――二人きりで心地よく奏でていたはずの自由な音楽が、突然不協和音を鳴らし始めた。
桃谷結斗は、幼馴染の篠山純ことなら、何だって知っているつもりだった。
結斗はこの日、純がどんな夢を持っているのか初めて知った。
自分が一番、純のことを知っている。
どうやら、それは思い上がりだったらしい。
「お前の友達さストリート最速の男だろ」
「え、なにストリートって? 車の話?」
結斗は大学の食堂で学部の友達と昼食を食べていた。
「違うって。前も話しただろ俺の趣味」
「趣味?」
顔を上げるとテラス席には自分たちしかいなかった。十二月に入り今日の気温は五度を下回っている。
暖かい室内席じゃなくて、あえて外に座りたい学生なんていないだろう。昼の一番混んでいる時間帯で、席がここしか空いてなかったのだから仕方ない。食べているのが熱々のラーメンだったので極寒の席でもちょうどよかった。
(……最速? そんな友達いたっけ?)
結斗は醤油スープがしみしみになったトッピングの唐揚げを頬張った。
ストリート最速とか言われても、走り屋のマンガしか頭に浮かばない。確かに一人だけ免許を持っていて普段から車を運転している友人はいる。
でも公道を攻めるような男でもないし、キレてスピード違反もしない。何度か助手席に乗せてもらったが運転は彼の外見の印象そのままだった。洗練されていて、丁寧。
「あ、この時間だったらまだ『桜花殿』いるんじゃねーの、俺SNSフォローしててさ、見に行こうぜ」
「俺、まだラーメン食ってる」
「じゃあ、それ食ってからでいいよ。けど桃谷もさぁ水臭いよな」
「だから何がだよ」
「友達なんだったら教えてくれればよかったのに」
「で、誰だよ。その最速の男って」
「この前一緒に廊下歩いてたじゃん。仲良さそうだったのに? ストリートピアニストの純」
「ストリート……ピアニスト?」
純のことは、姿形も細部まで鮮明に思い浮かぶ。一緒に過ごした時間が誰よりも長いから。
結斗みたいに染めて痛んだ茶髪じゃなくて、一度も薬品で染めたことのないサラサラの黒髪。鼻筋の通った顔。寝起きは二重が、三重瞼になる切れ長の目。
あとは、この季節だとオフショルダーの黒のチェスターコートを着ている。一体いくらくらいするのか庶民の結斗には一生縁がない服をいつも着ている。コートだけじゃない。純が身につけているものはどれも上等な品ばかりだ。でも、それらを少しも嫌味なく着こなしている。本物のお金持ちとは、純のような家なんだなって長年の付き合いで知った。
昨日も会ったし、このあとも会う予定があった。
簡単に想像できるのに友人の瀬川が言う「最速の男」には一ミリも心当たりがない。
「純って、英文学科の?」
「やっぱり友達なんじゃん、紹介してよ」
「純を? なんで?」
「有名人とお近づきになりたい!」
そこからは、ずっと上の空でせっかくの大好きなラーメンの味がしなかった。
瀬川の口から聞いた幼馴染の新しい情報に、その瞬間「嬉しい」と「寂しい」の音が半分ずつ心の中に降ってきた。
楽しい音と悲しい音は簡単に想像出来たのに、複雑に入り混じった、その音は初めて聴いた音だった。
純だったら結斗の頭の中にある今の音をピアノで鳴らせるのだろうか?
純は中学生以来、結斗の前以外でピアノを弾かなくなった。そんな彼が再び人前でピアノを弾いていることを知って嬉しいと思う。
同時に罪の記憶が呼び起こされた。自分のためだけにピアノを弾いて欲しい、そう願ったのは他でもない自分だったから。
純とは時間があれば、いつも一緒にいたし家族同士も仲がよかった。
知らないことといえば、お互いの「初恋」くらいという自負もあった。
だから結斗が知らない幼馴染の一面を瀬川の口から知ったことがショックだった。


