異世界転生したと思ったら本能寺の変三日前の織田信長で詰みました

 気づけば日はとっくに暮れ、辺りは夜の闇に飲まれていた。
ただ座っていること以外、ここでは何もすることがない。

「遅い!」

 どこにもぶつけられない苛立ちに、扇を床に叩きつける。
恐れおののくことしか出来ない取り巻きたちの奥で、急に廊下が慌ただしくなった。

「殿。ただいま戻りました」

 蘭丸だ。
彼は今朝早くに会った時の姿そのまま、何一つ乱れた所のない状態で俺の前に頭を下げる。

「一体今まで、何をぐずぐずしていた!」
「申し訳ございません。殿より承りしご用命、無事果たして参りました」

 小姓の拾い上げた扇を受け取ると、パチンと打ち鳴らす。
蘭丸の横にしゃがみ込んだ。

「して、返事は?」
「急ぎ馳せ参じるとのことにございます」
「一緒には来なかったのか?」
「そ、それは流石に無理でございます。明智どのにも棟梁としてのお立場があり、すぐには動けません。しかも出陣を控えてのなか、いくら殿のお呼び立てとはいえ……」
「えぇい、もうよい。黙れ! 光秀はなにをしていた」
「出陣の支度を整えておりました。明後日には出陣される模様です」
「明後日に出陣? 明後日は、ここで茶会の予定ではなかったのか?」
「さようでございます」
「では、光秀は茶会には出席せず、そのまま戦に出発するのか?」
「はい。殿の命を受け、急ぎ出立すると聞いております」
「なぜ俺の茶会には出ない」
「殿の命を優先したものと……」

 光秀はあくまで、従順に従っていたのだ。
信長は最後まで、彼に裏切られるだなんて思ってもいなかっただろう。
どうすれば本能寺の変を回避できる? 
誰かに相談したくても、出来る相手がどこにもいない。
光秀にしたって、ある日突然発作的に信長を殺したわけじゃないだろう。
殺したくなるほどの、怨みを募らせていたはずだ。
なら今も戦の準備をしながら、俺を殺したいと思ってる? 
今すぐ茶会をやめ、兵を集めるか? 
集めたところで、誰にどう説明して指揮をとる? 

「蘭丸。兵を集めるとして、どれだけ用意出来る?」
「今からですか?」
「今すぐ。この本能寺で。最速で最強の陣をしきたい」
「えっと、中国攻めのため現在安土に残している兵のことでしょうか? ならば一度、本陣へ戻って家老にご相談を……」
「だよな」

 ガクリとその場に膝をつく。
たった一人、ワケも分からないままいきなり最高権力者になったところで、出来ることなんて何もないじゃないか。
勝手がまるで分からない。
現実はいつも厳しい。
俺はこのまま、殺されると知りながら死ぬしかないのか?

「どうすりゃいいんだよ……」
「殿。いかがなさいましたか」

 これほどの色香を放つ男子を、他に見たことがあるだろうか。
俺はその白い首筋に惹きつけられるように顔を埋め崩れ落ちる。

「怖いんだ。怖いんだよ、俺は……」

 全身で震えている。
孤独と死の恐怖が絶えず大波のように打ち寄せては覆いかぶさってくる。
いっそのこと、このまま溺れ死んでしまいたい。

「俺に天下取りだなんて、出来るわけないじゃないか。右も左も分からないような、ただのつまらない男だぞ。知恵もなければ勇気もない。権力や力だなんて、そんなものハナから信じちゃいねーよ。どうしろっていうんだ。所詮俺に扱いきれる器じゃねーんだよ」

 そうだ。
俺はずっと怖かったのだ。
運にもリアルにも見放された自分が。

「どうしよう。どうすればいい? 俺は死にたくない。こんなところで、死にたくねーんだよ」

 思わず蘭丸の腕をつかむ。
堪えていた嗚咽が喉をついた。
他にすがれるものなんてどこにもない。
甘えて許されるなら、何だってできる。
不意に白く繊細な指先が、俺の頬に触れた。

「殿はこれまでも、懸命に生きておいででした。そのことは、万人が知ることでございます」

 柔らかな手がそっと撫でるように頭を包み込んだかと思うと、俺は彼の胸に抱き寄せられていた。

「これまで殿がやって来られた試行錯誤は、正しいこともあれば間違いもあったかもしれません。ですが私を始め殿に付き従う者は、みな殿のお心を信じた者です」

 まだ十代と思われる彼の体は、若くみずみずしい力に満ちあふれていた。

「どうか殿は、ご自分の信じた道を歩んでください。我々はそのために、ここにいるのです」

 背に回された腕が、そっと俺の耳を撫で結い上げられた髪を撫でる。
俺はその透き通るような温もりのなかで、ぎゅっと目を閉じた。

「どうか殿のお心のままに。それがきっと、最善の道にございます」

 むせび泣く俺の背を、蘭丸はいつまでも優しく撫で、包み込んでいた。
抱きしめた体は強くしなやかで、俺の知るどんな女のものとも違う。

「信長さま。どうか天下をお取りくださいませ。そうすればこのような不安な夜が、再び訪れることもなくなりましょう」

 そうだ。
俺は織田信長だ。
この世の天下人となる人間だ。
誰もが望むその地位を、他の人間に奪い渡してよいわけがない。
成し遂げなくてどうする。
この運命を背負っているのは、正真正銘紛れなく俺自身なのだ。

「蘭丸、よく言った。おかげで迷いが取れた」

どんな時代にどんな状況で生まれようとも、この世を生き抜かなければならないことに変わりはない。
俺はただ自分の人生を生きるのみだ。

「明後日の茶会の準備はどうなっている?」
「万事滞りなく」
「して、光秀は明日にはここへ来るのか?」
「さように申しておりました」
「そうか」

 迷っている暇はない。
俺はいま自分の出来ることを出来る限りやるしかない。

「密命を与える。誰に知られることもないよう、光秀を俺の所に連れて参れ」
「かしこまりました」

 蘭丸が部屋を出て行く。
運命を決める朝を迎えた。
要塞のように重々しく荘厳な庭園の向こうに目覚めたばかりの太陽が昇る。
まるで生まれ変わった気分だ。
だがそれは他の誰のものでもない、俺自身の人生だ。
この先何度、こんな朝を迎えることが出来るだろう。

 そんなことを思いながらも、もそもそと布団から起き上がる。
俺が死ぬまであと一日。
初めてここで目覚めた時と同じように、年端もいかぬ幼い小姓が世話を焼きにきた。
彼らは小さな手で着物を運び、ちゃんと着替えを手伝ってくれる。
ここにいる彼らは全て、俺のためにいるんだ。
仕上げの帯がキュッと締められた。
差し出された扇を受け取ろうとした時、タイミングがずれ床に落とす。

「も、申し訳ございません!」

 その瞬間、渡し損ねた小姓だけでなく、その場にいた坊主全員が即座にひれ伏した。

「よい。それを拾ってくれ。恐れることは何もない。ご苦労だった」

 ガタガタと震えていた子供の顔に、ぱっと安堵と喜びの表情が広がる。
俺が微笑みかけると、今度はにこにことはしゃぎ始めた。

「信長さま。明日の茶会の支度を、検分なさいますか?」

 そういえば、茶会ってアレだよな? 
いわゆる茶道ってヤツだよな? 
茶会の作法なんて、知らねぇぞ。
信長って、確かお茶好きだったんだよな。
これはこれでマズい。

「蘭丸。茶会での作法を俺に……。いや、何でもない」

 そうだ。
信長は破天荒な人物だったんだ。
俺がその信長なら、作法もクソもないじゃないか。
ドンと構えているだけでいい。
明日死ぬかもしれない人間だ。
恐れることは何もない。

「ははは。明日はよい一日になりそうじゃの」
「はい。一同楽しみにしております」

 作法習慣伝統なんてものは、クソ食らえだ。
俺が新しいルールになるなら、それもいいじゃないか。
もし生き延びれば、この時代の常識も慣習も、俺に都合よく全部変えてやる。

 茶席に用意されていた飾り付けや間仕切りのようなものも、坊主に命じて全部取っ払ってやった。
俺主催のパーティーだ。
やりたいように出来なくてどうする。
常識か非常識かなんて、その場での多数派であるかないかの違いだけだ。
俺はこれからまさに、自分の運命を決める決断をしようとしている。
物事を選び決定していくことの出来ない誰かに、自分の身を任せるつもりはない。
他にもあれこれと指示を出し、あれやこれやも全てやり直させる。

「こんなことにすら考えも及ばぬとは、ただただ呆れるな」
「信長さまの英知は、凡人の及ばぬところにございます」

 坊主たちが揃ってひれ伏す。
それは違う。
この時代の他の多くの人間の考える常識とやらが、理解出来ないだけだ。
時がたてば、俺もただのつまらないどこにでもよくいる奴の一人にすぎない。

「殿。お耳をよろしいでしょうか」

 蘭丸が俺の足元に膝をつき、その美しい首元を眼下に晒す。

「何事だ」
「昨夜よりお呼び立てしていたものが、奥に参っております」

 光秀だ! 
俺は華やかに茶会の準備が進む庭園と部屋の様子を見渡した。
この栄華も幸福も、全てはそこにかかっている。

「案内いたせ」

 俺は蘭丸に連れられ、光秀の待つ場所へと向かった。
 太陽の光りが、茶会を明日に控えた賑やかな境内を照らしている。
その喧騒とかけ離れた庭の隅に立つひっそりと立つ小さな御堂の前に、光秀はいた。
僧たちが修行のために籠もるというその中は、今は扉が開け放されていた。
畳十五畳ほどの広さで、正面に立位の仁王像のようなものが飾られている。
その力強く荒々しい像の前に、頭巾のようなものをすっぽりとかぶり、一見したところ寺の高僧のようにしか見えない男が一人座っていた。
俺を見るなり深く頭を下げる。

「至急のお呼び立てと聞き、急ぎ馳せ参じました」

 顔を上げ、男が頭巾を取る。
その顔は老獪というには程遠く、柔和と判断する者には迂闊と言わざるをえない面持ちをしていた。
肌を這う皺は深く刻まれ、それが表情をさらに豊かに複雑にしている。
歴戦の武将らしい眼光の鋭さと威圧感は、壁際に建つ仁王像にも劣ってはいなかった。

「ご苦労であった」

 奥へ入ったとたん、蘭丸の手で扉が閉められる。
明かり取りのための小窓はあるものの、薄暗くなった部屋に二人きりとなった。

「して、いかがなさいましたか信長さま。秀吉どのにお伝えする、毛利攻略のよき策でも思い浮かびましたかな」

 今この瞬間にも、この男は俺を裏切るつもりでいるのだろうか。
下克上の世を文字通り自らの力だけで生き抜いてきた、この時代の武将だ。

「俺はお前を信用している」

 明日俺を殺す男の前に、ストンと腰を下ろした。
光秀は白髪交じりの眉をピクリと動かす。

「それは……。真に有り難き幸せに存じ上げます」

 老獪な武将は、すぐ目の前に腰を下ろした。
床に両拳を付き、頭を下げる。
ゆっくりと持ち上げられた顔には、冷ややかな笑みを微かに浮かべていた。
俺はあくまで冷静を保ったまま語りかける。

「此度の出陣の件。毛利軍との戦い勝利した後、秀吉を討て。あいつの首を俺にささげろ」

 そう言った言葉にすら、光秀は全くの無反応だった。
変わらず柔和な笑みを一定状態で保ったまま、返事はない。
俺はゆっくりと煽りを続けた。

「秀吉の首を討てば、今までの俺とお前の関係は、それ以降全く別のものとなるだろう。これまでのことは全て水に流す。この国を一つにした後に必要となるのは、秀吉や家康の力ではない。お前と俺の力だ」

 こういう言い方が、こういう誘い文句が、どれだけ効果があるか分からない。
もしかしたら、今のこの面会が最大の失策となるかもしれない。
だけど俺が考える今後を思うと、ウソでも間違っててもいいから、こう言うしかない。
光秀は腹の底から長く太い息を吐き出すと、静かに目を閉じた。

「何事かと急ぎ参ってみれば、このようなお話とは。この光秀、残念になりません」
「俺がこの先頼りにするのはお前だと言っているのに、何が不満だ」

 それなりの年齢を重ねた武将の、どっしりと構えながらも何を考えているのか分からない狡猾さがうかがえる。
川面に流れる枯れ葉を掴もうとして、なかなか掴み難いのと似ていた。

「殿はそうおっしゃいますが、なにゆえ秀吉殿を斬れと申しておるのでしょう。訳なくそのようなことをなさる方ではないと、我々一同は信じておりましたが。いつもの癇癪でも起こされましたか。あの男が何か信長さまに無礼でも……」
「秀吉はいらぬ。この先邪魔だ」

 そうだ。
この先俺が天下を取るなら、秀吉も家康も、光秀もいらない。

「そなたは秀吉を嫌っておろう。この戦で奴を殺せ。毛利の所業にすればよい。秀吉軍の志気もあがろう。奴の領地はそなたにやっても、仇討ちに成功した秀吉の配下の者にやってもよい。与えられたそれを泣いて喜びながら、守るであろう」
「そのようなお話を、儂にしてよろしかったのですかな?」
「そなただけだ」

 この寺の庭園にも、造成された川が流れていた。
磨き上げられた石が敷き詰められ、虫けら一匹泳いでいない川が。
川も作りかえることが出来るのなら、歴史だって作りかえられる。

「俺がこんなことを話すのは、光秀。そなただけだ」

 そう言ったとたん、彼は大声で笑い出した。

「ははははは。殿より承りし斯様なほどの厚いご信頼、真に有り難き幸せにございますな。よもや同じ話を、秀吉殿にもされているのでは?」
「たわけ! そう申すなら、今すぐこの場でお前も斬る!」

 腰の刀に手をかける。
カチリと白刃を浮かせてみても、この男は微動だにしなかった。

「斬りたければ、今すぐこの場で儂をお斬りなされ。これまでも殿が数々の武将相手にそうしてきたように。それでも信長さまに付き従う者は大勢おります。儂もそんなヤカラの一人でございます」

 彼はあぐらの膝を強くポンと叩くと、高らかに笑った。
「ははは。むしろ私の方こそ、秀吉殿に光秀を討てと命じられているものと思うておりました。殿はご自身が使えると判断した者しか、お気に召さぬゆえ」

「使えるものは重宝するのが当たり前だ。使い終われば、それまでのこと」

 光秀は目を閉じると、静かに息を吐き出す。

「お気に入りの一振りも、使い続ければ刃こぼれいたします。刀は研げばその切れ味を取り戻しますが、人は物ではありませぬ」
「だがその心に刃を持ち、人知れず研いでおくことは出来るだろう」
「そのような気概のある者は、情や情けでは動きませぬ」
「当たり前だ。情けなどで動いていれば、生き残ることも叶うまい」

 自分の手の中にある白刃が、窓から差し込む光にまばゆく輝く。
俺には一度も抜いたことも使ったことのない刃。
これまで触れたことすらなかった。
光秀はより一層穏やかな笑みを浮かべる。

「なるほど。信長さまの栄華が続くのは、神仏のご加護などではなく、殿自身のお力によるものでしたな」
「俺は神も仏も信じない。信じるのはただ、己のみ」

 わずかに引き出した刃を戻し、今度は俺自身が彼に背を向けた。
光秀。
俺を斬るなら、明日ではなく、今だ。

「さようでございますか? 意外と信じてみるのも、面白いやも知れませぬぞ」
「秀吉を斬れ。そなたにしか出来ぬことだ」
「信長さまにしか出来ぬこと。の、間違いでは?」
「おぬしがしくじれば、俺がやる」
「なるほど。殿に忠誠を誓うのも、難儀いたしますな」

 どこかから迷い込んだ雀が、明かり取りの窓辺に羽根を休めた。
そうかと思った瞬間、逃げるようにそこから飛び立つ。

「儂も殿と同じように、己の信じるものしか信じませぬ。そしてそれを選ぶのも、また己自身と思うております」
「それでよい。此度の戦で秀吉を討て。それが俺の信じる道であり、そなたに任せようと思うた役目だ」
「突然の急なお呼び出し。話とは、このことでしたかな?」

 光秀はあぐらをかいて座る自分の膝を、ごしごしとこすった。

「承知いたしました。殿がそこまで申すのであれば、我々も従いましょう」
「真か?」
「儂を信頼しておればこそ、このようなお話をされたのでしょう。他に頼める者がなく、儂を選んでくださったとなれば、それこそ身に余る名誉ともいうもの」

 光秀はやれやれと立ち上がると、齢のわりに肉付きのいい背を俺に向けた。
無防備な姿を晒したまま、閉じられた堂の扉をコツコツと叩く。

「森殿。そこに控えておられるか。殿との話は済んだ。開けてくだされ」

 刀にかけた手に力がこもる。
ここで光秀を斬れば、歴史が変わる。
俺は間違いなく、本能寺でこの男に殺されることはなくなるだろう。
彼の腰にも刀は見えるが、背後からの不意打ちとなれば、俺でもいける。
年老いた男の背中が、急に無防備でか弱いものに見えた。

「森殿? もしや聞こえておられぬのかな?」

 光秀は固く閉ざされた扉に手をかけ、ごとごとと開かぬ扉に気を取られている。
奴を襲うなら、今がチャンスだ。
気づかれぬよう、ゆっくりと刀を抜きだす。

「そういえば、殿は……」

 光秀が振り返った。
柄から手を放す。
それはスルリと音を立て鞘をすべり、カチリと小気味よい音を立て元の場所に収まった。

「なぜ此度は、本能寺に?」
「た、たまたま偶然、そうなっただけだ」

 扉が開いた。
真昼のまばゆい光りが、薄暗い堂内にさっと入り込む。
光秀の影がくっきりと俺の目の前に浮かび上がった。

「さようでございましたか。それは不運にございましたな」
「俺はまだ死にたくない!」

 土下座でその場にひれ伏す。
勢い余って、額を床に強打した。
だがそんな痛みよりも、抜いた刀で悟られた臆病な殺意に対する仕返しの方が恐ろしい。
実際の信長が彼に何をしたのかなんて詳しいことは全く分からない。
だからこそ俺には、こうするしかない。
「頼む、光秀殿! 俺はまだ生きていたい。ここで死にたくない。やり残したことがあるとか、そんな立派な志とか何もない。俺はただ、死ぬのが怖いんだ!」

 さすがに驚いた顔をしている光秀の膝にすがりつく。

「頼む。俺を殺さないでくれ。今度からお前のいうことならなんでも聞く。悪いところがあったのなら謝る。直す。これからも俺を指導し支える立場であってほしい」

 迫真の演技なんてものじゃない。
これは真実、俺の目から流れた涙だ。

「どうか、俺を殺さないでくれ。頼む。お願いだ……」

 吐息の漏れる音が頭上で聞こえる。
光秀は深いシワの刻まれた顔を柔らかく曲げてしゃがみこんだ。

「どうなされた、信長殿よ!」

 大きな手が両肩に乗り、しっかりと俺の体を掴んだかと思うと、強く揺さぶった。

「ははは。そのような情けないお姿まで披露されるとは、よほど心を許されたと見える。なに、殿が心配なさるようなことは何もありませぬ。まだ死を恐れるようなお歳でもござらぬでしょう。負け戦の最中ならいざ知らず、もはや天下を手中に収めたと言って過言のないお方が。どうなされた。急に怖じ気づかれたか?」
「違う。そうじゃない。今は純粋にたが、光秀殿が恐ろしいのです」
「殿!」

 光秀は今度は、顔いっぱいに大きな笑みを浮かべた。

「この光秀は今までもこれからも、未来永劫殿の側におります。殿は今まで通り、まっすぐに前だけを見てお進みくだされ。そうして最初の一歩を切り開いてゆかれるのが、信長殿の役目。その後ろをついて行くからこそ、我々がここにいる理由があるのです」

 百戦錬磨の老少の目は、誰よりも明るく眩しく光り輝いていた。
放つ眼光が俺の脳を突き破る。

「さぁ、もう話はこれでお終いです。儂は儂に与えられた仕事をこなしましょう。殿もまた、心穏やかにこれからの日々に備えられよ」
「……。それを、信じていいのか?」
「当然にございます。なにを迷うことがありましょう。殿はこの光秀を疑うおつもりか?」

 そう言われ、激しく首を横に振る。
俺にはもう、光秀の言動しか信じられない。

「さ。いつもの殿に戻られよ。儂にも儂の務めがありますゆえ、これにて失礼いたす。ですが次に会う時には、互いに笑って会うことをここで約束いたそう」
「ありがとう」

 俺は精一杯の感謝の気持ちをその言葉に込める。

「ありがとう。その言葉を聞けて、ようやく安心出来ました」

 光秀が堂を降りてゆく。
すぐ脇に控えていた身内のものと合流すると、人目を避けるように境内から出て行った。
蘭丸は膝をついたまま呆然としている俺を見上げた。

「光秀殿と、お話は出来ましたか?」
「……。分からぬ。が、そう信じたい」

 目元に残る涙を拭った。
俺は歴史を変えることが出来たのか?

「して、今日は何月何日だ」

 そう呟いた俺を、蘭丸の美しい顔が振り返る。

「天正十年、五月三十一日にございます」

 運命の日は、明後日に迫っていた。

 夜明けと共に起きだした俺は、招待客の接待に追われていた。
蘭丸をすぐ脇に置き、訪ねて来る人物一人一人を解説させる。
到底覚えきれる人数ではなかったが、今は仕方がない。
今後は彼らとの付き合い方も考えていかなければならないのだろう。
混雑する賑わいのなか、不意に蘭丸が耳打ちした。

「殿。本日の主賓である近衛前久さまがお越しになりました」
「近衛前久?」
「殿の盟友にございます。共に鷹狩りを楽しんでおいででした。太政大臣の職を辞されたばかりでございます」
「公家、というやつか」
「さようにございます」

 ひときわ目立つ派手な格好をして現れた男は、武士ではなかった。
髷ではなく、頭に黒い羽根のついた帽子を被っている。

「信長殿!」

 真っ赤な着物を着たその男は、にこにこと親しげに近づいてくる。
太政大臣って、確か総理大臣みたいなものだったよな?

「此度はこのような集まりにお招きいただき、有り難き幸せでございます」

 彼が公家なら、身分的には武士である俺より上のはずだ。
それなのに大げさな身振り手振りで、深々と頭を下げる。

「真に信長殿の、今の栄華とこれからの繁栄を誇るにふさわしいばかりの茶会ですな」

 媚びを売って這い上がろうとするタイプか。
そういう男は、俺に勢いのある間はついてくるだろうが、少しでも陰りを見せるとどう転ぶか分からない。
まだ光秀のことで気が気ではないが、これはこれで気を張る相手だ。

「ははは。そのようなお世辞など、前久殿と俺の間には不要のはず。今日は親しい身内ばかりを集めた気安い集まりです。心置きなく楽しまれよ」

 茶会の作法など知ったことのない俺は、自分のやりたいように全てを動かした。
こうやって好き勝手に振る舞うことで、力を誇示しボロを出さずにすむ。
何よりも気が紛れた。
明日のことなど、今は忘れていたい。
光秀の言葉を考える時間など、なくていい。
周囲を取り囲む人間が俺の一言で慌てふためき、おろおろする様子を見ていることほど、面白いものはなかった。
自慢げに披露される茶碗を割り、気に入らない踊り手の女は、すぐにそこから引きずり下ろした。
よく分からない茶会などさっさと終わらせて、酒を用意させる。

 主賓である赤服男の前久の席は、俺の真横に同列となって用意されていた。
それぞれに同じ豪華な料理が振る舞われていても、座る位置で序列が一目で分かるように出来ている。
俺はその一人一人を、間違いのないよう頭に叩き込んだ。

「信長どの。少し話してもよろしいか」

 ずっと隣で腰を下ろし、俺の悪行をはやし立てていた前久が不意に耳打ちした。

「征夷大将軍の任について、に、ございます」

 いつの間にか前久も、すっかり俺に敬語を使っている。
こういう男は、嫌いじゃない。

「ほう。それがどうした」
「信長さまがお望みなら、朝廷は関白でも太政大臣でもよいと申しております。私が今回ここへ来たのも、朝廷より信長さまの意向を確認してこいとのことでございまして……」
「は?」

 征夷大将軍? 
それって、鎌倉幕府とか室町幕府の、将軍さまってことだよな。
織田信長が将軍さま? 
そんな未来が、あったのかもしれないのか。

「そのような話は、いまここですべきではないな」

 明日がどうなるか分からないのに、そんな将来のことなんて考えられない。
もし俺が生き残り無事にこの運命を切り抜けられたなら、考えてみてもいいのかな。
信長として。

「ですが、信長殿の行く末を考えれば、いずれこの問題は避けて通れませぬ」

 蘭丸が空いていた盃に新しく酒を注いだ。

「この国で天下をとるには、いずれ必要になるかと……」

 秀吉は関白、家康は征夷大将軍だったよな。
じゃあ俺はなんだ? 
ただのしがないサラリーマンだ。

「となると、俺は太政大臣か?」
「それをお望みなら、私が帝に直接掛け合いましょう」
「はは。この俺が天皇陛下にご挨拶か」

 そんな夢みたいな現実が、本当にあるんだな。
この世のどんな女よりも美しい男が入れてくれた酒を喉に流し込む。
初夏のすっきりとした爽やかな酒の味が、全身に染み渡った。

「時期尚早だな」

 そう言った俺に、前久は改まって姿勢を正し、頭を下げる。
座る姿勢も頭を上げるその仕草も、武士のそれとは違い、気品にあふれていた。
なるほど。
こういう男が、出来る男ってヤツなのかなー?
「前久殿。これを」

 俺は蘭丸の手から酒瓶を受け取ると、彼の前に差し出した。
慌てて持ち上げられた盃に、なみなみと注ぐ。

「貴方の働きは……。俺もよく理解しているつもりです。まだ先のことは分かりませんが、これからもよろしくお願いします」

 真っ赤な服を着たきっと俺より偉い人が、驚く程目を丸くした。
その場にひれ伏すのを、複雑な気持ちで眺めている。

 配膳役の侍女が空になった皿を入れ替える。
新しい箸と共に、刻んだ茗荷の乗ったカツオの切り身とアワビの煮付けを盆に置いた。
俺が最期に食う飯がこれになるのなら、この人生も悪くないのかもしれない。
ようやく顔を上げた公家さんが盃を持ち上げた。

「信長殿。私は今日のよき日のこと、生涯忘れはいたしませぬ」
「えぇ。互いによき思い出となりましょう」

 朱の内側に金の塗られた盃の底に、鮮やかな菖蒲の花が浮かぶ。
喉を通る酒は熱く胃に流れこんだ。

「あはは。よい一日じゃ」

 もし史実通り光秀が攻めて来るなら、それは明日の早朝。
昨日の賭けがどうでたのかは分からない。
それでも今は、今を楽しむのも悪くないと思う。

「父上、お久しゅうございます!」

 見知らぬ若者が声をかけてきた。
父上? 
そうか。この歳だもんな。
これだけ大きな子供がいても不思議ではないか。
てか、子供とかいたんだ。
俺はまだ独身だったんだけどな。
信長の結婚がどんなものだか知らないが、子供もいたんなら、もういいか。

「おぉ。元気にしておったか」

 共に酒を酌み交わす。
子孫も残せているのなら、確かにもうこの世に思い残すことはない。
この栄華を頂点に俺が死ぬのも、ある意味神さまが俺に与えてくれたご褒美なのでは? 
そう思うと、急に気が楽になった。

「皆のもの、今宵は心ゆくまで楽しまれよ!」

 突然言い放った俺の言葉に、皆が喝采を送る。
一度は言ってみたかったよな、こんなセリフ。
そうだ。
明日のことなんて、誰も分からない。
こうやって未来からやってきた俺にだって、実際のところどうなるのかなんて分からないんだ。
現状、この世は確実に俺のもの。

 キラキラと舞い散る紙吹雪と、美男美女の踊り。
美味い酒と料理があれば他に望むことなど、なにがある? 
俺は酔った勢いで立ち上がると、ワケの分からない踊りを共に踊った。
もし明日死ぬのならば、それもまた本望。
言葉通り、戦地に赴く戦国武将なら、なおさらのこと。
この世は一時の夢なら、俺だって夢をみてもいいんじゃないか? 
明日をも知れぬ命であることは、今も昔も変わらない。
狂乱の夜が更けてゆく。
満月から中途半端に欠けた月が、ぽっかりと夜空に浮かんでいた。

 天正十年六月二日。
その日、夜明けと共に目覚めた俺は、今日を無事に迎えたことにほっとした。
昨晩浮かれて飲み過ぎた酒がわずかに残っていたものの、体調に影響するほどのものでもない。
なにやら塀の向こうで騒ぎがあったようだが、すぐにそれも途絶えた。

「朝の支度にございます」

 いつものように、蘭丸はたらいを持った小姓を従え、部屋にやってきた。
俺は布団からむくりと起き上がると、水面をのぞき込む。
水紋に映るその顔は、見慣れたようで見慣れぬ顔をしていた。

「蘭丸。外の様子に変わりはないか」
「特にございませんが……。何か気になることでも?」
「いや、別に」

 光秀は約束を守った。
俺は生き延びた。
歴史が変わり、運命が変わった。
運ばれてきた水の、冷たい水底に手を浸す。顔を洗う手が震えていた。

 着替えを済ませると、庭を見下ろす廊下から空を見上げる。
夜が明けたばかりのそこには、まだ低い太陽に下から照らされた雲の影が浮かんでいた。
新しい人生の始まりだ。
俺はこれから、信長として天下を取る。
死に恐怖していた時間が、急にバカバカしく思えた。

「蘭丸」
「はい」
「俺は天下をとるぞ」
「はい。存じております」

 この世のものとは思えぬ美しい顔が、俺に向かってにこやかに微笑む。

「殿。淡路までの道中でございますが……」
「淡路? 淡路って、淡路島か?」
「さようにございます。本日の予定ですが……」

 蘭丸のしゃべるそれを、聞いているようなフリをしながら、聞いていなかった。
光秀は来なかった。
俺の指示通り秀吉を討ちに行ったか? 
だとすると、今後のことを考えなければならない。
秀吉亡き後の光秀の処遇と、今後脅威となる家康の存在……。

「なぁ、蘭丸。船着き場までなんだが、馬は……」

 女の悲鳴が聞こえた。
何一つ汚れなどなかった庭先に、黒い甲冑を来た男たちが、どっと雪崩れ込んでくる。
呆然と立ちすくむ俺の肩を、蘭丸が掴んだ。

「殿、ひとまず奥へ!」

 僧たちに囲まれながら、引きずられるように奥の部屋へと連れ込まれる。

「取り囲む軍勢は明智勢。完全に包囲されております!」

 あちこちで悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえる。
ガチャガチャと慌ただしく武具が運び込まれてきた。
蘭丸や他の僧たちは手早くそれを身につけているものの、俺は不思議と冷静にそれを眺めていられた。

「殿。早く戦の準備を……」
「うむ」

 本能寺の変だ。
始まってしまったのか。
なんだ。
俺はやっぱり、歴史を変えることなんて出来なかったんだ。
当たり前だよな。
天下取りだなんて。
俺は本物の武将なんかじゃない。
ニセモノだ。
やることなすこと、結局こうやって誰からも認められることはない。
どうせ死ぬのなら、もっと楽しんでおけばよかった。
分かっていたことじゃないか。
人間誰もが最後は死ぬ。
この世が地獄であるならば、俺にもそれにふさわしい生き方があったはずだった。

「殿、早く鎧を!」

 美しく聡明な蘭丸の顔に、焦りが見えた。
懸命に俺に鎧を着させようとしている。
この子もここで死ぬのか。
今周囲で慌ただしく応戦の準備を整えている人たちも、全員……。

 蘭丸に促され、戦いの用意は調った。
まだまだ明るい朝のはずなのに、ぴったりと閉じられた部屋は薄暗い。
この部屋は昨夜の宴のために呼び寄せられた、女子供の部屋だったのだろう。
色とりどりの鮮やかな装束が甲冑姿の男どもに踏みにじられ、華やかな傘や鞠の間に武器が転がっている。

「信長さま。妙覚寺に遣いを出しました。信忠さま方援軍が来るまでの辛抱にございます」

 この先に何が待っているのかなんて、何も知らない蘭丸に覚悟の表情が浮かぶ。
手にはしっかりと刀が握られていた。

「殿。これが終われば、淡路で閲兵式にございます。出立を遅らせるわけにはまいりません。舟を待たせておりますゆえ」

 蘭丸は俺を振り返ると、にこりと微笑んだ。
この先の結末なんて疑う余地もない、心底純粋な笑みだ。

「あはは。そうだったな」

 そうだ。
明日がどうなるかなんて、誰にも分からない。
きっとどんな武将だって、この事態を予想出来なかっただろう。

「敵はどこにいる」
 だとしたら、俺がここで死ぬだなんて、誰が決めた?

「本能寺一帯を取り囲んでおります」
「そうか」

 目の前にあった、一本の長刀を手に取る。
これなら俺にでも戦えそうだ。
戦わずに死んだ奴の言うことなんて、誰が信じるだろう。
もし本当に明日という日があるのなら、俺はここで死ぬわけにはいかない。
しかも俺には、この先の未来がどうなるかを知っている。

「淡路の鯛は美味いぞ、蘭丸」
「はい! 承知しております」

 どこかで放たれたらしい火の、焦げ臭い臭いと煙が漂い始める。
逃げ惑う悲鳴と乱雑な足音の中、甲冑のガチャガチャと擦れ合う音が聞こえた。
目の前の襖が真っ二つに切って落とされる。
これが戦というのなら、目に物を見せてやろう。

「者ども、出陣じゃ!」

 初めて振るった長刀がキラリと光る。
俺は一人目の敵将の首をはね飛ばした。



【完】


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