髪を染めるのを諦めて1週間ほど経った頃、衝撃的なニュースが飛び込んできた。それは、会社の将来に関わる重大な事柄だった。

 中堅の製薬会社に勤めているわたしはMR(メディカル・リプレゼンタティヴ:医薬情報担当者)と呼ばれている営業職に就いているが、その名称は最近のことで、昔はプロパーと呼ばれていた。プロパガンダ(学術宣伝)をする人という意味だ。しかし、実際は医者にへりくだってゴマをするというイメージが付きまとっており、バカじゃないとできないということから、「プロのパー」という陰口を叩かれたこともある。

 そのせいか、わたしが製薬会社に入社して営業をしたいとゼミの先生に伝えた時、「止めておきなさい」と顔色を変えられた。そして、製薬会社の営業がどれほど大変かということを口を酸っぱくして忠告された。

 それでも他の職種よりも給料が高いのと、ボーナスが8か月も出るという好条件を退けることはできなかった。決めたことを伝えに行くと、呆れられた。

 入社した会社の主力薬は循環器用薬だった。高血圧や狭心症、心筋梗塞などの薬だ。しかし、この分野は競合が多く、差別化も難しいので、処方を獲得するのは大変だった。

 そのせいもあって、経営陣は別の分野への進出を狙っていた。がん治療薬と認知症治療薬だ。10年前から年間の研究開発費200億円の大半をこの2分野に投入していた。特に認知症治療薬には社運をかけると言ってもいいほど力を入れていた。本格的な治療薬はまだないので、もし成功したら果実を独り占めにできるからだ。

 それが功を奏したのか、昨年、厚労省に承認申請をすることができた。最終治験(ちけん)と呼ばれている第3相の臨床試験で治癒や著効例は得られなかったが、進行を遅らせることができるというデータを得ることができたからだ。

 経営陣は固唾(かたず)を呑んで成り行きを見守っていた。それは社員も同じだった。10年間で1,000億円以上を注ぎ込んだビッグプロジェクトだから当然だが、社運がかかっていることを誰もが知っていたからだ。

 その結果が今日告げられた。
 厳しいものだった。
 承認は下りなかった。
 優位性に疑問が付いたことが理由のようだった。

 10年間の労力と1,000億円以上の開発費が無駄になった。当然のように会社はお通夜状態になり、すべての社員の目から火が消えた。

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 その1週間後、更に追い打ちをかけるようなことが起こった。人員削減の知らせだった。社員に向けた社長ビデオで「将来に向けて筋肉質の経営体にするため」と言っていたが、体制の合理化に舵を切ったことは明らかだった。つまり、リストラ(人員整理)だ。これから経営が苦しくなっていくから辞めてくれということだ。

 その翌週、希望退職制度が発表された。40歳以上の社員が対象で、割増退職金に上乗せする加算額は最大で基本給の40か月分となっていた。

 社内がざわついた。自分の周りでも、見切りをつけて辞めると公言する人が少なからずいた。

 それを聞いて、心が揺れた。約20年働いてそこそこ(・・・・)の貯金はあったし、割増退職金は魅力だった。それに、なんといっても養う家族がいない。教育費などの心配をする必要がないのだ。加えて、賃貸なので家のローンもない。元々愛社精神はゼロだし、仕事に対する未練もない。というか、医者にへいこらするのはもう疲れた。人生を変えるにはいいタイミングのように思えてきた。

 よし、髪を染めよう!

 急にその気になった。黒髪になるということは人生を変えるための儀式のような気がしたからだ。それに、若白髪のわたしを知らない人たちの中に入っていく絶好のチャンスのように思えた。

 環境を完全に変えるために髪を染める!

 心を固めると、すぐに行動を起こした。会社に必要な書類を提出し、その週末に再度、美容室を探し始めた。といっても、どの美容室がいいのか店の外から眺めてもよくわからない。客の多そうな店を探すことにした。