小学校を卒業する前に結斗は音楽を辞めてしまったけど、純は中学に入ってもピアノを続けていた。
相変わらず週に一回くらいはお互いの家に遊びに行っていた。純はコンクールに出たとか、こんな曲をやっているといった話をいつもしてくれた。
課題曲の曲想とか、作曲家の楽しい話。
音楽を辞めたけど、こういうとき自分も習っていて良かったと感じていた。全部じゃないけど純の話を理解できた。習っている間は、本当につらいばかりで楽しいことなんてなかったのに。辞めた途端、以前より楽しくなった。
結斗が歌を辞めても自分たちの関係は何も変わっていなかった。
強いて変わったところをあげるとすれば、昔みたいに一緒に音楽の宿題をしなくなったとか、お互い自分たち以外の友達が出来たくらい。
中学一年生は同じクラスだった。二年生は別のクラスで少しだけ離れた。
結斗は寂しいけど、この先ゆっくりと二人だけの時間は減っていくのだと思った。それが自然なんだって薄々気づき始めた。
結斗には純がいて純には結斗がいる。物心つく前から、そばにいたから近くにいるのが当たり前。だから、どんなに一緒にいる時間が少なくなってもゼロになる未来は少しも想像できなかった。
それが兄離れや弟離れが出来ないみたいな感情じゃないと気づいたのは「純がおかしくなった」ことがきっかけだった。
その日、純の家にいくと由美子さんはちょうど出かけるところだった。だから家にいたのは純だけだった。
地下にある純の部屋に行くと扉が少し開いていた。
床の上には楽譜が散乱していて、純は床の上に座り込み色のない顔で楽譜を睨んでいた。いつも整っているサラサラの黒髪が乱れて頬にかかっている。
その表情には既視感があった。
小学生のとき純の家に歌の宿題を持って遊びに行った日だ。
「……純」
結斗が呼ぶとすぐに純は、いつも通りに笑おうとした。けれどその笑顔は口角が上がっただけで歪なものだった。
結斗は本能的に危機感を覚えた。耳元で心臓がバクバクと音を立てていた。
忘れもしない。最後のクリスマス公演。
結斗が苦しかったとき、純はそばにいて手を握ってくれた。純のその暗い表情をみて、今日まで自分は純を寂しい場所に一人きりにしていたんだと気づいた。
自分だけ音楽をやめて楽になってしまったから、その純の抱える孤独に気づけなかった。一人ぼっちの誰にも届かない音楽はつらく寂しいものだと知っていたのに。
結斗はその場に佇んだまま激しく後悔していた。
「――結斗ごめん。今日は帰って。練習しないといけなくて。コンクールある」
初めて聞く純の暗い声だった。純は結斗に背を向けて落ちた楽譜を拾い始める。
その姿を見て反射的に結斗は純の背中に抱きついていた。あの日、結斗が泣いていた時に隣にいてくれたように、やり方は違うけど結斗も同じようにした。
もう小学生でもないし体も大きくなっている。
けど子供でも大人でも純だけは関係ないと思った。純だけが特別。
周りに純の友達がいたら、こんな小さな子供みたいなことはしなかった。
今この部屋には結斗と純しかいない。由美子さんも出かけている。
自分が泣いたときのように純だって泣きたいときは泣けばいいと思った。けれど抱きしめたのは後ろからだった。これでは胸を貸すというより自分が純に背中を借りているみたいだ。
「帰らない、絶対」
純は自分のお腹に回された結斗の手の甲を指でトントンと優しく叩いてきた。
「ゆーい、おねがい帰って。今日はピアノの勉強がしたいんだよ」
「嫌だ。一緒にいる」
今日だけは帰っちゃいけないと思った。
「何、赤ちゃん返り? 重いよ。つか、なんで泣いてんの」
言われて気付いた。結斗はポロポロと涙を落として泣いていた。きっと昔の辛かった記憶を思い出したから。
「分かれよ。俺のことくらい全部」
「王様かよ。横暴だなぁ」
純をなぐめるつもりだったし、自分が泣くつもりはなかった。けれど純の背中に抱きついていたら、背中から純の感情が流れこんでくるみたいで勝手に涙があふれてきた。
「……いいよ」
「だから、なーに?」
「ピアノ、やめてもいいよ。純」
「なんで、結斗が俺に許可するんだよ」
純は結斗の腕の拘束をとかずに、あの時と同じように好きにさせてくれた。
純を元気付けるつもりだったのに自分の方が純になぐさめられている。
「だって……純つらいんだろ。俺は純のピアノ大好きだよ。純が楽しくピアノ弾けなくなったら嫌だよ」
「……そっか」
純はゆっくりと頷いた。
「純が悲しいのは嫌だ。俺が好きな純のピアノじゃなくなるのも嫌だ」
「結には何で分かるのかな。――俺の今の気持ち。俺、何も言ってないよね」
「……ずっと一緒に、いたからだよ」
ぐすぐすと泣きじゃくる声に混じって答える。
「そーだね。もう泣くなよ」
純を特別と思う結斗の気持ちが純を幸せにできたらいいのにと思う。
「ピアノの宿題もコンクールもやめろよ。俺の前だけで弾いてよ、好きならどこでだってピアノは弾けるじゃん」
それは、かつて自分の母親が言った言葉だった。歌が好きならどこでも歌える。
同じことを純にも言っていた。
「結斗」
純は結斗の手をぎゅっと握った。その手の冷たさが胸に刺さるように痛かった。
「結斗、俺のピアノ、誰にも届かないんだって。全然駄目だってさ」
「ダメって……なにが」
「結斗が好きって言ってくれた音なのに。先生、ダメだって。だからもう弾けないよ。弾くの、つらい」
「……純」
「苦しいな。音楽と向き合うって。好きなだけじゃいられないよ」
「うん」
昔、結斗も同じだった。全部が嫌いになりそうだった。
純がいたから、今も歌を、音楽を好きでいられる。
「こんなに好きなのに、嫌いになる」
結斗はまだ教室や舞台袖で聴いた怖い音を覚えていた。
冷たく張りつめた教室に響く怒声。本番前の通し稽古で泣き叫ぶ小さな子供の声。
そんなところに純がいるんだと思うと耐えられなかった。
今まで一度だって、純の音が駄目だったことなんてなかった。純の音楽は結斗にとって、なくてはならないかけがえのないものだった。
ピアノが嫌いになるくらいなら、練習もコンクールも辞めた方がいい。それが正解だと疑ってもいなかった。
「俺が全部聴くよ。他の誰がダメって言ったって。純が嫌だって言ってもずっと純のそばでピアノ聴くから、だから」
言葉が続かなかった。
「……うん。ありがと」
どれくらいそうしていただろうか。ふっと純の背から結斗の胸に伝わる音が変わった気がした。
小さな子供みたいに純に甘えていた。
同じ年でも結局のところ純が兄で、結斗が弟みたいなものだった。
「――そうだな。俺ピアノ好きだよ。結が好きって言ってくれた音が好きだ。それが間違いなんて思いたくない。絶対」
「うん」
「だから、俺は演奏家にはならない。ピアノをずっと好きでいたいから」
結斗は純の決意を背中で聞いていた。
「結斗。ありがとう」
結斗は別に純に感謝されるようなことは何ひとつしていなかった。
文字通り赤ちゃんのようにぐずって、純がつらいのが嫌だと言っていただけ。
純は背中に引っ付いていた結斗を引き離して振り返る。
「純?」
二人して楽譜の散らばった床の上に座っている。純は結斗の顔を真正面から見た。同じように泣いていると思っていたのに、純の変化は目を少しだけ赤くしているだけで涙は流していなかった。
こっちは泣いて顔面ぐちゃぐちゃなのに。ちょっと悔しい。
純の三重瞼。目の下に長いまつ毛の影が落ちている。薄いピンク色の唇が綺麗に弧を描く。
純は、もういつもと同じように笑っていた。仕方ないなって少し揶揄うような声。
「ほら泣くなよ。お前いくつだよ」
「純と、同じ」
制服の下に着ている白のセーターの袖で涙を拭かれた。けれど涙は止まらない。
「だよなぁ」
純はそう言って、なんだかばつのわるいような顔をした。
「……ゆい」
名前を呼ばれて、純の整った顔が近づいてくる。なんだろう、と思う隙もなかった。
なんの前触れもなく、純は涙で濡れていた結斗の頬に唇を押し当ててきた。
頬にくっついた唇の温度は握り返されていた純の左手と同じ温度。
さっきまで冷たかったのに熱が戻っている。
(――え、今、き、キス、された?)
その事実に気づいた瞬間、結斗の頬が一気に熱くなる。純の唇の温度が思い出せないくらい。
「ぇ、あ……」
「ゆーい、涙止まったか?」
くしゃりと頭を撫でられる。
驚いて涙が引っ込んでいた。
「ば、バカだろ、な、何やってんの」
「びっくりすれば、涙って止まるだろ」
実際止まったから言われるままに頷いていた。何だか怒るのも変な気がして「そうかよ」とぶっきらぼうに返した。
純にキスをされたことより中学生にもなって幼馴染の前でボロ泣きしたことの方が恥ずかしかった。
これまで、純には恥ずかしい姿を数えきれないくらい晒している。
今更キス一つ追加されたくらいで大騒ぎするほどじゃない。
純に関して、結斗は自他の境界が曖昧だった。
半分が純だった。
純が悲しいと悲しいし、嬉しいと嬉しかった。
そんな出来事があってしばらくたった頃。
本当に純がピアノ教室を辞めたと聞いて、結斗は自分がした過ちに気がついた。「つらいならやめればいい」なんて本気で音楽をやっている人間に他人が口出ししていいことじゃなかった。
結斗は純が苦しそうに一人でピアノを弾いている姿をみたくなかった。
ただそれだけの理由。
自分のわがままで純のピアニストとしての未来を奪った。
いつか、そのことを純から責められる気がしている。
――その時が純と離れるときなんだろうか。
罪の意識は長い間持っていた。同時に、その日が未来永劫ずっと来なければいいと思っていた。
自分だけの純でいてくれることが、この上なく幸せだったから。
相変わらず週に一回くらいはお互いの家に遊びに行っていた。純はコンクールに出たとか、こんな曲をやっているといった話をいつもしてくれた。
課題曲の曲想とか、作曲家の楽しい話。
音楽を辞めたけど、こういうとき自分も習っていて良かったと感じていた。全部じゃないけど純の話を理解できた。習っている間は、本当につらいばかりで楽しいことなんてなかったのに。辞めた途端、以前より楽しくなった。
結斗が歌を辞めても自分たちの関係は何も変わっていなかった。
強いて変わったところをあげるとすれば、昔みたいに一緒に音楽の宿題をしなくなったとか、お互い自分たち以外の友達が出来たくらい。
中学一年生は同じクラスだった。二年生は別のクラスで少しだけ離れた。
結斗は寂しいけど、この先ゆっくりと二人だけの時間は減っていくのだと思った。それが自然なんだって薄々気づき始めた。
結斗には純がいて純には結斗がいる。物心つく前から、そばにいたから近くにいるのが当たり前。だから、どんなに一緒にいる時間が少なくなってもゼロになる未来は少しも想像できなかった。
それが兄離れや弟離れが出来ないみたいな感情じゃないと気づいたのは「純がおかしくなった」ことがきっかけだった。
その日、純の家にいくと由美子さんはちょうど出かけるところだった。だから家にいたのは純だけだった。
地下にある純の部屋に行くと扉が少し開いていた。
床の上には楽譜が散乱していて、純は床の上に座り込み色のない顔で楽譜を睨んでいた。いつも整っているサラサラの黒髪が乱れて頬にかかっている。
その表情には既視感があった。
小学生のとき純の家に歌の宿題を持って遊びに行った日だ。
「……純」
結斗が呼ぶとすぐに純は、いつも通りに笑おうとした。けれどその笑顔は口角が上がっただけで歪なものだった。
結斗は本能的に危機感を覚えた。耳元で心臓がバクバクと音を立てていた。
忘れもしない。最後のクリスマス公演。
結斗が苦しかったとき、純はそばにいて手を握ってくれた。純のその暗い表情をみて、今日まで自分は純を寂しい場所に一人きりにしていたんだと気づいた。
自分だけ音楽をやめて楽になってしまったから、その純の抱える孤独に気づけなかった。一人ぼっちの誰にも届かない音楽はつらく寂しいものだと知っていたのに。
結斗はその場に佇んだまま激しく後悔していた。
「――結斗ごめん。今日は帰って。練習しないといけなくて。コンクールある」
初めて聞く純の暗い声だった。純は結斗に背を向けて落ちた楽譜を拾い始める。
その姿を見て反射的に結斗は純の背中に抱きついていた。あの日、結斗が泣いていた時に隣にいてくれたように、やり方は違うけど結斗も同じようにした。
もう小学生でもないし体も大きくなっている。
けど子供でも大人でも純だけは関係ないと思った。純だけが特別。
周りに純の友達がいたら、こんな小さな子供みたいなことはしなかった。
今この部屋には結斗と純しかいない。由美子さんも出かけている。
自分が泣いたときのように純だって泣きたいときは泣けばいいと思った。けれど抱きしめたのは後ろからだった。これでは胸を貸すというより自分が純に背中を借りているみたいだ。
「帰らない、絶対」
純は自分のお腹に回された結斗の手の甲を指でトントンと優しく叩いてきた。
「ゆーい、おねがい帰って。今日はピアノの勉強がしたいんだよ」
「嫌だ。一緒にいる」
今日だけは帰っちゃいけないと思った。
「何、赤ちゃん返り? 重いよ。つか、なんで泣いてんの」
言われて気付いた。結斗はポロポロと涙を落として泣いていた。きっと昔の辛かった記憶を思い出したから。
「分かれよ。俺のことくらい全部」
「王様かよ。横暴だなぁ」
純をなぐめるつもりだったし、自分が泣くつもりはなかった。けれど純の背中に抱きついていたら、背中から純の感情が流れこんでくるみたいで勝手に涙があふれてきた。
「……いいよ」
「だから、なーに?」
「ピアノ、やめてもいいよ。純」
「なんで、結斗が俺に許可するんだよ」
純は結斗の腕の拘束をとかずに、あの時と同じように好きにさせてくれた。
純を元気付けるつもりだったのに自分の方が純になぐさめられている。
「だって……純つらいんだろ。俺は純のピアノ大好きだよ。純が楽しくピアノ弾けなくなったら嫌だよ」
「……そっか」
純はゆっくりと頷いた。
「純が悲しいのは嫌だ。俺が好きな純のピアノじゃなくなるのも嫌だ」
「結には何で分かるのかな。――俺の今の気持ち。俺、何も言ってないよね」
「……ずっと一緒に、いたからだよ」
ぐすぐすと泣きじゃくる声に混じって答える。
「そーだね。もう泣くなよ」
純を特別と思う結斗の気持ちが純を幸せにできたらいいのにと思う。
「ピアノの宿題もコンクールもやめろよ。俺の前だけで弾いてよ、好きならどこでだってピアノは弾けるじゃん」
それは、かつて自分の母親が言った言葉だった。歌が好きならどこでも歌える。
同じことを純にも言っていた。
「結斗」
純は結斗の手をぎゅっと握った。その手の冷たさが胸に刺さるように痛かった。
「結斗、俺のピアノ、誰にも届かないんだって。全然駄目だってさ」
「ダメって……なにが」
「結斗が好きって言ってくれた音なのに。先生、ダメだって。だからもう弾けないよ。弾くの、つらい」
「……純」
「苦しいな。音楽と向き合うって。好きなだけじゃいられないよ」
「うん」
昔、結斗も同じだった。全部が嫌いになりそうだった。
純がいたから、今も歌を、音楽を好きでいられる。
「こんなに好きなのに、嫌いになる」
結斗はまだ教室や舞台袖で聴いた怖い音を覚えていた。
冷たく張りつめた教室に響く怒声。本番前の通し稽古で泣き叫ぶ小さな子供の声。
そんなところに純がいるんだと思うと耐えられなかった。
今まで一度だって、純の音が駄目だったことなんてなかった。純の音楽は結斗にとって、なくてはならないかけがえのないものだった。
ピアノが嫌いになるくらいなら、練習もコンクールも辞めた方がいい。それが正解だと疑ってもいなかった。
「俺が全部聴くよ。他の誰がダメって言ったって。純が嫌だって言ってもずっと純のそばでピアノ聴くから、だから」
言葉が続かなかった。
「……うん。ありがと」
どれくらいそうしていただろうか。ふっと純の背から結斗の胸に伝わる音が変わった気がした。
小さな子供みたいに純に甘えていた。
同じ年でも結局のところ純が兄で、結斗が弟みたいなものだった。
「――そうだな。俺ピアノ好きだよ。結が好きって言ってくれた音が好きだ。それが間違いなんて思いたくない。絶対」
「うん」
「だから、俺は演奏家にはならない。ピアノをずっと好きでいたいから」
結斗は純の決意を背中で聞いていた。
「結斗。ありがとう」
結斗は別に純に感謝されるようなことは何ひとつしていなかった。
文字通り赤ちゃんのようにぐずって、純がつらいのが嫌だと言っていただけ。
純は背中に引っ付いていた結斗を引き離して振り返る。
「純?」
二人して楽譜の散らばった床の上に座っている。純は結斗の顔を真正面から見た。同じように泣いていると思っていたのに、純の変化は目を少しだけ赤くしているだけで涙は流していなかった。
こっちは泣いて顔面ぐちゃぐちゃなのに。ちょっと悔しい。
純の三重瞼。目の下に長いまつ毛の影が落ちている。薄いピンク色の唇が綺麗に弧を描く。
純は、もういつもと同じように笑っていた。仕方ないなって少し揶揄うような声。
「ほら泣くなよ。お前いくつだよ」
「純と、同じ」
制服の下に着ている白のセーターの袖で涙を拭かれた。けれど涙は止まらない。
「だよなぁ」
純はそう言って、なんだかばつのわるいような顔をした。
「……ゆい」
名前を呼ばれて、純の整った顔が近づいてくる。なんだろう、と思う隙もなかった。
なんの前触れもなく、純は涙で濡れていた結斗の頬に唇を押し当ててきた。
頬にくっついた唇の温度は握り返されていた純の左手と同じ温度。
さっきまで冷たかったのに熱が戻っている。
(――え、今、き、キス、された?)
その事実に気づいた瞬間、結斗の頬が一気に熱くなる。純の唇の温度が思い出せないくらい。
「ぇ、あ……」
「ゆーい、涙止まったか?」
くしゃりと頭を撫でられる。
驚いて涙が引っ込んでいた。
「ば、バカだろ、な、何やってんの」
「びっくりすれば、涙って止まるだろ」
実際止まったから言われるままに頷いていた。何だか怒るのも変な気がして「そうかよ」とぶっきらぼうに返した。
純にキスをされたことより中学生にもなって幼馴染の前でボロ泣きしたことの方が恥ずかしかった。
これまで、純には恥ずかしい姿を数えきれないくらい晒している。
今更キス一つ追加されたくらいで大騒ぎするほどじゃない。
純に関して、結斗は自他の境界が曖昧だった。
半分が純だった。
純が悲しいと悲しいし、嬉しいと嬉しかった。
そんな出来事があってしばらくたった頃。
本当に純がピアノ教室を辞めたと聞いて、結斗は自分がした過ちに気がついた。「つらいならやめればいい」なんて本気で音楽をやっている人間に他人が口出ししていいことじゃなかった。
結斗は純が苦しそうに一人でピアノを弾いている姿をみたくなかった。
ただそれだけの理由。
自分のわがままで純のピアニストとしての未来を奪った。
いつか、そのことを純から責められる気がしている。
――その時が純と離れるときなんだろうか。
罪の意識は長い間持っていた。同時に、その日が未来永劫ずっと来なければいいと思っていた。
自分だけの純でいてくれることが、この上なく幸せだったから。


