そして今日。黒沼が我が家に来る。
「なんか高校生みたいだねー。家でレポートやるって。青春だわー」
琴音が洗面台の横に掛けてあるヘアバンドに手を伸ばす。あくまでもここで顔を洗いたいらしい。
ちょうど眉毛の処理が終わったので、俺はティッシュで洗面台を拭いてから「いいだろべつに」と言い返した。
レポートを見てもらう日程が決まったあと、場所の話はすぐに出た。カフェとか図書館とかいくつか候補は出たけれど、カフェは長時間居座れないとか図書館は話せないとか。ちょっとずつ不便な部分があった。
その点、家は時間と声のボリュームにも制限がない。
「俺の家でよければ来てよ」
と俺が言ったことで、場所が決まったわけだ。
もちろん黒沼の家に俺が行く案も出たが、黒沼が一人暮らしだと聞いて俺は怖気づいた。
黒沼の匂いに包まれながらレポートを見てもらう自信がなかった。黒沼との距離の近さや部屋にあるものが気になって集中できない。レポートどころじゃなくなると思った。
とはいえ、家に来てもらうというのもそれはそれで緊張する。朝ごはんに食べたコーンパンが今にも口から飛び出そうだ。
黒沼とは十二時に家の最寄り駅で待ち合わせしている。約束の時間まであと一時間。朝のうちに部屋は掃除したけど、埃やゴミがないか最後にチェックができるかな。
そんなこんなで部屋に戻ろうとした時、俺のスマホが鳴った。電話だ。電話口に出る前に確認すると、相手は黒沼だった。
「もしもし」
へい、なんてダサい呼びかけは二度としないと誓った俺は、「どうしたの?」と続けた。
『ごめん。時間ミスって、もう駅着いた』
申し訳なさそうな声で黒沼は言った。
「あ、そうなんだ。じゃあ今から迎えに行くよ」
俺は慌てて玄関に向かい、靴を履きながら靴棚の上にある自転車の鍵を取った。
『いや、いいよ。早く来たのこっちだし。悪いけど住所だけ送ってもらえる? マップ見ながら行く』
確かにここで俺が迎えに行ったら、黒沼に気を遣わせてしまうだろう。俺は「うん、わかった」と電話を切ったあと、黒沼に住所を送った。
家のインターホンが鳴ったのは、それから十五分後のこと。
黒沼が来る前に用を足しておこうと、俺がちょうどトイレに入っている時だった。慌ててズボンのチャックを締め、トイレから出る。
玄関に向かうと、ドアはすでに琴音によって開けられていた。
「いらっしゃーー」
俺はなぜか固まっている琴音の後ろから、ヒョイと顔を出した。玄関の前に立っている人物を見て、俺も口を開けたまま固まった。
そこにいたのは、いつも大学で見る地味な黒沼じゃない、バイト先のバーでかっこよくシェイカーを振るイケメンがいた。
「今日めっちゃ暑くね?」
黒沼は額の汗を拭きながら言った。
黒沼には悪いけど、その声は俺の耳に入ってこなかった。
バーテンダーとして働いている時より無造作にセットされた前髪。形のいい眉と綺麗な目。ビン底眼鏡に乗られていない真っ直ぐ鼻筋。
服もいつものチェック柄ではない。ネイビーのサマーニットに、アイボリーのワイドパンツといった爽やかファッション。首元にはなサングラスが引っ掛けられ、足元はダブルバックルのついたブラックのサンダルが涼しげだ。左腕には二重になった黒レザーのブレスレットが見える。まるでファッション誌から出てきたモデルみたいだった。
姉弟そろってガン見されていることに、少し経ってから黒沼も気づいたらしい。
「あのー、お邪魔して大丈夫そ?」
こめかみの下を人差し指で掻きながら、黒沼は苦笑いした。
「ご、ごめん! 入って入って」
黒沼のイケメンっぷりにやられて固まっている琴音を押しのけ、黒沼の動線を作る。向こうの世界から戻ってきた琴音が喋ったのは、黒沼がサンダルを脱いでスリッパに足を通した時だ。
「ねえねえ! 君って【OnyX】のバーテンだよね⁉ なんでウチなんかに来てんの⁉」
「ちょ、やめてよ。ハズイんだけど」
黒沼に迫る琴音を剥がそうと、俺は姉の腕を引っ張った。琴音は小学四年生の頃、男女混合の腕相撲大会で優勝した経験の持ち主だ。むしろ俺が引っ張られるような体勢になってしまう。
「ていうか、やっぱりあんたたち友達だったんじゃない。もう~早く言ってよ」
「……なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
琴音は以前、たまたま入ったバーで接客してくれた黒沼と会っている。イケメン顔は好きだけど、狙っているわけじゃないと言っていたはずだが……。
「だって伊澄って、イケメンの友達がいるようなタイプじゃないじゃん」
「それディスってるよね?」
「弟がイケメンと友達って、なんかこう『勝った!』って感じがするのよねー」
「なにと勝負してるんだ……」
独特な感性を爆発させている姉を、俺は呆れながら横目で見る。
「ごめん黒沼。この人ちょっとヘンだから気にしなくていいよ」
「いいじゃん。仲良くて」
俺と琴音はほぼ同時に「どこが⁉」と黒沼にツッコんだ。それを見た黒沼がフッと笑う。
「そーゆーとこ」
このままじゃずっと玄関で足止めを食らってしまう。そういえば琴音はまだヘアバンドをしたままだ。「姉ちゃんすっぴんだけどいいの?」と聞くと、「ヤバ!」と両手で顔を押さえながら琴音は洗面所に走って行った。
鬼の居ぬ間に、黒沼には階段を上がった先にある俺の部屋で待っていてもらうよう伝えた。
麦茶を淹れたグラスを二つ持って部屋に行くと、黒沼は部屋の端に立っていた。俺が高校生の頃からほとんど変わっていない本棚を見ていたらしい。俺が部屋のドアを開けたら、中腰の姿勢から膝を伸ばした。
「なんか緊張するなー」
ローテーブルに麦茶を置き、俺は目の前の現実にしみじみする。
「何が?」
「だってさ、俺の部屋にこんなイケメン来たことないもん。なんか自分の部屋じゃないみたい」
黒沼はローテーブルの前に腰を下ろし、あぐらをかく。何か考えるように目を伏せると、改めて俺に顔を上げた。
「俺、イケメンイケメンって言われるの、そんなに好きじゃないんだけど――」
「え」
衝撃の告白に、俺は戸惑った。今まで何回黒沼にかっこいいって、イケメンって言ってきたっけ。
心の中で呟いた分も含めたらとてもじゃないが数え切れない。素直に「すみませんでした!」と平謝りすることにした。
「バー以外でかっこよ――ああ、えっと……おしゃれ?な黒沼は初めてだったから、つい言っちゃってた。でもそうだよな。言われまくるとうんざりするよな。うん、姉ちゃんにも注意しとく」
許してくれるだろうか。恐る恐る顔を上げると、黒沼はハッと笑って「違う違う」と否定した。
「いつもならイケメンって言われても、『だから何?』としか思わないんだけど……でも今日は、花川にイケメンって言われたかったし、かっこいいと思われたかった」
黒沼の声が耳に入り、内容を処理するまでに時間がかかった。それぐらい、今までの俺には縁のない言葉だったのだ。
意味が全部理解できた瞬間、顔がありえないぐらい熱くなっていく。
麦茶を運んできたお盆で、顔を隠すことしかできない。やっと出た言葉は、
「ず、ずるいって……」
だった。
「ずるい?」
黒沼が綺麗な顔を横に傾げる。どの角度から見てもやっぱりイケメンだ。イケメンってきっと、ブサイクに見える角度が極端に少ない人のことを言うのかもしれない。
「だって、そんなこと言われたらみんな黒沼のこと好きになっちゃうよ」
「みんなって誰? 俺、花川にしか言ってないけど」
まさかこんなことがありえるのか?
俺は目の前の現実に、めまいがしそうになった。俺のほぼゼロに等しい経験値でさえ、この流れは勘違いしてしまいそうになる。
もしかしたら、黒沼も俺のことが好きなんじゃないかって……。
でも俺は根っからの臆病者だ。「黒沼って俺のこと好きでしょ?」なんて、たとえ冗談でも言えない。口が裂けてもだ。
さっき琴音の友達発言を間近で聞いていたはずだが、黒沼は否定しなかった。おそらく俺のことを友達だと認めてはくれているのかもしれない。
とはいえ、さすがに黒沼が俺のことを恋愛対象として見ているはずがない。俺は顔がいいわけでも、話がおもしろいわけでもない。人から好かれるようなタイプじゃないから。
もしかしてこれは、黒沼なりのコミュニケーションだったりするのだろうか。子どもの頃から、俺は友達からいじられることが多かった。今でもハヤトたちと会っている時はほぼいじられキャラに徹している。
黒沼に好かれていると勘違いして、自滅したくない。黒沼にキモいヤツだと思われたくない。
「はは……」と乾いた笑いで誤魔化すスキルしか、俺にはない。情けないけれど、早く話題を変えたかった。
「今のサイコーすぎ。さすがに俺もドキッとしたわ。あ、早速だけどレポート見てもらっていい?」
わざとらしくレポートの話にもっていくと、黒沼が小さく肩を落としたように見えた。
本日の最重要目的を出されては仕方ない。そんな感じで、「あーそうだな」と黒革のトートバッグから、レポートの束とタブレット端末を出した。
「あと忘れないうちにこれも」
追加で丁寧に折りたたまれたハンカチを渡される。黒沼が額を切った時に止血した水色のタオルハンカチだが、血の跡はどこにもなかった。丁寧に洗ってくれたのだろう。ハンカチを折りたたんでいる姿を想像したら、ほっこりした。
「サンキュー。わっ、めっちゃいい匂いする」
香水だろうか。タオルから大人っぽい匂いがする。
「俺、もうこれ一生洗濯しない」
くんくんと鼻にハンカチを当てて嗅ぐ真似をすると、黒沼は「やめとけ? それはさすがにきたねーから」と吹き出して笑った。
うん。この距離感がやっぱり楽だ。
一度本気で【キモい】とか【汚い】って思われるぐらいなら、冗談というオブラートに包まれた【キモい】と【汚い】を百回浴びた方が断然いい。
俺は背中に矢が刺さる痛みに気づかない振りをして、ローテーブルに置いたノートPCを広げた。
「なんか高校生みたいだねー。家でレポートやるって。青春だわー」
琴音が洗面台の横に掛けてあるヘアバンドに手を伸ばす。あくまでもここで顔を洗いたいらしい。
ちょうど眉毛の処理が終わったので、俺はティッシュで洗面台を拭いてから「いいだろべつに」と言い返した。
レポートを見てもらう日程が決まったあと、場所の話はすぐに出た。カフェとか図書館とかいくつか候補は出たけれど、カフェは長時間居座れないとか図書館は話せないとか。ちょっとずつ不便な部分があった。
その点、家は時間と声のボリュームにも制限がない。
「俺の家でよければ来てよ」
と俺が言ったことで、場所が決まったわけだ。
もちろん黒沼の家に俺が行く案も出たが、黒沼が一人暮らしだと聞いて俺は怖気づいた。
黒沼の匂いに包まれながらレポートを見てもらう自信がなかった。黒沼との距離の近さや部屋にあるものが気になって集中できない。レポートどころじゃなくなると思った。
とはいえ、家に来てもらうというのもそれはそれで緊張する。朝ごはんに食べたコーンパンが今にも口から飛び出そうだ。
黒沼とは十二時に家の最寄り駅で待ち合わせしている。約束の時間まであと一時間。朝のうちに部屋は掃除したけど、埃やゴミがないか最後にチェックができるかな。
そんなこんなで部屋に戻ろうとした時、俺のスマホが鳴った。電話だ。電話口に出る前に確認すると、相手は黒沼だった。
「もしもし」
へい、なんてダサい呼びかけは二度としないと誓った俺は、「どうしたの?」と続けた。
『ごめん。時間ミスって、もう駅着いた』
申し訳なさそうな声で黒沼は言った。
「あ、そうなんだ。じゃあ今から迎えに行くよ」
俺は慌てて玄関に向かい、靴を履きながら靴棚の上にある自転車の鍵を取った。
『いや、いいよ。早く来たのこっちだし。悪いけど住所だけ送ってもらえる? マップ見ながら行く』
確かにここで俺が迎えに行ったら、黒沼に気を遣わせてしまうだろう。俺は「うん、わかった」と電話を切ったあと、黒沼に住所を送った。
家のインターホンが鳴ったのは、それから十五分後のこと。
黒沼が来る前に用を足しておこうと、俺がちょうどトイレに入っている時だった。慌ててズボンのチャックを締め、トイレから出る。
玄関に向かうと、ドアはすでに琴音によって開けられていた。
「いらっしゃーー」
俺はなぜか固まっている琴音の後ろから、ヒョイと顔を出した。玄関の前に立っている人物を見て、俺も口を開けたまま固まった。
そこにいたのは、いつも大学で見る地味な黒沼じゃない、バイト先のバーでかっこよくシェイカーを振るイケメンがいた。
「今日めっちゃ暑くね?」
黒沼は額の汗を拭きながら言った。
黒沼には悪いけど、その声は俺の耳に入ってこなかった。
バーテンダーとして働いている時より無造作にセットされた前髪。形のいい眉と綺麗な目。ビン底眼鏡に乗られていない真っ直ぐ鼻筋。
服もいつものチェック柄ではない。ネイビーのサマーニットに、アイボリーのワイドパンツといった爽やかファッション。首元にはなサングラスが引っ掛けられ、足元はダブルバックルのついたブラックのサンダルが涼しげだ。左腕には二重になった黒レザーのブレスレットが見える。まるでファッション誌から出てきたモデルみたいだった。
姉弟そろってガン見されていることに、少し経ってから黒沼も気づいたらしい。
「あのー、お邪魔して大丈夫そ?」
こめかみの下を人差し指で掻きながら、黒沼は苦笑いした。
「ご、ごめん! 入って入って」
黒沼のイケメンっぷりにやられて固まっている琴音を押しのけ、黒沼の動線を作る。向こうの世界から戻ってきた琴音が喋ったのは、黒沼がサンダルを脱いでスリッパに足を通した時だ。
「ねえねえ! 君って【OnyX】のバーテンだよね⁉ なんでウチなんかに来てんの⁉」
「ちょ、やめてよ。ハズイんだけど」
黒沼に迫る琴音を剥がそうと、俺は姉の腕を引っ張った。琴音は小学四年生の頃、男女混合の腕相撲大会で優勝した経験の持ち主だ。むしろ俺が引っ張られるような体勢になってしまう。
「ていうか、やっぱりあんたたち友達だったんじゃない。もう~早く言ってよ」
「……なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
琴音は以前、たまたま入ったバーで接客してくれた黒沼と会っている。イケメン顔は好きだけど、狙っているわけじゃないと言っていたはずだが……。
「だって伊澄って、イケメンの友達がいるようなタイプじゃないじゃん」
「それディスってるよね?」
「弟がイケメンと友達って、なんかこう『勝った!』って感じがするのよねー」
「なにと勝負してるんだ……」
独特な感性を爆発させている姉を、俺は呆れながら横目で見る。
「ごめん黒沼。この人ちょっとヘンだから気にしなくていいよ」
「いいじゃん。仲良くて」
俺と琴音はほぼ同時に「どこが⁉」と黒沼にツッコんだ。それを見た黒沼がフッと笑う。
「そーゆーとこ」
このままじゃずっと玄関で足止めを食らってしまう。そういえば琴音はまだヘアバンドをしたままだ。「姉ちゃんすっぴんだけどいいの?」と聞くと、「ヤバ!」と両手で顔を押さえながら琴音は洗面所に走って行った。
鬼の居ぬ間に、黒沼には階段を上がった先にある俺の部屋で待っていてもらうよう伝えた。
麦茶を淹れたグラスを二つ持って部屋に行くと、黒沼は部屋の端に立っていた。俺が高校生の頃からほとんど変わっていない本棚を見ていたらしい。俺が部屋のドアを開けたら、中腰の姿勢から膝を伸ばした。
「なんか緊張するなー」
ローテーブルに麦茶を置き、俺は目の前の現実にしみじみする。
「何が?」
「だってさ、俺の部屋にこんなイケメン来たことないもん。なんか自分の部屋じゃないみたい」
黒沼はローテーブルの前に腰を下ろし、あぐらをかく。何か考えるように目を伏せると、改めて俺に顔を上げた。
「俺、イケメンイケメンって言われるの、そんなに好きじゃないんだけど――」
「え」
衝撃の告白に、俺は戸惑った。今まで何回黒沼にかっこいいって、イケメンって言ってきたっけ。
心の中で呟いた分も含めたらとてもじゃないが数え切れない。素直に「すみませんでした!」と平謝りすることにした。
「バー以外でかっこよ――ああ、えっと……おしゃれ?な黒沼は初めてだったから、つい言っちゃってた。でもそうだよな。言われまくるとうんざりするよな。うん、姉ちゃんにも注意しとく」
許してくれるだろうか。恐る恐る顔を上げると、黒沼はハッと笑って「違う違う」と否定した。
「いつもならイケメンって言われても、『だから何?』としか思わないんだけど……でも今日は、花川にイケメンって言われたかったし、かっこいいと思われたかった」
黒沼の声が耳に入り、内容を処理するまでに時間がかかった。それぐらい、今までの俺には縁のない言葉だったのだ。
意味が全部理解できた瞬間、顔がありえないぐらい熱くなっていく。
麦茶を運んできたお盆で、顔を隠すことしかできない。やっと出た言葉は、
「ず、ずるいって……」
だった。
「ずるい?」
黒沼が綺麗な顔を横に傾げる。どの角度から見てもやっぱりイケメンだ。イケメンってきっと、ブサイクに見える角度が極端に少ない人のことを言うのかもしれない。
「だって、そんなこと言われたらみんな黒沼のこと好きになっちゃうよ」
「みんなって誰? 俺、花川にしか言ってないけど」
まさかこんなことがありえるのか?
俺は目の前の現実に、めまいがしそうになった。俺のほぼゼロに等しい経験値でさえ、この流れは勘違いしてしまいそうになる。
もしかしたら、黒沼も俺のことが好きなんじゃないかって……。
でも俺は根っからの臆病者だ。「黒沼って俺のこと好きでしょ?」なんて、たとえ冗談でも言えない。口が裂けてもだ。
さっき琴音の友達発言を間近で聞いていたはずだが、黒沼は否定しなかった。おそらく俺のことを友達だと認めてはくれているのかもしれない。
とはいえ、さすがに黒沼が俺のことを恋愛対象として見ているはずがない。俺は顔がいいわけでも、話がおもしろいわけでもない。人から好かれるようなタイプじゃないから。
もしかしてこれは、黒沼なりのコミュニケーションだったりするのだろうか。子どもの頃から、俺は友達からいじられることが多かった。今でもハヤトたちと会っている時はほぼいじられキャラに徹している。
黒沼に好かれていると勘違いして、自滅したくない。黒沼にキモいヤツだと思われたくない。
「はは……」と乾いた笑いで誤魔化すスキルしか、俺にはない。情けないけれど、早く話題を変えたかった。
「今のサイコーすぎ。さすがに俺もドキッとしたわ。あ、早速だけどレポート見てもらっていい?」
わざとらしくレポートの話にもっていくと、黒沼が小さく肩を落としたように見えた。
本日の最重要目的を出されては仕方ない。そんな感じで、「あーそうだな」と黒革のトートバッグから、レポートの束とタブレット端末を出した。
「あと忘れないうちにこれも」
追加で丁寧に折りたたまれたハンカチを渡される。黒沼が額を切った時に止血した水色のタオルハンカチだが、血の跡はどこにもなかった。丁寧に洗ってくれたのだろう。ハンカチを折りたたんでいる姿を想像したら、ほっこりした。
「サンキュー。わっ、めっちゃいい匂いする」
香水だろうか。タオルから大人っぽい匂いがする。
「俺、もうこれ一生洗濯しない」
くんくんと鼻にハンカチを当てて嗅ぐ真似をすると、黒沼は「やめとけ? それはさすがにきたねーから」と吹き出して笑った。
うん。この距離感がやっぱり楽だ。
一度本気で【キモい】とか【汚い】って思われるぐらいなら、冗談というオブラートに包まれた【キモい】と【汚い】を百回浴びた方が断然いい。
俺は背中に矢が刺さる痛みに気づかない振りをして、ローテーブルに置いたノートPCを広げた。
