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夢の中で結斗は昔のクリスマスの思い出のなかにいた。
純と一緒に冬休みを待ち遠しく思う毎日。
小学校低学年のころも相変わらず両親は仕事で忙しかったけど、クリスマスには必ず家族揃ってケーキを囲んでいた。父もまだ単身赴任していなかったので、毎日家に帰ってきていた。だから結斗の心踊る気持ちもあいまって、毎年十二月は普段より家の中が賑やかだったかもしれない。
けれど、そんな楽しい冬の思い出は小学校低学年までだった。
――夕飯のときに母親が「クリスマス」なんて言ったからだ。
結斗の目の前に苦い思い出が静かに広がっていた。
思えば結斗が歌を習いにいくようになってから、家族はバラバラになった気がする。
結斗は小学校三年生から、冬休みに行われる定期公演会に出演するのが恒例行事になっていた。そのためクリスマス前は普段より歌の練習時間が長くなり忙しかった。
本番前は一日通しでゲネプロがあり、クリスマスイブには本番。
子供の体力や集中力は、訓練である程度は伸ばせるものだ。でも、もともと大人ほど強くはない。
はっきりとした目標があれば、厳しい練習だって耐えられるかもしれない。でも「楽しい」という気持ちだけでは、続けるうちに心が折れてしまうこともある。
今ならそんなことは当たり前だと分かる。
けれど、子供だった結斗には、その「当たり前」がまだ分からなかった。
結斗のことを繊細だと母や純は言っていたが、自分からすれば単純で頑固なだけだと思っている。
結斗自身がやりたいと言って始めた習い事を、自分から辞めるなんて恥ずかしくて言えなかった。
クリスマスの公演が終わっても合宿での練習があった。あんなに好きだった歌うことが苦痛になり始めていた。もちろん習っていた当時は、それが苦痛なのだと気付いていなかった。
――加減を知らないバカだったから。
習い事に関して両親は反対しなかったが、元々音楽に興味もなかった。
子供が定期公演に出る場合でも両親は見に来てくれなかったし、無関心が興味に変わることはなかった。
結斗の生活が音楽中心になるにつれ、クリスマスや年末の楽しいイベント行事は全て親や純と離れて過ごす時間に変わっていた。
一緒の目標を持った友達がいたら、習い事が居場所になったかもしれない。けれど何年通っても居心地が悪く、いつしかクリスマスは結斗にとって「寂しい時間」に変わっていた。
クリスマスの公演では、毎年決まって『くるみ割り人形』が演じられた。
それは自分たちの合唱団だけでなく、市の交響楽団やバレエ団、ピアノ教室も合同で参加する大きな催しだった。
最初の年は結斗も、迷路のような舞台裏や地下にある秘密基地みたいな控室に興味津々だったし、煌びやかな大ホールに目を輝かせていた。けれど、五年生の時は本番前から気落ちしていた。連日の厳しい練習に疲れていたし、神経がビリビリと張り詰めていた。
その年はピアノの演奏で純も出演することになっていたので、クリスマスに純と遊ぶことだけが楽しみだった。公演が終わったら由美子さんの車で純と一緒に帰る約束をしていたので、ずっと純の顔ばかり思い浮かべていたかもしれない。
本番前の昼休み時間だった。
朝から体調が悪かったし、気持ち悪くて結局ご飯は食べられなかった。
結斗はロビーに漏れ聞こえる音に誘われ一人でふらりと大ホールに入りこんだ。目の前ではバレエの『金平糖の精の踊り』の最終演出の調整中だった。舞台の前には、たくさんの楽器が並んでいる。
赤いベロアの客席。結斗は一番後ろの席に座った。近くに座っていたバレエ団の保護者たちは、自分の子供たちをじっと見守っていた。結斗はその光景を少しだけうらやましく感じていた。
そこに大きな声が割り込んだ。
――XXXちゃん! それじゃあ、飛べてない! 低い! 妖精に見えないでしょう。
――さっきも言いました! なんで出来ないの? そんなので今日の舞台立てると思ってる?
ヒステリックな先生の金切り声とパンパンと殴るように拍を取る手拍子の音が客席まで響く。
『金平糖の精の踊り』は、去年舞台袖から観て楽しい気分になって大好きになった。
結斗が大好きな曲だった。
大好きな音が嫌いな音になる。鼓膜に傷のように記憶が残る。
楽しくて自由な音が一つまた一つと消えていく。耳を塞げば良かった。後悔した。
美しい音楽の舞台裏なんて知らなければ良かった。
自分は自由で楽しいだけで良かったのに。
楽しかった記憶が一瞬で怖い記憶に塗り替わった気がした。
自分の歌の先生も練習のときは同じように厳しくひどいことを言う人だった。子供だからといって手を抜いたり甘やかしたりしない。
それが音楽と真摯に向き合うことだと教えられた。
音楽と真摯に向き合うと、その先に何があるんだろうといつも思っていた。
いつかこの苦しい気持ちが「楽しい」と「嬉しい」に変わるんだろうか。このまま歌い続けていけば、
純と一緒に、もっと楽しい時間を重ねていけるのだろうか。誰も答えなんて教えてくれない。
ずっと暗く細い道を孤独に歩いている気がした。
いつも純はこんな寂しさを抱えて一人で音楽と向き合っているのだろうか。あんなにも鮮やかで、心を弾ませる音色を結斗に届けてくれるのに。
もし自分と同じなら、いますぐ純を抱きしめたいと思った。「ちゃんと純の音は俺に届いてるよ」って、毎日飽きるほど純のピアノが大好きだって伝えたいと思った。
一人ぼっちの誰にも届かない音楽は寂しい。
「冷たい、音だ。痛い」
ぽつりと誰にも聞こえない声。客席でひとり呟いていた。
心が冷えて凍っていく。
本当の芸術は、冷たくて寂しいものなんだと結斗は知った。
休憩のつもりで大ホールに遊びにきたのに、雰囲気にのまれて休憩前よりも疲れていた。外へ出ても、舞台裏ではレッスンに熱心な母親に怒られている子供たちに遭遇した。結斗が怒られているわけでもないのに、嫌な気持ちでいっぱいになった。結斗は人より音の感じ方が繊細だったかもしれない。耳の奥が痛くてたまらなかった。
あんなに厳しい練習を乗り越えて今日を迎えたのに、結斗はその日の本番中ずっと上の空だった。
公演後、先生の講評が終わり、純と待ち合わせをしていたロビーのソファーまで辿りつくと、急に身体中の力が抜けて座りこんでしまった。
結斗が今日歌ったのは、ベートヴェン第九『喜びの歌』だった。
幸せな歌なのに全然違う音になった。
ずっと耳の奥にざらざらとした不快な音が残っている。
待合ロビーの高い天井とシャンデリアを見上げていた。
ふと階段下の入り口を見た。入り口は開け放たれ、十二月の冷たい空気がロビーまで流れ込んでくる。
本番前に一方的に怒られて、歯を食いしばって耐えていた子供たちが、にこにこ楽しそうに花束を抱えて出口に向かっていく様子が、なんだか気持ち悪いなと思った。
花を渡されたくらいで、嫌な気持ちがゼロになるなんて嘘だと思った。
毎年、公演後は少しだけ暗い気持ちになっていたけれど、その年は去年の比じゃなかった。その日まで気づかないふりをしていた嫌な感情の積み重ねが、どっと波のように押し寄せてきた。
多分限界だった。
純の顔をみた途端に、抑えていた感情が溢れてきて止まらなくなった。
「結斗お待たせ、帰ろー」
結斗の前に他の出演者と同じように花束を持ってやってきた純を見て急に寂しくなった。目の前に純がいるのに、急に自分がこの世界にひとりぼっちのような気がした。
それでも由美子さんの車に乗るまでは無理をして、いつも通り純とくだらない話をして笑っていた。
「今日、客席で初めて結斗の歌聴いたよ」
「……うん。俺、純のピアノは聴けなかった。出演順真ん中だったから」
聴きたかった。純の楽しい音が。
「俺も今日はベートーヴェンだったんだけど――結斗?」
「……うん」
純は突然となりで静かになった結斗の顔を覗き込む。不思議そうな顔をしていた。
運転席から由美子さんも「結斗くん、すごく上手だったよ」と言ってくれた。
歌ならいつも純の前で歌っていた。親の前でも、いつも好き勝手に歌っていた。
歌えるならなんだって、どこだっていいと思っていた。でも自分は違った。
一人で歌うのが寂しかった。楽しくなかった。苦しかった。
あの広い大ホールの客席で誰かが自分の歌を聴いていた。
由美子さんが、純が。
他の誰でもない一番聴いて欲しかった純が自分の歌を聴いてくれたのに、上の空で歌ってしまったことが悔しかった。
せっかく練習したのに、とその瞬間、後悔した。
何のために、誰のために自分は頑張って歌っていたのか。純のためだった。全部。
とにかく泣きたかった。
疲れと心細さがピークまできていた。結斗はぼろぼろと涙が溢れてくるのを自分で止められなかった。
気付いたときには後部座席で隣に座っている純の胸にすがりついていた。
うんと小さいときは抜きにして、由美子さんの前や純の前で取り乱すくらいに、べしょべしょに泣いたのは初めてだった。
「結斗、どうしたの」
「……つか……れた」
そのかすかな声は多分純にしか聞こえていない。
純の胸で、ひく、としゃくり上げた瞬間。決壊する。
運転席にいた由美子さんには、突然泣き出した結斗がミラー越しにしか見えていなかったと思う。
純は、すごく驚いていたけれど、しがみ付いてきた結斗を引き離そうとはしなかった。
好きに泣かせてくれた。
自分の心の声を説明する言葉が見つからなくて一番近い感情が「疲れた」だった。
ピアノの発表会で純はいい服を着ていた。その服を涙と胃液を吐いて汚した。けれど純はなにも言わずに背中と頭を撫でて手を握ってくれた。
「どうしたの、大丈夫? 結斗くん」
「……母さん、結斗、調子悪いみたい」
「まぁ大変。亜希ちゃん迎えに来るまでうちで寝たらいいよ」
「……大丈夫だよ。結」
結斗の耳元で純があやすように言った「大丈夫」って繰り返す声が優しかった。
冷たくなっていた体が純に温められる。公演会場の空気に当てられて泣いていた自分は純のお陰で段々と落ち着きを取り戻していた。
純の家に着くと自分の家じゃないのに、自分の家みたいに由美子さんと純に世話されてしまった。
あったかいココアを飲んだあたりから公演会場で感じていた、よく分からない不安は消えていた。
そして、もう大丈夫だって言ったのに、純に手を引かれて地下の純の部屋のベッドに押し込められた。
「ねぇ結斗、歌嫌いになった?」
純に訊かれて好きだとすぐに答えられなかった。
「――分かんない」
「今日さ、会場のピアノすごく良かったよ。明るくて、楽しい音だった」
結斗は布団から頭を出してピアノの前に座る純を見た。たくさん弾いたのに、家に帰ってもピアノの前に座る純は本当にピアノが好きなんだと思った。
結斗だって少し前まで同じだった。今は違うけど。
「ねぇ。俺、今日純の演奏聴けなかったから、弾いてよ」
「何がいい?」
「くるみ割り人形」
「ピアノじゃなくてオケじゃん、もういっぱい素敵な演奏聴いたのに?」
「純のがいい、純の音が聴きたい」
駄々っ子のように純の音楽を欲しがった。
「いいよ」
純は『くるみ割り人形』の序曲を少し小さな音で弾き始める。体調が悪かった結斗に気を使っているのだとわかった。
あんなに耳がタコになるくらい聴いて、もうクリスマスに『くるみ割り人形』なんてうんざりだった。けれど純が弾くとちゃんと舞台袖で聴いた時と同じワクワクとドキドキが蘇ってきた。
キラキラした音。楽しい音。
耳を擘くような、あの嫌な音が綺麗に消えていった。
演奏はバレエの演目順に続き、二部に聴いた『ロシアの踊り』で、結斗はすっかり元気になって純の横に座って歌いながら笑っていた。
本当に結斗は単純な子供だったと思う。
単純だったからクリスマスイブの苦しかった思い出は、純のピアノで楽しい思い出に変わった。
音楽ってすごいなって思った。人の気持ちをこんなに変えられるんだって思った。
だから何もなければ、来年も結斗は嫌な気持ちを抱えながら歌の習い事を続けていた。
けれど由美子さんがあの日、母親へ何か伝えたらしく帰り道で「歌を辞めなさい」と言われた。
結斗の音楽に母親は無関心だった。
だから、それが例え辞めろという形でも結斗の音楽に初めて家族が関わってくれたことに、内心少しだけほっとしていた気がする。
多分、あのままだと音楽自体が嫌いになっていたし、母の判断は正しかった。
クラスが上がれば海外への演奏旅行もある。それに関連するお金や親のサポートも必要になる。
あとから純に聞いたけど、由美子さんは自分が通っている教室や練習について結斗の母親に全部伝えたらしい。あそこのお教室は大変よ、みたいなこと。
反対しても結斗が続けると言えば親も協力してくれただろうし、本気で音楽をやると言ったならマンションだって引っ越して、ピアノも買ってレッスンへ行かせてくれたかもしれない。
でもその時点で親の反対を押し切る理由が結斗にはなかった。
結斗は、母親に言われて初めてこの先、自分がどうしたいのかわかった。
――歌なら、どこでも歌えるのに、どうして結斗は、習い事を続けたいのか、お母さんに説明できる?
楽しく歌っていたいだけ。純と一緒にいたかった。一緒に遊びたかった。
結斗が音楽を始めた理由なんて、結局それだけだった。
結局「好き」以外に続ける明確な理由も目的も母親に説明が出来なかった。
結果的に、結斗は納得して次の年、習い事を辞めたし、シニアクラスに上がる入団試験も受けなかった。
結斗はクリスマスに、あまりいい思い出がない。
けれど全部が悪い思い出にならなかったのは、やっぱり純が隣にいたからだと思っている。
夢の中で結斗は昔のクリスマスの思い出のなかにいた。
純と一緒に冬休みを待ち遠しく思う毎日。
小学校低学年のころも相変わらず両親は仕事で忙しかったけど、クリスマスには必ず家族揃ってケーキを囲んでいた。父もまだ単身赴任していなかったので、毎日家に帰ってきていた。だから結斗の心踊る気持ちもあいまって、毎年十二月は普段より家の中が賑やかだったかもしれない。
けれど、そんな楽しい冬の思い出は小学校低学年までだった。
――夕飯のときに母親が「クリスマス」なんて言ったからだ。
結斗の目の前に苦い思い出が静かに広がっていた。
思えば結斗が歌を習いにいくようになってから、家族はバラバラになった気がする。
結斗は小学校三年生から、冬休みに行われる定期公演会に出演するのが恒例行事になっていた。そのためクリスマス前は普段より歌の練習時間が長くなり忙しかった。
本番前は一日通しでゲネプロがあり、クリスマスイブには本番。
子供の体力や集中力は、訓練である程度は伸ばせるものだ。でも、もともと大人ほど強くはない。
はっきりとした目標があれば、厳しい練習だって耐えられるかもしれない。でも「楽しい」という気持ちだけでは、続けるうちに心が折れてしまうこともある。
今ならそんなことは当たり前だと分かる。
けれど、子供だった結斗には、その「当たり前」がまだ分からなかった。
結斗のことを繊細だと母や純は言っていたが、自分からすれば単純で頑固なだけだと思っている。
結斗自身がやりたいと言って始めた習い事を、自分から辞めるなんて恥ずかしくて言えなかった。
クリスマスの公演が終わっても合宿での練習があった。あんなに好きだった歌うことが苦痛になり始めていた。もちろん習っていた当時は、それが苦痛なのだと気付いていなかった。
――加減を知らないバカだったから。
習い事に関して両親は反対しなかったが、元々音楽に興味もなかった。
子供が定期公演に出る場合でも両親は見に来てくれなかったし、無関心が興味に変わることはなかった。
結斗の生活が音楽中心になるにつれ、クリスマスや年末の楽しいイベント行事は全て親や純と離れて過ごす時間に変わっていた。
一緒の目標を持った友達がいたら、習い事が居場所になったかもしれない。けれど何年通っても居心地が悪く、いつしかクリスマスは結斗にとって「寂しい時間」に変わっていた。
クリスマスの公演では、毎年決まって『くるみ割り人形』が演じられた。
それは自分たちの合唱団だけでなく、市の交響楽団やバレエ団、ピアノ教室も合同で参加する大きな催しだった。
最初の年は結斗も、迷路のような舞台裏や地下にある秘密基地みたいな控室に興味津々だったし、煌びやかな大ホールに目を輝かせていた。けれど、五年生の時は本番前から気落ちしていた。連日の厳しい練習に疲れていたし、神経がビリビリと張り詰めていた。
その年はピアノの演奏で純も出演することになっていたので、クリスマスに純と遊ぶことだけが楽しみだった。公演が終わったら由美子さんの車で純と一緒に帰る約束をしていたので、ずっと純の顔ばかり思い浮かべていたかもしれない。
本番前の昼休み時間だった。
朝から体調が悪かったし、気持ち悪くて結局ご飯は食べられなかった。
結斗はロビーに漏れ聞こえる音に誘われ一人でふらりと大ホールに入りこんだ。目の前ではバレエの『金平糖の精の踊り』の最終演出の調整中だった。舞台の前には、たくさんの楽器が並んでいる。
赤いベロアの客席。結斗は一番後ろの席に座った。近くに座っていたバレエ団の保護者たちは、自分の子供たちをじっと見守っていた。結斗はその光景を少しだけうらやましく感じていた。
そこに大きな声が割り込んだ。
――XXXちゃん! それじゃあ、飛べてない! 低い! 妖精に見えないでしょう。
――さっきも言いました! なんで出来ないの? そんなので今日の舞台立てると思ってる?
ヒステリックな先生の金切り声とパンパンと殴るように拍を取る手拍子の音が客席まで響く。
『金平糖の精の踊り』は、去年舞台袖から観て楽しい気分になって大好きになった。
結斗が大好きな曲だった。
大好きな音が嫌いな音になる。鼓膜に傷のように記憶が残る。
楽しくて自由な音が一つまた一つと消えていく。耳を塞げば良かった。後悔した。
美しい音楽の舞台裏なんて知らなければ良かった。
自分は自由で楽しいだけで良かったのに。
楽しかった記憶が一瞬で怖い記憶に塗り替わった気がした。
自分の歌の先生も練習のときは同じように厳しくひどいことを言う人だった。子供だからといって手を抜いたり甘やかしたりしない。
それが音楽と真摯に向き合うことだと教えられた。
音楽と真摯に向き合うと、その先に何があるんだろうといつも思っていた。
いつかこの苦しい気持ちが「楽しい」と「嬉しい」に変わるんだろうか。このまま歌い続けていけば、
純と一緒に、もっと楽しい時間を重ねていけるのだろうか。誰も答えなんて教えてくれない。
ずっと暗く細い道を孤独に歩いている気がした。
いつも純はこんな寂しさを抱えて一人で音楽と向き合っているのだろうか。あんなにも鮮やかで、心を弾ませる音色を結斗に届けてくれるのに。
もし自分と同じなら、いますぐ純を抱きしめたいと思った。「ちゃんと純の音は俺に届いてるよ」って、毎日飽きるほど純のピアノが大好きだって伝えたいと思った。
一人ぼっちの誰にも届かない音楽は寂しい。
「冷たい、音だ。痛い」
ぽつりと誰にも聞こえない声。客席でひとり呟いていた。
心が冷えて凍っていく。
本当の芸術は、冷たくて寂しいものなんだと結斗は知った。
休憩のつもりで大ホールに遊びにきたのに、雰囲気にのまれて休憩前よりも疲れていた。外へ出ても、舞台裏ではレッスンに熱心な母親に怒られている子供たちに遭遇した。結斗が怒られているわけでもないのに、嫌な気持ちでいっぱいになった。結斗は人より音の感じ方が繊細だったかもしれない。耳の奥が痛くてたまらなかった。
あんなに厳しい練習を乗り越えて今日を迎えたのに、結斗はその日の本番中ずっと上の空だった。
公演後、先生の講評が終わり、純と待ち合わせをしていたロビーのソファーまで辿りつくと、急に身体中の力が抜けて座りこんでしまった。
結斗が今日歌ったのは、ベートヴェン第九『喜びの歌』だった。
幸せな歌なのに全然違う音になった。
ずっと耳の奥にざらざらとした不快な音が残っている。
待合ロビーの高い天井とシャンデリアを見上げていた。
ふと階段下の入り口を見た。入り口は開け放たれ、十二月の冷たい空気がロビーまで流れ込んでくる。
本番前に一方的に怒られて、歯を食いしばって耐えていた子供たちが、にこにこ楽しそうに花束を抱えて出口に向かっていく様子が、なんだか気持ち悪いなと思った。
花を渡されたくらいで、嫌な気持ちがゼロになるなんて嘘だと思った。
毎年、公演後は少しだけ暗い気持ちになっていたけれど、その年は去年の比じゃなかった。その日まで気づかないふりをしていた嫌な感情の積み重ねが、どっと波のように押し寄せてきた。
多分限界だった。
純の顔をみた途端に、抑えていた感情が溢れてきて止まらなくなった。
「結斗お待たせ、帰ろー」
結斗の前に他の出演者と同じように花束を持ってやってきた純を見て急に寂しくなった。目の前に純がいるのに、急に自分がこの世界にひとりぼっちのような気がした。
それでも由美子さんの車に乗るまでは無理をして、いつも通り純とくだらない話をして笑っていた。
「今日、客席で初めて結斗の歌聴いたよ」
「……うん。俺、純のピアノは聴けなかった。出演順真ん中だったから」
聴きたかった。純の楽しい音が。
「俺も今日はベートーヴェンだったんだけど――結斗?」
「……うん」
純は突然となりで静かになった結斗の顔を覗き込む。不思議そうな顔をしていた。
運転席から由美子さんも「結斗くん、すごく上手だったよ」と言ってくれた。
歌ならいつも純の前で歌っていた。親の前でも、いつも好き勝手に歌っていた。
歌えるならなんだって、どこだっていいと思っていた。でも自分は違った。
一人で歌うのが寂しかった。楽しくなかった。苦しかった。
あの広い大ホールの客席で誰かが自分の歌を聴いていた。
由美子さんが、純が。
他の誰でもない一番聴いて欲しかった純が自分の歌を聴いてくれたのに、上の空で歌ってしまったことが悔しかった。
せっかく練習したのに、とその瞬間、後悔した。
何のために、誰のために自分は頑張って歌っていたのか。純のためだった。全部。
とにかく泣きたかった。
疲れと心細さがピークまできていた。結斗はぼろぼろと涙が溢れてくるのを自分で止められなかった。
気付いたときには後部座席で隣に座っている純の胸にすがりついていた。
うんと小さいときは抜きにして、由美子さんの前や純の前で取り乱すくらいに、べしょべしょに泣いたのは初めてだった。
「結斗、どうしたの」
「……つか……れた」
そのかすかな声は多分純にしか聞こえていない。
純の胸で、ひく、としゃくり上げた瞬間。決壊する。
運転席にいた由美子さんには、突然泣き出した結斗がミラー越しにしか見えていなかったと思う。
純は、すごく驚いていたけれど、しがみ付いてきた結斗を引き離そうとはしなかった。
好きに泣かせてくれた。
自分の心の声を説明する言葉が見つからなくて一番近い感情が「疲れた」だった。
ピアノの発表会で純はいい服を着ていた。その服を涙と胃液を吐いて汚した。けれど純はなにも言わずに背中と頭を撫でて手を握ってくれた。
「どうしたの、大丈夫? 結斗くん」
「……母さん、結斗、調子悪いみたい」
「まぁ大変。亜希ちゃん迎えに来るまでうちで寝たらいいよ」
「……大丈夫だよ。結」
結斗の耳元で純があやすように言った「大丈夫」って繰り返す声が優しかった。
冷たくなっていた体が純に温められる。公演会場の空気に当てられて泣いていた自分は純のお陰で段々と落ち着きを取り戻していた。
純の家に着くと自分の家じゃないのに、自分の家みたいに由美子さんと純に世話されてしまった。
あったかいココアを飲んだあたりから公演会場で感じていた、よく分からない不安は消えていた。
そして、もう大丈夫だって言ったのに、純に手を引かれて地下の純の部屋のベッドに押し込められた。
「ねぇ結斗、歌嫌いになった?」
純に訊かれて好きだとすぐに答えられなかった。
「――分かんない」
「今日さ、会場のピアノすごく良かったよ。明るくて、楽しい音だった」
結斗は布団から頭を出してピアノの前に座る純を見た。たくさん弾いたのに、家に帰ってもピアノの前に座る純は本当にピアノが好きなんだと思った。
結斗だって少し前まで同じだった。今は違うけど。
「ねぇ。俺、今日純の演奏聴けなかったから、弾いてよ」
「何がいい?」
「くるみ割り人形」
「ピアノじゃなくてオケじゃん、もういっぱい素敵な演奏聴いたのに?」
「純のがいい、純の音が聴きたい」
駄々っ子のように純の音楽を欲しがった。
「いいよ」
純は『くるみ割り人形』の序曲を少し小さな音で弾き始める。体調が悪かった結斗に気を使っているのだとわかった。
あんなに耳がタコになるくらい聴いて、もうクリスマスに『くるみ割り人形』なんてうんざりだった。けれど純が弾くとちゃんと舞台袖で聴いた時と同じワクワクとドキドキが蘇ってきた。
キラキラした音。楽しい音。
耳を擘くような、あの嫌な音が綺麗に消えていった。
演奏はバレエの演目順に続き、二部に聴いた『ロシアの踊り』で、結斗はすっかり元気になって純の横に座って歌いながら笑っていた。
本当に結斗は単純な子供だったと思う。
単純だったからクリスマスイブの苦しかった思い出は、純のピアノで楽しい思い出に変わった。
音楽ってすごいなって思った。人の気持ちをこんなに変えられるんだって思った。
だから何もなければ、来年も結斗は嫌な気持ちを抱えながら歌の習い事を続けていた。
けれど由美子さんがあの日、母親へ何か伝えたらしく帰り道で「歌を辞めなさい」と言われた。
結斗の音楽に母親は無関心だった。
だから、それが例え辞めろという形でも結斗の音楽に初めて家族が関わってくれたことに、内心少しだけほっとしていた気がする。
多分、あのままだと音楽自体が嫌いになっていたし、母の判断は正しかった。
クラスが上がれば海外への演奏旅行もある。それに関連するお金や親のサポートも必要になる。
あとから純に聞いたけど、由美子さんは自分が通っている教室や練習について結斗の母親に全部伝えたらしい。あそこのお教室は大変よ、みたいなこと。
反対しても結斗が続けると言えば親も協力してくれただろうし、本気で音楽をやると言ったならマンションだって引っ越して、ピアノも買ってレッスンへ行かせてくれたかもしれない。
でもその時点で親の反対を押し切る理由が結斗にはなかった。
結斗は、母親に言われて初めてこの先、自分がどうしたいのかわかった。
――歌なら、どこでも歌えるのに、どうして結斗は、習い事を続けたいのか、お母さんに説明できる?
楽しく歌っていたいだけ。純と一緒にいたかった。一緒に遊びたかった。
結斗が音楽を始めた理由なんて、結局それだけだった。
結局「好き」以外に続ける明確な理由も目的も母親に説明が出来なかった。
結果的に、結斗は納得して次の年、習い事を辞めたし、シニアクラスに上がる入団試験も受けなかった。
結斗はクリスマスに、あまりいい思い出がない。
けれど全部が悪い思い出にならなかったのは、やっぱり純が隣にいたからだと思っている。


