滅亡の朝がやってきた。
 ほんとうに、今日で地球は滅亡するのか。
 そんな疑問が、ぼんやりと頭に浮かぶ。雲ひとつない、真っ青な空だった。
 昨晩から、うちではテレビをつけなかった。
 家族の誰も、地球が滅亡するという話題にはいっさい触れない。まるで、そんな事実は存在しないかのように。
 今朝もそう。
 父さんは、出勤のため車に乗り込んでいた。
 母さんは、いつものように洗濯物を干していた。
 そして俺が出かける直前、「碧人、今日の夜ご飯はハンバーグだからね」と言ったのだ。
 俺は何も言えなかった。
 ほんとうは今日が休校であることも、家族には言えなかった。
 地球は今日の朝に滅亡すると、テレビでは言っていたのに。家の中は、いつも通りの空気が漂う。
 母さんが発する言葉は、何ひとつとして冗談に聞こえない。
 それがまた、妙に怖かった。
 世界を巻き込む、盛大なジョークだと思っているのか、それとも本気で信じていないのか——。
 けれど、その答えを確かめる勇気が、俺にはなかった。
 顔を見ずに手だけを振る。それが、今の俺にできる精一杯。
 今日も真っ青な空に、淡い桜の花びらが映えていた。



 学校には、誰の姿もなかった。
 校庭も、校舎も、息を潜めたように静まり返っている。まるで世界に自分ひとりだけが取り残されたようで、かえって胸の奥がざわついた。
 開いたままの正面玄関をくぐる。
 歩き慣れた廊下。見慣れた掲示物。けれど、どこか遠い場所を歩いているような気がした。世界の輪郭が、わずかににじんで見える。
 教室の扉を開けた瞬間、窓際に立つひとつの背中が目に入った。
 その人物——スーツをきちんと着こなした篠原先生は、鞄を片手に、静かに外を見つめていた。
「……佐原、おはよ」
「はよっす……」
 先生は鞄を足元に置き、ゆっくりと教壇に立つ。
 教室には、俺と先生だけ。
 すこしだけ開いた窓から、春の風が吹き込んできた。
 風に乗って、桜の花びらが1枚、机の上に落ちる。
 それを見ながら俺は、鞄からレポートを取り出し、教卓の上にそっと置いた。
 その動作を目で追っていた先生が、ふっと目を細める。
「……てか、先生さ。今日、ほんとうに学校に来てよかったの? 家族とか、大丈夫だった?」
 思わず出た言葉だった。自分でも、すこし唐突すぎたと思う。
 けれど先生は否定するでもなく、ほんの小さくうなずいて、口を開いた。
「妻と、3歳の娘がいる。ほんとうは、家にいてくれって頼まれた」
「じゃあ、なんで……今日、レポートを出せなんて言ったの? 奥さんに怒られなかった?」
 ぶっきらぼうな問いかけに、先生はすこしだけ笑う。
 諦めにも似た、けれどどこかやさしい笑みだった。
「怒られたよ。盛大に『は?』って言われた。家を出る際も、妻は泣いていた。けれど——今日帰ったら、土下座をする約束をしているんだ。だから、大丈夫」
 土下座——。
 先生の口からそんな言葉が出てくること自体が、すこしだけ意外だった。
「土下座って……地球、もうすぐなくなるのに」
「……そうだな」
 先生はそれ以上の言葉を継がず、教卓にもたれかかる。その動きに、どこか安心したかのような力の抜け方があった。
「……妻には悪いけど、最後まで、教師でいたかったんだよね。僕は」
 ぽつりと、そんな言葉がこぼれ落ちる。
 軽く出てきたけれど、何よりも重く感じた。
「……」
 俺は何も言えず、ただ黙ってその言葉を受け取る。
 先生の表情は、いつになく穏やかだった。
 ——きっと先生は、これを言うために、今日ここに来たんだ。
 そう思うと、不思議と涙がにじむ。
「……」
 窓の外では、今も青空に桜が舞っている。
 世界が終わるにしては、あまりにも穏やかで、美しすぎる朝だった。




テーマ:生と死
タイトル:なし
レポート提出者:2年1組 佐原碧人

 正直言って、生とか死とか、そんなテーマで何かを書くなんて無理だと思った。
 俺は哲学者でもなければ、聖人でもないし。
 しかも、明日で地球が終わるかもしれないってときに、そんなこと考える余裕なんてないでしょ。先生も無理なこと言うよね。

 でも、考えた。
 考えて、考えて……結局、答えは出なかったけど、なんとなく思ったことがある。

 〝生きてる〟って、何かを選ぶことの繰り返しかなって。
 学校に行くか、サボるか。人と話すか、黙ってるか。
 レポートを書くか、書かないか。
 くだらない選択に見えても、全部、自分の意思で選んでる。
 その選択こそが、俺たちが〝生きてる〟っていう証になるんじゃないかと思った。

 〝死ぬ〟っていうのは、もう選べなくなること。
 何もできないし、何も返せないし、何も伝えられない。
 そうなったら、終わり。それが、〝死〟ってこと。

 でも、もし避けられない運命の中で、死ぬ間際に「自分で選んだ」って思えることがあったなら、それは、すこしだけでも〝生きてた〟って言えるんじゃないかって思う。

 俺は地球滅亡の日に、先生にレポートを渡すって選んだ。
 先生も、俺に会うって選んだ。
 それだけでも、すこしは〝生きた〟って言えるんじゃないかな?

 だから、よくわかんないけど。
 自分が何を言いたいのか、まったくわかんないけど。
 それでもこのレポートが、〝俺が生きた証〟ってことになると思うので、このまま提出しようと思いまーす。これが俺の結論でーす。
 内容は薄いし、なんか感想文みたいになっちゃったけど、まぁ、俺らしいでしょ。

 ってことで、以上でーーす。