「それならば、幽世に行くか? 春代」

 紅蓮の声に思わず振り返る。
 信也は初めて紅蓮を見たようでひどく驚いていた。彰浩との試合を見ていなかったのだろう。

「幽世には人がいけるものなのか」

 信也は問いかける。
 それに対し、紅蓮は呆れたような顔をした。

「神隠しがあるだろう」

 紅蓮は答える。
 神隠しは昔からある解明されていない現象の一つだ。その原因が神やあやかしにあるのだとすれば、人間では太刀打ちができない。

「ですが、陰陽師としての仕事がございます」

「放っておけばいい。命を狙われるよりも気が楽だろう」

「それは、そうかもしれませんが……」

 春代は即答できなかった。

 ……紅蓮様の故郷を見てみたい気持ちもあります。

 紅蓮が育った幽世に興味があった。

「一度、行ったら帰ってこれないのか?」

「いいや。境界を塞がれなければ出入りは自由だ」

「それならば、春代を幽世に連れて行ってくれないだろうか」

 信也は頭を下げる。

 信也にとって元凶である静子も血の繋がった実の娘だ。

「セツの二の舞にはさせられない」

 信也の言葉は春代の心に響いた。

 ……お父様はお母様を大事にされていたのですね。

 他所に女を作っても、セツがなによりも大事だった。セツとの子である春代のことも愛していた。それを口にすることは許されなくとも、気持ちは変わらなかった。

「……では、紅蓮様。今回の仕事を終えたら、幽世に連れて行ってくださいませ」

「いいのか?」

「はい。紅蓮様の故郷を見てみたいです」

 春代の言葉に紅蓮は嬉しそうに笑った。

 その笑顔につられて、春代も笑みを零す。

「お父様」

 春代は頭を下げ続ける信也に声をかける。

 その声はとても穏やかなものだった。物心つく前から接してこなかった父親になにかを思うことはない。