六月になり、梅雨の時季がきた。
 今週はずっと雨が降っていたのに、その日の土曜日だけは初夏のように晴れていた。カラッとした太陽の光が、東向きの風呂場の窓から射し込んでいる。

 俺は洗面所の鏡で、眉毛をせっせと整えていた。昨日ドンキで買った眉毛バサミは、不器用な俺の手でも眉毛をまあまあ切ることができている。

「ねえ。ちょっといつまでやってんの? 顔洗いたいんだけど」
 ズカズカと洗面所に入ってきた琴音が、容赦なく急き立ててくる。いつもならここで引く俺だが、今日は引くわけにはいかない。
「ごめん。あともうちょっと」
「急に眉毛なんか整えちゃって。今日来るのって男友達でしょ? そこまで身なり整えなくちゃいけないもんなの?」
「いけないもんなのです」
 俺は眉毛バサミからピンセットに持ち替えながら答えた。

 事の始まりは、先週の金曜日。
 怒涛の一日が終わったあと、俺がファミレスでのバイトを終えて帰宅したのは、日付を越えてからだった。一週間の疲れが溜まりきっていた俺は、帰ってきた服のまま顔面からベッドにダイブした。

 スマホに電話がかかってきたのは、ウトウトしかけていた時。俺に電話をかけてくるのは家族かハヤトぐらいだ。俺は相手も確認せず、いつものように電話に出た。

「へい」
 その瞬間「ブッ」と笑う声が耳に届いた。
『なにそれ。いつもそんな風に電話出てんの?』
 間違えるはずがない。低くて、でも重たくない。穏やかに笑うその声は黒沼だった。

「え、うそ、黒沼っ?」
『そうだけど。もしかしてスマホ見ないで出た感じ?』
「ごめん。今寝落ちしそうになってて」
『そっか。もうそんな時間か。起こして悪かったな』
 俺はベッドの上で正座になり、「ううん」と首を横に振った。黒沼には見えないとわかっていたけれど、体が無意識に動いていた。

『じゃ、要件だけ。急だけど明日空いてない?』
「明日? ごめん、明日はバイトだ」
『じゃあ来週の土曜日は?』
「来週なら空いてるよ。どうしたの?」
『ハンカチ返したくてさ。今週は大学で会うタイミングなかったし、お互い休みの日なら返せるかなって』
 俺はキョトンとした。自分でさえ忘れていたことだ。律儀に覚えていて、返そうとしてくれていた。その気持ちだけで嬉しかった。
 俺はクスッと笑って、「本当に気にしなくてよかったのに~」と言った。

「あ、それか俺が黒沼のバイト先まで取りに行こうか?」
 黒沼のバイト先には、俺が勝手に帰ってしまったあの日以来行っていない。
 黒沼の方から試飲の誘いが出てこないのはもちろんのこと、自分で蒔いた種だけに、こちらから話題を持ち出す機会も見失っている。
 自分が女性客に嫉妬してしまうんじゃないかという怖さは今でもある。それよりも、好きなことをして輝いている黒沼を近くで見られないことの方が寂しい。
 久しぶりにバーに行けるかもしれない期待感に胸を膨らませていると、黒沼は電話口で『いや』と俺の提案をやんわり断った。

『桑島先生の授業、去年俺も取ってたって言っただろ。俺が書いたレポート、家探したら出てきてさ。ハンカチ返すついでに花川のレポートも見ようかと思って』
「まじ⁉」
 俺はベッドの上で立ち上がった。桑島先生のレポートは難しすぎるのと、提出期限が六月末ということもあって先延ばしにしていた。
 でもずっと頭の片隅にはあって、いつかアンインストールしようと思いながらも、面倒くさがってそのままにしてある使っていないアプリみたいに気になっていた。
 神がかった提案をしてくれた黒沼は救世主だ。俺はスマホを耳に当てながら、
「それはめちゃくちゃありがたすぎます……」
 とベッドの上で頭を下げたのだった。