彗星の衝突が近づき、遠くで地鳴りのような音がする。
 同時に危険を知らせるサイレンが鳴り響き、窓の外は異常なほどに騒々しかった。
 その直後、空が裂けるような轟音とともに、教室の窓ガラスが一斉に砕け散る。
 強風が吹き込み、桜の花びらが舞い込む。
 風は狂ったように吹き荒れているのに、花びらだけが、ゆっくりと舞っているように見えた。
 教室のなか、たったふたり。
 俺と篠原先生は、その場に立ったまま、どちらからともなく目を合わせる。
 先生が、微かに笑った。
 まるで、『これでいいんだ』と言うように。

 俺は、桜の渦の中で、そっと目を閉じた。
 頬をかすめる風が制服を揺らし、髪をやわらかくめくっていく。
 どこかでずっと、これは夢なのだと思っていた。
 けれど、砕け散るガラスの音も、吹き荒れる風の痛みも、紛れもなく現実。
 俺は教卓に置いたままのレポートを手に取り、先生に手に乗せる。
 紙は風で揺れていたけれど、きちんと先生の手の中に収まった。
「……お疲れさま。受け取ったよ」
 その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
 それと同時に、先生がぽつりと呟きをこぼす。
「——地球が滅亡するから、学校を休校にすると聞いた時、僕は君を呼び出さなければならないと思った」
 消え入りそうな声に、俺は小さく息をのむ。
 冗談でも言われているのかと思ったけれど、先生の顔は真剣そのものだった。
「……なんで、俺?」
 問い返すと、先生は視線を黒板のほうへ向けた。
 遠くを見るような、記憶を辿るような——そんな目つきをしている。
 眼鏡の奥で揺れる瞳を、俺は見なかったことにした。
「君のこと、ずっと気になっていたんだ。提出物はサボるし、寝るし、逆ギレするし、とにかく言うこと聞かないし……根は真面目なはずなのに。学年で唯一、なぜか問題のある生徒だった」
「……ディスってんのかよ」
「いや、違う。褒めている」
 その言い方があまりにも自然すぎて、思わず吹き出しそうになった。
 先生の目には涙がにじんでいる。けれど、出てくる言葉はいつもと変わらない。
「褒めてねぇだろ。どこがだよ……」
 苦笑しながら返すと、先生は本音をこぼすように口を開く。同時に、にじんでいた涙がこぼれ落ちたのは——それも、見なかったことにした。
「ここだけの話。僕はね、教師として、君にずっと負けていた気がしていたんだ」
「……は?」
 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
 教師が生徒である俺に負けたって、どういうことなのか。
「……君が初めて宿題を破って提出した日も、レポートを白紙で出した日も。君が『お前の言葉なんて、ひとつも届かない』って顔をした日も……全部、覚えている。僕の言葉が届かなくて、上手くいかなくて、あのときからずっと、君の前では〝教師〟として負けっぱなしだった気がしていたんだ」
「……」
 その言葉が、俺の胸の奥にじんわりと染みていく感覚がする。
 俺はもう一度、先生の顔を見る。今も変わらず、涙がこぼれ落ちていた。
「でも、最後くらいは、君にレポートを提出してもらって、きちんと終わらせたいと思った。それで君に〝締め切り〟を与えたんだ」
「……」
「そして僕は、君からのレポートを受け取る。それが、教師としての〝締め切り〟だったんだ」
 先生は静かに笑う。
 それは、どこか誇らしげで、すこしだけ寂しそうな笑顔だった。
「……じゃあさ、先生が今日、ここに来たのって……俺のせい?」
「うん。そういうことになるね。君のせいだよ」
 なんの悪気もなく、即答された。
 それがあまりにも衝撃で、思わず、変な声が出そうになる。
「いや、ふざけんなよ……え、何。俺のせいで、先生、地球最後の日に家族と過ごせないって言うのかよ! 俺が先生の奥さん、泣かせたってことかよ!!」
「ん、でもね、別に後悔はしていないよ。君がここに来てくれたから、僕は最後まで〝教師〟でいられたわけだし。ありがとうな、佐原。感謝をしているよ」
「……っ」
 なんだよ、それ。
 そんなの、ズルいに決まっているだろ。
 なんだか悔しくて、抑えきれない感情と共に涙がこぼれる。
「最低だ。ホント……ズルいよな、篠原先生」
「そうだな、ズルいんだよ。教師って生き物は。その中でも、僕は飛びぬけて、ズルいかも——」
 風が一段と強くなった。
 窓枠の外の世界が、音を立てて壊れていく。
 大きな音、風にさらされる。けれど教室の中だけは、不思議なほど穏やかなように感じた。
「……先生。〝締め切り〟、間に合った?」
「あぁ。完璧だ」
 その言葉を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。
 思わず、笑みがこぼれる。
 ふと横を見ると、先生もどこか遠くを見つめながら、同じように微笑んでいた。
 桜の花びらが、ふたりの間を通り過ぎていく。
 制服の袖が揺れ、髪を撫でる風が妙にあたたかく感じた。
「……というわけで、帰って妻に土下座をするか。君が僕を勝たせてくれたわけだし」
「……」
 ——その時、家を出る前、母さんに言われた言葉を思い出した。
『今日の夜ご飯はハンバーグだからね』
「……」
 全身が、自分のものではない揺れにさらされる。
 治まらない揺れが何か、それを考えるのもバカバカしいと思えた。
「……俺も帰って、母さんが作るハンバーグを食べなきゃ。だから、わかった。今日ばかりは負けてやるよ」
「じゃあ」
 ——帰ろうか。
 その言葉は、音にならなかった。
 きっと、ここでしか交わせない会話があった。その事実に、また胸が熱くなる。
 見慣れた景色は、もうどこにもない。
 だけど、最後に立っていた場所として、これ以上の場所はなかった。

 桜とともに、春が終わっていく。
 地鳴りとともに、日常が崩壊していく。

 地球滅亡の朝、篠原先生とふたり。
 壊れゆく、教室でのこと。






この春が終わる前に  終