天正十年六月二日。
その日、夜明けと共に目覚めた俺は、今日を無事に迎えたことにほっとした。
昨晩浮かれて飲み過ぎた酒がわずかに残っていたものの、体調に影響するほどのものでもない。
なにやら塀の向こうで騒ぎがあったようだが、すぐにそれも途絶えた。

「朝の支度にございます」

 いつものように、蘭丸はたらいを持った小姓を従え、部屋にやってきた。
俺は布団からむくりと起き上がると、水面をのぞき込む。
水紋に映るその顔は、見慣れたようで見慣れぬ顔をしていた。

「蘭丸。外の様子に変わりはないか」
「特にございませんが……。何か気になることでも?」
「いや、別に」

 光秀は約束を守った。
俺は生き延びた。
歴史が変わり、運命が変わった。
運ばれてきた水の、冷たい水底に手を浸す。顔を洗う手が震えていた。

 着替えを済ませると、庭を見下ろす廊下から空を見上げる。
夜が明けたばかりのそこには、まだ低い太陽に下から照らされた雲の影が浮かんでいた。
新しい人生の始まりだ。
俺はこれから、信長として天下を取る。
死に恐怖していた時間が、急にバカバカしく思えた。

「蘭丸」
「はい」
「俺は天下をとるぞ」
「はい。存じております」

 この世のものとは思えぬ美しい顔が、俺に向かってにこやかに微笑む。

「殿。淡路までの道中でございますが……」
「淡路? 淡路って、淡路島か?」
「さようにございます。本日の予定ですが……」

 蘭丸のしゃべるそれを、聞いているようなフリをしながら、聞いていなかった。
光秀は来なかった。
俺の指示通り秀吉を討ちに行ったか? 
だとすると、今後のことを考えなければならない。
秀吉亡き後の光秀の処遇と、今後脅威となる家康の存在……。

「なぁ、蘭丸。船着き場までなんだが、馬は……」

 女の悲鳴が聞こえた。
何一つ汚れなどなかった庭先に、黒い甲冑を来た男たちが、どっと雪崩れ込んでくる。
呆然と立ちすくむ俺の肩を、蘭丸が掴んだ。

「殿、ひとまず奥へ!」

 僧たちに囲まれながら、引きずられるように奥の部屋へと連れ込まれる。

「取り囲む軍勢は明智勢。完全に包囲されております!」

 あちこちで悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえる。
ガチャガチャと慌ただしく武具が運び込まれてきた。
蘭丸や他の僧たちは手早くそれを身につけているものの、俺は不思議と冷静にそれを眺めていられた。

「殿。早く戦の準備を……」
「うむ」

 本能寺の変だ。
始まってしまったのか。
なんだ。
俺はやっぱり、歴史を変えることなんて出来なかったんだ。
当たり前だよな。
天下取りだなんて。
俺は本物の武将なんかじゃない。
ニセモノだ。
やることなすこと、結局こうやって誰からも認められることはない。
どうせ死ぬのなら、もっと楽しんでおけばよかった。
分かっていたことじゃないか。
人間誰もが最後は死ぬ。
この世が地獄であるならば、俺にもそれにふさわしい生き方があったはずだった。

「殿、早く鎧を!」

 美しく聡明な蘭丸の顔に、焦りが見えた。
懸命に俺に鎧を着させようとしている。
この子もここで死ぬのか。
今周囲で慌ただしく応戦の準備を整えている人たちも、全員……。

 蘭丸に促され、戦いの用意は調った。
まだまだ明るい朝のはずなのに、ぴったりと閉じられた部屋は薄暗い。
この部屋は昨夜の宴のために呼び寄せられた、女子供の部屋だったのだろう。
色とりどりの鮮やかな装束が甲冑姿の男どもに踏みにじられ、華やかな傘や鞠の間に武器が転がっている。

「信長さま。妙覚寺に遣いを出しました。信忠さま方援軍が来るまでの辛抱にございます」

 この先に何が待っているのかなんて、何も知らない蘭丸に覚悟の表情が浮かぶ。
手にはしっかりと刀が握られていた。

「殿。これが終われば、淡路で閲兵式にございます。出立を遅らせるわけにはまいりません。舟を待たせておりますゆえ」

 蘭丸は俺を振り返ると、にこりと微笑んだ。
この先の結末なんて疑う余地もない、心底純粋な笑みだ。

「あはは。そうだったな」

 そうだ。
明日がどうなるかなんて、誰にも分からない。
きっとどんな武将だって、この事態を予想出来なかっただろう。

「敵はどこにいる」
 だとしたら、俺がここで死ぬだなんて、誰が決めた?

「本能寺一帯を取り囲んでおります」
「そうか」

 目の前にあった、一本の長刀を手に取る。
これなら俺にでも戦えそうだ。
戦わずに死んだ奴の言うことなんて、誰が信じるだろう。
もし本当に明日という日があるのなら、俺はここで死ぬわけにはいかない。
しかも俺には、この先の未来がどうなるかを知っている。

「淡路の鯛は美味いぞ、蘭丸」
「はい! 承知しております」

 どこかで放たれたらしい火の、焦げ臭い臭いと煙が漂い始める。
逃げ惑う悲鳴と乱雑な足音の中、甲冑のガチャガチャと擦れ合う音が聞こえた。
目の前の襖が真っ二つに切って落とされる。
これが戦というのなら、目に物を見せてやろう。

「者ども、出陣じゃ!」

 初めて振るった長刀がキラリと光る。
俺は一人目の敵将の首をはね飛ばした。



【完】