま量飲めないから」
俺は「なるほど」と感心した。
そうこうしているうちに、カレーとオムライスが運ばれてくる。
食べながら、俺たちは二杯目のビールを頼んだ。気づけば俺の部屋で感じていたわだかまりが薄れているのを感じつつ、あっという間に俺はオムライスを食べ終えた。
「はー美味しかった。固めの卵っていいよね。トロッとした半熟系のオムライスも嫌いじゃないけど、俺はここみたいに卵が固めの方が好きなんだー」
黒沼は「わかる」と言いながら、カレーの最後の一口を口に入れた。
「今度はカレーも食べてみようかな。ビールの味はしないってさっき言ってたよね?」
「ビールが好きな人間でも、ビール味のカレーなんてさすがに食いたくないと思う」
「それなー」
俺はほろ酔いのテンションで笑った。
ちょうどアルコールが回ったタイミングだ。今なら言えそうな気がする。俺は言いづらいことを切り出すことにした。
「さっきは……ごめんね」
カレーを食べ終えた黒沼が、「うん?」と皿から顔を上げる。
「ハヤトの電話。黒沼と一緒にいたのに、一人でいるって言っちゃって」
「まあ、俺といるってバカ正直に答えたところで、何言われるかわからないしな。べつに気にしてない」
さっきまで和やかだった空気が一変する。気にしてないと言いつつ、一時でも気を悪くさせてしまったことに俺は申し訳なくなった。
「ハヤトたちと一緒にいる時ってさ、大雨の中にいるみたいなんだ。大雨に打たれて楽しい時もあるけど、足元が滑ったり転びそうになったり……びしょ濡れになって気持ち悪いなって思う時もあったり」
我ながら例えがひどいという自覚はある。でも俺は口を開かずにはいられなかった。
「傘を……自分の傘をちゃんと持っていればいいんだろうけど、俺にはそれが無くて。ひたすら大雨の中を、手ぶらで歩いてるみたいな感じがするんだ」
黒沼は俺の手元に目を落としながら、静かに聞いていた。
「……俺、意味不明なこと言ってるよな」
俺は目を伏せて苦笑した。なんてわかりにくい例えだろうか。ああ、高校生の時に国語をもっとちゃんとやっておけばよかった。
黒沼が口を開いたのは、少し沈黙を置いたあとのこと。黒沼は俺の目に視線を合わせて言った。
「しんどいだろ。傘も差さないで大雨の中を歩くってのは」
その言葉を受け取った瞬間、心がふっと軽くなった。
自分のマイナスに傾いた肩を、ポンと真ん中に戻されたような。
「お、俺は……」
しんどかったのかな。ハヤトたちと一緒にいて。でもいい奴だと思う自分もいる。だって大学に入学したばかりの時、初めて話しかけてくれたのはハヤトだった。
しんどい。
その言葉を口にしてしまったら、あの時声をかけてくれて嬉しかった気持ちとか、この二年間の楽しかった思い出を、すべて否定してしまうような気がした。
何も言えない。うつむくことしかできない。そんな俺を、黒沼は決して責めたりしない。それがありがたくて……自分が情けなかった。
黙りっぱなしの俺に、
「俺は?」
黒沼が質問してきたのはその時だ。
「え?」
「俺といる時はどんな天気?」
「なにそれ。考えたことないよ」
「じゃあ今考えてみて」
「えー? なんだろ」
数秒ほど時間をもらい、俺は黒沼と一緒に過ごしている時の自分の気持ちを考えた。
「雨上がりの夕暮れ……かなぁ」
「その心は?」
「んーと、もう帰らなくちゃいけないんだけど、水溜りとか壁に張り付いてるナメクジが気になるから帰りたくない、でも今日の夜ご飯は何だろうって、帰り道をわくわくしながら歩いてる感じ」
やはりわかりづらかったのか、黒沼は「ん?」と難しい顔をする。
「雨で一日中どんよりしてる日にさ、雲の隙間から夕焼けが見えるとテンション上がらない? その時の気持ちに似てるかな」
「あのー……ちなみに楽しいって認識で合ってる?」
俺はコクコクと首を縦に振った。
「合ってる合ってる。俺は黒沼と一緒にいる時間が楽しいよ」
そこでようやく、俺の言いたいことが伝わったのだろう。黒沼の表情が柔らかくなる。
一緒にいると楽しい。
黒沼にそう言ってから、俺も気になった。黒沼も俺と一緒にいて楽しいだろうか。俺だけが楽しいと思っていたら、ちょっと……いや、かなり寂しいかもしれない。
ほろ酔いの勢いに任せ、俺からも尋ねた。
「黒沼は? 俺と一緒にいて、楽しい?」
俺の質問に、黒沼は歯切れ悪く「あー……」と斜め下に目をやった。ちょっと苦笑いなのは、どうしてだろう。不安になった。
「まあ、だるいなって思う時もあるけど」
「だるい⁉」
衝撃的な発言に、頭をガンッと殴られたようだった。なんだそれ。ショックすぎる。面と向かって言われ、ショックを通り越して目の前がくらくらした。
「すまん。言葉間違えた。だるいっていうのは花川じゃなくて周りのことで……あぁ、いや、今は何言っても駄目だな、俺は」
一人でぶつぶつ独り言を呟くと、黒沼は首の後ろを掻きながら、ちょっと言いにくそうにもっと衝撃的な言葉を発したのだった。
「……俺も好きだよ」
え。
くらくらしていた視界が急にクリアになる。俺は目をパチパチさせて黒沼を見た。今、好きって言ったよな。
「花川とこうやって喋ってる時間」
キョトンとしながら、続けて言い渡された言葉を反芻する。俺はすぐに自分の勘違いに気づいて焦った。
あ、そっちか。そうだよな。危ない危ない。まじで勘違いするところだった。
俺のことを、そういう意味で好きなわけないんだよな。黒沼が俺と同じ気持ちだなんて、そんな奇跡が起きるはずない。
好き発言の破壊力に負けて、『俺も好きだ』と返す前でよかった。
俺はドキドキと高鳴った胸を手で擦った。頼むから静かにしてくれ。俺はうるさい心臓に向かって必死に言い聞かせた。
「よ、よかったー。ほら、黒沼ってあんまり人とつるみたくないって言ってたじゃん。俺迷惑かけてないといいなーって思ってたから……」
その時だった。俺のスマホが鳴ったのは。
本日二回目の着信音。嫌な予感がして、俺はテーブルの上に置いていたスマホにチラッと目をやった。
俺の表情を見て、黒沼も誰からの着信か察したのだろう。
「望月?」
怒ったような声で、俺のスマホを鳴らす相手を当ててきた。
さすがに出ない方がいい。わかっている。でも少しでも迷っている素振りを見せたら、黒沼をイライラさせてしまうんじゃないか。だったらいっそのこと電話に出て、後でかけ直すって言った方がいいかもしれない。
うん。そうしよう。
俺はスマホに手を伸ばした。応答ボタンを押そうとした次の瞬間。
「出るな」
黒沼の強く低い声に、俺の指はピタッと止まる。まるで飼い主に命じられた犬のようだった。
鳴り続けるスマホから、俺は目の前の黒沼に視線を移した。目が合うと駄目だった。
手が勝手に震えだし、俺は持っていたスマホを落としてしまう。ガチャッと床に落ちたスマホが、黒沼の足元に逃げる。
「ご、ごめ……っ」
これは……恐怖だろうか。黒沼に対してなのだろうか。それともハヤトの電話に出ないことに対してなのか。
わからないけど、震えが止まらない。とりあえずスマホを拾わなくちゃ。俺は椅子から腰を浮かし、身を屈めてスマホに手を伸ばした。
けれどスマホを先に拾ったのは、黒沼の右手だった。星のタトゥーが俺のスマホを拾い上げ、俺の顔の前に差し出す。
「あ、ありがとう……」
スマホを受け取るため、顔を上げたその時だ。黒沼の綺麗な顔が近づいてきて、俺の耳元で囁いた。
「俺が花川の傘になる」
「え……」
「その時がきたら、俺の口から言わせて」
それだけ告げると、黒沼の口は俺の耳元から離れた。俺の手にスマホを乗せ、素知らぬふりでカウンターの中にいる新人君に会計を頼んでいる。
俺はその光景をぼんやり目で追いながら、無意識のうちに耳たぶをつねるように触っていた。
さすがに聞かなかった振りはできなかった。だって黒沼の息がかかった耳たぶは、まだこんなにも熱い。
黒沼は残りのビールに手を伸ばしている。俺は尋ねた。
「言うって……なにを?」
黒沼はこちらに視線を戻したものの、それには答えなかった。ただ目を細め、優しく微笑むだけだ。
なに、その笑顔。
胸がトクン、トクンと脈打つ。みぞおちが震えるぐらい切なくなる。
これも『好き』という感情のひとつなのかな。だったらもう、俺はいい。誰かを好きになるのは、これが最後でいい。
顔が熱いのも、呼吸が速いのも、きっとアルコールだけのせいじゃない。
ハヤトからかかってきた電話は、いつの間にか切れていた。
