PC自習室は黙々とパソコンに向かって作業する学生であふれていた。レポートに勤しんだり、ゼミの資料をまとめたり。中にはオンラインソフトで英語の勉強をしている学生もいる。
 俺もそんな中、黙々とレポート課題に取り組む学生のうちの一人だった。

 二限が急きょ休講になってくれたおかげで、来週提出のレポートを少しでも進めることができた。キリのいいところまで終わり、俺は満足げに背伸びをした。
 今日の昼ごはんは三限の教室で一人済ませる予定だ。キャンパス内の生協でおにぎりでも買おう。

 パソコンの電源を切り、俺は耳にはめていたワイヤレスイヤホンを外した。椅子を立ったと同時に、隣の席に座っている相手を見て驚いた。
 俺の隣に地味系男子の黒沼が座っていたのだ。
「黒沼⁉」
 咄嗟に大きな声が出てしまい、自習室にいる学生たちの視線が一斉に刺さる。
「す、すいません」
 ペコペコ頭を下げる。多数の視線が離れてから、俺は黒沼に顔を寄せた。

「いたなら声かけてよ。びっくりしたじゃん」
 小声で言うと、ビン底眼鏡の奥にある目がゆっくりと俺の方を見た。
「ウザくない? 集中してるところに声かけられたら」
「べつに大丈夫だよ。ラインでもいいし」
「ああ、忘れてた」
 黒沼はパソコンの電源を閉じながら気だるげに言った。

 困ったな。まさかここで黒沼と会えるなんて思っていなかった。けど、俺と同じタイミングでパソコンの電源を切ったということは、きっと俺に用があるってことだよな。
 何もなければ嬉しく感じるところだけど、今の俺にその余裕はない。黒沼がどうして俺を待っていたのか……。俺には思い当たることがあるからだ。
「とりあえず出る?」
「うん……」
 黒沼と一緒にPC自習室を出る。前を歩く黒沼の後ろ姿にトボトボとついて行く。黒沼が口を開いたのは、エレベーターを待っている時だ。

「ちなみにストーカーじゃないからな」
「え?」
「自習室で会ったこと」
「あ、ああ」
「俺も休講になったから、たまたま自習室に行った。そしたら花川がいたってわけ」
 誰も黒沼が俺相手にストーカー行為をするなんて思っていない。
「大丈夫だよ。黒沼が俺なんかにそんなことするはずないもん」
「まあ、花川の隣に座ったのはわざとだけどな」
 黒沼の言葉にドキリとする。なんて返すのが正解なんだろうか。俺はとりあえず、
「そ、そっか~……」
 はは、と笑った。思ったより乾いた声が出てしまった。
 エレベーターがなかなか来ない。待っている人も、俺たちしかいなかった。この前みたいにまた微妙な空気が流れている感じがする。生きた心地がしない。俺は自分から先日のことを持ち出すことにした。

「こないだは黒沼に声かけずに帰っちゃってごめん!」
 エレベーターホールの真ん中で、俺は黒沼に深々と頭を下げた。
 黒沼のバイト先のバーに飲みに行ったあの日。俺は結局一杯だけ飲んで帰った。
 帰り際には新人君が「ショウさん呼んできますよ」と気を遣ってくれたが、それも断って店を出た。まるで逃げるように。

 勝手に帰ったことを謝りたかった。俺は何度もラインを送ろうとして、文面を考えては消し、考えては消しを繰り返した。
 でも自分が考える言葉はどれも言い訳がましくて、余計黒沼を苛立たせるような気がして送れなかった。結局『今日はありがとう!』という一文のあとにスタンプを送るだけになったしまった。

 エレベーターホールで俺が謝ったあと、黒沼は少し沈黙を置いてからぽつりと尋ねてくる。
「口に合わなかった?」
「えっ?」
 俺は下げていた頭をヒョイと上げて黒沼を見た。
「うまいって言ってくれただろ。勝手に安心してたけど、本当はまずかったのかなと」
「それって、作ってくれたモスコミュールのこと?」 
「そう。あの時の俺、力が入っててさ。手元ミスって、ミントちょい多めにしてたし」
「そんなことないよ! さ、最近暑いじゃん? ミントが効いててめちゃくちゃ美味しかった!」
 俺は全力で否定し、首を横に振った。
「よかった」
 そう言って、黒沼は口元を綻ばせた。勝手に帰ったことを怒っているわけじゃなかった。むしろ自分がミスしたんじゃないかと不安に思っていたらしい。

 謝ることばかり気にしていたことが申し訳なくなる。あのまま店にいたら、俺はきっと嫉妬すると思った。黒沼と話しているお客さん全員に嫉妬して、せっかくの美味しいお酒の味もわからなくなるんじゃないかと。
 でもそれは俺の問題だ。黒沼には関係のない話だった。俺は自分のことしか考えていなかったのだ。
「俺の方こそ不安にさせてごめんね。黒沼の作ってくれたお酒は文句なしに美味しいです」
 そう言いながらウンウン頷くと、黒沼は目を伏せて「大げさ」と口元を隠した。耳がなんとなく赤い。
 これはあれだ。照れている時の顔だ。地味バージョンでも見ることができて、俺の胸はキュンと弾んだ。

 ずっと見ていると、こっちの顔まで赤くなりそうだ。俺は笑顔を作りながら、話を逸らすことにした。
「黒沼でもミスすることもあるんだねー。まあ、あの時忙しそうだったから仕方ないか」
「緊張してたからな」
「そうなの? 全然見えなかったよ」
 あの日は黒沼がピリピリと緊張するぐらい忙しかったらしい。そんな日に俺は突撃来店してしまったということか。申し訳なかったな、と肩を落とした次の瞬間。黒沼は衝撃的な発言を口にした。
「花川がいたから」
 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。

 え、え、え……?

 次の言葉を言おうとするけれど、まごついて口がうまく回らない。そもそも頭も回らない。
 ちょうどエレベーターが俺たちのいる五階に到着する。「あ、きた」という黒沼の声で、俺はちょっとだけ我に返った。
 エレベーターが開く。足を一歩前に出す黒沼に、とりあえず俺も続こうとしたその時だった。
 ゴンッ! 
 硬い物同士がぶつかる鈍い音がエレベーターホールに響いた。同時に俺の前にいた黒沼が、額を押さえながらその場でしゃがみ込んだ。

「きゃー! ごめんなさい!」
 エレベーターの中から出てきたのは二人組の女子学生だ。キャスター付きの大きなホワイトボードを二人で移動させているのか、両手でホワイトボードの両端を支えている。
「黒沼大丈夫かっ?」
 どうやらホワイトボードと正面衝突したらしい。黒沼の足元にはブリッジ部分が変形したビン底眼鏡が落ちていた。
「どこ打った? 頭っ?」
 俺もしゃがみ、黒沼の様子を窺う。
「……――ってぇ」
 痛そうに額を押さえているが、幸いにも喋ることはできそうだ。
「本当にごめんなさいっ。今冷やすものを持ってきます!」
 一人の女子学生が言うと、もう一人の女子学生が慌てた顔で「でももう時間ないよ」と言った。
 女子学生たちはこのあとホワイトボードを使う用事が迫っているらしい。俺はその言葉にカチンときた。人に物をぶつけておきながら、なんてことを言うんだと。

「時間がないって、ぶつかってきたのはそっちじゃ――」
「花川、いいから」
 怒りに任せそうになった俺を止めたのは、被害に遭った張本人。
「自分は大丈夫なんで、行っちゃってください」
「で、でも……」
 女子学生が不安げに眉尻を下げる。
「降りる人優先なのに、先に乗ろうとした自分も悪かったんで」
 黒沼はそう言うと、額を覆っていた手をどけた。眼鏡を外した黒沼の素顔があらわになる。前髪は下ろしたままだけど、黒沼の男前っぷりを示すには十分だった。

 黒沼の顔を見た瞬間、二人とも「え」とキョトン顔になる。つい今まで時間がないと焦っていた方の女子も、時が止まったかのように口をポカンと開けたまま黒沼の顔を凝視していた。
「く、黒沼! 眼鏡眼鏡」
 ブリッジが歪んだ眼鏡を拾って差し出すと、黒沼は忘れてたとばかりに「あ、やば」と返事し、眼鏡を掛けた。
「急がなくていいんですか?」
 黒沼が尋ねると、顔を赤くした二人は「そ、そうでしたっ」と動き出した。
「あ、あのっ。今度改めて謝罪をしたいので連絡先を――」
「ごめんなさい。自分らも急いでるんで」
「そ、そうですよね。引き留めてしまってすみません……」
 黒沼は慣れた調子で「いえいえ」と断ると、一足先にエレベーターへと乗り込んだ。俺が乗るのを待っているのか、開ボタンを押しながら「行くぞ」と言い、こちらに視線を送ってきた。

 黒沼のことばかり見ている女子学生二人の横を、俺は存在感を消しながら通ってエレベーターに乗る。
 エレベーターが閉まる直前まで、女子学生は黒沼のことをチラチラと見続けていた。ドアが閉まると、「キャーッ♡」と黄色い声がドアを隔てた向こうから聞こえてくる。

 眼鏡を外しただけでこれか……。女子の相手がイケメンだと知った瞬間の態度の変わりようにはさすがに引いた。
 同じ男としてちょっと羨ましい気持ちもあるけれど、それ以上に同情した。確かにこれではまともに外も歩けないし、最悪人間不信にもなりそうだ。下心が嫌いと言い切った黒沼の気持ちがちょっとわかる。黒沼がダサいビン底眼鏡と重たい前髪で素顔を隠している理由を、俺は本当の意味で理解した。

 黒沼にとっては珍しいことではないのだろう。素知らぬ顔で、ぶつけた額を触っていた。
「眼鏡取るとあんな感じなんだ……」
「まあ、高校の時はあれが普通だったから、今さらなんとも。むしろ悪かったな。面倒なことに巻き込んで」
「ううん、俺は全然――って黒沼! おでこ! 血が出てる!」
「うん?」
 額から離した黒沼の手。そこには血が付いていた。
「あー、やっぱり切れてたか。なんかジンジンすると思った」
「なんでそんなに冷静なんだよ! ちょっと降りるよ!」
 目的の一階ではなかったが、途中止まった階で俺は黒沼の手を引いて降りた。その階にはちょうどエレベーターホールの中央にベンチがあった。

「そこで待ってて。いいね⁉」
 黒沼をベンチに座らせ、俺は近くの男子トイレへと駆け込んだ。手洗い場で水色のタオルハンカチを濡らし、軽く絞る。急いで黒沼の所に戻る。
「お待たせ。ちょっと顔上げて」
「こう?」
「そうそう。あ、もうちょい下げても大丈夫」
「……こう?」
「うん、いい感じ」
 顔を斜めに上げた黒沼の前髪を掻き上げ、俺は血が出ている黒沼の額に濡れたハンカチをそっと押し当てた。

 ぶつけたところが腫れたら大変だけど、傷が残ったらもっと大変だ。俺はその一心で黒沼の額に乗せたハンカチを上から押さえた。
 血せめてもの救いは傷が小さいことだ。血は出ているものの、押さえ続けていたら止まりそうなほどの小さな傷だった。
「なんでそんなに必死なの」
 黒沼の声で、俺は少し冷静になった。
「必死になっちゃいけないのかよ」
「そんなこと言ってねえよ」
 黒沼は軽く笑った。俺が必死になる理由。そんなもの、一つしかない。

「黒沼いつもバイト中に前髪上げてるじゃん。おでこに傷が残ったら、よろしくないんじゃないの?」
「べつに。またタトゥーで隠せばいいだけだし」
 投げやりっぽく聞こえ、俺はモヤッとした。
「そのお金があるなら、将来の開店資金とかに充てた方がよくない⁉」
 俺の言葉に、黒沼の目がわずかに開いた。
「そりゃ黒沼のタトゥーはかっこいいし、傷やタトゥーがあったって黒沼の接客に文句を言う人はいないと思うけど……」
 そこまで言っておきながら、俺はまずかったかなと後悔した。黒沼の夢や考え方に対して、出しゃばりすぎたかもしれない。
 けれど黒沼は俺の心配をよそに「ふっ」と笑った。

「なんで笑ってんの」
「まさかそっち系で怒られるとは思わなかったから」
「そっち系?」俺は首を傾げる。
「タトゥーといったら、体を大事にしろとか温泉入れなくなるとか言われがちだろ。金がもったいないって言われたのは初だわ」
「いやいやいや! たしかにお金がもったいないとは言ったけど、まずは体を大事にしな? だってほら、タトゥーって痛いっていうじゃん。わざわざ痛い思いしなくてもよくない?」
「ハイハイ、ソーデスネ」
「ちゃんと聞いてんの⁉」
 子どもみたいに返事をする黒沼に、俺は内心苛立ちながら言った。そうだ。黒沼は意外と子どもっぽいところがあるのだ。まさかこっちが真剣に怒っている時にまで少年の部分が顔を出すなんて。まったくもう……にくたらしいやつめ。

 俺が一人でぷりぷり怒っていると、黒沼が「なあ花川」と呼び掛けてくる。
 その声で俺はハッと我に返った。額のハンカチを押し当てる手に、力が入っていることに気づく。
「あっ、ごめん。痛かったよな」
「このまま抱きしめていい?」
 まるで「消しゴム借りていい?」ぐらいのテンションで、黒沼は俺の目を見ながら言った。
「は⁉」
 いいも悪いも答えていないうちに、黒沼の腕が俺の腰に回される。ぐいっと引き寄せられ、黒沼は俺の腹に頭を押し付けてきた。

 緊張でドキドキと心臓が高鳴る。俺は両手を上げた降参ポーズで、黒沼の温もりに耐えるほかなかった。
「なっ、なになになに。俺臭くないっ? めっちゃ汗臭くてジャガイモみたいなにおいするよ⁉」
 緊張を通り越してもはやパニックになる、早口でまくし立てると、黒沼は俺の腰に腕を回したまま「慌てすぎ。つかジャガイモってなに」と笑った。

「や、ほら、あるじゃん。なんか汗かくと、脇の下から茹でたジャガイモのにおいがする時とか……」
「ねーよ」
 くだらない話をしている間に、黒沼はそっと俺の体から離れた。目が合い、三白眼の目に挙動不審の自分が映る。
 俺の心臓の音、黒沼に聞こえてないよな……? なんで急に「抱きしめていい?」なんて聞いてきたんだろう。いいよって言っていないのに、くっついてきたんだろう。

 黒沼は俺の……好きな人だ。触れられて嫌な気持ちになるはずがない。でも俺は人と付き合った経験もないし、単純だから下心が出てしまう。黒沼に触れられると、ドキドキして期待してしまう。
 口を閉じると黒沼への『好き』が溢れ出しそうで切なくなった。俺が今するべきこと――。それは下心がないことと、気にしていないこと。その二つをアピールすることだと思った。
 俺は必死に笑顔を取り繕う。
「ビ、ビビったー。もっとガッツリ抱きしめられるのかと思った」
「ガッツリ抱きしめてよかったのか?」
 笑いながら軽い調子で言った俺に、黒沼は顔色ひとつ変えずに尋ねてくる。どうしてそんなことを聞くんだろう。せっかく下心を見せないように頑張っているのに。俺の虚栄心は、黒沼の前で簡単に崩されてしまう。

 もしかして黒沼は俺の気持ちに気づいているのだろうか。気づいていて、ちょっかいを出してきているとか? 
 俺は頭に浮かんだどの疑問もぶつけることができず、うつむき加減に「い、いや……」と口ごもった。
「安心していいよ。さすがにそこまではしないから」
 ホッとしたのも束の間、黒沼は意地悪な笑みを浮かべて言った。
「今はな」
 黒沼の言葉が聞こえてきた瞬間、耳の奥で何かが弾けた。
 今は……って言ったよな? どういうこと? 
 俺は今、どんな顔をしているんだろう。どんな顔で、どんな声で、何を黒沼に言えばいいんだろうか。
 パニック状態の俺を一変させたのは、黒沼の「血止まった」の声だった。

「あ……、ほんとだ」
 黒沼が額から取った水色のハンカチには、小さな血が茶色っぽく滲んでいた。
「これ、洗って返すわ」
「いいよいいよ。どうせ安物だし」
 断ったけれど、黒沼は「俺が気になるから」と言い、洗って返すことを約束した。
 エレベーターに乗り、ようやく一階に降りた時にはすっかり昼休み真っただ中だった。今から生協に行っても、おにぎりコーナーは完売しているかもしれない。
 黒沼はこれから眼鏡を修理しに行くらしく、俺たちは生協の前で別れることになった。別れ際、黒沼はブリッジが歪んだビン底眼鏡の位置を直しながらこちらを見た。

「三限も頑張れよ。じゃあな」
 眼鏡と前髪の隙間から、黒沼の綺麗な目が覗いている。
 かっこよくて、眩しくて。まるで二人だけの世界にぽんと放り出されたみたいな感覚になる。誰の声も聞こえない。誰の姿も見えない。
 キャンパスを出て行く黒沼の背中を、俺はその姿が見えなくなるまで目で追い続けた。