なんであんなことを言ってしまったのだろう?

 思ってもいなかったことを口にした自分に、自宅に帰ったあとも驚き続けた。

 わたしが美容室の経営者? 
 なんで?

 同じ問いが頭の中をぐるぐる回った。でも、理由などわかるはずもなかった。思わず口を衝いたのだから、いわば、出まかせなのだ。

 そんなことを考えていたら、ふと彼女の驚いたような表情が目に浮かんだ。可愛い口が開いたままのあの顔だ。
 でも、否定するような表情ではなかった。本心はわからないが、どうしてかそう確信すると、わたしが美容室の経営者で、彼女が美容師で、2人が一緒にやるということもあり得るのではないか、という考えが浮かんできた。

 あり得なくもない。

 否定する気持ちにはならなかった。
 それに、言ってしまった以上、あとに引くわけにはいかない。あれは冗談でしたって言うわけにはいかないのだ。しかも、わたしは会社を辞めて新たな道を探している。髪を染めて生まれ変わった自分が活躍できる場を探しているのだ。

 ぴったりではないか、

 髪で苦労した自分が髪に関係する仕事をするのは生まれた時から決められた運命ではないかという気がしてきて、ますますその気になった。

 やるしかない!

 結論を下すのに時間はかからなかった。となれば善は急げで、スマホを手に取り、全国展開している美容室を検索した。

 しかし、見つけることはできなかった。限定された地域で展開しているところはいくつかあったが、広域に展開するチェーン店はなかった。

 がっかりした。でも、どうしようもなかった。それでもここで諦めるわけにはいかない。理容室ならあるかもしれないと思って、気持ちを切り替えた。

 今度はすぐに見つかった。広域に展開している理容室チェーンが社員を募集していた。当然のごとく理容師の募集が前面に出ていたが、下へスクロールしていくと、『経営企画職の募集』という文字が目に入った。これなら可能性があると思って詳しく読むと、前提条件が書かれていた。〈経営企画の仕事を3年以上経験していること〉と明記されていたのだ。
 それは無理だった。わたしにその経験はない。なので、諦めて他を捜そうと思ったが、その時、救いを差し伸べるような文言が目に入った。〈もしくは、MBAの資格を持っている人〉

 MBAか、

 思わず呟いてしまったが、それはがっかりした響きではなかった。自分でもわかるくらい頬が緩んでいたのだ。もちろん、わたしはMBAの資格など持ってはいない。でも、以前から憧れていたこともあって、この条件にはなんの抵抗も感じなかった。というより、俄然、目の前が開けてきたように感じた。〈大学院へ行って、MBAを取得して、全国規模の理容室チェーンでノウハウを身に着けて、数年後に彼女と美容室を開設する〉という妄想がどんどん膨らんできた。それは抑えきれないほどの大きさになった。すかさずネットで検索して、資料をいくつか取り寄せた。

        *

 1週間もかからずにすべての資料が揃った。すぐさま比較表を作って必死で見比べた。選択できるコース、カリキュラム、講師陣、設備の充実度など、多岐にわたって詳細に検討した。

 その結果、都心にある経営大学院が最適と判断した。そこには経営者育成コースがあり、既に多くの卒業生が社長になっていると記されていた。これこそ自分が目指しているものにぴったりに違いないと確信した。

 あとは学費が払えるかどうかだが、これについては問題なかった。2年間の合計が400万円になるらしいが、貯金と割増退職金があるから余裕で賄える。生活費についてもまったく問題がない。

 他に検討すべきことは……と考えたが、何もなさそうだった。
 善は急げ! と同封されていた願書に記入を始めた。名前、住所、電話番号と書いていき、志望動機と将来の目標については別の紙にまとめてから、何度も確認した上で書き込んだ。自分の夢を実現させるためには計画に具体性がなければならないからだ。

 書き終わるのに3日ほどかかったが、すべてが埋まった願書を見ていると、新たな道を進む自らの姿が見えたような気がした。