黒沼にレポートを見てもらい始めてから、気づけば二時間近くが経っていた。
ベッドの横に置いてある目覚まし時計を見ると、もうすぐ十四時だ。そういえば黒沼はお昼を食べたのかな。
気になる理由は、自分がお昼を食べていないからだ。黒沼にレポートを見てもらっている途中、何度もお腹が鳴った。そのたびに誤魔化していたけれど、いよいよ空腹も限界を迎えていた。
「うん、導入部分はこれでいいと思う」
黒沼が俺のノートPCから顔を上げた。
「あとはそうだな……。ここに花川の主観が入ってるんだけど、直した方がいいかも。レポートはあくまでデータを元に論じた方がいいから」
「どれどれ?」
該当する部分を教えてもらおうと、黒沼が指を差した箇所に目を向けたその時。
ぐうぅ。
俺の腹の虫が、今日一大きな音量で部屋に響いた。
さすがに黒沼にも聞こえただろう。俺は恥ずかしさで死にたくなった。
「昼食べてない感じ?」
「う、うん……黒沼は食べてきた?」
「いや。俺は夜しか食わない」
「えっ⁉ お腹空かないのっ?」
「べつに。もう慣れた」
黒沼の一日一食発言にビビり、俺は「せめて昼だけでも何か食べた方がいいよ」と言う。
人によって食事の量やリズムがバラバラなのは当然のことかもしれない。けれど、黒沼の身長や体格はもちろんのこと、食べる時間帯を考えれば、食事の量もリズムも適正だとは思えなかった。
「ちょっと待ってて。今何か食べるものないか下で見てくる」
一階のキッチンに向かおうと立ち上がる。その時、コンコンと部屋のドアをノックする音と一緒に「伊澄―、開けるよー」と琴音の声がした。さすが黒沼が来ているとだけあって、ノック無しに入ってくることは控えたようだ。
俺が「なに?」と返したあと、琴音がドアを開けた。
「ママが休憩中のお供にどうぞーって」
琴音はラップに包まれたおにぎりを四つ乗せたお盆を持って入ってきた。ちょうど食べるものを取りに行こうとしていただけに、なんて抜群のタイミングなんだ。おにぎりを持ってきてくれた琴音にはもちろん、作ってくれた母親にも感謝した。
「めっちゃ助かるー! 今ちょうどお腹減ってて死にそうでさ。っていうかお母さん、いるの?」
「さっきパートから帰ってきたよ。あんたたちの邪魔しちゃ悪いから、あとで黒沼君に挨拶させてーだって」
琴音は俺に説明しつつ、部屋の中にいる黒沼にニコニコと手を振った。今日は外に出る用事なんてないはずなのに、仕事がある平日よりメイクに気合が入っている。
「あとでママにお礼言っときなよー。それじゃあたしはこれから推しのライブ配信あるから」
琴音は俺にお盆を渡し、あっさりと自分の部屋に戻っていった。
再び黒沼と二人きりになる。俺はお盆をローテーブルに置き、二つずつあるツナマヨおにぎりと肉味噌おにぎりを一つずつ黒沼の前に置いた。
「お母さんのおにぎり、結構イケるんだよね。いつも昼は食べないって言ってたけど、今日は食べてあげてよ」
黒沼はおにぎりに目を落とすと、おもむろにツナマヨへと手を伸ばしてラップを剥がし始めた。パクッと大きな一口で頬張る。
「ん。うまい」
「でしょ⁉ うちのはかつお節が入ってるんだ。あ、こっちの肉味噌もおすすめ。ネギと豚ひき肉の他にラー油と糸唐辛子も入ってんの」
説明しているうちに、黒沼はあっという間に一つ目を食べ終えた。二つ目の肉味噌のラップを剥がしている姿を見て、俺はハッと冷静になる。
「なんか熱く語ってごめん……。大学生にもなって母親の料理自慢するとかダサいよな」
ツッコまれる前に、自分から先手を打っておく。今のはだいぶマザコン的発言だった。失敗したと思った。
けれど黒沼は少しも笑うことなく「ダサくねえだろ」と言った。むしろ、
「自分の母親を誇って、何が悪い?」
まるで自分のことのようにフォローしてくれた。
胸がじんと熱くなる。かっこ悪いと卑下しかけた自分を、黒沼は感嘆にすくい上げてくれたのだ。
「それにしても美味しいな。このおにぎりだったら無限にいけるわ」
「無限は言い過ぎ。でも……ありがと」
黒沼は「ん」と返事し、肉味噌おにぎりの最後の一口を口に入れた。頬いっぱいにしながら食べる黒沼のワイルドさと優しさに、たまらなくなる。やっぱり好きだなぁと俺は再認識した。
「黒沼はさ、一人暮らししてるって言ってたじゃん? やっぱりご飯作るの面倒くさい?」
一人暮らしということは、自分の食べるものはすべて自分で用意しなくちゃいけないということだ。実家暮らしの俺が、お母さんの手伝いをするのとは訳が違う。何も考えずに、食べた方がいいと口出ししたことを俺は後悔した。
「まあな。一人分作るのって、意外と面倒だから」
「そうなんだ……って黒沼、料理できるの?」
「そりゃまあ。飲食店でバイトしてるし、小学生の頃から作ってたし」
「小学生の頃から⁉ 奉公にでも行ってたの⁉」
「いつの時代だよ」
黒沼は麦茶を飲みながら冷静にツッコんでくる。
「ウチ、片親でさ。母親は遅くまで仕事してたから、ほぼ毎日自分と母親の分作ってたんだよ。作ってたっていっても、まあ、しょせん小学生じゃん? チャーハンとかオムライスとか野菜炒めとか、たいしたもんじゃなかったけど」
「す、すごい! お酒だけじゃなくて、料理もできるって……スキル高すぎない⁉」
「そーかぁ? 必要に迫られれば、誰だってできるようになるレベルだぞ」
「そうかもしれないけど、毎日作るんでしょ? 俺が小学生の時なんて、危なすぎて包丁も持たせてもらえなかったのに」
「言っとくけど、俺だって作ってない日も普通にあったからな。デリバリー頼んだ時もあるし、母親にスーパーで総菜買ってきてもらった時もある」
でも、と黒沼が頬を綻ばせるタイミングを、俺は見逃さなかった。
「エッグってチワワが昔実家にいたって話、前にしただろ? そいつがさ、俺が台所に立ってると喜ぶのよ。特に自分の好きな食材切ってると、足元でずっと尻尾振って待ってんの」
黒沼いわく、ささ身やきゅうり、キャベツやさつまいもなど。エッグはモデルが好きそうな食材を好んでいたらしい。
「それが見たくて、やる気ない日でも頑張って台所に立ってたな」
懐かしい目をしながら、黒沼は亡き飼い犬との話を聞かせてくれた。
「エッグとずっと一緒だったんだね」
「ああ。人間のきょうだいは俺にいないけど……そうだな。エッグは兄弟だったよ」
黒沼が右手で、反対側の肩を揉む。兄弟を失った悲壮感は感じられない。そこにあるのは温かくて優しい思い出だけだ。
「きっとエッグも、黒沼のことをお兄ちゃんのように思ってたんじゃないかな」
「そうかな。そうだといいけど」
「そうだよ。俺が保証する」
言った瞬間、黒沼がキョトンとした顔を俺に向けてきた。目が合ってから、俺は自分の偉そうな発言に慌てた。
「ご、ごめんっ。偉そうなこと言って」
「全然。花川ってなんでそんなに自信ないの? 俺は結構花川の言葉に救われてるんだけど」
あぐらをかいた膝の上に肘をつき、頬杖をついた黒沼が首を傾げた。
黒沼が俺の言葉に救われてる? そんな大それたことを黒沼に言った覚えが俺にはない。だって自分は、そんな人間じゃない。
「自信……なんでないのかは、俺にもよくわからないんだよね」
過去に何かあったかとか、これがきっかけで~とか。黒沼とエッグのように、具体的なエピソードがあるわけではない。あったのかもしれないけど、覚えていないのだ。
元々の気質とか、育った環境、関わってきた先生とか遊んできた友達とか……たぶんそれらが少しずつ積み重なって、俺は『こう』なったんだと思う。
乗り越えなくちゃいけない過去やつらい記憶なんてものはないし、ちょっと生きづらいなと感じる時はあっても大きな不便はない。だからこの性格をなんとなく受け入れてくれて、面白おかしくイジッてくる人たちと付き合ってきた。それが俺だ。
あれ、俺ってかなりつまらない人間なのでは……?
魅力を自ら隠さないと見つかってしまうタイプの黒沼と、一緒にいていいのかな。自分がひどく恥ずかしい存在に思えてくる。自分の部屋が、急に居心地の悪いものに感じてくる。
その時だった。
俺のスマホが、着信を告げるバイブ音で震え出した。
画面にはハヤトの名前。何か用だろうか。そういえば夏合宿の部屋決めは、俺がいないうちに決まったらしい。
出た方がいいよな……と思いつつ、出たら黒沼に失礼かなと渋る。出るか出まいか、だいぶオドオドしていたようだ。見かねた黒沼に「出れば?」と促される形で、俺はスマホを取って耳に当てた。
『あ、伊澄ぃ? 今って一人?』
「えっ……と、うん」
俺は焦って答えた。相手が黒沼だとは言わなくても、『友達といる』ぐらい言ってもよかったはず。なんで嘘をついたのか、俺は自分でもわからなかった。
『なんかさー、合宿所のルールがめっちゃ厳しくなって、酒の持ち込みがNGになったんだってよ。まじふざけんなって感じじゃね?』
「あ、うん。そうだね」
『でもさ、なんかガバガバのルールらしくてー。他のサークルの奴らがキャリーとか荷物の中に入れていけばイケるって言っててさー。おまえ、家にでっかいキャリーケースあるって前言ってなかった?』
「あー……あったかも」
『やりぃ。じゃあ合宿の前日におまえんちに酒大量に持って行くから、詰めて持ってきてよ』
「え?」
持ってきてよ、って一人で? さすがに無理だろ。そう思ったのも束の間、
『じゃ、よろー』
とハヤトは一人早々に話を終わらせる。ハヤトを引き止める言葉も思いつかないうちに、通話は切れた。
スマホを耳から離し、ちらっと黒沼を見る。案の定、黒沼の表情に笑顔はない。スピーカーはオフにしていたけれど、ハヤトの声はでかい。黒沼にも聞こえていただろうかと、俺は不安になった。
「一人……ねえ」
俺ここにいますけど? と言いたさげに呆れた目を向けられる。やっぱり聞こえていたようだ。
黒沼はハヤトたちが苦手だ。出るんじゃなかった。俺は今日何度目になるかわからない「ごめん」を口にした。
責められるかな。びくびくして縮こまっていた俺に、黒沼が予想外の質問をしてきたのはその時だ。
「花川はそいつらと――望月たちと一緒にいて、楽しい?」
初めて聞かれたことだ。自分で自分に問いかけたこともない。考えたことがなかった。俺は「楽しい」と言い、ちょっとしてから、
「………………時もある」
と付け足した。
「ずいぶん長いタメでしたけど」
ごもっともである。俺は返す言葉が見つからず、スマホを持ったままうつむいた。
ベッドの横に置いてある目覚まし時計を見ると、もうすぐ十四時だ。そういえば黒沼はお昼を食べたのかな。
気になる理由は、自分がお昼を食べていないからだ。黒沼にレポートを見てもらっている途中、何度もお腹が鳴った。そのたびに誤魔化していたけれど、いよいよ空腹も限界を迎えていた。
「うん、導入部分はこれでいいと思う」
黒沼が俺のノートPCから顔を上げた。
「あとはそうだな……。ここに花川の主観が入ってるんだけど、直した方がいいかも。レポートはあくまでデータを元に論じた方がいいから」
「どれどれ?」
該当する部分を教えてもらおうと、黒沼が指を差した箇所に目を向けたその時。
ぐうぅ。
俺の腹の虫が、今日一大きな音量で部屋に響いた。
さすがに黒沼にも聞こえただろう。俺は恥ずかしさで死にたくなった。
「昼食べてない感じ?」
「う、うん……黒沼は食べてきた?」
「いや。俺は夜しか食わない」
「えっ⁉ お腹空かないのっ?」
「べつに。もう慣れた」
黒沼の一日一食発言にビビり、俺は「せめて昼だけでも何か食べた方がいいよ」と言う。
人によって食事の量やリズムがバラバラなのは当然のことかもしれない。けれど、黒沼の身長や体格はもちろんのこと、食べる時間帯を考えれば、食事の量もリズムも適正だとは思えなかった。
「ちょっと待ってて。今何か食べるものないか下で見てくる」
一階のキッチンに向かおうと立ち上がる。その時、コンコンと部屋のドアをノックする音と一緒に「伊澄―、開けるよー」と琴音の声がした。さすが黒沼が来ているとだけあって、ノック無しに入ってくることは控えたようだ。
俺が「なに?」と返したあと、琴音がドアを開けた。
「ママが休憩中のお供にどうぞーって」
琴音はラップに包まれたおにぎりを四つ乗せたお盆を持って入ってきた。ちょうど食べるものを取りに行こうとしていただけに、なんて抜群のタイミングなんだ。おにぎりを持ってきてくれた琴音にはもちろん、作ってくれた母親にも感謝した。
「めっちゃ助かるー! 今ちょうどお腹減ってて死にそうでさ。っていうかお母さん、いるの?」
「さっきパートから帰ってきたよ。あんたたちの邪魔しちゃ悪いから、あとで黒沼君に挨拶させてーだって」
琴音は俺に説明しつつ、部屋の中にいる黒沼にニコニコと手を振った。今日は外に出る用事なんてないはずなのに、仕事がある平日よりメイクに気合が入っている。
「あとでママにお礼言っときなよー。それじゃあたしはこれから推しのライブ配信あるから」
琴音は俺にお盆を渡し、あっさりと自分の部屋に戻っていった。
再び黒沼と二人きりになる。俺はお盆をローテーブルに置き、二つずつあるツナマヨおにぎりと肉味噌おにぎりを一つずつ黒沼の前に置いた。
「お母さんのおにぎり、結構イケるんだよね。いつも昼は食べないって言ってたけど、今日は食べてあげてよ」
黒沼はおにぎりに目を落とすと、おもむろにツナマヨへと手を伸ばしてラップを剥がし始めた。パクッと大きな一口で頬張る。
「ん。うまい」
「でしょ⁉ うちのはかつお節が入ってるんだ。あ、こっちの肉味噌もおすすめ。ネギと豚ひき肉の他にラー油と糸唐辛子も入ってんの」
説明しているうちに、黒沼はあっという間に一つ目を食べ終えた。二つ目の肉味噌のラップを剥がしている姿を見て、俺はハッと冷静になる。
「なんか熱く語ってごめん……。大学生にもなって母親の料理自慢するとかダサいよな」
ツッコまれる前に、自分から先手を打っておく。今のはだいぶマザコン的発言だった。失敗したと思った。
けれど黒沼は少しも笑うことなく「ダサくねえだろ」と言った。むしろ、
「自分の母親を誇って、何が悪い?」
まるで自分のことのようにフォローしてくれた。
胸がじんと熱くなる。かっこ悪いと卑下しかけた自分を、黒沼は感嘆にすくい上げてくれたのだ。
「それにしても美味しいな。このおにぎりだったら無限にいけるわ」
「無限は言い過ぎ。でも……ありがと」
黒沼は「ん」と返事し、肉味噌おにぎりの最後の一口を口に入れた。頬いっぱいにしながら食べる黒沼のワイルドさと優しさに、たまらなくなる。やっぱり好きだなぁと俺は再認識した。
「黒沼はさ、一人暮らししてるって言ってたじゃん? やっぱりご飯作るの面倒くさい?」
一人暮らしということは、自分の食べるものはすべて自分で用意しなくちゃいけないということだ。実家暮らしの俺が、お母さんの手伝いをするのとは訳が違う。何も考えずに、食べた方がいいと口出ししたことを俺は後悔した。
「まあな。一人分作るのって、意外と面倒だから」
「そうなんだ……って黒沼、料理できるの?」
「そりゃまあ。飲食店でバイトしてるし、小学生の頃から作ってたし」
「小学生の頃から⁉ 奉公にでも行ってたの⁉」
「いつの時代だよ」
黒沼は麦茶を飲みながら冷静にツッコんでくる。
「ウチ、片親でさ。母親は遅くまで仕事してたから、ほぼ毎日自分と母親の分作ってたんだよ。作ってたっていっても、まあ、しょせん小学生じゃん? チャーハンとかオムライスとか野菜炒めとか、たいしたもんじゃなかったけど」
「す、すごい! お酒だけじゃなくて、料理もできるって……スキル高すぎない⁉」
「そーかぁ? 必要に迫られれば、誰だってできるようになるレベルだぞ」
「そうかもしれないけど、毎日作るんでしょ? 俺が小学生の時なんて、危なすぎて包丁も持たせてもらえなかったのに」
「言っとくけど、俺だって作ってない日も普通にあったからな。デリバリー頼んだ時もあるし、母親にスーパーで総菜買ってきてもらった時もある」
でも、と黒沼が頬を綻ばせるタイミングを、俺は見逃さなかった。
「エッグってチワワが昔実家にいたって話、前にしただろ? そいつがさ、俺が台所に立ってると喜ぶのよ。特に自分の好きな食材切ってると、足元でずっと尻尾振って待ってんの」
黒沼いわく、ささ身やきゅうり、キャベツやさつまいもなど。エッグはモデルが好きそうな食材を好んでいたらしい。
「それが見たくて、やる気ない日でも頑張って台所に立ってたな」
懐かしい目をしながら、黒沼は亡き飼い犬との話を聞かせてくれた。
「エッグとずっと一緒だったんだね」
「ああ。人間のきょうだいは俺にいないけど……そうだな。エッグは兄弟だったよ」
黒沼が右手で、反対側の肩を揉む。兄弟を失った悲壮感は感じられない。そこにあるのは温かくて優しい思い出だけだ。
「きっとエッグも、黒沼のことをお兄ちゃんのように思ってたんじゃないかな」
「そうかな。そうだといいけど」
「そうだよ。俺が保証する」
言った瞬間、黒沼がキョトンとした顔を俺に向けてきた。目が合ってから、俺は自分の偉そうな発言に慌てた。
「ご、ごめんっ。偉そうなこと言って」
「全然。花川ってなんでそんなに自信ないの? 俺は結構花川の言葉に救われてるんだけど」
あぐらをかいた膝の上に肘をつき、頬杖をついた黒沼が首を傾げた。
黒沼が俺の言葉に救われてる? そんな大それたことを黒沼に言った覚えが俺にはない。だって自分は、そんな人間じゃない。
「自信……なんでないのかは、俺にもよくわからないんだよね」
過去に何かあったかとか、これがきっかけで~とか。黒沼とエッグのように、具体的なエピソードがあるわけではない。あったのかもしれないけど、覚えていないのだ。
元々の気質とか、育った環境、関わってきた先生とか遊んできた友達とか……たぶんそれらが少しずつ積み重なって、俺は『こう』なったんだと思う。
乗り越えなくちゃいけない過去やつらい記憶なんてものはないし、ちょっと生きづらいなと感じる時はあっても大きな不便はない。だからこの性格をなんとなく受け入れてくれて、面白おかしくイジッてくる人たちと付き合ってきた。それが俺だ。
あれ、俺ってかなりつまらない人間なのでは……?
魅力を自ら隠さないと見つかってしまうタイプの黒沼と、一緒にいていいのかな。自分がひどく恥ずかしい存在に思えてくる。自分の部屋が、急に居心地の悪いものに感じてくる。
その時だった。
俺のスマホが、着信を告げるバイブ音で震え出した。
画面にはハヤトの名前。何か用だろうか。そういえば夏合宿の部屋決めは、俺がいないうちに決まったらしい。
出た方がいいよな……と思いつつ、出たら黒沼に失礼かなと渋る。出るか出まいか、だいぶオドオドしていたようだ。見かねた黒沼に「出れば?」と促される形で、俺はスマホを取って耳に当てた。
『あ、伊澄ぃ? 今って一人?』
「えっ……と、うん」
俺は焦って答えた。相手が黒沼だとは言わなくても、『友達といる』ぐらい言ってもよかったはず。なんで嘘をついたのか、俺は自分でもわからなかった。
『なんかさー、合宿所のルールがめっちゃ厳しくなって、酒の持ち込みがNGになったんだってよ。まじふざけんなって感じじゃね?』
「あ、うん。そうだね」
『でもさ、なんかガバガバのルールらしくてー。他のサークルの奴らがキャリーとか荷物の中に入れていけばイケるって言っててさー。おまえ、家にでっかいキャリーケースあるって前言ってなかった?』
「あー……あったかも」
『やりぃ。じゃあ合宿の前日におまえんちに酒大量に持って行くから、詰めて持ってきてよ』
「え?」
持ってきてよ、って一人で? さすがに無理だろ。そう思ったのも束の間、
『じゃ、よろー』
とハヤトは一人早々に話を終わらせる。ハヤトを引き止める言葉も思いつかないうちに、通話は切れた。
スマホを耳から離し、ちらっと黒沼を見る。案の定、黒沼の表情に笑顔はない。スピーカーはオフにしていたけれど、ハヤトの声はでかい。黒沼にも聞こえていただろうかと、俺は不安になった。
「一人……ねえ」
俺ここにいますけど? と言いたさげに呆れた目を向けられる。やっぱり聞こえていたようだ。
黒沼はハヤトたちが苦手だ。出るんじゃなかった。俺は今日何度目になるかわからない「ごめん」を口にした。
責められるかな。びくびくして縮こまっていた俺に、黒沼が予想外の質問をしてきたのはその時だ。
「花川はそいつらと――望月たちと一緒にいて、楽しい?」
初めて聞かれたことだ。自分で自分に問いかけたこともない。考えたことがなかった。俺は「楽しい」と言い、ちょっとしてから、
「………………時もある」
と付け足した。
「ずいぶん長いタメでしたけど」
ごもっともである。俺は返す言葉が見つからず、スマホを持ったままうつむいた。
