*
結斗の家にはピアノがない。でも、純の家には立派なグランドピアノがある。
子供の頃、母に「純の家みたいなピアノ欲しい」と言ったら「うちはダメ」と言われてしまった。
純の家が良くて結斗の家がダメな理由が分からなくて、結斗は何度も母に訊いた。なんで?
って。
結斗の家はマンションの三階で会社の社宅だから、楽器を演奏できる環境ではない。あとは単純にお金の問題。両親から言われた正論に納得できなくて、お手伝いを頑張るとか誕生日プレゼントとか、子供が思いつく限りの交換条件をいくつもだした。
当たり前だけど全部ダメだった。なかなか諦めない結斗に母が言った言葉を、結斗は今でも覚えている。
――お母さんもお父さんも音楽やらないから無理よ。
真っ直ぐに目を見て言われた。お金や家が理由では納得できなかったのに、それならうちはダメかもしれないと、なぜか納得してしまった。
純の家は、純だけじゃなく両親ともに音楽をやる家だったから。身近に一流の音が常にある家。
カエルの子はカエルかもしれない。
将来、結斗もきっと親が好きなことを好きになるし、同じような道を進むんだと気づいてしまった。
親が音楽をしていたら子供も音楽をする。親がしないなら子供もしない。音楽は選ばれた人間しかできない。自分には楽器をやる資格がないんだと思った。
極め付けに「弾きたいなら純くんの家で弾けばいいじゃない」と言われてしまい、ついにピアノを買う理由がなくなってしまった。
純の家には飛んでも跳ねても歌っても怒られない楽器が演奏できる部屋があった。
結斗が遊びに行けば、純は喜んでいつもピアノを弾かせてくれた。もちろん結斗は曲が弾けないので音を鳴らすだけ。結斗は綺麗な音が鳴る純の家のピアノが大好きだった。
実は、そのピアノは宝石の値段くらい高い代物だったのだが、その驚愕の事実を知ったのは恥ずかしながら、つい最近のこと。
――なぁ、そういえば昔、お前の家で俺が遊んでたピアノってさ、今使ってんのと違うだろ。
――今のはヤマハ。昔はスタインウェイ、あれはいま知り合いの家にあるけど。
――何それ、ウェイ系? 高いの?
――まぁ値段聞いたら、お前ウェイってなるかもね。
純は楽しそうに、にやりと笑っただけで、もったいぶって詳細な値段は教えてくれなかった。
あとでネットで検索してウェイどころかオエッって吐きそうになった。
子供がオモチャにしていい楽器ではない。
由美子さんが純に買い与えるのはいい。ただ、それを子供のころ結斗に触らせていたのはどうかと思うし「純くんの家のピアノで遊べば?」なんて言った無神経な母は反省するべきだ。
そもそも結斗が最初にピアノを欲しがった理由は、純と一緒に遊びたかったからだ。
純はサッカーもドッヂボールもしない子だったし、結斗が好きなゲームにも興味がなかった。共通の話題が音楽だけだったので自然と音楽が遊びになった。
小学校の音楽室の鍵は壊れていて、勝手に忍び込んで放課後は自由に遊べた。もし先生に見つかったとしても純が一緒だと怒られなかったし「ピアノの練習」と言えば二人とも偉いわねと褒めてくれた。
結斗はピアノが弾けないから歌ってタンブリンとカスタネットを叩いていた。だから純はえらいけど、別に結斗が先生に褒められる理由なんてなかった気がする。
結斗が歌えば純は伴奏してくれたし、その時間が楽しかった。音楽を何も知らないのに、結斗は歌うのが大好きになった。
結斗は単純だったから楽器を弾く資格は無くても、歌ならやってもいいんじゃないかと考えるようになった。
歌を習えば純ともっと遊べるし、絶対に楽しい気がした。思ったら即行動していた。
母親もピアノを買うことは了承しなかったけれど、歌を習うことは渋々認めてくれた。
たまたま市の合唱団の子供の部で募集があり、入団テストにまぐれで受かった結斗は小学二年生から「音楽」を始めた。
入団テストでは「元気でよろしい」と先生に褒められて天狗になってた結斗も、習い続けるにつれて、周りの様子がおかしいと気づいた。
今ならわかるが、おかしかったのは結斗の方だった。
世間知らず。
本当の音楽は自由で楽しいだけじゃないって気づき始めた。少しの狂いも許されない。正しい音程、正しいリズム。それを機械のように練習を重ね楽譜通り再現する。
元々男の子で歌を習っている子が少なかった上に、数少ない同じ年の男の子はピアノやバイオリンをやっていて、結斗は周りと話が合わずに場違いだった。
純は結斗のレベルに合わせて音楽の話をしてくれたけれど、そこにいる子たちは当たり前のことが分からない結斗を笑ってバカにした。
周りに何を言われても歌うことが好きだった。だからそこで友達が出来なくても気にしていなかった。
徐々に積み重なっていく違和感を無視して、結斗は習い事を続けていた。
歌の教室で友達ができなくても、結斗は純と共通の話題が増えることがすごく嬉しかった。
でも音楽の話題は増えたのに、楽しかった二人きりの音楽室での遊びは、純のピアノ教室の宿題が増えるにつれて次第になくなっていった。
小学校四年生になった頃お互いの家に遊びに行く頻度は週一くらいになっていた。相変わらず仲は良かったが、低学年のころを思うと、前はもっと一緒に遊べていたのにと残念に思っていた。
その日は久しぶりに一緒に遊ぶ約束をしていた。結斗は嬉しくて自分の家にランドセルを置いてから、すぐに純の家まで続くなだらかな坂道を急いで駆け上がった。
家に着いてチャイムを鳴らすと玄関で由美子さんが出迎えてくれた。
「こんにちは、純いますか?」
「あらー結斗くん。いらっしゃい。あの子いま宿題で地下に篭ってるのよ」
柔らかで優しい声。でも、いつも美術室の絵画みたいに微笑んでいる由美子さんが、その日は何故か困った顔をしていた。
「宿題?」
「あとで、ケーキ持っていくね」
自分の母親はケーキなんて焼かないし、家ではコンビニのケーキくらいしか馴染みがなかった。大抵「ケーキ食べたい欲」みたいなものは純の家へ行けば満たされている。
由美子さんにケーキと言われた瞬間、結斗は玄関で感じた違和感が頭から消えていた。
階段を一段飛ばしで降り地下に到着して、ドアの隙間から中を覗くと純はピアノの前に座ってじっと楽譜を眺めていた。
(宿題ってピアノか)
鉛筆で何かをメモしながら、確認するように弾いていく。
片手ずつ。ゆっくりとフレーズごとに。
音の階段を途中まで降りて、また最初から。
結斗も同じような練習を歌でよくやっていた。気持ちよく最初から最後まで一気に歌わせてもらえるのは、練習日に数回しかない。基礎基本の繰り返しばかり。
純が弾くピアノの音はいつも隣にいるだけで胸がわくわくした。
けれど今日の音はどこか悲しかった。初めて見る真剣な純の眼差し。背中がすっと冷たくなるような心地だった。結斗はドアを開けて部屋の中に足を踏み入れたのに中々純に話しかけられなかった。
(今日……遊び、誘わない方が良かったかな)
けれどそんな結斗の不安をよそに、純は結斗の顔を見るなり目をキラキラと輝かせる。カードをひっくり返したみたい。
「結斗いらっしゃい」
「宿題、邪魔だったら帰るよ?」
「邪魔じゃないよ。遊ぼう遊ぼう、何する?」
「いーよ。俺も宿題あるから、歌の。だから純もピアノの宿題終わってから遊ぼう」
「そう? 分かった」
笑ってくれた純にほっとした。
結斗は黒の革張りのソファーに寝転がり鉛筆を手に取る。純の真似をして楽譜とにらめっこした。けれど純がピアノに向き合っていたときみたいに真剣にはなれない。
純の宿題は終わったのかな、と顔を上げると、さっきまで周りの空気がピリピリしていたのに、鼻歌なんて歌いながらピアノを弾いていた。
結斗が大好きな楽しいキラキラしたピアノの音に変わっている。さっきまでのあの怖い空気は勘違いだったのだろうか。
結斗が楽譜を前にしてうんうん唸っていると、純はピアノから顔を上げて結斗を見た。
「ねー終わったけど。結斗の宿題はどう?」
「まーだ」
「次はなに歌うの? 練習するなら弾いてあげよっか」
宿題が無事に終わったらしい純は、前に結斗が歌っていたアニソンを陽気に弾き出した。さっきまでと同じピアノなのに全然違う響きになる。
「メンデルスゾーン」
「え?」
急に純のピアノを弾く手が止まる。陽気なBGMが突然とまってムッとなった。いい曲が途中で終わると、なんだか痒いところに手が届かないみたいにモヤモヤする。
「だーかーら! メンデルスゾーン」
「結斗が? ちなみにそれは曲名じゃなくて作曲家の名前だけど」
「知ってる! 俺がメンデルスゾーンやってたら悪いか」
「悪くないけど、去年までアニメソングばっかりだったのに?」
「純だって、ショパンとかベートーヴェンやってるじゃん!」
「ふぅーん、じゃ、これだ」
突然、部屋のなかに結斗が知っている華やかな音が鳴り響いた。
「だれか結婚すんの?」
結婚行進曲。ジャジャジャジャーンって有名なメロディ。
ピアノしかないはずなのに、純が弾くと、まるで他の楽器の音まで聴こえてくるようで不思議だった。
「結斗がメンデルスゾーンっていうから、あと春の歌が弾ける」
「それどうやって歌うんだよ。てか、それもメンデルスゾーンなの」
「そう。だって俺、合唱曲知らないし、何歌うの?」
「賛美歌? とかいってた。ら……うなんとかかんとか?」
「それ楽譜?」
純は結斗が寝転んでいるソファーのところまでくると、隣に座って結斗の手元を覗き込んだ。楽譜は結斗が教室で聴き取れた階名だけが書いてある歯抜けの状態だ。絶賛暗号を解読中だ。
「純は読めるの?」
「うん」
音がなければ楽譜をみたところで五線譜の下の歌詞しか読めない。それもカタカナで書いてあるので暗号文書だ。
次の練習までに楽譜に階名を書いて歌える状態にしなければいけない。一人でできる気がしなかった。
この宿題が結斗にとってストレスだった。毎週半端に終わらせて周りの音を聴きながらその場で書き込んで乗り切っている。
そして宿題ができていない結斗を周りの生徒たちは白い目で見てくる。
こんな暗号みたいな楽譜を読まなくても、一度聴けば歌えるのにと思っていた。難しい勉強は嫌いだ。歌は好きなのに勉強すればするほど嫌いになりそう。
「なー純、移動ド分かる?」
「結斗の口から、移動ド。固定ドじゃなくて」
「だから、それ教えて、楽譜にドレミ書くのが俺の宿題なの」
「ソルフェージュ習うの?」
「ソル? 何?」
「楽譜のお勉強。移動ドは長調の場合には主音をドにして、短調の場合は主音をラにするんだけど」
「純、日本語しゃべって」
「日本語だけどなぁ。じゃあ、いっぱいシャープがあったら一番右にあるやつをシにする、いっぱいフラットがあったら、一番右のフラットをファにする」
「ふーん」
純は結斗が言った通り「日本語」で話してくれた。
教室の人も最初からそう言えばいいのにって思った。別に楽譜の勉強がしたいわけじゃなかった。歌うために必要だったから仕方なくしている。
もっといっぱい歌いたい。音楽を勉強すればするほど、楽しいことが遠くなっている気がした。
「俺は楽しく歌えたらいいや、勉強とかしたくない」
「まぁ、結斗は、そうだよね」
「なんだよそれ、俺、すげー頑張ってんだけど!」
拗ねて口を尖らせる。教室ではこんなふうに本音は言えない。純だから弱音を吐ける。
楽譜が正しく読めず周りからは「お前なんでいるの?」って嫌味言われてムカムカする。でも歌が好きだから諦めたくなくて習い事を続けている。
「うん。結斗はちゃんと頑張ってるよ」
「……純」
頑張ってるって言われて急に目の奥がジンってなった。涙が出そうになる前の感覚。
「楽譜読めなくても、聴き取れた音は書けてるし、書いているとこはちゃんとあってたよ」
「そっか」
「音を正しく聴けるのって、誰でもできることじゃないよ」
周りからは楽譜は読めて当たり前だって言われる。両親は音楽が分からないから、結斗の習い事には無関心だ。
それは最初から分かっていた。自分の家は音楽をやる家じゃない。それに反発するように一人で音楽をする子になろうとした。
純と一緒に遊びたかったから。
純は音楽ができて当たり前だって言わない。同じ目線で話をしてくれるからいつだって一緒にいて居心地がよかった。
純が一緒に音楽を楽しんでくれるのが嬉しかった。
結斗が、どれほど必死に目の前の課題と向き合っているか、純は気づいてくれた。純がいつも譜読みしているように、結斗の楽譜から努力のあとを見つけてくれた。
ふいに涙がこぼれそうになって慌てて服の袖で目を擦った。
「どうしたの」
「目にゴミ入った」
「だったら、こすったらダメだよ」
手首を掴まれる。
「うるさいなぁ」
「目、赤いよ」
「すぐ治るよ!」
「そう? 結斗、とりあえず早く宿題やって遊ぼうよ」
「え」
純は結斗の手を引いてピアノの前に座る。椅子の中央じゃなくて左によって隣に結斗を座らせた。
「俺、弾くから、右手が結斗の宿題の音。楽譜は開いたままにしてね」
「うん」
一瞬で音楽に引き込まれる。
――魔法だと思った。
結斗が知りたかった音が鳴る。
少し前、発表会で聞いた教会のオルガンみたいな――胸を震わせる音だった。
一人で音楽をしているときはどんどん暗く淀んでいく心が、純が隣でピアノを弾くと不思議と澄んでいく。
ずっと、ざわざわとして落ち着かなかったのに、知りたい音だけが正しく耳に届いた。
「純、全部できた!」
ピアノの伴奏で歌いながら楽譜の上に鉛筆を走らせて、純に見せると正解といって笑ってくれた。
「俺は結斗の歌声、好きだよ」
突然褒められて慣れていない結斗は一瞬で顔が赤くなった。合唱団の入団テストのときに「元気でよろしい」と言われたときよりもはるかに舞い上がっていた。
そんな自分の心を知られたくなくて子供のくせに「ケンソン」をした。
「歌が上手いやつなら、教室にもっといっぱいいるよ」
「もっと自信持ったらいいのに、結斗、将来は歌手かなぁ」
そんなありえないバカみたいなことを言って純は綺麗に微笑んだ。その笑顔を見て結斗は心がふわふわと浮かれてしまう。
自分が歌手なら、きっと純は将来ピアニストになるのだと思った。
それがどんな大変な仕事か知りもしないのに、漠然と純の未来を想像していた。
その日は、お互いの宿題が終わったら、音楽に関係ない話をして笑いあっていた。
一年くらい前はゲームの話ばかりする結斗に純は、いつも首を傾げていた。いつの間にか結斗の好きなことも純は知るようになっていた。
最初は一緒にいるとき音楽くらいしか話すことがなかったのに、お互いの好きなことをたくさん知っていくようになった。
ある意味音楽バカだった純が人並みに子供らしい娯楽を知るようになった。
それが結斗と一緒にいたお陰なのか、ごく普通の子供の成長なのかは分からない。けれど純の笑顔が増えたのが結斗は嬉しかった。
夕方になって、結斗が家に帰るとき由美子さんが玄関まで見送ってくれた。そのときなぜか「今日は、ありがとうね」と言っていた。
結斗が家に行くまでに、由美子さんと純の間で何があったのかは知らない。
ただ、険しい顔でピアノに向き合わなければいけなかった純が、結斗が会いにいったことで元気になったのなら良かったと思った。
純はあの部屋に一人でいて寂しかったのだろうか。
相手もなく一人で奏でる音楽は寂しくてつまらない。一人で歌っているとき結斗は純の顔を思い浮かべる。純に聴いて欲しいなって。純もそんな気持ちだったのだろうか。
その日は、何となく純の家から自分の家まで続く長い坂道をスキップして帰った。
結斗の家にはピアノがない。でも、純の家には立派なグランドピアノがある。
子供の頃、母に「純の家みたいなピアノ欲しい」と言ったら「うちはダメ」と言われてしまった。
純の家が良くて結斗の家がダメな理由が分からなくて、結斗は何度も母に訊いた。なんで?
って。
結斗の家はマンションの三階で会社の社宅だから、楽器を演奏できる環境ではない。あとは単純にお金の問題。両親から言われた正論に納得できなくて、お手伝いを頑張るとか誕生日プレゼントとか、子供が思いつく限りの交換条件をいくつもだした。
当たり前だけど全部ダメだった。なかなか諦めない結斗に母が言った言葉を、結斗は今でも覚えている。
――お母さんもお父さんも音楽やらないから無理よ。
真っ直ぐに目を見て言われた。お金や家が理由では納得できなかったのに、それならうちはダメかもしれないと、なぜか納得してしまった。
純の家は、純だけじゃなく両親ともに音楽をやる家だったから。身近に一流の音が常にある家。
カエルの子はカエルかもしれない。
将来、結斗もきっと親が好きなことを好きになるし、同じような道を進むんだと気づいてしまった。
親が音楽をしていたら子供も音楽をする。親がしないなら子供もしない。音楽は選ばれた人間しかできない。自分には楽器をやる資格がないんだと思った。
極め付けに「弾きたいなら純くんの家で弾けばいいじゃない」と言われてしまい、ついにピアノを買う理由がなくなってしまった。
純の家には飛んでも跳ねても歌っても怒られない楽器が演奏できる部屋があった。
結斗が遊びに行けば、純は喜んでいつもピアノを弾かせてくれた。もちろん結斗は曲が弾けないので音を鳴らすだけ。結斗は綺麗な音が鳴る純の家のピアノが大好きだった。
実は、そのピアノは宝石の値段くらい高い代物だったのだが、その驚愕の事実を知ったのは恥ずかしながら、つい最近のこと。
――なぁ、そういえば昔、お前の家で俺が遊んでたピアノってさ、今使ってんのと違うだろ。
――今のはヤマハ。昔はスタインウェイ、あれはいま知り合いの家にあるけど。
――何それ、ウェイ系? 高いの?
――まぁ値段聞いたら、お前ウェイってなるかもね。
純は楽しそうに、にやりと笑っただけで、もったいぶって詳細な値段は教えてくれなかった。
あとでネットで検索してウェイどころかオエッって吐きそうになった。
子供がオモチャにしていい楽器ではない。
由美子さんが純に買い与えるのはいい。ただ、それを子供のころ結斗に触らせていたのはどうかと思うし「純くんの家のピアノで遊べば?」なんて言った無神経な母は反省するべきだ。
そもそも結斗が最初にピアノを欲しがった理由は、純と一緒に遊びたかったからだ。
純はサッカーもドッヂボールもしない子だったし、結斗が好きなゲームにも興味がなかった。共通の話題が音楽だけだったので自然と音楽が遊びになった。
小学校の音楽室の鍵は壊れていて、勝手に忍び込んで放課後は自由に遊べた。もし先生に見つかったとしても純が一緒だと怒られなかったし「ピアノの練習」と言えば二人とも偉いわねと褒めてくれた。
結斗はピアノが弾けないから歌ってタンブリンとカスタネットを叩いていた。だから純はえらいけど、別に結斗が先生に褒められる理由なんてなかった気がする。
結斗が歌えば純は伴奏してくれたし、その時間が楽しかった。音楽を何も知らないのに、結斗は歌うのが大好きになった。
結斗は単純だったから楽器を弾く資格は無くても、歌ならやってもいいんじゃないかと考えるようになった。
歌を習えば純ともっと遊べるし、絶対に楽しい気がした。思ったら即行動していた。
母親もピアノを買うことは了承しなかったけれど、歌を習うことは渋々認めてくれた。
たまたま市の合唱団の子供の部で募集があり、入団テストにまぐれで受かった結斗は小学二年生から「音楽」を始めた。
入団テストでは「元気でよろしい」と先生に褒められて天狗になってた結斗も、習い続けるにつれて、周りの様子がおかしいと気づいた。
今ならわかるが、おかしかったのは結斗の方だった。
世間知らず。
本当の音楽は自由で楽しいだけじゃないって気づき始めた。少しの狂いも許されない。正しい音程、正しいリズム。それを機械のように練習を重ね楽譜通り再現する。
元々男の子で歌を習っている子が少なかった上に、数少ない同じ年の男の子はピアノやバイオリンをやっていて、結斗は周りと話が合わずに場違いだった。
純は結斗のレベルに合わせて音楽の話をしてくれたけれど、そこにいる子たちは当たり前のことが分からない結斗を笑ってバカにした。
周りに何を言われても歌うことが好きだった。だからそこで友達が出来なくても気にしていなかった。
徐々に積み重なっていく違和感を無視して、結斗は習い事を続けていた。
歌の教室で友達ができなくても、結斗は純と共通の話題が増えることがすごく嬉しかった。
でも音楽の話題は増えたのに、楽しかった二人きりの音楽室での遊びは、純のピアノ教室の宿題が増えるにつれて次第になくなっていった。
小学校四年生になった頃お互いの家に遊びに行く頻度は週一くらいになっていた。相変わらず仲は良かったが、低学年のころを思うと、前はもっと一緒に遊べていたのにと残念に思っていた。
その日は久しぶりに一緒に遊ぶ約束をしていた。結斗は嬉しくて自分の家にランドセルを置いてから、すぐに純の家まで続くなだらかな坂道を急いで駆け上がった。
家に着いてチャイムを鳴らすと玄関で由美子さんが出迎えてくれた。
「こんにちは、純いますか?」
「あらー結斗くん。いらっしゃい。あの子いま宿題で地下に篭ってるのよ」
柔らかで優しい声。でも、いつも美術室の絵画みたいに微笑んでいる由美子さんが、その日は何故か困った顔をしていた。
「宿題?」
「あとで、ケーキ持っていくね」
自分の母親はケーキなんて焼かないし、家ではコンビニのケーキくらいしか馴染みがなかった。大抵「ケーキ食べたい欲」みたいなものは純の家へ行けば満たされている。
由美子さんにケーキと言われた瞬間、結斗は玄関で感じた違和感が頭から消えていた。
階段を一段飛ばしで降り地下に到着して、ドアの隙間から中を覗くと純はピアノの前に座ってじっと楽譜を眺めていた。
(宿題ってピアノか)
鉛筆で何かをメモしながら、確認するように弾いていく。
片手ずつ。ゆっくりとフレーズごとに。
音の階段を途中まで降りて、また最初から。
結斗も同じような練習を歌でよくやっていた。気持ちよく最初から最後まで一気に歌わせてもらえるのは、練習日に数回しかない。基礎基本の繰り返しばかり。
純が弾くピアノの音はいつも隣にいるだけで胸がわくわくした。
けれど今日の音はどこか悲しかった。初めて見る真剣な純の眼差し。背中がすっと冷たくなるような心地だった。結斗はドアを開けて部屋の中に足を踏み入れたのに中々純に話しかけられなかった。
(今日……遊び、誘わない方が良かったかな)
けれどそんな結斗の不安をよそに、純は結斗の顔を見るなり目をキラキラと輝かせる。カードをひっくり返したみたい。
「結斗いらっしゃい」
「宿題、邪魔だったら帰るよ?」
「邪魔じゃないよ。遊ぼう遊ぼう、何する?」
「いーよ。俺も宿題あるから、歌の。だから純もピアノの宿題終わってから遊ぼう」
「そう? 分かった」
笑ってくれた純にほっとした。
結斗は黒の革張りのソファーに寝転がり鉛筆を手に取る。純の真似をして楽譜とにらめっこした。けれど純がピアノに向き合っていたときみたいに真剣にはなれない。
純の宿題は終わったのかな、と顔を上げると、さっきまで周りの空気がピリピリしていたのに、鼻歌なんて歌いながらピアノを弾いていた。
結斗が大好きな楽しいキラキラしたピアノの音に変わっている。さっきまでのあの怖い空気は勘違いだったのだろうか。
結斗が楽譜を前にしてうんうん唸っていると、純はピアノから顔を上げて結斗を見た。
「ねー終わったけど。結斗の宿題はどう?」
「まーだ」
「次はなに歌うの? 練習するなら弾いてあげよっか」
宿題が無事に終わったらしい純は、前に結斗が歌っていたアニソンを陽気に弾き出した。さっきまでと同じピアノなのに全然違う響きになる。
「メンデルスゾーン」
「え?」
急に純のピアノを弾く手が止まる。陽気なBGMが突然とまってムッとなった。いい曲が途中で終わると、なんだか痒いところに手が届かないみたいにモヤモヤする。
「だーかーら! メンデルスゾーン」
「結斗が? ちなみにそれは曲名じゃなくて作曲家の名前だけど」
「知ってる! 俺がメンデルスゾーンやってたら悪いか」
「悪くないけど、去年までアニメソングばっかりだったのに?」
「純だって、ショパンとかベートーヴェンやってるじゃん!」
「ふぅーん、じゃ、これだ」
突然、部屋のなかに結斗が知っている華やかな音が鳴り響いた。
「だれか結婚すんの?」
結婚行進曲。ジャジャジャジャーンって有名なメロディ。
ピアノしかないはずなのに、純が弾くと、まるで他の楽器の音まで聴こえてくるようで不思議だった。
「結斗がメンデルスゾーンっていうから、あと春の歌が弾ける」
「それどうやって歌うんだよ。てか、それもメンデルスゾーンなの」
「そう。だって俺、合唱曲知らないし、何歌うの?」
「賛美歌? とかいってた。ら……うなんとかかんとか?」
「それ楽譜?」
純は結斗が寝転んでいるソファーのところまでくると、隣に座って結斗の手元を覗き込んだ。楽譜は結斗が教室で聴き取れた階名だけが書いてある歯抜けの状態だ。絶賛暗号を解読中だ。
「純は読めるの?」
「うん」
音がなければ楽譜をみたところで五線譜の下の歌詞しか読めない。それもカタカナで書いてあるので暗号文書だ。
次の練習までに楽譜に階名を書いて歌える状態にしなければいけない。一人でできる気がしなかった。
この宿題が結斗にとってストレスだった。毎週半端に終わらせて周りの音を聴きながらその場で書き込んで乗り切っている。
そして宿題ができていない結斗を周りの生徒たちは白い目で見てくる。
こんな暗号みたいな楽譜を読まなくても、一度聴けば歌えるのにと思っていた。難しい勉強は嫌いだ。歌は好きなのに勉強すればするほど嫌いになりそう。
「なー純、移動ド分かる?」
「結斗の口から、移動ド。固定ドじゃなくて」
「だから、それ教えて、楽譜にドレミ書くのが俺の宿題なの」
「ソルフェージュ習うの?」
「ソル? 何?」
「楽譜のお勉強。移動ドは長調の場合には主音をドにして、短調の場合は主音をラにするんだけど」
「純、日本語しゃべって」
「日本語だけどなぁ。じゃあ、いっぱいシャープがあったら一番右にあるやつをシにする、いっぱいフラットがあったら、一番右のフラットをファにする」
「ふーん」
純は結斗が言った通り「日本語」で話してくれた。
教室の人も最初からそう言えばいいのにって思った。別に楽譜の勉強がしたいわけじゃなかった。歌うために必要だったから仕方なくしている。
もっといっぱい歌いたい。音楽を勉強すればするほど、楽しいことが遠くなっている気がした。
「俺は楽しく歌えたらいいや、勉強とかしたくない」
「まぁ、結斗は、そうだよね」
「なんだよそれ、俺、すげー頑張ってんだけど!」
拗ねて口を尖らせる。教室ではこんなふうに本音は言えない。純だから弱音を吐ける。
楽譜が正しく読めず周りからは「お前なんでいるの?」って嫌味言われてムカムカする。でも歌が好きだから諦めたくなくて習い事を続けている。
「うん。結斗はちゃんと頑張ってるよ」
「……純」
頑張ってるって言われて急に目の奥がジンってなった。涙が出そうになる前の感覚。
「楽譜読めなくても、聴き取れた音は書けてるし、書いているとこはちゃんとあってたよ」
「そっか」
「音を正しく聴けるのって、誰でもできることじゃないよ」
周りからは楽譜は読めて当たり前だって言われる。両親は音楽が分からないから、結斗の習い事には無関心だ。
それは最初から分かっていた。自分の家は音楽をやる家じゃない。それに反発するように一人で音楽をする子になろうとした。
純と一緒に遊びたかったから。
純は音楽ができて当たり前だって言わない。同じ目線で話をしてくれるからいつだって一緒にいて居心地がよかった。
純が一緒に音楽を楽しんでくれるのが嬉しかった。
結斗が、どれほど必死に目の前の課題と向き合っているか、純は気づいてくれた。純がいつも譜読みしているように、結斗の楽譜から努力のあとを見つけてくれた。
ふいに涙がこぼれそうになって慌てて服の袖で目を擦った。
「どうしたの」
「目にゴミ入った」
「だったら、こすったらダメだよ」
手首を掴まれる。
「うるさいなぁ」
「目、赤いよ」
「すぐ治るよ!」
「そう? 結斗、とりあえず早く宿題やって遊ぼうよ」
「え」
純は結斗の手を引いてピアノの前に座る。椅子の中央じゃなくて左によって隣に結斗を座らせた。
「俺、弾くから、右手が結斗の宿題の音。楽譜は開いたままにしてね」
「うん」
一瞬で音楽に引き込まれる。
――魔法だと思った。
結斗が知りたかった音が鳴る。
少し前、発表会で聞いた教会のオルガンみたいな――胸を震わせる音だった。
一人で音楽をしているときはどんどん暗く淀んでいく心が、純が隣でピアノを弾くと不思議と澄んでいく。
ずっと、ざわざわとして落ち着かなかったのに、知りたい音だけが正しく耳に届いた。
「純、全部できた!」
ピアノの伴奏で歌いながら楽譜の上に鉛筆を走らせて、純に見せると正解といって笑ってくれた。
「俺は結斗の歌声、好きだよ」
突然褒められて慣れていない結斗は一瞬で顔が赤くなった。合唱団の入団テストのときに「元気でよろしい」と言われたときよりもはるかに舞い上がっていた。
そんな自分の心を知られたくなくて子供のくせに「ケンソン」をした。
「歌が上手いやつなら、教室にもっといっぱいいるよ」
「もっと自信持ったらいいのに、結斗、将来は歌手かなぁ」
そんなありえないバカみたいなことを言って純は綺麗に微笑んだ。その笑顔を見て結斗は心がふわふわと浮かれてしまう。
自分が歌手なら、きっと純は将来ピアニストになるのだと思った。
それがどんな大変な仕事か知りもしないのに、漠然と純の未来を想像していた。
その日は、お互いの宿題が終わったら、音楽に関係ない話をして笑いあっていた。
一年くらい前はゲームの話ばかりする結斗に純は、いつも首を傾げていた。いつの間にか結斗の好きなことも純は知るようになっていた。
最初は一緒にいるとき音楽くらいしか話すことがなかったのに、お互いの好きなことをたくさん知っていくようになった。
ある意味音楽バカだった純が人並みに子供らしい娯楽を知るようになった。
それが結斗と一緒にいたお陰なのか、ごく普通の子供の成長なのかは分からない。けれど純の笑顔が増えたのが結斗は嬉しかった。
夕方になって、結斗が家に帰るとき由美子さんが玄関まで見送ってくれた。そのときなぜか「今日は、ありがとうね」と言っていた。
結斗が家に行くまでに、由美子さんと純の間で何があったのかは知らない。
ただ、険しい顔でピアノに向き合わなければいけなかった純が、結斗が会いにいったことで元気になったのなら良かったと思った。
純はあの部屋に一人でいて寂しかったのだろうか。
相手もなく一人で奏でる音楽は寂しくてつまらない。一人で歌っているとき結斗は純の顔を思い浮かべる。純に聴いて欲しいなって。純もそんな気持ちだったのだろうか。
その日は、何となく純の家から自分の家まで続く長い坂道をスキップして帰った。


