大きなテストが終わったのは先週のこと。それが理由なのか、その週の講義はいつもより出席している学生が少なかった。
大学の講義は学期のはじめは出席者も多いけれど、月日が経つにつれて徐々に人が減っていくというもの。もうこの授業の単位は取れないと、諦める学生が出てくるからだ。
俺も昨年度までは諦めた学生側にいた。でも今はそんな甘ったれたことは言っていられない。
空席の目立つ大教室の窓側に座ると、見覚えのある緑色のチェックシャツが前方の席に見えた。大学バージョンの黒沼だ。
斜め後ろから見る黒沼は相変わらずモサい。でも顎のラインとか筋の入った手とか、イケメン要素は随所に散りばめられている。
あんなにダサいのに、指にはタトゥーが入っているんだよな。その指でシェイカーを振り、お客さんに洒落たカクテルを出しているんだよな。うわ。考えたらなんかエロいかも。
エロの対象として見てしまった罪悪感で心臓がキュッとなる。俺は心の中でひっそりと黒沼に謝った。
チャイムとともに講義が終わり、空席の目立つ教室から人がまばらに出て行く。
机の上を片付けた黒沼が、教壇近くのドアから教室を出て行くのが見える。俺も急いで教科書やら筆箱やらをリュックに押し込み、近くのドアから廊下に出た。小走りで追いかける。
廊下の先には黒沼の後ろ姿があった。チェックシャツとモサモサの頭をもってしても、長身とスタイルの良さは隠せていなかった。
「黒沼!」
名前を呼ぶと、黒沼は振り返って俺を見た。
「おう」
「こないだはありがとう。あれ、商品化できそうな感じ?」
俺は努めて普段通りに接した。俺の気持ちは黒沼に知られちゃいけない。知られてしまったら、きっと黒沼はこんな風にしゃべってくれなくなる気がする。
「まだなんとも」
「あんなに美味しかったのに?」
「まだ店長に提案してなくてさ。他の試作品もまとめて飲んでもらうつもりでさ」
「そっか。最終決定権は店長さんか~」
「おまけにあの人、花川のお墨付きしか飲まないって宣言してるし。まずは花川の舌を突破しないと」
「なんかいつの間にか俺のハードル上がってない? 本当に俺の舌で大丈――」
「ブだって言ってんだろ」
被せ気味に言われ、俺はそれ以上へりくだるのをやめた。
とりあえずまた黒沼と二人きりになれるということだよな。黒沼の特別になれたような感じがして、胸がぴょんぴょんと弾む。
「じゃあまた行っていいんだ! 俺、今週ならいつでも空いてるよ。むしろ毎日行ける!」
「いや、毎日はヤバいわ」
苦笑いされ、俺は調子に乗りすぎたと反省した。黒沼と二人きりになれることが嬉しくて距離感を間違えた。しつこすぎたかな。さすがにキモすぎたよな。
誰かを好きになるなんて、小学生の時以来だ。しかも相手は自他共に認めるイケメンで、たぶんかなりモテる。距離感がバグってしまう自分が情けなかった。
「冗談に決まってるじゃん。毎日はさすがにないない」
半分本気だった自分を腹の底に押し込み、俺は笑顔の前で手を振った。
「で、いつ? リアルに空いてる日は」
黒沼から尋ねられ、俺はスマホでスケジュールを確認するふりをして「んーと、今日かなー」と答えた。すると眼鏡をちょっとずらした黒沼が、呆れ気味な視線を俺に送った。
「本当に今日来れんの?」
黒沼が訝しがるのも当然だ。「今日行く」と約束した前回、俺は黒沼の目の前で約束を破り、ハヤトたちとの予定を優先させてしまった。いくらハヤトたちが強引だったからといって、だいぶ最低なことをした。
「大丈夫! 今日は本当に――」
その時だった。黒沼の後ろの奥から、ハヤトと森岡が喋りながらこっちに向かって来るのが見えた。黒沼が壁になって見えないのか、幸い俺には気づいていないようだ。
俺が急に黙ったのを不思議に思ったのか、黒沼が背後を振り返る。ハヤトたちがこちらへ向かって歩いてくるのを認めると、黒沼は俺の手を引っ張り、ハヤトたちの進行方向とは反対側に向かって足を動かした。
すぐ近くの壁に押しやられ、黒沼の腕が頭の上で止まる。同時に黒沼の唇が俺の額に近づき、体温と息づかいが感じられた。
誰とも付き合ったことがなくてもわかる。今俺は壁ドンをされている状態。そしてこれは物理的にキスができる距離感だ。
今自分たちがどういう体勢になっているのかわかった瞬間、俺の鼓動は急速に刻みだした。なんだこれ、なんだこれ。俺、なんで黒沼に壁ドンされてるんだ? 混乱した。なんにもわからない。突然のことに頭がぐちゃぐちゃだ。
「黒ぬ――」
「シッ」
黒沼との距離の近さに耐えきれず口を開くと、黒沼は右手の人差し指を自身の口に乗せた。星のタトゥーが間近に迫り、心臓がありえないぐらいドキドキする。
――今日の合コン、伊澄も誘う?
――そうだな~。まあそこらへんで偶然会ったらでいんじゃね? 男側の人数足りてるし。
――つーか、おまえ彼女いるのにいいのかよ。合コンなんか行って。
――いいんだよ。向こうだって普通に男がいる飲み会に行ってんだから。
――別れるフラグ立ちまくってんなぁ。
二人の会話が内容まで聞こえてくる。それぐらい近くを歩いているということだ。
息を殺しているうちに、ハヤトたちの声が遠ざかっていく。黒沼の長身に隠れた俺には、最後まで気づかなかったみたいだ。
黒沼の体が俺から離れた時には、ハヤトたちの声も姿もいなくなっていた。ホッとしたのも束の間、たった今まで黒沼の体が近くにあったことを思い出し、顔がかっと熱くなる。まだ黒沼の体温が肌の上に、そして洗濯洗剤の匂いが鼻に残っている。
ここは礼を言っとくべきだろうか。俺は視線を足先にやりながら、「あ、ありがとう」と口ごもった。
「悪い。また花川が掻っ攫われると思って」
「掻っ攫われるって」
言葉選びがおかしくて笑うと、黒沼は不機嫌そうな顔をした。
「花川は合コン行きたかった?」
「行ったことがないから、よくわかんないよ」
体を離したというのに、まだ心臓がバクバクしてうるさい。俺今ちゃんと答えられてる?
黒沼は「あっそ」と低く答えると、俺から視線を逸らした。
ん? もしかして黒沼、機嫌悪い?
黒沼の気に障るようなことを言ってしまっただろうか。
黒沼が不機嫌になった理由がわからなくて焦る。やっぱり俺が信じられないという可能性もある。今日も急に約束を破るんじゃないかって。
今もきっと、ハヤトたちと顔を合わせたら、俺が今日の約束を破ると思ったのだろう。だから黒沼自身が盾になって、俺をハヤトたちから隠したのかもしれない。コロコロ予定を変えられるのは、迷惑だから。
前科があるからこそ、俺に残された道は一つ。行動で示すしかないのだ。
「改めて聞くけど、本当に今日、黒沼のバイト先に行って大丈夫?」
「なんで? やっぱ合コン行きたいの?」
どうして合コンにこだわるんだろう。俺にとっては、もうその話は終わっているのに。
「違うよ。前回のこともあるし、俺のこと信じられないかなと思って」
「でもあいつらに誘われてたら、行ってたんじゃないの?」
「そんなこと――」
ない、と俺は胸を張って言えなかった。たぶん俺は、ハヤトたちに誘われていたら、飲み会だろうと合コンだろうと行っている。
今までの俺がそうだったからだ。やっぱり俺の予想は当たっていた。だから黒沼は俺をハヤトたちから隠したんだ。
何も言い返せない俺に、黒沼は盛大なため息をついた。
「ごめん。嫌な言い方した」
「俺の方こそごめん……」
こんな自分でごめん。俺がしょんぼりすると、黒沼は前髪をガシガシと掻いた。
「花川は悪くないから。今のは完全に俺の八つ当たり」
続けて黒沼は「忘れて」と言った。本当にこのまま忘れていいのだろうか。俺は不安になった。
「とりあえずライン教えてよ」
黒沼はダボッとしたチノパンのポケットからスマホを出した。百均で見かけたことのある、透明でシンプルなカバーが黒沼らしい。
「え、俺の? いいの?」
「花川のこと信じてないわけじゃないけど、予定変わったら普通に教えてほしいからさ」
「あ、そっか。そうだよね」
俺の連絡先を知りたいと思ってもらえたのは喜ばしいことだが、その理由には手放しで喜べなかった。
信じてないわけじゃない、と前置きがあった時点で、心の中では信じていないのだろう。今の俺では信頼度が足りていないんだなと悲しくなった。黒沼が俺のことを信じる前に、俺がやらかしているから。
これって友達以前の問題じゃね?
気持ちが沈む。スマホを持つ手が重いまま、俺は黒沼とラインを交換した。
黒沼のラインのアイコンがスマホの画面に映る。白い犬の写真だ。
「……犬だ」
アイコンに目を落としながら、俺はぽつりとこぼした。
「実家で飼ってたチワワ。去年虹の橋を渡った」
つまり亡くなったということだろうか。
「あ……そうなんだ。名前はなんていうの?」
「エッグ。卵みたいに白いから」
「そっか。可愛いね」
「可愛かったよ。めちゃくちゃな」
黒沼の実家の犬のおかげで、ちょっとだけ空気が和む。それもほんの一瞬のこと。
「俺次の授業あるから」
黒沼がスマホをしまって言った。
俺はこのあと一コマ空けてから次の講義がある。黒沼とはひとまずここでお別れだ。
「じゃあ、あとでな」
「うん。今日必ず行くから」
「おう」
手を軽く上げ、黒沼は次の教室に向かって廊下を歩いて行った。
愛犬の話をした時は少し表情が柔らかくなったけど、俺にはわかる。
黒沼の機嫌はまったく直っていない。
大学の講義は学期のはじめは出席者も多いけれど、月日が経つにつれて徐々に人が減っていくというもの。もうこの授業の単位は取れないと、諦める学生が出てくるからだ。
俺も昨年度までは諦めた学生側にいた。でも今はそんな甘ったれたことは言っていられない。
空席の目立つ大教室の窓側に座ると、見覚えのある緑色のチェックシャツが前方の席に見えた。大学バージョンの黒沼だ。
斜め後ろから見る黒沼は相変わらずモサい。でも顎のラインとか筋の入った手とか、イケメン要素は随所に散りばめられている。
あんなにダサいのに、指にはタトゥーが入っているんだよな。その指でシェイカーを振り、お客さんに洒落たカクテルを出しているんだよな。うわ。考えたらなんかエロいかも。
エロの対象として見てしまった罪悪感で心臓がキュッとなる。俺は心の中でひっそりと黒沼に謝った。
チャイムとともに講義が終わり、空席の目立つ教室から人がまばらに出て行く。
机の上を片付けた黒沼が、教壇近くのドアから教室を出て行くのが見える。俺も急いで教科書やら筆箱やらをリュックに押し込み、近くのドアから廊下に出た。小走りで追いかける。
廊下の先には黒沼の後ろ姿があった。チェックシャツとモサモサの頭をもってしても、長身とスタイルの良さは隠せていなかった。
「黒沼!」
名前を呼ぶと、黒沼は振り返って俺を見た。
「おう」
「こないだはありがとう。あれ、商品化できそうな感じ?」
俺は努めて普段通りに接した。俺の気持ちは黒沼に知られちゃいけない。知られてしまったら、きっと黒沼はこんな風にしゃべってくれなくなる気がする。
「まだなんとも」
「あんなに美味しかったのに?」
「まだ店長に提案してなくてさ。他の試作品もまとめて飲んでもらうつもりでさ」
「そっか。最終決定権は店長さんか~」
「おまけにあの人、花川のお墨付きしか飲まないって宣言してるし。まずは花川の舌を突破しないと」
「なんかいつの間にか俺のハードル上がってない? 本当に俺の舌で大丈――」
「ブだって言ってんだろ」
被せ気味に言われ、俺はそれ以上へりくだるのをやめた。
とりあえずまた黒沼と二人きりになれるということだよな。黒沼の特別になれたような感じがして、胸がぴょんぴょんと弾む。
「じゃあまた行っていいんだ! 俺、今週ならいつでも空いてるよ。むしろ毎日行ける!」
「いや、毎日はヤバいわ」
苦笑いされ、俺は調子に乗りすぎたと反省した。黒沼と二人きりになれることが嬉しくて距離感を間違えた。しつこすぎたかな。さすがにキモすぎたよな。
誰かを好きになるなんて、小学生の時以来だ。しかも相手は自他共に認めるイケメンで、たぶんかなりモテる。距離感がバグってしまう自分が情けなかった。
「冗談に決まってるじゃん。毎日はさすがにないない」
半分本気だった自分を腹の底に押し込み、俺は笑顔の前で手を振った。
「で、いつ? リアルに空いてる日は」
黒沼から尋ねられ、俺はスマホでスケジュールを確認するふりをして「んーと、今日かなー」と答えた。すると眼鏡をちょっとずらした黒沼が、呆れ気味な視線を俺に送った。
「本当に今日来れんの?」
黒沼が訝しがるのも当然だ。「今日行く」と約束した前回、俺は黒沼の目の前で約束を破り、ハヤトたちとの予定を優先させてしまった。いくらハヤトたちが強引だったからといって、だいぶ最低なことをした。
「大丈夫! 今日は本当に――」
その時だった。黒沼の後ろの奥から、ハヤトと森岡が喋りながらこっちに向かって来るのが見えた。黒沼が壁になって見えないのか、幸い俺には気づいていないようだ。
俺が急に黙ったのを不思議に思ったのか、黒沼が背後を振り返る。ハヤトたちがこちらへ向かって歩いてくるのを認めると、黒沼は俺の手を引っ張り、ハヤトたちの進行方向とは反対側に向かって足を動かした。
すぐ近くの壁に押しやられ、黒沼の腕が頭の上で止まる。同時に黒沼の唇が俺の額に近づき、体温と息づかいが感じられた。
誰とも付き合ったことがなくてもわかる。今俺は壁ドンをされている状態。そしてこれは物理的にキスができる距離感だ。
今自分たちがどういう体勢になっているのかわかった瞬間、俺の鼓動は急速に刻みだした。なんだこれ、なんだこれ。俺、なんで黒沼に壁ドンされてるんだ? 混乱した。なんにもわからない。突然のことに頭がぐちゃぐちゃだ。
「黒ぬ――」
「シッ」
黒沼との距離の近さに耐えきれず口を開くと、黒沼は右手の人差し指を自身の口に乗せた。星のタトゥーが間近に迫り、心臓がありえないぐらいドキドキする。
――今日の合コン、伊澄も誘う?
――そうだな~。まあそこらへんで偶然会ったらでいんじゃね? 男側の人数足りてるし。
――つーか、おまえ彼女いるのにいいのかよ。合コンなんか行って。
――いいんだよ。向こうだって普通に男がいる飲み会に行ってんだから。
――別れるフラグ立ちまくってんなぁ。
二人の会話が内容まで聞こえてくる。それぐらい近くを歩いているということだ。
息を殺しているうちに、ハヤトたちの声が遠ざかっていく。黒沼の長身に隠れた俺には、最後まで気づかなかったみたいだ。
黒沼の体が俺から離れた時には、ハヤトたちの声も姿もいなくなっていた。ホッとしたのも束の間、たった今まで黒沼の体が近くにあったことを思い出し、顔がかっと熱くなる。まだ黒沼の体温が肌の上に、そして洗濯洗剤の匂いが鼻に残っている。
ここは礼を言っとくべきだろうか。俺は視線を足先にやりながら、「あ、ありがとう」と口ごもった。
「悪い。また花川が掻っ攫われると思って」
「掻っ攫われるって」
言葉選びがおかしくて笑うと、黒沼は不機嫌そうな顔をした。
「花川は合コン行きたかった?」
「行ったことがないから、よくわかんないよ」
体を離したというのに、まだ心臓がバクバクしてうるさい。俺今ちゃんと答えられてる?
黒沼は「あっそ」と低く答えると、俺から視線を逸らした。
ん? もしかして黒沼、機嫌悪い?
黒沼の気に障るようなことを言ってしまっただろうか。
黒沼が不機嫌になった理由がわからなくて焦る。やっぱり俺が信じられないという可能性もある。今日も急に約束を破るんじゃないかって。
今もきっと、ハヤトたちと顔を合わせたら、俺が今日の約束を破ると思ったのだろう。だから黒沼自身が盾になって、俺をハヤトたちから隠したのかもしれない。コロコロ予定を変えられるのは、迷惑だから。
前科があるからこそ、俺に残された道は一つ。行動で示すしかないのだ。
「改めて聞くけど、本当に今日、黒沼のバイト先に行って大丈夫?」
「なんで? やっぱ合コン行きたいの?」
どうして合コンにこだわるんだろう。俺にとっては、もうその話は終わっているのに。
「違うよ。前回のこともあるし、俺のこと信じられないかなと思って」
「でもあいつらに誘われてたら、行ってたんじゃないの?」
「そんなこと――」
ない、と俺は胸を張って言えなかった。たぶん俺は、ハヤトたちに誘われていたら、飲み会だろうと合コンだろうと行っている。
今までの俺がそうだったからだ。やっぱり俺の予想は当たっていた。だから黒沼は俺をハヤトたちから隠したんだ。
何も言い返せない俺に、黒沼は盛大なため息をついた。
「ごめん。嫌な言い方した」
「俺の方こそごめん……」
こんな自分でごめん。俺がしょんぼりすると、黒沼は前髪をガシガシと掻いた。
「花川は悪くないから。今のは完全に俺の八つ当たり」
続けて黒沼は「忘れて」と言った。本当にこのまま忘れていいのだろうか。俺は不安になった。
「とりあえずライン教えてよ」
黒沼はダボッとしたチノパンのポケットからスマホを出した。百均で見かけたことのある、透明でシンプルなカバーが黒沼らしい。
「え、俺の? いいの?」
「花川のこと信じてないわけじゃないけど、予定変わったら普通に教えてほしいからさ」
「あ、そっか。そうだよね」
俺の連絡先を知りたいと思ってもらえたのは喜ばしいことだが、その理由には手放しで喜べなかった。
信じてないわけじゃない、と前置きがあった時点で、心の中では信じていないのだろう。今の俺では信頼度が足りていないんだなと悲しくなった。黒沼が俺のことを信じる前に、俺がやらかしているから。
これって友達以前の問題じゃね?
気持ちが沈む。スマホを持つ手が重いまま、俺は黒沼とラインを交換した。
黒沼のラインのアイコンがスマホの画面に映る。白い犬の写真だ。
「……犬だ」
アイコンに目を落としながら、俺はぽつりとこぼした。
「実家で飼ってたチワワ。去年虹の橋を渡った」
つまり亡くなったということだろうか。
「あ……そうなんだ。名前はなんていうの?」
「エッグ。卵みたいに白いから」
「そっか。可愛いね」
「可愛かったよ。めちゃくちゃな」
黒沼の実家の犬のおかげで、ちょっとだけ空気が和む。それもほんの一瞬のこと。
「俺次の授業あるから」
黒沼がスマホをしまって言った。
俺はこのあと一コマ空けてから次の講義がある。黒沼とはひとまずここでお別れだ。
「じゃあ、あとでな」
「うん。今日必ず行くから」
「おう」
手を軽く上げ、黒沼は次の教室に向かって廊下を歩いて行った。
愛犬の話をした時は少し表情が柔らかくなったけど、俺にはわかる。
黒沼の機嫌はまったく直っていない。
