待ち合わせ場所の『桜花殿』に着くと純はピアノの前に立っていた。いつもと同じモノトーンの上下だがなぜか緑色のエプロンをつけている。以前のような人だかりはなく、純はピアノの蓋を開け、髭面の男と何やら楽しそうに話していた。その男も同じ色のエプロン姿だ。
(あの人……誰だろ?)
今話しかけたら邪魔になると思い入り口から離れようとしたが、すぐに純に気づかれた。仕方なくそばまで行くと純の表情が華やぐ。
「ゆい、もうお昼食べた?」
ふわふわと笑っている純を見て胸がチクリと痛んだ。
「うん……いまさっき、瀬川と」
急に純の前で普段自分がどんなふうに声を出していたか思い出せなくなる。
今はどこまで純に近づいていいのだろう。仲のいい幼馴染が許される距離が分からない。
知らない純の姿を見て、また動揺していた。
いつまでも子供のままでいたかった。そうすれば今だって無邪気に走って行って背に抱きつけたのに。こんなのは、おもちゃを取られた子供の癇癪だ。純は自分のものだと主張したくなる。そんな醜い自分を遠くから俯瞰して眺めているような気持ちだった。
「そっか残念。バイト終わったら一緒にお昼食べようと思ったんだけどな」
「バイトって? え、お前バイトしてたの」
「うん。ピアノの調律。今日は確認と微調整が残ってて、そのお手伝い」
このときまで結斗は純がバイトをしているのを知らなかった。
「ちょう、りつ、純が? そんなことできるの?」
「うん、まだまだ勉強中だけど。高校の時に三森さんに弟子入りしたんだ」
そう言って純に隣の男を紹介される。
――そんなの、聞いてない。
歳は三十後半くらいに見える男性が結斗に向き直った。三森は結斗に向けて人当たりの良さそうな柔和な笑顔で「こんにちは」と挨拶してくれた。ぼんやりとして上の空だったから、結斗は慌ててぺこりと会釈を返した。
「俺さ、やっと一人でも調律の仕事できるようになったんだよ」
「……へーすごいじゃん」
純の笑顔がまぶしくて苦しくなる。
ピアノが弾けて、調律もできる。
――俺、お前がすごいなんて、ずっと昔から知ってるよ。
純はいつだって、綺麗で、かっこいい。なんだってできる。
庶民で平凡な自分とは違う。すごく才能のある人間。純のことなんて全部知ってると思っていた。ただの思い上がりだったけど。
知らない純を知るたびに、苦しくて、寂しくなる。
(だから、そんな純は嫌い)
嫌いって思った次の瞬間に自己嫌悪してしまう。
純は少しも悪くない。悪いのは、周りと同じような大人になれない結斗だ。
「私から見れば篠山くんは、まだまだだけどね。ま、友達の前だからアゲとこうか?」
三森はニヤリと口角を上げて笑った。
「俺の幼馴染なんです。桃谷結斗」
「へぇ、この子が。噂はかねがね篠山くんから聞いてるよ」
「純、俺のこと三森さんになんて言ったんだよ」
結斗はなんとか作り笑いをして純を茶化した。今の自分は、ちゃんと笑えているのだろうか。
「いつも一緒にいるよって」
「なんだよそれ」
「だって、事実だしね。いつも一緒なのは」
「あはは、君たちホント仲良いんだねぇ」
「はい、とても」
純は迷うことなく仲がいいことを三森に伝えた。そんな自分にとってあたり前だった純を見て、結斗は訳もなく衝動的に詰め寄りたくなった。
(全然一緒にいないじゃん! バカ、嘘つき!)
小さな子供の自分が心の中で声を上げて泣き叫んでいた。
動画配信して有名人になっているなんて知らなかった。
調律のバイトをしているのも知らなかった。
自分の方が純のこと、もっといっぱい知ってるって、全世界に訴えたくなる。大声で叫びたくなる。自分にそんな権利なんてないのに。
「篠山くんは、私の弟子の中で一番覚えが早いよ」
「へぇ、すごいんだな、純」
「ほんと篠山くんはすごく頑張っている。最初の三年で逃げるかと思ったら、まだ続いているしね。ひたむきに努力ができるって意味なら才能もある」
突然、才能という言葉が結斗の心に重くのしかかってきた。今、それが喉から手が出るほど欲しい。けれど、自分は過去ひたむきに最後まで努力ができなかった。自分でやると決めたのに、音楽から途中で逃げ出してしまった。だから、こんなに何もない情けない男になってしまったのだろうか。
「三森さん褒めすぎですよ」
そう言って純ははにかむように顔を少し赤らめた。
「まぁ才能は抜きにしても、篠山くんはピアノが大好きだしね。一番大事なことだ」
三森に褒められて喜んでいる純の目がキラキラと輝いて見えた。誇らしげで、誰よりも頼り甲斐のある男に見えた。
結斗は三森の話を聞きながら、ずっと心ここにあらずだ。
また頭の中で嫌な音が鳴り出す。「嬉しい」と「寂しい」の音が半分ずつ頭の中で鳴っている。立派な純が幼馴染として誇らしいのに、憎らしい。
結斗は、いつ純がピアノの調律を勉強しだしたのかも知らなかった。高校三年間、同じ学校じゃなかった。その間に純は、結斗の知らない外の世界に目を向けたのだろう。よくよく思い出してみれば、ここ一年くらい、純の家のピアノの音色がよく変わると感じていた。
純はあの地下にあるピアノで調律の勉強をしていたのかもしれない。
(なぁ、いつから? どうして?)
子供じみた独占欲に囚われる自分を、これ以上見たくなかった。惨めだった。
さっき、純から少し遅れながらも、自分も自分だけの世界を見つけようと決意しかけていた。純と二人だけの、あの温かく幸せな地下室から抜け出して、外の世界へ目を向ける。純に支えてもらわなくても、一人で立てるようになりたい。
もう、純の音楽を独り占めしない。大切な純の未来を、邪魔したりもしない。
――だから、これからも、そばにいて。
面と向かっていうのは恥ずかしいセリフでも、はっきりと伝えるつもりだった。
これからも親友として一緒にいるための自分なりのけじめ。
これが、結斗が純に言えるせいいっぱいだった。
やっと決心したのに、三森と話す純を見て、また暗い気持ちが結斗の言葉を阻んだ。
「純ごめん。俺、講義あるから、もう行くよ」
「そう? じゃあ今日帰りにウチ寄ってよ。昨日二人とも酔ってて話できなかったし、クリスマスのこと」
目の前が灰色になった。もう二人だけの幸せな音楽が、音が聞こえない。
――マジで、俺……赤ちゃんかよ。
純の言った通りだと思った。伝えたいことも、伝えなければいけないことも上手く言えない。
「……うん、わかった行く。バイトあるから終わってからな」
「了解」
結斗はそのまま二人から逃げるように足早に建物から出ていく。夜、純に会う時までに、早くいつもの自分に戻らなければいけない。
(ねぇ、純。いつもの俺ってどんなだっけ? 思い出せない)
――今すぐに歌いたいと思った。
この感情を全て歌にぶつけて。醜い心を全て消してしまいたかった。
自信が欲しかった。自分は、ひとりでも大丈夫だという自信。純みたいにキラキラした特別な才能。
同じじゃないと一緒にいられなくなる。このまま置いて行かれてしまう。
結斗は、やりたい曲があると峰岸にメッセージを送っていた。
ひとりで自分がどこまで出来るのか知りたかった。
+ + + +
三限が終わった後、カフェで待ち合わせて峰岸と軽音部の部室へ行った。
「――今まで誰も歌わなかったからさ。嬉しくって峰岸から連絡もらって速攻きちゃったよ」
部室で峰岸と待っていると軽音部の人たちが集まってきた。
彼らには夕方のバイトの時間までと伝えていたので、話しながら、それぞれがテキパキと楽器の準備に取り掛かっていく。
「つか先輩たち、講義サボって卒業は大丈夫なんですか?」
「そう思うんだったら、こんな楽しいお誘いやめてよね。君が桃谷くん?」
落ち着いた声。背の高いベースの人に後ろから声をかけられた。
「あ、はい。でも、ホント俺ただカラオケしにきたみたいな? そんなのでいいんですか?」
「いーんだって、俺らも別にプロ目指してるわけじゃないんだし、趣味バンドだよ? 一緒に遊んでくれたら嬉しいな。よろしくね」
峰岸のバンドのメンバーは、結斗が伝えたイメージを一緒に作り上げてくれた。
自分の言葉じゃ絶対伝わらないと思っていたのに、彼らは打てば響くみたいにアレンジを返してくれた。
吹雪の中で一人歩いているところから、とつぜん視界が広がる感じ。そんな漠然としたストーリーを語ると、ベースの人が面白がって「じゃあ、見えるのは、冬の海?」と言って結斗の声に合わせて音を鳴らしてくれる。サビがサスペンスドラマのラストみたいになって、メンバーたちとゲラゲラと笑いあった。
結斗が歌う。峰岸たちがフレーズごとに確認していく。狭い軽音部の部室は、いつも結斗が行くカラオケルームと同じで賑やかで、楽しい音で満たされている。
けれどカラオケと違って、バンドの生音は心地よく身体中に響いた。
いつもならカラオケのコントローラーを使って、結斗が好きにいじっているリズムや音も人が演奏すると自由に細かい調整がきいた。
ここはテンポを上げたい。ここはもう少し気持ちゆっくり。
そうやって試行錯誤を重ねて自分の思い通りに響く音は気持ちよかった。
音楽を使って周りと会話をしている。
――まるで、純のピアノだ。
でも純の場合は、結斗が何も言わなくても全部感覚で魔法のように伝わってしまう。
結斗は歌いながら頭を振った。
どんなに気持ちよく歌えても渇きは治らない。どうしても、純が頭の中から消えなかった。
(そんなのは、いやだ。俺はもう一人でも大丈夫だから)
鬱屈した気持ちを晴らすためのカラオケだったのに、ちっとも晴れやしない。再び声が歪んだ。歌詞に勝手に自分の感情が乗る。
気分爽快になる曲のはずなのに、隠そうと必死になっていた寂しさが溢れていた。
純のピアノの伴奏以外で歌えば、胸がすっとするはずだった。
自分はひとりでも大丈夫だって自信が持てるはずだった。
お前がそうやって誰かと楽しくやってるあいだに「俺だって楽しくやっているよ。大丈夫だよ」と笑って言いたかった。
けれど、そんなふうには少しも思えなかった。
――ざまぁ、みろ
結斗の心の中にあった真実は、全部歌詞と相反する感情だった。
ひとりにしないで。ずっと一緒にいて。
マイクを握って前を向いて歌っていたから、バンドメンバーたちから結斗の顔は見えていない。
歌い終わって、頬に伝っていた涙を慌てて袖で拭う。
純と結斗が過ごした日々は、全てが完璧だった。
悲しいときも嬉しいときも、純がいたから幸せだった。
だからこそ、こんな腹立たしい関係があってたまるかと思った。
そばにいればいるほど、寂しくなる。純のことが大切だからこそ、もう離れなければいけない。
周りと同じように、純の前で楽しく笑えるように。
けれど、時間が、距離が、甘えたな自分の心が、それを許さない。
あんなにも優しくされて、温かくされて、自分からひとりになるなんてできるはずがなかった。
「――いやぁ、カラオケなんてとんでもない」
「マジでびっくりした。ももくんスゲェ。かっこよかった!」
昼にサイトで見た動画のコメント欄と同じだった。
バンドメンバーたちは、結斗の感情をおいてけぼりにして周りで盛り上がっている。
――絶対、これいけると思う。なんか、世界が変わったっていうか。
――なぁ、これも投稿していいか? 瀬川に渡そうと思うんだけど。
――うん。いいよ。
峰岸たちに言われて、結斗は笑顔で答えていた。
少しも楽しい気分にならない、こんな歌なんて誰も聴きたがらないだろうと思っていた。
それでも、結斗が歌ったこのひどい歌で世界が変えられるなら、全部変えて欲しかった。
結局バイトが終わった後、結斗は純の家に行かず自分の家に帰った。
一日ぶりに見た息子の顔に、母親は「まーだ、ぶすっとした顔してるし」と呆れた顔をした。
夕飯も作らずに無言のまま自分の部屋に籠ると珍しく母親が料理している音が台所から聞こえてくる。
結局、結斗が何もしなくても家事は回るし、自分がそばにいなくても純は楽しくやっている。楽しくないのは、寂しいのは自分だけだった。
今日、ひとりで歌って分かったのはそれだけ。
(……寂しい)
ベッドの上でごろごろしながら迷っていたが、純を無視することはできなかった。
枕元のスマホを手にとって純にメッセージを送る。「本当」と「嘘」を書く。
――ごめん、今日行けない。お腹痛い。
ゴメンって謝っているクマのスタンプを送った。返事はすぐに返ってきた。
――また、今日もあのラーメン食べたの? 油いっぱいの。
猫の頭にクエスチョンマークが付いているスタンプが返ってきた。
めったに送ってこない純からの二度目のスタンプ。純は結斗の変化を感じ取っているのだろうか。隠し事ができない。
――今日は、ふわとろオムライス。
――そう、お大事に。ねぇ、結斗。
急にメッセージで名前を呼ばれてドキリとした。二人で会話しているのだから、相手は結斗しかいない。
それなのに名前を呼ばれる。耳元で純の声が聞こえた気がした。
甘く、優しい声。
――なに?
――寂しいな。
ベッドの上に座って、スマホの画面を見た。
何言ってんだよ。誰が? お前? ありえないだろ。
結斗は昼間の部室と同じように、また泣きそうになった。お前は、俺と違うだろ。そう叫びたくなる。
――ばーか、嘘つけ。
――ホントだよ。
純のメッセージが頭の中でずっとこだましている。こうやって、純が甘やかすから、いけないんだと思った。
結斗が寂しい時に寂しいって言われる。こだまみたい。
そうして、まだ一緒だから大丈夫だって安心してしまう。全然大丈夫じゃないのに。結斗は大丈夫だけど、純が駄目になる。
――なぁ、なんで俺のこと分かるんだよ。
そう返していた。会話になっていない。寂しいって言ったのは、純だ。
けれど、寂しいのは結斗だ。
――俺もお前も、そう変わらないってことじゃない?
――答えになってないし。もう寝る。
――はいはい。おやすみ。
気づいたら、そのまま夕飯も食べずに寝ていた。
多分、昨日、純から返事がこなければ眠れなかったと思う。いい加減、安定剤代りに純を使うのをやめたかった。
翌朝、目が覚めたら結斗の望み通りに世界が変わっていた。
昨晩のうちに、瀬川が投稿したMOMOの動画が、サイトのカテゴリーランキングで、再びランキング一位になっている。チャンネル登録者数も二倍になっていた。
結斗はその結果を見て、過去に自分が歌った最低な歌を思い出していた。
クリスマスに調子が悪い中で歌った不完全燃焼の曲。後悔しか残っていない。
もっと上手に歌えるはずだったのに、最低な歌を純や由美子さんに聴かせてしまった。
周りの賞賛とは裏腹に自分で自分の歌を認められなかったのは、これが二度目だった。
スマホに届いた瀬川からのメッセージには「お前、この先どうしたい? プロになるの?」と書いていた。
結斗自身、結果を見て嬉しいよりも戸惑っていた。純へのあてつけで歌った曲が、想像していた以上に周りから評価された。
――ただ、それだけのことだろ。
結斗は勢いをつけベッドから上半身を起こし、枕元にスマホを放り投げる。
土曜日は母の仕事が休み。まだ寝ているだろうと思ったが、リビングへ行くと休みの日にしては珍しく化粧も身支度も終えた母は、ちょうど出かけるところだった。
「起きたの? 私もう出るけど」
仕事に行くにしては手に持っている荷物がいつもより多かった。
「……土曜なのに仕事?」
「あれ、言ってなかった? 今日から父さんのところ泊まってくる」
聞いてないと思ったが、いつものことなので聞き流した。母親がいなければ生活できない小さな子供でもない。
「いつ帰るんだよ?」
「月曜日の夜」
「あっそ、行ってらっしゃい。父さんによろしく」
洗面所で顔を洗っていると、顔を上げた時に母と鏡越しに目があった。
「あんた、もう元気になったの?」
「何が?」
「母親がめずらしく作ったご飯も食べずに、爆睡してたから」
「いつも作れよ」
「えーなになに、ママのご飯がそんなに好きだったの? 言ってよ、作らないけど」
「自分で作ったご飯の方が好き」
「まぁね、君のご飯美味しいからねぇ」
濡れた顔をタオルで拭いていると寝癖だらけの髪をさらにぐしゃぐしゃにされた。
「そうだ今日、純くんの家行くなら、机の上に置いてるお菓子持って行ってね」
「なんで」
「どうせ行くんでしょう?」
「……多分」
「東京出張のお土産だから」
「なんで息子の俺にじゃなくて純に土産なんだよ」
「あんたは純くん家で一緒に食べたらいいでしょう。じゃあ、行ってきまーす。戸締りはちゃんとしてね。ガスの元栓もしめて」
「はいはい!」
昨日行けなかったし、今日こそ純の家に行こうと思った。母親を適当に送り出したあと、キッチンで昨晩作ったという母親のオムライスをレンジで温めた。
「――また、オムライス」
そう、ひとりごちる。昨日は昼に大学でオムライスを食べた。
チキンライスのなかに入っている刻んだ玉ねぎも人参も絶妙に炒め足りないから苦い。味付けも薄い。文句を言えば「じゃあ、ご自分でどうぞ?」と返されるだろう。その結果が今の自分の料理の腕だ。
最後まで食べた感想は変わらず「自分で作った方が美味い」だった。
それでも、母親の料理だなと思うだけで改善して欲しいとは思わない。
わかりにくい母親の愛情みたいなものを感じるのは、いつだって、このまずい料理を食べた時だ。
食器を片付けたあとは、休日らしく音楽を聴きながらベッドの上でごろごろとしていた。そのうち何か答えが出るだろうと思ったが、どんなに考えても「自分の歌」をどうしたいか希望なんてなかった。
バンドの生音で歌うのは楽しかった。
できるならもう一回、今度は楽しい歌を歌いたいと思った。
けれどそれは今日明日どうしたいの話で、瀬川が訊いてることの答えじゃない気がした。
上手く歌えたら嬉しい。もっと上手になったらもっと嬉しい。誰かに喜んで貰えたら嬉しい。子供の時から変わらず、それだけだった。目標なんてない。
結局、瀬川には「来週会ったとき」と返事をして結論を先延ばしにした。
*
昼に母親のお土産を持って純の家に行ったら、なぜか純の機嫌が悪かった。
機嫌が悪いといっても出会い頭に怒鳴られた訳でも、無視をされた訳でもない。音と空気で純の気持ちを感じ取っていた。
地下の部屋に行くと純のピアノの演奏が荒れていた。
――リストの鬼火? だよな……?
以前、純が弾いた時と雰囲気が違う。『鬼火』という曲名は重々しいが、音の粒が転がるようなどこか楽しい曲だった。それが、なぜか今にも人を殺しそうな曲になっている。
ナイフを後ろで突きつけられているような音。
この前のストラヴィンスキーのペトルーシュカの時みたいに、意図的に遊んでいるようには見えない。結斗はこんな純を見るのは初めてで戸惑っていた。
(俺、こういう時、いつもどうされてたっけ?)
結斗の機嫌が悪くなるのは、よくあることだった。親と喧嘩したとか、学校の先生がむかついたとか。バイト先の客が嫌な人だったとか。
純はそんな結斗を見ていつも「どうしたの?」と笑いながら訊いてくる。そうやって純に構われて、関係あることないことも話しているうちに、最後にはどうでも良くなる。自分の単純さを改めて自覚して恥ずかしかった。
とにかく、純に何があったのか聞いてみようと思った。これから先も純と対等な関係でいたいと願うのなら、純の悩みにも同じように寄り添いたい。
純は結斗が部屋に入ってきて隣に立っても、演奏を途中でやめずに最後まで弾いた。結斗は曲が終わったタイミングで恐る恐る声をかけた。
「純、どうしたの?」
「ん、なにが?」
笑っているのに目が笑っていなかった。
「え、なにって……なんか、嫌なことでもあったのかなって思って。考えてみたら、俺、いつも純に聞いてもらってばっかりだし、俺も、さ」
「ふぅん、結斗がね……聞いてくれるの?」
「なんだよ、俺だって」
俺だってといいながら「純に依存してばっかりのお前に何ができるんだよ」ともう一人の自分が指差して笑っている。
「結斗の方が、俺に話あると思ってたんだけどな、昨日のこと」
純は結斗に向き直り、ピアノの椅子に座ったまま結斗の手をそっと握った。その手の冷たい温度に心臓が深く波打った。
「話って、純が機嫌悪いのってそれ? 昨日は来れなくて悪かったけど、クリスマスなら、今年も純と一緒に」
一緒にいたいと思っている。ずっと、この先も一緒にいてほしい。そう思っているのに。罪悪感がずっと心の中にある。
「違うよ」
多分、逃げられないように手を握られていた。都合が悪くなると結斗は逃げるから。問題と向き合わないから。
純は最初から知っていた。
ずっと結斗が逃げていること。答えを出せないこと。
「あの動画のMOMOって、結斗でしょ」
「え、何で、知って」
「ランキング上がってたし、お前の声なんて聴けばわかるよ」
「う、うん」
「それでさ、俺も、結斗と同じこと訊いてもいい?」
「同じ、こと……」
純に唐突に手を引かれ向かい合わせで膝の上に座らされた。小さな子供みたいに近い距離でそばにいるのに純の視線は、もう小さな子供の目をしていなかった。
子供じゃない。大人の純。
(知ってる。今日まで、ちゃんと全部見てた)
幸せな今のままがいいからと、ずっと目をそらせて向き合わなかった。
自分の気持ちは普通じゃないからと、気づかないふりをした。そうすれば……。ずっと一緒にいられるから。
「ゆい、プロになるの?」
「……プロって、なに」
「歌手になるのかと思って」
ぷつん、と頭の中で何かが切れた。
もし純が怒っているのだとしても、それ以上に自分も怒っていた。
「歌手なんて……なれるわけ、ないだろ」
「ほら、やっぱり俺と同じこと言うし、お前分かってくれないから、もう一回言うけど、俺だってピアニストになるつもりはないよ」
「――じゃあ、お前、何になるんだよ」
「ピアノの調律師になりたい」
そっか……お前、ピアノ好きだもんな。うん、知ってるよ。
――いつ決めたんだよ。
言うべき言葉が口から出てこなかった。昨日は約束破ってごめんって言って、いつも通り笑えれば、このまま幼馴染として、親友の顔をしていられた。
もう、無理だった。
はっきりと、自分の夢を言葉にする純を見て悔しかった。何もない自分に落ち込んだ。
――なぁ、その夢決めたとき、少しは悩んだ? 俺の顔は浮かんだ?
知っていた。
純が自分に相談なんかするわけがない。
子供の頃から頼るばかりで何も返せていない。
純の夢の邪魔しかしてこなかった。
自分がピアノをやめて欲しいって言わなければ、純は演奏家になれた。
ずっと怖くて訊けなかったことの回答を訊く前に突きつけられた。
「……同じじゃない、よ」
純に握られていない右手が、衝動的に純の服の胸元を掴んでいた。
「どうして? 同じだよ、これからだって」
「なぁ俺、お前のなんなの……幼馴染で、親友じゃないのか、お前だって、動画のこと教えてくれなかったじゃんか……バイトのことだって」
言葉が止まらない。
「訊かれれば言ったよ」
「嘘つき」
言うつもりのなかった言葉が代わりに口から溢れた。
寂しいだけなのに。寂しいとは言えない。ムカつきすぎて頭がくらくらする。
もっと話をしたかった。けれど思い通りに口が動かない。
親友でも言いたくないことだってある。
自分だって、純へのあてつけのように歌った動画のことなんて知られたくなかった。
恥ずかしかったから、それだけの話なのに。
「……嘘つきって、あのさ、俺も怒ってるんだけど」
「なんでだよ」
「なんで昨日、俺じゃなくて瀬川くんのところに行ったの?」
「え……」
「前、喋ったとき瀬川くんが自分のチャンネル教えてくれたから。分かった」
「……でも……それは」
「あの動画撮ったの昨日だよね? 俺の方が先に会う約束したのに」
「だって、それは……お前が」
「俺って、お前の都合のいい時だけの親友? 結斗こそ、俺のなに?」
「なに……って」
「抱き枕? 安定剤? まぁ、それでもいいよ。結斗はずっとこのままが良いらしいし」
ムカムカする。そうやって人をバカにして全部分かったような顔をする。
実際、純は結斗のことを全部分かっている。今日まで、分かっていないふりをしてくれただけだ
結斗がそう願ったから。
「ッ、人のせいにするなよ、純、お前は、どうなんだよ」
「いつも思うけどさ、ほんと、王様かよ。訊きたいなら自分から言いなよね」
次の瞬間、頭の後ろを押さえられて強引に唇を重ねられた。中学のときに純が頬にした温かいキスは確かに親友のキスだった。安心した。ふわふわとして心地よかった。
酔ってしたキス。
親友じゃなくなった。不安でいっぱいになった。苦しかった。
三度目の優しさの欠片もないキス。気持ち良くてたまらない。こんなに、腹がたつのに、怖いのに、悲しいのに、大好きで嫌になる。
「俺、好きだよ。結斗のこと」
花も実もある。そんな完璧な純が嫌いだ。
これ以上優しくしないで欲しかった。もっと甘やかされて、強く抱きしめて欲しくなるから。
もっとキスがしたかった。こんなにしたくないのに。
ずっと、純の気持ちを聞きたくなかった。怖かった。これ以上、純の未来をめちゃくちゃにする自分が許せなくなる。
「こんなの、嫌だ……」
少しも嫌なところがないところが嫌だった。
「もう、いい加減諦めろよ。結斗のこと大好きだけど、そうやってすぐ逃げるところは大嫌いだ」
「ッ……」
悔しい。ムカつく。
「ねぇ親友とキスしたら、お前は勃つの?」
「ッ、分かってるよ! 俺が、変なことくらい! 俺の変にこれ以上、純を付き合わせたくねーんだよ!」
「誰も変とか言ってないだろ、この分からず屋!」
「っ、ぅ……」
純の大きな声を初めてきいた。
純の言葉に一瞬で、涙腺が決壊していた。
純の膝の上でぼたぼた涙をこぼしている。
人ってこんなに涙が出るんだって初めて知った。純の家の帰りみち自転車でこけて骨が折れた時だってこんなに泣かなかった。
初めて、大嫌いって言われた。初めて怒られた。初めて喧嘩した。
純と同じくらいにすごい才能があれば、音楽をすれば、同じように動画を上げれば、何か変わるかもしれない。自分の純への歪んだ気持ちも何か変わるかもしれない。昔に戻れるかもしれない。全部、同じに、幸せだった純の半分に戻れるかもしれない。
無理だった。もう戻れない。
「俺だって、お前が、好きなんだよ、分かれよ! バカ!」
こんなの駄目に決まってるだろ!
持ってきた土産の袋を投げつけて純の家から逃げてきた。
何を投げても、いつも当たらないのに、この日は見事に純の肩に当たった。
自分でも、この捨て台詞はどうかと思った。
その日、ごめんなさいって、メッセージを送ったけど純から返事は返ってこなかった。当たり前だ、何に対してごめんなさいか書いていないから。
純の既読スルーも初めてで、その夜は一睡もできなかった。
朝から雨が降っていた。
眠れない夜を過ごして朝方に少しだけうとうとしていると、純が弾く『雨の庭』が聴こえてきた。曲は重苦しく不安を煽るような前半を何度も繰り返す。いつまでたっても明るい晴れにたどりつかない。もう嫌だと結斗が思った瞬間、スマホのアラームが起きる時間を知らせた。
ふと窓の外を見れば夢の中と同じ光景が広がっていた。
関西地方の十二月に雪は期待できないし、冬の雨は結斗の気分を暗くするだけだった。
いっそのこと、このまま引きこもってしまおうかと思ったが、それも幼稚に思えてできなかった。
純と喧嘩してからも毎日大学には出ていたし、今年の残りすくない講義を表面上は真面目に受けていた。
この先どうしたい? 周りは自分に希望ばかり訊いてくる。
何も答えなんてない。
このままがいい。
これは答えなんだろうか?
瀬川とは月曜日にと約束していたが学部が違うのをいいことに、用事ができたと言って週明けから逃げ回っていた。瀬川から隠れるのは大変だった。
でも純とは全然すれ違わない。親同士が仲よくても子供の縁なんて簡単に切れる。二人とも会いたいと思わなければ、この先も、ずっと。
――良かった。
これで、大丈夫だと結斗は思った。もっと早く。こんな喧嘩なんかする前に幸せな日々のまま、ゆるやかに離れるべきだった。高校生の間は少しだけ離れられたのだから。
あのまま、もっと遠くに行けば良かった。純は、ちゃんと自分から離れたのに。
(なんで、俺は、できなかったんだよ)
そのまま十二月の後半も、師走らしくあっという間に過ぎていく。予定通り両親は純の親と遊ぶためにアメリカへ向かい結斗は家に一人になった。
暗い顔をわざと明るくして取り繕うのも、辛かったから親が出かけてくれたのはありがたかった。
そんなふうに周りと一切関わらずに過ごしていた。
けれど、今年最後の講義の日に瀬川に捕まってしまった。
――十二月二十四日。
「やっと会えた! 桃谷、俺なんかした? いや、まぁ動画の件だよな、分かるけど」
何度もわざとらしくメッセージをかわし続けたのだから、瀬川が不審に思うのはもっともだった。
「……えぇと」
バイト終わりにカフェテリアの入り口で手を掴まれて近くの席まで連行される。
「とりあえずお前が、歌手とか言われるのが嫌だったのは、よーっく、わかったから逃げるなよ。もう言わないから、そんなことで友達やめられたら困る!」
「そんな、深刻なことじゃなくて」
「……あのあと峰岸たちと話しててさ、他人が褒め言葉でも、プロとか職業に結びつけるのはよくないなって反省した。無責任に聞こえるしウザかったなって。考えてみれば軽音の奴らだって、楽しくて楽器やってるだけだし」
「いや、ホント、瀬川たちが気にするようなことじゃ」
「じゃあ、もしかして、動画のことで『純』と喧嘩した?」
「え?」
瀬川の口から急に純の名前が出てきて驚いた。
「なるほど、そっちか」
結斗が何も説明していないのに、瀬川が勝手に納得したので余計に訳が分からなかった。
「確かになぁ、いつも一緒にいる相方に黙って動画上げたなら感じ悪かったかも。いまランキング荒らしみたいにMOMOの動画が一位になってるし」
「別に純は動画のランキングとかは、気にしてなかったけど」
「そうなの? だって、この前の日曜日から『純』動画上げてないし、毎週何か上げてたからさ、動画主同士でバチバチに喧嘩になったのかと」
「いや、まぁ、純と喧嘩はしたんだけど。動画サイトのことは関係なくて……峰岸くんには、また遊ぼうって言うつもりだったし」
「そっか、良かった峰岸も喜ぶと思う」
「うん」
「じゃあ『純』はお前と喧嘩して、機嫌悪くてピアノ弾く気になれないのかな」
「いや、俺は関係ないけど」
「でも、喧嘩はしたんだろ?」
瀬川の言葉で急に喧嘩の原因がわからなくなった。純は結斗が勝手に一人で動画を上げたことを怒っていたわけじゃなかったし、ましてや順位にこだわっていたわけでもない。
(あれ、純、何で怒ってたんだっけ)
後半の怒っている純の声が怖くて、あれから、なるべく思い出さないようにしていた。
純、なんて言ってた? 荒れたピアノの後に純が言った言葉。
――なんで昨日、俺じゃなくて瀬川くんのところに行ったの?
――あの動画撮ったの昨日だよね? 俺の方が先に会う約束したのに。
(あれ? 怒ったの……俺が、約束破ったから? 嘘、ついた、から?)
そもそも瀬川じゃなくて、会ってたのは軽音サークルの峰岸たちとだった。
「純はさ……あいつピアノが好きで、楽しいから弾いてるだけだって」
「へぇ、そうなんだ」
「前に、俺と、遊びたいからピアノ弾いてるとか言ってたし……」
――え、もしかして、俺と同じじゃね?
瀬川に言い訳のように言った言葉に自分で驚いていた。楽しくて弾いている。
結斗だって同じだ。
昔から変わらない。他の誰と遊んだって、純以上に一緒に音楽をして楽しい人なんていないと思っている。
ふいに、母親がからかうように言った言葉を思い出した。
――同じだけ一緒にいたんだから思考回路も同じよ。なんで分からないかなぁ君は。
(マジで純、拗ねてたの? 俺が他のやつと遊んでたから?)
あの完璧人間の純が? にわかには信じられなかった。
純が自分以外の誰かと音楽を分かち合っていると知った瞬間、結斗は絶えられないくらい寂しくなった。
――お前も同じで腹立ったりした?
あの日、純は「寂しい」って言っていた。自分はそれを聞いて、嘘つけって茶化した。
「それならお前、めっちゃ関係あるんじゃねーの? 遊び相手いないからつまらないって、弾かない立派な理由じゃん」
「マジでか」
「マジマジ。しっかし、ほんと似てんのな。会うたびにカラオケ行こうって口癖のお前が、急に静かになるし」
拗ねてる純なんて想像したことがなかった。いつも笑っているから。完璧だから。
「な、なんか、歌う気にならなかっただけで……」
これ以上言い訳しても、さらに幼馴染との幼稚な喧嘩が露呈するだけの気がした。
「そうそう。この前さ、ここで俺『純』と話してただろ。その時にプロのピアニスト目指しているんですか? って訊いたんだよ。まぁ、今思えば、お前と同じで鬱陶しい質問だったかもしれないけど」
「……純、なんて」
ニヤニヤと楽しそうに笑う瀬川の顔を見て、答えは言われなくても分かった。
また、頭の中で楽しい音が鳴った気がした。
「プロにならなくても、結斗が一生隣で聴いてくれるらしいから、音楽はそれで十分ってさ」
「何言ってんだよアイツ」
きっと恥ずかしげもなく笑顔で言ったのだろう。
「結斗が怒るから、秘密にしてねって言われたし、言うつもりなかったけど」
「あ……うん。――なんか、ごめん俺の幼馴染が」
「つか、お前もだろ? バレバレなんだよ。俺が『純』と楽しく喋ってるとき、カウンターからずっと怖い顔して睨んでるし『純』それ見て笑ってたぞ。うちの相方がヤキモチやきですみませんって、砂糖吐くかと思ったわ」
相方って芸人かよって言いたくなった。結斗が悩んでいた「わがままな独占欲」を純は最初から隠す気なんてなかった。
今更、純の覚悟の意味をを知った。
「……とりあえず俺、純に謝ってくるわ、約束破ってごめんって」
約束したのに行けなくてごめん。寂しいときに、そばにいなくてごめんって。
「お、もしかして、クリスマスイブにドラマチックに、駆け出しちゃう?」
茶化して笑う瀬川を無視して、結斗はスマホで純のSNSアカウントを探した。
「うるせー。なぁ、瀬川このピアノってどこにあるか分かる?」
初めて純のアカウントのポストを見た。別にSNSの純を知らなくても、純のことなんて全部知ってるからと見たことがなかった。予想通り、連絡と最低限のお礼以外個人情報を何も書いていないつまらない内容だった。でも、つまらなくて安心した。純は、数時間前にバイトでピアノの調律に行くと書いていた。
「多分、今日から使える、福岡の駅にあるストリートピアノだと思うけど」
「ふぅん、福岡、ね。じゃあ行ってくる」
「え! 今から? 行くなら、連絡してからいけよ。入れ違いになるかもよ」
「入れ違ったら、迎えにこいって言うからいい」
「なに桃谷って女王様なの?」
――多分、王様だと思う。
瀬川とその場で別れて、その足で新大阪の駅に向かっていた。
親に渡されていた一週間分の生活費と自分のバイト代で片道分の電車賃しかない。
それでも何とかなると根拠のない自信があった。それに純と一緒に帰ってくる未来しか考えていない。迷っても、ここまで迎えにきてって言うつもりだった。きっと、結斗は同じことを純に言われたら嬉しくてヒッチハイクしてでも会いに行く。
そんな傲慢を嬉しいって思う。
(赤ちゃんで、王様なんだよ、悪いか。お前だって同じじゃん)
一緒の部分に気づいたら嬉しくてたまらなかった。
純が自分と同じなら、もう仕方ないと思った。自分たちは、変で、バカみたいだ。けれど、だからこそ諦めにも似た覚悟ができた。
(純が嫌だって言ってもずっと聴く。約束したもんな)
小さな子供のときに言ったプロポーズのような言葉。それを未だに信じている純が可哀想で可愛いと思う。
大好きだった。
新幹線に乗っている間、結斗はスマホを見ながら純がいる場所の目星をつけていた。
連絡なんかしなくてもすぐに会えると本気で思っていた。自分の半分が純だから。
普段より更新の多い純のSNSポストを見て、何だか、さっさとここまでこいと言われている気がした。
ただの結斗の直感だけど、純はまだ機嫌が悪いし怒ってる。
(まぁ……告白したのにキレられたんだもんな。そりゃ怒るわ)
駅について頭の中に叩き込んだ道順を足早に歩いた。クリスマスのイルミネーションなんて目もくれず、一分一秒が惜しかった。そうしてやっと辿り着いた目的の場所に、純はいなかった。
今日から設置された新しいストリートピアノの前には、知らない誰かが座っている。SNSの情報を見た限り数時間前まで、この場所に純がいたことは分かっている。
けれど今はいない。いないと分かったのなら、すぐに次の場所を探すまでだった。結斗が踵を返そうとした時だった。
「あれ、桃谷くん?」
雑踏の中、突然肩を叩かれた。
「あ、三森……さん」
「あぁ、やっぱりそうだった。もしかして、今日、篠山くんと一緒に来てた? いつも一緒にいるって言ってたし、今日はクリスマスイブだもんねぇ」
「いえ、俺は」
純が三森に結斗のことを何と伝えているか分からない。瀬川に話したように相方とでも言っているのだろうか。
「そうそう、あのピアノね。今日、篠山くんが一人で最後まで調律したんだよ。スタインウェイ」
「え?」
「本当はバイトくんに一人で最後までやらせることはないんだけど。あのピアノは元々、篠山くんの家にあったものだし、特別にね。ま、時間はかかったけど及第点かな。綺麗な音だよねぇ」
小さい女の子がクリスマスメドレーを弾き始めた。
子供の頃、純の家の地下にあったピアノ。結斗がおもちゃのように遊んで鳴らしていた。宝石くらいの値段がするやつ。今でも覚えている色鮮やかな思い出の音だ。懐かしい音を思い出し純に会いたい気持ちが募る。とにかく早く純を探しに行こうと思った。
「あの! 三森さん、純って」
「多分、次に弾くと思うよ。名前書いていたから」
女の子の演奏が終わり、彼女が椅子から立ち上がる。拍手が静まったそのとき、人混みの中に純の姿が見えた。
あ、と口から声が漏れる。見つけた。
いつもと同じ、ピアノの前に座ると燕尾にみえる黒のチェスターコート。幽霊のようにふらりとピアノの前に現れた。
派手なパフォーマンスをする訳でもなく、曲は唐突に始まった。
「しっかし、今日はクリスマスイブなのに寂しいきらきら星だねぇ。朝は楽しそうにしてたのに。上手だけど、せっかくの綺麗な音が台無し」
結斗は輪の中心に走って行って、その背中に今すぐ抱きつきたくなった。
けれど、今の自分には、まだできないのも分かっている。きっと純は喜ぶし別に少しも困らないかもしれないけど。人前でくっつくのは、まだ少し恥ずかしい。
「三森さん。ここ禁止されてることってありますか?」
「え?」
「ストリートピアノって、連弾とか合奏が禁止なところもあるって書いてたから」
「あぁ。ここは駅構内じゃないし、時間制限だけ。あとは喧嘩せずにみんなで仲良く楽しんでもらえれば……って、桃谷くん?」
「ありがとうございます。じゃ、ちょっと殴り込んできます。ピアノはもっと楽しそうに弾けって」
背中から「喧嘩はダメだよ」と声が聞こえた。自分がそばにいるのに、そんな寂しい音楽なんか許さないと思った。
いつもの純の演奏を知っている人からすれば、本番前の準備運動みたいな軽い演奏に聴こえているだろう。でも、結斗からすればこんなのはお通夜だ。
一曲目が終わったタイミングで、結斗はピアノに向かってスタスタと歩いて行って、背後から鍵盤に手を伸ばした。
ラの音。442Hz。
ちゃんと正しく調律ができていた。綺麗な音だった。振り返った純は結斗の顔を見るなり、スタンプの黒猫と同じ目をしていた。まん丸の目。
――驚いてる。
やっと、言いたいことが言えると思った。
「驚いた? ざまぁみろ」
「いや、ちゃんと来ると思ってたけど、思ったより早かったね」
「嘘つけ、寂しかったんだろ」
「――全然」
にこりと優しい笑顔で微笑み返される。
結斗も寂しかったから、そうやって純も同じだろうと決めつけた。
「うん、やっぱり嘘。寂しかったし、ちょっとびっくりした」
「純が言ったんだろ『隣で歌ってくれたら、もっと楽しい』って。だから来た。ほら、お望み通り隣で歌ってやるから、なんか、弾けよ」
「やっぱり、王様だし。いいけど、じゃあ歌ってよ」
文句を言いながらも、結斗がちゃんとたどり着けたことに満足している。
そんな純の顔。純の方が王様だと思った。
さっきまでつまらない演奏をしていたくせに、結斗がやってきただけで、音が華やぐ。純はピアノで気持ちを返してくれる。
『My Favorite Things』
視線が交差して自分も曲名と同じ気持ちだったから、お互い本当に恥ずかしいやつだなと思った。
笑いながら小突いて狭い椅子の隣に無理やりに座った。寂しい時に好きなものを思い浮かべる。そうすれば、寂しくなくなるから。本当にその通りだなと思う。
その「お気に入り」の全部が、今も昔も純が結斗で、純が結斗だった。
人前で演奏しているのに、お互いに隣の人間にだけ音楽を届けている。
この先のことを考えたら、自分の半分を可哀想だと思うし、怖いって思うこともある。けれど一緒なんだから仕方ないって諦めた。
諦めたら、それもそんなに悪くないって感じた。
いつの間にか人だかりができていて、演奏が終わると大きな拍手が鳴り響く。
人の心を動かす音楽は、いつだって音に感情が乗っているんだと思う。結斗が歌った曲が動画ランキングで評価されたのも、きっと同じ理由。
その評価を申し訳なく思うのは傲慢かもしれない。
けれど、やっぱりごめんなさいって思った。
――だって、隣の男の音楽は全部、自分のものだって思いながら歌ったから。
*
最初からクリスマスは純と過ごすつもりだった。
この日の計画が、どこまで純の想定通りで、どこからが想定外だったのか。
純と駅のピアノで一緒に遊んだあと、大学生が絶対選ばないようなハイクラスなホテルの部屋に連れてこられた。
ホテルのカウンターで、ご予約の二名と言っていたのが聞こえたので、最初から誰かと泊まる予定だったのは間違いない。
「純さ、こんな広いとこ一人で泊まる気だったのか?」
「ん、二人だよ」
問題は誰と泊まるかだ。仕事で一緒に来ていたらしい三森とは駅であっさりと別れたので、相手が三森でないことは確かだった。
ぐるぐる考えていた自分は、すごく情けない顔をしていたと思う。
そんな結斗を見て、にこにこと楽しそうに笑いながら純はコートを脱いだ。黒いセーターの胸元を結斗は思わず掴んだ。
「誰と! 泊まるつもりだったの」
「素直な結斗は好きだな」
「ッ、う……」
「けど、俺だって、まだ怒ってるからね?」
「それは、ごめん……。約束破って、あと、最後まで話聞かないで、ごめん」
「ホントだよ。でも、もういいよ。俺も悪かったから、おあいこ」
そういって頬に口付けてくる。
けれど、純をひっぺがしてベッドの近くにあったソファーを指差した。喧嘩の売り言葉と買い言葉。
シチュエーションは最悪だったけれど、お互いにもう好きだって言ってる。子供みたいにクリスマスケーキを食べてこのままオヤスミするつもりもない。
けれど全部聞くまでは落ち着かない。
「で、ここに誰と泊まる気だったの?」
「そんなに怒らなくても。結斗と泊まるつもりだったよ。言ったじゃん、クリスマス一緒に遊びに行こうって」
「それは、言ってたけど」
「こっちでバイトあったし、三森さんに先にバラされたけど、あのピアノ全部一人で調律して、結斗に聴いてもらいたかったんだよ」
「え、なんで? なら家でいいじゃん」
純の家の地下にあるピアノも純が調律しているなら、外のピアノじゃなくても同じだと思った。本気で分からない顔をしたら、呆れられた。
「結斗のこと、分からず屋って思うの、こういう時だよね」
「悪かったな」
純に手を引かれソファーの隣に座った。
「好きな人に仕事でいいところ見せたかったんです」
「はぁ……」
「バイトだって秘密にしてたのは、できるようになってから見せて、結斗をびっくりさせたかっただけだし」
「びっくりした!」
一人だけ取り残されたみたいに感じて心細かった。すごく焦った。
「うん、けど失敗したなって思った。もっと早く言っておけばよかったね」
「動画の件だって」
感極まって泣きそうになったけど我慢した。
「ずっと一緒にいるのに秘密なんか作んなよ。俺なんか悪いことしたかって思うじゃん」
「それもごめん。俺も結斗に同じことされて分かったよ。ムカついた」
「そうだよ」
「動画配信も最初は、三森さんの仕事に付いて行ったとき撮って貰ったのがきっかけで、まぁ、今は色んなピアノ弾けるのが楽しいからやってるけど、勉強になるし」
ちゃんと話せば分かる簡単なこと。じゃあ最初からそう言えよって思う。けど思い返してみれば、昔から自分に良い所しか見せないのが純だった。
ピアノが誰よりも上手いのだって、結斗にその練習過程を見せていなかっただけで、きっと泣きながら必死にやっていた。一朝一夕で、あのキラキラした音を魔法のように手に入れた天才なんかじゃない。
ただ結斗のことが大好きなだけの、かっこつけだ。
分かっていたのに、急に純の本当の姿が見えなくなった気がして寂しかった。
「んな小細工しなくたって、純がすごいのなんて、俺は昔から知ってるっつーの」
何年一緒にいるんだよって怒ったら、幸せそうにへらりと笑うから、また怒った。
すましてばかりの綺麗な顔しか知らない純のファンに、今のこの馬鹿っぽい顔をみせてやりたいと思った。
絶対に見せてやらないけど。
「ねぇ結斗、キスしていい?」
「ッ……まだ、だめだ」
「なんで? まだ幼馴染から恋人になってくれないの?」
結斗だって覚悟はできている。気持ちが同じなら仕方ないって。けれど、純のご両親のことを思うと今更ながら申し訳ない気持ちもある。留守を任されているのに、口に出して言えないようなことばっかりやっている。
「ゆい、そんなアレコレ心配しなくても、今日お泊まりするの、亜希さんとうちの親に了解貰ってるよ?」
そう甘えるように可愛く首を傾げた純のほっぺたを結斗はぐいとつまんだ。
「おい、まて、今なんて言った?」
「だから、亜希さんに『クリスマスに結斗と泊まりで旅行したいんですが行っても良いですか』って、一ヶ月くらい前かな」
さっと血の気が引いた。一体いつから、純は、自分とこうなるつもりだったんだろう。
「……ババア、なんて言ってたんだよ」
「お前がいいって言ったら、どうぞって」
内心戦々恐々としていた。純の回答内容によっては、もう二度と家に帰りたくないかもしれない。
「お前、俺の親に何言ってくれてんの、怖いんだけど」
「えっと、どこから話せばいいかな」
怖いけど、聞かない方がもっと怖い気がした。
「全部……言って」
「じゃあ、お前が、高校受験落ちた日からだけど」
「え、そんなに前に何があるんだよ」
「うん。あの日、うちに亜希さん来てたんだけど。俺、母さんたちに第一志望蹴って結斗と同じ高校行きたいって言ったんだよね。そしたら二人にすごい剣幕で怒られて」
由美子さんが怒るところがあまり想像できないし、人の家の息子を問答無用で怒鳴る自分の母親もどうかと思う。
「……いや、あっさり第一志望捨てようとするお前もどうかと思うけど」
「それで、いつまでも一緒にいられるわけじゃないでしょうって言われて」
「それは、そうだ」
自分もずっとそれで悩んでいた。
「で、俺は、この先も結斗とずっと一緒にいるつもりだったから『ずっと一緒にいたいから結斗をください』って亜希さんに言った」
「何回でも言うけど、お前なに言ってんの」
想像していたより百歩先をいっていた。
「そのあと亜希さんに殴られて、うちの子はモノじゃないんだけどって」
「まぁ、そうだけど、うちのババアの怒るポイントもなんかずれてるな」
「で、結局、俺が譲らないからって、父さんたちも含めて家族会議した結果。高校の間は結斗と離れて、それでも俺の気持ちが変わらなければってことで許してもらった」
高校の合格祝い。ただのいつもの両家族の食事会。あの日、自分の家で影の薄い父親が純の家にいたことを不審に思っていた。でもまぁ、合格祝いだし、そんなもんかって思った。
自分が夜、純の家に行くまでの間そんなやりとりがあったなんて想像もしていなかった。何から突っ込めばいいのか分からない。
「なぁ、ちょっと、待て」
「ん?」
「純の気持ちが変わらない云々はいいにしても、俺の気持ちは?」
「亜希さんは、うちの結斗は、純くんいないと駄目だから仕方ないけどって」
「……じゃあ由美子さんは」
「確かに、結斗くんは、うちの子大好きだから仕方ないかって」
ただの冗談かもしれないが、純がいないと駄目になるのは本当なので、少しも反論できない。せっかく親たちが作った純との冷却期間も関係なしに、あいも変わらず純に会いに行って四六時中ベタベタベタベタしていたのだから。
純なしでいられないのは、分かりきったことだった。
「それで、お前は、なんて言ったの」
「もちろん。俺も結斗が好きだし、いないと駄目になるのは同じだからって」
何でもできて完璧。それは結斗の前だけ。全然、駄目人間だった。
「……本当だよ、お前、全然駄目じゃん」
「ホントにね。で、そろそろ、恋人になってくれる?」
「……仕方ないから、なってやる」
「やっぱり王様じゃん」
「悪いか」
「ううん。悪くないよ」
そういって笑いながら、幼馴染で親友のままじゃできない深いキスをした。
純のことで知らないことはないって、ずっと思っていた。
考えてみれば、知ってるつもりでも、知らないことはあるし、まだ聞いてない隠し事だってあるかもしれない。
家族より長く一緒にいても、どんなに思い合っても、純の全部を知ることはできない。そのことを悔しいとか寂しいって思うのは、同じだけ一緒に過ごしてきた幼馴染だからだろうか。
違う気もした。
時間なんて関係ない。結局のところ、好きなら当たり前の感情だった。
――こんなに一緒に過ごしてきたのに、まだ知らないことがあるなんて。
前向きに考えれば、それはそれで楽しいと思う。
「ねぇ、もう、寂しくない?」
純はそんな残念で可哀想な思考回路の幼馴染を知ってか知らずか、からかうように訊いてきた。。
自分だって同じくらい寂しかったくせに。誕生日だって数ヶ月、先に生まれただけ。
春に生まれた純と、夏に生まれた結斗。
結斗が純のことで知らないのは、純が先に生まれた年の春のことだけだって思う傲慢。
「寂しいから、ずっと一緒にいてよ」
満たされない音が、満たされる瞬間が好きだと思う。そんな最高のお付き合いをしたい。
「うん、いいよ」
すぐ返事するなよって思った。つけあがるから。
純が自分とさえ出会わなければ、と思った日もあったけれど、きっと純は自分と出会わなければ、すごくツマラナイ人間だったと思う。
結斗が誰かの心を動かす歌を歌えるのも純がいたからだし、純がピアノを好きでいられたのも自分がいたからだ。
それなら良かったじゃんって思えた。
花も実もある。この寒い冬の日に、純が生まれた日の春を思った。
終わり
ホテルのチェックアウトしてから、せっかくだし、と二人で朝から街を観光をした。
付き合う前から付き合っているようなものだったけど、初デートといえば初デートだったのかもしれない。
なんだか、いつになく、ふわふわした幸せな気分で純の隣を歩いていた。けれど、時間が経つごとに、思考は現実世界に戻ってくる。
クリスマスの魔法は、もうとけた。
帰りの新幹線まで時間があったので、静かなカフェでお茶をしていたのだが、帰る時間が近づくごとに結斗は憂鬱な気分になっていく。
高層ビルの中にある店は、ガラス張りで見晴らしも良く、気がかりなことがなければ気分良くお茶の味も楽しめたのに。
「……帰りたくない」
結斗は外の景色を見ながらそう吐き出した。
雪も降っていないし、冬のすっきりと晴れた貴重な青空。
純と仲直りだってしたし、お互いの気持ちも伝えあったし仲がいい幼馴染から恋人同士になることができた。
こうやって、クリスマスも二人きりで楽しくデートして過ごしている。
誰だってハッピーエンドだと思う。
現に「帰りたくない」って言うと、色ボケしている純は結斗に向けてキラキラと目を光らせて喜んでいる。
純の周囲から三回くらい喜びのグリッサンドが聴こえた気がした。
(マジで幸せそうだな)
結斗は純と「片時も離れたくない」と可愛いおねだりをしたつもりはなかった。
結斗は、本気で! 家に帰りたくないのだ。何もかも知られている親に、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
「もう少し、遊んで帰る?」
「そうじゃなくて。俺さ、どんな顔して家に帰ればいいと思う?」
「いつも通りでいいんじゃない?」
「お前はいいよ。うちのババアにも、由美子さんにも、俺のこと……す……好き……とか言ってるんだからな」
「うん、好きだよ」
色ボケも大概にしろ、と二人がけテーブルの正面に座る純に手を伸ばして、手の甲をぐにってつねった。
「俺は、真面目に! 困ってんの!」
「例えば、どんなところで? 俺が、結斗とずっと一緒にこれからもいたいって思ってて、結斗も同じように思ってくれてるんでしょう」
「……うん」
改めて言われると、恥ずかしい。それこそ今更なんだけど。
「ほら、幸せ。何も困らない」
「周りの目とか」
「それも今更じゃないかな。幼馴染にしては、距離近すぎるし、仲良すぎるって思われてるよ」
「わかってるなら、もっと……早く変だって言えよ。純が何も言わないから」
甘えて好きなだけ一緒にいてベタベタしてた。
「言ったら、くっついてくれなくなる。それに――変とか思ったこと、俺はないよ」
甘いな、と思った。目の前のショートケーキの最後の一口を口の中に放り込む。
「……純、本当に俺のこと好きだな」
「結斗もでしょ?」
結斗自身このままではいけないと分かっていた。だから、できるだけ周りと同じ距離でいようと努力した。でも実際のところ「大丈夫」の感覚は、だいぶ麻痺していた。
長く一緒にいすぎたせいだ。
純は何もかもわかっていて、やっていたのだけど。
「あー……お前と俺しかいない世界に今すぐ行きたい」
真剣にこれから先のことを考えて悩んでいるのに、会話だけ聞けば、ただのバカップルだと思った。
「あ、それは、いいね。じゃあ、今から行く?」
「なに、家帰るのやめて、今から一緒に国外逃亡してくれるの? ……それもいいかもな、でも、うちのババアはいいけど、由美子さんには、やっぱちゃんと挨拶したいから、先にアメリカ寄って、あーでもパスポートねぇよ」
「律儀なのか意気地がないのか……どっちだよ。ほら、行くよ、ゆーい」
そう言った純についてカフェを出ると駅の方にまっすぐに向かっていた。流石に本当に純が国外逃亡に付き合ってくれるとは思っていないけど、結斗の気がすむまで放浪の旅に付き合ってくれるのならありがたいと思った。
「純、で、どこいくんだよ?」
「いいとこ」
「いいとこねぇ」
連れられるまま歩いていると、昨日、純が弾いたストリートピアノが置いてある場所へ向かっていると気づいた。
時間は十四時頃で駅の人の波は落ち着いている。昨日のクリスマスイブと比べれば人は少なかった。
今日はピアノの前に待ちの列はなくて、前の人の曲が終わったタイミングだった。
「ゆい、ピアノ弾いてもいい?」
純と結斗だけの世界。
確かに二人で音楽をしている間は、二人きりの世界だ。
「いいよ。俺は横で聴いてるから」
「えー歌ってくれないの?」
そう言って純は名前を書き、席が空くと純はピアノの前に座った。
純に一緒がいいって、おねだりされる。悪い気はしない。
「……歌ってもいいけど、何弾くんだよ」
「コロブチカ」
前言撤回。無理。
「歌えるかよ、ロシア語!」
「日本語の歌詞もあるよ? 小さい頃歌ってたじゃん、結斗、らららら~って」
「歌詞そのまま歌ったら不穏すぎて、界隈で出禁になるぞ」
昔、テトリスにどハマりしていた時に、純が弾いてくれた曲だった。元々はロシア民謡。
若い行商人がナンパしたお嬢さんと一夜を共にして、ハッピーエンドと思いきや最終的には金目当ての野郎に殺されて終わる話。
どう考えても、クリスマスに歌う曲ではない。
「じゃあ、踊る?」
「踊らねーよ」
「ま、楽しい旅行気分ってことで、結斗に捧げます」
「ばーか、言ってろ」
「本当なのに」
軽口を言い合ったあと、純はピアノに向き合った。
普通に弾くわけないだろうなと思っていたら、予想通り曲はアレンジだった。最初はコロブチカを叙情的に聴かせてきたが、途中からゲーム音楽を取り込んで音とリズムで遊び出す。
最初から周りも乗せる気だったのか、テンポが上がりだしたところで、後ろを見れば動画でよく見る光景が広がっていた。人だかりができて皆が純の演奏の虜になっている。
それを見て、結斗は「あー、やっぱり嫌だな」って思ってしまう。
純を独り占めしたいと思っている。恋人同士になったところで、独占欲はどうしようもない。この先も、きっと純のピアノに人々が魅了されるたび、同じことを思い続ける。
それでも、以前とは違う、恋人同士なんだと思うと、我慢できなくなるような変な焦燥感はなかった。
恋人の余裕? バカップル。
なんでもいいけど。そういった類の気持ち。
この先も一緒にいるから大丈夫だって安心をお互いに伝えあったから、こうやってこの場所に一緒にいても一緒に音楽をやっていても苦しくない。
そんなことを思っていたら、ちらり、と横から純の視線を感じた。
(あ、歌うのな)
丁度、純に向く周囲の視線にフラストレーションが溜まってたところだった。
純に、ほら周囲の目なんか、気にならないだろ? って、言われている気がした。
結局、どんなに周りの目を気にしたって、自分の欲しいものは欲しいし、これは自分のものだって主張したい欲求はおさえられない。
曲の繋ぎの数音で分かった。この前、瀬川が勝手にアップロードした自分の歌った曲。
元の曲がわからないくらいにアレンジして歌っている。そして、純は、それをちゃんと聴いて覚えているし正確に弾いていた。
――お前だって、俺のこと、独り占めしたいんじゃん。
純も同じように思っているんだと思うと、煽られた。
そして、気づいたら歌っていた。
もっと、最初から、こんなふうに二人でこの場所で楽しく歌っていれば良かった。
一緒に楽しめるものがあって、自分たちをつなぐ音楽があって良かったって思った。
どんなことがあっても、いつだって同じ曲を思い浮かべて、楽しい思い出を語り合って、自分たちの気持ちを繋げてくれるから。
曲が終わり拍手に包まれる。なんだか歌い終わってすっきりしたら、周りに自分たちの関係がどう思われるかとか、親に報告する恥ずかしさとか、もう、どうでもいいやって思った。
帰ったらちゃんとババアにいう。
――無事に、純と付き合うことになりました、って。
純と一緒にピアノから離れた時だった。
「あの……お時間少しいいですか?」
小型のレコーダーを片手に持った女性に純が声をかけられた。音楽雑誌の取材らしい。
ストリートピアノに関しての特集記事を組むそうだ。
純の音楽が、ますます世間に知られていくという嬉しさと、少しの寂しさがあった。
今は、両方の気持ちが結斗のなかにある。
もし、純が、この先もっと有名になって、自分の中でさびしい気持ちが増えても、結斗は追いかけるし、この先も自分だって、どんな形でも音楽を続けたいって、今は思っている。
純がいたから。歌を嫌いにならずに今日までいられた。
この楽しさを、もっと育てていきたい。自分らしく、自分の歌を誰かに届けたいって目標が出来た。
もちろん、純にも聴いて欲しい。純に一番に聴いて欲しい。
「――では、純さんにとってストリートピアノとは」
女性のその言葉に、純は、結斗の方を見て、ふっと柔らかに微笑んだ。
「好きな人と一緒に楽しめるからいいですよね」
「……な、なるほど、確かにストリートピアノは、音楽を通して、人と人をつないでいますよね、現に純さんの動画は……」
「あ、そろそろ電車の時間があるので、これで」
そう純は言うと、にこりと笑って頭を下げ、結斗の手を引いた。
気づけば、すでに予約した新幹線の時間ギリギリになっている。
「お前、なんつーこと言ってるんだよ、もっと、こう、言うことあるだろ、音楽の普及とか」
「嘘じゃない、ほんとだよ。あー、一緒に遊べて楽しかった。ね、結斗は?」
「本当、お前は………。すげー、楽しかったよ!」
好きな音楽を、嫌いにならずにすんだ。今も昔と変わらず、好きな人と一緒にいる。
このコロブチカは、ハッピーエンドだったらしい。
仲良く二人で帰りましたとさ。
おわり