「行ってきまーす!」
8年前、小学生の頃から通っていたこの通学路には、
毎日私達を見守る白い猫が居た。
「おはようシロちゃん!」
その猫は私や私の周りの人からそう呼ばれ、親しまれていた。
けれどそんな事はお構い無しに、周りの人が挨拶をしてもその猫は寝たフリをして全く反応しない。
でも何故か、私がそこを通りかかり、
「行ってきます」
と驚かせない様静かに声をかけると、その猫はまじまじと黄色い瞳で私の事を見つめ、最後に鳴く。
何故か私だけには、反応してくれる。
私はいつも、登校する時は一人だ。
でもそれは友達が居ないからじゃない。
その時仲の良かった友達は違う地区から通ってくる為
他のみんなみたいに上手く待ち合わせができなかった
から、仕方なく一人なのだ。
元々人見知りで他人になかなか声をかけられないけど
そのせいで一人という訳ではない、と必死に自分に語りかけていた。
それは中学に上がった時でも同じだった。
中3の春、この通学路を通って通うのは最後の年に
なるだろう。
それなのに、今だに一人でここを通っている。
(今年は受験で忙しくなるな...去年までみたいに遊んでられないや...)
残念な気持ちともうそんな時期なのかと焦り出す気持ちが私の中で渦巻いていた。
本当にこれから大丈夫なのだろうか。
人見知りなおかげで大事な期間中も執拗に遊びに誘ってくる様な友達はいないが、それでもSNSは見たくなってしまう。
SNSには大事な期間中にも関わらず遊びに行くような人達の投稿が流れてくる。
それを見て、私はつい羨ましがってしまうのである。
(今年はSNSを見る頻度も減らした方が良いのかな...)
そう考えていると、背後から猫の鳴き声が聞こえた。
振り向くと、シロちゃんがこちらを見ていた。
「どうしていつもみたいに挨拶してくれないの」、と
言わんばかりに。
確かにいつもここを通る時には欠かさず挨拶をしている。けれど今日は色々考え過ぎて周りが見えず忘れていた。
「ごめん、色々考えてて。行ってきます。」
そう笑いかけると、シロちゃんは嬉しそうに一声鳴いた。
何年経ってもシロちゃんは私以外のクラスメイトなどには全く反応や興味を示さない。
それは地域の人もそうだ。
何故か私にだけ、懐くのである。
(そういえばどうして私にだけ懐くんだろう...)
過去に何かしたっけ、と思いながらそこを過ぎて行く
前からこの謎は解けんばかりである。
  *
今日はクラス発表と始業式があり、3時限で帰宅した
クラス替えは、仲のいい友達が一人居た事から何とか一命を取り留めた、と安堵の溜息をついた。
仲のいい子がみんな違うクラスになるなんてことになってしまったら、私はクラスから確実に浮く。
だから例え一人だけだったとしても有り難かった。
いつもの通学路を通ろうと曲がり角を曲がった時だった。私は思わず足を止めた。
通学路の端には、白い帽子に黒いサングラス、更にはマスクをした怪しい容姿の男が。
(えっ、何、あの人。今までいなかったよね...)
周りには誰もおらず、助けを求められなかった。
せめてシロちゃんが居れば、とシロちゃんがいつもいる岩垣の上を見てもシロちゃんの姿は無かった。
こんな時に限って、と私は俯いた。
ここを通ったらあの人に捕まって何かされるかもしれない。でもここ以外に家に帰れる通路はない。
遠回りなんてしたら方向音痴な私は確実に迷子になる
仕方ない、と私は意を決した。
(速く通り過ぎてもし声をかけられても無視すれば...)
早速その作戦を実行してみる事にした。
一つ深呼吸してから小走りでその場を通り過ぎた。
怪しい男の前を通り過ぎた時だった。
「おい、待て、」
やっぱり声をかけられた。
私は無視して大人しく去ろうとする。
「待てよ、おい!」
しかし、強い口調に、私はつい足を止めてしまう。
(止まっちゃいけないのに、思わず...)
「やっと止まってくれたか...」
振り向くと怪しい男がそう言ってこちらに近づいて
きた。
(やばい...)
本能的に死を覚悟したその時、目の前の怪しい男は
サングラスを外した。
「勝手に逃げんなよ。こっちはずっと待ってんのに。」
男は苛立った様子で私にそう訴えかけた。
私は少し口籠った後、勇気を出して反論した。
「ずっと待ってんのになんて言われても、そんな怪しい格好されてたら近づこうとも近づけないじゃない、ですか。」
正論を言ったはずなのに、何故か溜息を吐かれる。
「そういうとこだぞ“蒼”。」
思わず“えっ?”と声が漏れた。
どうしてこの人、私の名前を?
ますます怖くなってきた。私この人と関わった事なんて一度もないのに。
すると考えていた事が顔に出ていたのか、男はニィッと笑って応えた。
「どうして、って顔してんな。だって俺、ずっと蒼の
事見てたからな。」
え、ずっと?
もしかして、ストーカー?
私いつの間にかストーキングされてた?
全然気づかなかった。
でももしストーキングされてたとしたら辞めて貰わないと。私はまた勇気を出して応えた。
「あの、貴方が一体どのような関係なのかは存じ上げませんがもしストーキングしてるなら辞めていただけませんか?」
「ストーキング?は?」
男は戸惑った様子だったがずっと側に居てはいけないと思い、私は「では、失礼します」と固く断ってその場を離れた。
少し離れたところで男が背後から声を上げる。
「ストーキングつうのが何かしらねぇがあれだぞ、別に怪しい意味でずっと見てたわけじゃないからな!
俺は、“白猫”だ!」
その言葉を聞いて、私は足を止めた。
「恥ずかしいが...“シロちゃん”だよ!“シロちゃん”!」
「シロちゃん⁉︎」
私は思わず振り向く。
「えっ、シロちゃん?シロちゃんなの⁉︎」
そう私が執拗に聞くと、男は恥ずかしそうに言った。
「そ、そのあだ名恥ずかしいからあまり口に出すな!」
私は少し悪戯になった。
「シロちゃんって名前、恥ずかしいんだ。」
「ああだから口に出すなって!ただでさえ悪魔に相応しくない名前なのに!」
「え、悪魔?」
一瞬何を言っているかわからなかった。
男は先程までの態度とは一変し、自信にありふれた
声色と態度で言った。
「そうだ。俺は悪魔だ。今までずっと白猫の姿で変わらなかったが、今やっとこうして人の姿になれたのだ。」
「厨二病?...痛い。」
「違う!そんな冷めた目で見るな!」
「...」
「だから!俺は本当に悪魔なんだ!」
男は必死に訴える。
あまりにも必死なので、私は信じる事にした。
「じゃあ信じる。でも悪魔がどうしてこの世界に?」
「良い質問だな。俺は強くなる為、人間の生贄を探しにきたんだ。」
「生贄?生贄を使って強くなったら何かあるんですか?」
「もちろん。生贄を使って悪魔が強くなれば、“世界を創る権利”を与えられる。」
「世界を創る権利...なんかすごいね。」
「ああ、この権利を手にし、俺はもう一つの世界を創り出すのだ!」
その時、男の目が片方紫に光ったような気がして、
もしかすると本当に悪魔なのかもしれないと感じた。
「それで、生贄は誰に?」
「お前に決まってるだろう。」
あまりにも早い即答に、私は追いつけなかった。
「えっ?」
そして聞き返した。
「だから、お前だって。」
「私?」
「うん。」
私は少し返答に困った。
「生贄するほど暇じゃないんで、お断りします。」
「待て、逃さないぞ。もうお前との契りは交わしてある。」
そう男は契約書を見せた。
そこには男の名前であろう「シロスフィ・カズラ」と私の名前である「櫻井 蒼」の文字が。
更に私の名前の隣に勝手に印鑑まで押されている。
「どうだ、これで逃げる気はなくなっただろ。」
確かに逃げる気はなくなった。
知らないうちに契りを交わされているのだから。
けれど正直、これ以上に気になる部分があった。
「字汚い」
「それどころじゃないだろ。いちいち指摘すんな。」
「すみません、私うるさいんで。」
「お前なかなかに変なやつだな。さっきから薄々思ってたけども。」
「今までずっと見てきたのに気づかなかったの?」
「そりゃそうだろ。だって今までは...ずっと一人でここ通ってたからてっきり真面目で大人しくて人見知りなのかなぁと。」
「人見知りだけは合ってます。」
「まあ良い。でもこれからそんな口も叩けなくなる。
お前はすぐ俺の餌食になるからな。」
私はただ単純な疑問を口にした。
「生贄って何すれば?」
「そうだなぁ。そこまでは何も考えてなかったが、まあ、生贄として死ぬまでは俺の世話をさせてやる。」
「世話、か。」
「ああ。ちなみにお前、料理は出来るか?」
「出来ません。」
「...じゃあ、掃除は?」
「そこそこ。」
「...不器用か、お前。」
私は静かに頷く。
「はぁ...まあいいか。とりあえず、お前の住処に案内しろ。」
「わ、分かった。」
こうして私は男を連れて私の家へと帰った。
鍵を開けて中へ入る。
「どうぞ。」
「流石は人間、なかなかに狭いな。」
「まあうち貧乏だったから。」
そう言いながら私は靴を脱いで上がる。
男はそのまま入ろうとしていたのでちゃんと注意した
「あ、人間の常識上、靴は脱いで入って。」
「人間の分際で...」
何故か男は不服そうだったがちゃんと靴を脱いで
入ってくれた。
リビングには、もう誰も居ない。
後から入ってきた男がふと聞いた。
「なぁ、ここには他に誰も住んでいないのか?」
「うん。前は居たけど。」
「そうだよな。俺、昔お前の同居人がお前と歩いてるのを見かけて、それでお前の名前を知ったんだ。...
今、その同居人は何処にいる。」
「天国、」
私は目線を下にして言った。
「まさか、死んだのか。」
「うん。離婚した父親に、仕事帰りストーキングされた上刺されて。すぐ近所のおばさんが救急車呼んでくれたけど、死んじゃって。」
「そうだったのか...」
久しぶりに母親の死を思い出して、私の目には涙が溜まった。
「ごめんな、何も知らずに聞いてしまって。でもな、」
男は背後から私を抱きしめた。
「俺も同じだ。俺も昔、母親を儀式で殺された。」
「え?」
「その時から俺は誓ったんだ。天使ごときに儀式なんかで殺されない、悪魔だけの世界を創るって、強くなって。そしたら母さんみたいに残酷な死に方をする奴もいなくなる。」
そこで知った。男が、カズラが、強くなって自分の世界を創ろうとする理由。
ただ自分勝手な理由じゃなかった。
もう二度と、大切な同族を失わない為に、悪魔だけの世界を創ろうとしているんだ。
「悪魔は意外と、悪さしたりしないんだぜ。けど、天使や人間は悪魔を勝手に悪いやつだと決めつけてるから、だから悪魔狩りを目的とした儀式が定期的に開かれる。悪いことするやつもいるけど、大半は悪さなんてしていない。それなのに誤解されて殺されるなんて、理不尽だろ?」
そう耳元で説明され、私は深く同意した。
確かに今まで、“悪魔”という名前だけで勝手に悪いやつだと決めつけていたけど、当てはまっているのはごく一部の悪魔だけで、悪いやつじゃない悪魔もいるのかもしれない。
「誰しもが悪魔という種族を望んで悪魔に生まれてきたわけじゃない、それを分かって欲しいんだ。」
いつの間にかカズラも涙声になっていた。
そして無駄な力が抜けたのか、私を抱きしめていた手が次第に解けていく。
私は振り向きカズラの方を向いて、向き合った。
「分かったよ、今の話を聞いて。私、その為だったら生贄にでも何でもなる。カズラの願いの為に、出来る事なんでもするよ。」
カズラは涙を拭いながら言った。
「本当か?...ありがとう。」
その時のカズラは、泣いていたせいか、素直だったせいか、何だか悪魔に見えなかった。
その日を境に、私とカズラの同居生活が始まった。
「良い?私が学校に行っている間、午前中は絶対に帰れないから、朝昼は自分で作って。材料はあらかじめ用意してあるから。」
「ああ、俺に任せておけ。」
正直すごく心配だった。ちゃんと出来るのだろうか。
不安と共に学校へ向かい、いつものように授業を受けて帰る途中、クラスメイトの女子達のこんな話し声が聞こえた。
「最近シロちゃん見ないよね。」
「どうしちゃったのかな。」
そんな会話に私はぎくりとしたが、極力反応せずに
その場を通り過ぎた。
そして家へ帰る。
「ただいまー、」
そう言ってリビングに入ると、信じられない光景に
息を呑む。
「何コレ!」
カズラが奥から気まずそうに出てくる。
「ちゃんとやったつもりなんだ。けど...こんな風に。
掃除、しといてくれ。」
私は溜息を吐き、「はいはい」と応えた。
なんだか大変なことも沢山ありそうだけど、カズラの願いを叶える為、仕方のない事なのかと受け入れる。
これからゆっくり教えていけば良いか。
そう私は考えた。

普通では考えられない悪魔との同居生活。
期間はカズラの願いが叶うまで、である。