――と、家に帰るつもりで大学を出たのが四時間前のこと。

 時刻は夜の九時半。俺は黒沼のバイト先である【Bar OnyX(オニキス)】の前にいた。
 バーがあるのは駅前の繫華街。あちこちで客引きの声と、居酒屋を探すサラリーマンの声が飛び交う。喧騒でガヤガヤした通りにも春の風は流れてきているようで、俺の前髪を煽るように揺らした。
 せっかくここまで来たのだ。早く入ればいいのに、俺はかれこれ十五分ほど店の前で右往左往している。

 四時間前、たしかに俺は家に帰ろうと駅に向かったのだが、なんとなく帰る気が起きなくて結局チェーンのカフェに入った。
 来週までに提出しなくちゃいけない小レポートをやろう。それを言い訳にしつつカフェラテ三杯を乗車券に、三時間半居座ってしまったのがはじまりだ。
 カフェを出る頃には九時を回っていた。九時といえば、ちょうど黒沼のバイト先のオープン時間。
 開店前にビールサーバーが壊れたと黒沼は言っていた。無事にオープンできたか確認するだけ。ちょっとだけ店の前を見に行くだけだから……。
 カフェを出た俺は、コソコソしながら店の前に向かったというわけである。

 そして店の前に着いてから、もうすぐニ十分が経とうとしている。
「あれ? フリーの人じゃないっすか!」
 突然後ろから話しかけられ、俺は「ヒッ」と虫が潰れたような声を出した。振り向くと、以前この近くで俺にキャバクラを勧めてきた客引きの男がいた。
「ど、どうも。その節は……」
 『その節は』の使い方が合っているのかわからないけど、向こうは俺のことを覚えているらしい。こっちも覚えてますよとアピールするつもりで、俺はペコッと頭を下げた。
「そこで何やってんすか?」
「えっと、確認的な……?」
「なんの確認っすか! そこでウロチョロしてると通報されますよ。ここらへん警察の見回りも多いんで」

 警察はやばい。でも確かに、今の俺は完全に黒沼のストーカーだ。
「店入るなら入っちゃった方がいいっすよ。なんなら店紹介しましょうか? あ、もちろん同業相手にはちゃんとした店紹介するんで」
 なんだか怖いことを言っている。人当たりはいいけれど、そういえば客引きって違法じゃなかったっけ。
 気づいてしまったら、あまり深く関わらない方がいい気がしてきた。俺は「大丈夫です~」と愛想笑いを振りまき、男から離れて『Bar OnyX』のドアを引いた。

 ドアを開けると、頭上のドアベルが鳴る。音につられて迎えてくれたのは、初めて見る男性バーテンダーだった。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「ひ、一人です。入れますか?」
 元々人気店らしく、カウンターはほぼお客さんで埋まっている。賑わっているカウンターの中央には店長さんが、その隣にかっこよくキメたバーテンダー姿の黒沼が立っていた。
 目の前のお客さんの接客と飲み物を作るのに忙しいのか、俺が来店したことには気づいていない様子だ。

「手前のカウンター席になりますが、よろしいですか?」
 丁寧な接客で聞かれ、俺は「もちろんです」と答えた。
 前回は店がやっている時間に来たものの、混んでいて入ることができなかった。手前でも奥でも、入れるだけマシだ。
「こちらへどうぞ」
 案内されたのは、出入口のドアに一番近いカウンターの席だった。黒沼はカウンターの奥側に立っているので、立ち位置的には俺の対称にいることになる。
 案内してくれたスタッフからおしぼりとメニュー表をもらい、何にしようかと考えていたその時だ。ふと視線を感じて見上げると、カウンターの真ん中にいた店長さんと目が合った。
 声は聞こえなかったけど、口が「いらっしゃい」の形に動く。俺はその場で小さく会釈し、口角を少し上げた。
 俺が見ているそばから、店長さんが奥にいる黒沼に声をかけている。あれ、もしかして俺が来ていることを黒沼に教えてるんじゃ……?
 ちょっと待ってくれ。黒沼には今日はリスケでって言われているし、そもそも客引きから逃げるために店に入ったのであって、黒沼に会うためじゃない。いや、そりゃ会えたら嬉しいなって思っていたのは事実だ。だけど黒沼には店に行くなんて一言も言っていない。

 しかも今日も店はめちゃくちゃ混んでいて忙しそうだ。絶対迷惑になる。
 黒沼には俺が来ていることを言わなくていいです。俺がそう必死に願ったのも虚しく、店長さんが俺の方に目配せした同じタイミングで、黒沼も俺を見た。
 しっかりと目が合い、逃げも隠れもできない状況になる。カウンターの中を横移動した黒沼が俺の前にやってきたのは、それからすぐのことだ。
「来てたのか」
 俺の前に立った黒沼は硬い表情だ。あまり歓迎されていないことは一目瞭然だった。
「うん。ごめん」
「なんで謝るの」
「今日リスケでって言われてたのに、勝手に来たからさ」
「それはオープン前の話だろ。オープン後にお客として来るなとは言ってない」
 確かにそうだ。でも俺が来たことで、黒沼は持ち場を離れることになった。俺の目の前まで来てくれたことがその証拠だ。

 さっきまで黒沼が立っていたカウンターの前には、一人の若い女性客が座っている。黒沼がこっちに移動してきてから、俺はなんだかその人からチラチラと視線を感じていた。もしかしたら、黒沼に頼んだ飲み物があるのかもしれない。
「今忙しいでしょ? 戻ったら?」
 女性客の視線に刺されながら、俺は気にしていない感を出しつつ言った。
「まあ忙しいけど、今ちょうど手空いたところだから何か作るよ」
 ん? ということは、あの女性客は別に注文した飲み物がまだ来ていないというわけではないのか。じゃあ黒沼のことを目で追っている理由って、もしかしてただ単純に黒沼のことが気になる、とか?

「何飲むか決めた?」
 黒沼の声で、目の前に引き戻される。何にしようかまったく考えていなかった。
「えーと、どうしようかな」
「また適当に作ろうか?」
「……いいですか?」
 控えめに上目遣いで窺う。黒沼は「なんで急に敬語」と笑った。今日初めて見る笑顔だ。大学では不機嫌だったし、店で会った時も表情が硬かった。ちょっとでも黒沼の笑顔を見ることができて、俺の緊張もわずかにほぐれる。

 黒沼が作ってくれたのは、モヒートというカクテルだった。ライムとミントに覆われたグラスから、爽やかな香りが漂う。ハヤトたちとよく行く居酒屋チェーンでも飲んだことがあるけれど、本格的なバーで飲むのはこれが初めてだ。
 飲むと、ライムとミントの香りとともに甘くて苦い味が舌をくすぐった。
「うっまぁ。やっぱり黒沼が作ってくれたお酒は美味しいな~」
「逆に花川は割となんでも飲んでくれるよな。好き嫌いとかないの?」
「あんまりないかなぁ。だからよく姉ちゃんからバカ舌って言われる」
「ああ。あの姉ちゃんなら言いそう」
 ハッとする。そういえば琴音もこの店に来たことがあるんだった。しかも黒沼と話したと言っていたけど、大丈夫だっただろうか。

「うちの姉ちゃん、こないだ来たんでしょ? 大丈夫だった?」
「大丈夫って何が」
「あの人いつも一言多いからさ。黒沼に失礼なこと言ってないかなって」
「たしかに失礼だったな」
 冗談ぽく言ったが、黒沼は半分本気の目をしていた。
「プライベートなことめちゃくちゃ聞いてくるし」
「うちの姉が申し訳ございません……」
「でも嫌いじゃないよ。ああいうハッキリした人にバシバシ言われるより、優しいふりして下心とか見せられる方が無理だから」
 ギクッとする。今俺、黒沼の地雷を見つけてしまったような気がする。

 黒沼の様子を見るに、琴音から不快な思いはさせられていないのだろう。でも黒沼は下心を見せられるのが苦手という、結構重要な事実が判明してしまった。
 やっぱり俺に可能性はないんだろうな。黒沼に対して下心があるし、今日だって大学で授業を受けている黒沼のことをエッチだなって思ってしまった。こんな下心ばっかの俺を知られてしまったら、今のようには話せなくなる……。

 密かに落ち込んでいると、黒沼がグラスを拭きながら尋ねてきた。
「そういえば今日、どっかで飲んできた?」
 突然振られた質問に、俺の口から「へ?」とマヌケな声が出る。
「飲んでないよ。カフェでずっと課題やってた」
 その瞬間、黒沼の表情がわずかに柔らかくなった。まるで安心したみたいな顔だ。
「なんのレポート? テーマは?」
「えすでぃーじーず? ってやつ。桑島って先生の授業で」
 俺のバカっぽい回答にも、黒沼は「ああ」と納得する。さすが大学では真面目に勉強しているだけある。
「桑島先生の講義なら俺も去年受けてたな。たしかSDGsをテーマにしたレポートも書いた」
「そうなんだ! どうだった? やっぱ難しかった?」
「まあ小手先でなんとかしようとすると、すぐバレる先生だったよ。ちゃんと自分の考えを論理的に書かないと、評価はもらえない」

 貴重な情報だ。桑島先生の講義を受けている学生のほとんどが一、二年生だ。サークルの後輩も何人か受けてはいるものの、同学年以上で俺には頼れる人がいない。
「まじかー。めちゃくちゃ文献コピペしようとしてたわ……」
「そんなことしたらまた単位落とすぞ」
 それはキツイ。今の俺はたった一科目でも落とせない状況だ。
「どうしよう……他の教科のレポートとかテストもこの後あるんだけどな」
「今度見ようか?」

 突然の提案に、俺はグラスから勢いよく顔を上げた。
「まじ⁉」
「言っただろ。何か困ったことがあったら言ってって」
 本気で言ってくれていたんだ。じわじわと嬉しい気持ちがこみ上げる。単位取得が一歩近づいたことじゃない。黒沼が、好きな人が自分のために何かをしようとして提案してくれたことが嬉しかった。
 無意識のうちに俺はニヤニヤしていたらしい。
「なに。俺変なこと言った?」
 黒沼は不思議そうに俺の顔を覗いてきた。俺は首を横にブンブンと振りながら、
「い、いやっ。こっちの話」
 と誤魔化した。
 今日は感情が忙しい。黒沼と喋ると嬉しかったり落ち込んだり。まるで延々と回り続けるメリーゴーランドに乗っているみたいだ。目が回って、余裕がなくなる。

「そういえば今日悪かったな」
「え?」
「廊下で花川のこと無理やり引っ張っただろ。怪我させてないかなって、あのあと心配だった」
「そんなそんな! 黒沼がハヤトたちから俺を隠した理由もわかるし! 怪我も全然」
 すると黒沼は「まじか」と珍しく慌てだした。目が泳いでいる。
「俺があんなことした理由、バレてんのかよ」
「え、うん……?」
「花川はどう思った? 俺の気持ち知って」
 黒沼が気まずそうにこちらの様子を窺ってくる。ちょっと顔が赤いような……? でも店の照明のせいで、そう見えるだけのような気もする。
「え、気持ち……?」
 黒沼の言葉に少し違和感を覚え、俺は正直に「俺がまた約束を破ると思ったから、あいつらから俺を隠そうとしたんじゃないの?」と追加で質問した。
「え? あー……? ああ、まあ、うん」
 続けて黒沼が「そういうことにしとくか」と独り言を言ったように聞こえたけれど、俺にはちゃんと聞き取ることができなかった。
 なんか嚙み合っていない感じがする。同じことを向こうも感じているのか、俺たちのあいだに微妙な空気が流れた。

 そうこうしているうちに、店長さんが「お話し中にごめんね」と割って入ってきた。
「ショウ君、カウンター七番さんのドリンク作ってもらってもいい? カシスソーダなんだけど」
「いいっすよ」
 その場で作ろうとした黒沼に、店長さんが「ちょっと待って」とストップをかける。
 大きな声で言いづらいのか、店長さんは黒沼に耳打ちする。さすがに近くにいる俺にも、内容は聞こえてこなかった。
「まじっすか……」
 店長さんから何かを聞かされた黒沼は、面倒くさそうに眉をひそめた。
「うん。でも断っていいよ? お友達来てるんだから」
「いや、いきますよ」

 黒沼はすまなそうに「花川悪い」と俺に顔を向けた。
「他のお客さんに呼ばれたから、ちょっと行ってくる。他に飲みたいものがあれば、こいつ介して俺に言って」
 そう言ってレジの横から引っ張り出してきたのは、さっき俺を案内してくれた男のバーテンダーだ。
「ちょっとショウさん! いくら俺が新人だからって、そうやってばかにして! 俺だって少しは作れますよ~」
「いいからおまえは注文だけ聞いとけ」
 プライベートを彷彿とさせるやりとりを見ながら、俺は「いってらっしゃい」と黒沼に手を振った。
 俺の前から離れた黒沼が移動した先は、俺が来店する前まで黒沼が立っていたカウンターの奥。俺に視線を送ってきた女性の目の前だった。
 黒沼が戻ってくるやいなや、女性客の表情がぱっと華やぐ。客とバーテンダーという垣根を越えて、黒沼に好意があることは明白だった。

「黒沼って、やっぱりモテるんですか?」
 俺は黒沼と女性客を見つめながら、ぽつっと新人バーテンダーに聞いた。ちょっと恨めしそうな声になってしまい、自己嫌悪する。
「そうですねー。俺、ここに入ってまだ二ヶ月くらいですけど、ショウさんにガチ恋してる女性のお客さんは、今来てる人含めて五人くらいですかね」
「ご、ごにん?」
「ガチじゃなくてもファンレベルの人とか、密かに恋してる人とか含めたら、もう自分じゃわかんないです」
 新人君はヘラッと笑いながら、衝撃の事実を口にする。
 俺はなんて相手を好きになってしまったんだ。しかも俺は黒沼のことを好きなお客さんとは違う。男なんだ。
 黒沼からしたら、自分のことを恋愛対象として見てこない相手だと思っているに違いない。そんな相手から好意を持たれていると知ったら、黒沼はどんな反応をするだろう。

 ――下心とか見せられる方が無理だから。

 先ほど言われた言葉が、耳の奥で反響する。
 ますます自信がなくなる。
 会いたい。
 その感情一つで、四時間も待っていたなんて聞いたら、黒沼はきっと呆れるだろう。俺のことを気持ち悪がるかもしれない。
 怖くなって手が震えてくる。俺はもう一度、遠目から黒沼と女性客を見た。
 俺を接客している時とは違い、黒沼の表情はずいぶんと柔らかい。俺が時々しか見ることのできない笑顔を常に浮かべて、お酒を作っている。

 丁寧に一つ一つお酒を作るその指に、星のタトゥーがあることを知っている人はどれだけいるのだろう。きっと俺が思うよりずっと多いような気がする。
 そしてみんな、こう思っている。
 黒沼のタトゥーは、自分だけが知っている秘密なんだと。