――二人きりで心地よく奏でていたはずの自由な音楽が、突然不協和音を鳴らし始めた。
 桃谷結斗(モモタニユイト)は、幼馴染の篠山純(シノヤマジュン)ことなら、何だって知っているつもりだった。
 結斗はこの日、純がどんな夢を持っているのか初めて知った。
 自分が一番、純のことを知っている。
 どうやら、それは思い上がりだったらしい。

「お前の友達さストリート最速の男だろ」
「え、なにストリートって? 車の話?」
 結斗は大学の食堂で学部の友達と昼食を食べていた。
「違うって。前も話しただろ俺の趣味」
「趣味?」
 顔を上げるとテラス席には自分たちしかいなかった。十二月に入り今日の気温は五度を下回っている。
 暖かい室内席じゃなくて、あえて外に座りたい学生なんていないだろう。昼の一番混んでいる時間帯で、席がここしか空いてなかったのだから仕方ない。食べているのが熱々のラーメンだったので極寒の席でもちょうどよかった。
(……最速? そんな友達いたっけ?)
 結斗は醤油スープがしみしみになったトッピングの唐揚げを頬張った。
 ストリート最速とか言われても、走り屋のマンガしか頭に浮かばない。確かに一人だけ免許を持っていて普段から車を運転している友人はいる。
 でも公道を攻めるような男でもないし、キレてスピード違反もしない。何度か助手席に乗せてもらったが運転は彼の外見の印象そのままだった。洗練されていて、丁寧。
「あ、この時間だったらまだ『桜花殿』いるんじゃねーの、俺SNSフォローしててさ、見に行こうぜ」
「俺、まだラーメン食ってる」
「じゃあ、それ食ってからでいいよ。けど桃谷もさぁ水臭いよな」
「だから何がだよ」
「友達なんだったら教えてくれればよかったのに」
「で、誰だよ。その最速の男って」
「この前一緒に廊下歩いてたじゃん。仲良さそうだったのに? ストリートピアニストの純」
「ストリート……ピアニスト?」
 (ジュン)のことは、姿形も細部まで鮮明に思い浮かぶ。一緒に過ごした時間が誰よりも長いから。
 結斗みたいに染めて痛んだ茶髪じゃなくて、一度も薬品で染めたことのないサラサラの黒髪。鼻筋の通った顔。寝起きは二重が、三重瞼になる切れ長の目。
 あとは、この季節だとオフショルダーの黒のチェスターコートを着ている。一体いくらくらいするのか庶民の結斗には一生縁がない服をいつも着ている。コートだけじゃない。純が身につけているものはどれも上等な品ばかりだ。でも、それらを少しも嫌味なく着こなしている。本物のお金持ちとは、純のような家なんだなって長年の付き合いで知った。
 昨日も会ったし、このあとも会う予定があった。
 簡単に想像できるのに友人の瀬川が言う「最速の男」には一ミリも心当たりがない。
「純って、英文学科の?」
「やっぱり友達なんじゃん、紹介してよ」
「純を? なんで?」
「有名人とお近づきになりたい!」
 そこからは、ずっと上の空でせっかくの大好きなラーメンの味がしなかった。
 瀬川の口から聞いた幼馴染の新しい情報に、その瞬間「嬉しい」と「寂しい」の音が半分ずつ心の中に降ってきた。
 楽しい音と悲しい音は簡単に想像出来たのに、複雑に入り混じった、その音は初めて聴いた音だった。
 純だったら結斗の頭の中にある今の音をピアノで鳴らせるのだろうか?
 純は中学生以来、結斗の前以外でピアノを弾かなくなった。そんな彼が再び人前でピアノを弾いていることを知って嬉しいと思う。
 同時に罪の記憶が呼び起こされた。自分のためだけにピアノを弾いて欲しい、そう願ったのは他でもない自分だったから。
 純とは時間があれば、いつも一緒にいたし家族同士も仲がよかった。
 知らないことといえば、お互いの「初恋」くらいという自負もあった。
 だから結斗が知らない幼馴染の一面を瀬川の口から知ったことがショックだった。


 ラーメンを食べ終わったあと結斗は瀬川に連れられ、大学のキャンパス内にある桜花殿にやってきた。見慣れた白いフランス様式の木造建築は、大学の設立時に建てられた記念館で学生たちが自由に出入りできる憩いの場だった。
 昼休憩も終わって午後一の講義も始まっている時間だというのに、建物のなかに入ると多くの学生たちが集まっていた。
 ホールの中央には誰でも自由に弾けるグランドピアノが置いてある。普段は児童学科の学生たちが楽しそうに授業の課題曲を談笑しながら弾いていた。
 いつも見かけるその学生たちは、今日は少し離れた場所にいる。ピアノを中心にして輪を作って演奏者を静かに見守っていた。
 何だかその異様な空気に圧倒される。
(あ、本当にいた……純)
 ピアノの前には結斗がさっき想像した通りの姿で純が座っている。黒のチェスターコートがフォーマルの燕尾服のようだ。その見慣れた姿形の幼馴染を見て本当カッコいいなと素直に感じた。
 結斗は親友が昔から「舞台人」だったことを思い出した。過去、結斗は舞台で人を魅せることができなかった。でも純には昔からその才能があった。人を一瞬で高揚させ、魅せる。周りを虜にする演奏。
 目の前に座る人を幸せにして、楽しい気持ちにさせる天才。
 純がピアノを弾いてくれるのが嬉しいのに悲しかった。心臓が震える。キリキリと張り詰めて痛む。
「お、よかった! 演奏間に合ったじゃん」
 隣に立っている瀬川は自身のスマホをピアノの方へ向けた。周りを見ると同じように純を撮影している人たちがいた。純は「そういうの」が嫌いなのだとずっと思っていた。
 誰かから見られたり、騒がれたり。
 なんの前ぶれもなく演奏が始まったのに、一音目で周りが音楽に引き込まれるのが分かった。広いコンサートホールでもないのに、ピアノの屋根は全開で音がよく響く。
 きっと風に乗って表通りの向こうの校舎まで音が届いているだろう。
「……ショパンの英雄ポロネーズ」
「なに、お前、クラシックわかるの? 桃谷もピアノ弾けたりする?」
「弾けないけど」
 いつも純が弾いてくれるから結斗は弾かない。
 ポーランドの民族舞曲。
 最初は心臓のふちがぞわぞわする。今の結斗の不安定になった心とシンクロした。曲想なんて大袈裟なことは分からないけれど、ロマンチックな旋律の美しさより結斗には終始、聞く人のいない孤独な独り言みたいに聞こえる。淡々と誰かに語りかけるけれど相手はいない。
 勝手に一人で純の演奏に酔っていた。
 きっとこの中で、そう感じているのは結斗だけだ。ピアノの前にいる観客たちは、うっとりとした目をして聴いていたから。
 純は子供の時にピアノ教室をやめてから、誰かのために弾くピアノが嫌いになったんだと思っていた。
「――『純』さ、先週の動画ではアニソン弾いてたんだけど、今日はクラシックかー。なぁ、普段は家でどんなの弾いてんの?」
「色々」
「へぇ、そうなんだ。やっぱり、かっけーなぁ」
 結斗はずっと独り占めにしていたキラキラ光る音が、たくさんの人に届いているのが嬉しいのに、もやもやする気持ちが抑えられなかった。
 音が身体中に響いて出口がない。ずっとぐるぐる回っている。響く美しいアルペジオ。
 行き場をなくした音がいつのまにか熱に変わっていた。――誤作動。
(え……は、マジで。なんでだよ)
 自然と前のめりになってしまう。丈の長いダッフルコートを着ていてよかった。
「せ、瀬川、ごめん、ちょっと用事思い出したから、先行く」
「え、そうなん? 分かった。じゃーな」
 結斗はその場を逃げ出すように離れ、講義中で静まり返った校舎のトイレに駆け込むと個室の中で頭を抱えた。
 ピアノから離れたのに、まだ耳の奥に純の熱い音が溶けずに残っていた。
 身体の疼きと興奮が治らない。内側を暴れ回っている熱が苦しい。
(アイツが……あんなキレイな音鳴らすからだ)
 幼馴染のピアノに興奮して勃ったとか、絶対、誰にも言えない。墓まで持っていく!

 結斗が電車から降りたとき空はオレンジ色だった。冬は本当に日が短い。駅近くのスーパーで食材買い再び外に出た頃には川向こうの夕日は糸のように細くなっていた。結斗は買い物袋を手に純の家に向かった。
 今日は純と大学の講義が終わったら遊びに行く約束をしていた。正しくは「今日は」じゃなくて「今日も」だ。週の半分以上は純の家に入り浸っている。

 なだらかな坂の上。高級住宅街にある真四角の要塞みたいな家が純の家だ。子供の頃ゲームのダンジョンみたいって純に言った気がする。
 地上二階、地下一階で、地下は防音室兼、純の部屋だ。外観が灰色の一軒家。
 結斗は純の家の玄関の鍵を持っていたので、家主が帰っていない人様の家に勝手に上がって夕飯を作り始めた。
 結斗の母親と純の母親は中学の頃の同級生で大人になった今も仲がいい。住んでいる世界が違う人なのにいつも不思議だった。
 結斗の母と純の母がなぜ友達になったのかは今も謎だ。共通点なんて少しも見つからない。母親いわく学生の頃の友達なんてそんなものだそうだ。
 確かに言われてみれば結斗と純だって、ずっと一緒にいたから仲良くなった気がする。
 結斗は純の母親のことを「純のオバちゃん」なんて呼んだことがない。由美子さんだ。
 純の両親は純が大学に入学したのと同時に仕事で海外へ行った。そのとき由美子さんは結斗にこの家の玄関の鍵を預けて行った。
(……つか信用しすぎだよな。普通、鍵まで渡す?)
 家についてから三十分くらい経ち、夕飯の仕込みが終わたころ家主の純は帰ってきた。現在、純はこの広い一軒家に一人で暮らしている。
「ただいま」
 純は帰ってくるなり結斗の後ろに立つと鍋を覗きこんだ。
「おかえり。台所借りてるよ」
 結斗の肩に純の顎が乗る。外気で冷えた肌と滑らかな黒髪が頬に触れた。
「おでん?」
「何だよ。文句あるなら食うなよ」
「ないよ。いい匂いだなぁって。今日は寒いし、いいね」
 ひたり、と悪戯に純の手が結斗の両頬に触れる。
「つめたい。氷みたい」
 長い指。今日、大学でピアノを弾いていた指だ。
「あっためてよ」
「ばーか。エアコンついてるだろ」
「はいはい。これ片付けていいの」
「あ、うん」
 上機嫌で今にも歌い出しそうな純は、結斗が片付けるつもりで流しに入れっぱなしだった調理器具を食洗機に入れていく。
(ちゃんと家事は出来るんだよなぁ、純)
 由美子さんは家を出て行くとき「純は結斗くんがいないと何も出来ないから助けてあげて」と言っていた。
 だから結斗は純の家で夕飯を作るのが習慣になっていた。
 けど結斗が手伝わなくても純は家事全般なんでもできると思う。お手伝いさんでも雇えるような家なのに純は洗濯も掃除もきちんと自分でするし、料理も実は結斗より上手い。
 だから実際のところ純の家へ家事手伝いに来ているというよりは、遊びに来たついでに広い台所を自由に使わせてもらっているだけだったりする。
 結斗の家は父親が単身赴任をしていて母親も家でじっとしているのが性に合わないからと働いている。料理はいつも結斗が担当していた。
「ねぇ、結斗。今日さ、ピアノ聴きに来てくれたのに、なんで途中で帰ったの?」
 純の言葉にびくりと肩を震わせた。
 なんで、ピアノ弾いているのに気づいてんだって内心焦っていた。別にやましいことなんて何もないのに。
 ――いや、あるわ。めっちゃ、やましいこと。
 誤作動した自分の下半身のことを思い出した。
 結斗は恐る恐る純を見た。少し口を尖らせて拗ねているようだ。
「ッ、よ、用事!」
 なんの前振りもなしに訊かれたくないことを訊かれて結斗は言葉に詰まった。
「ふぅん。それって走って行かないといけない感じだったの? 俺の演奏途中に」
 純は背中に目でもあるんだろうか。
「は……腹痛かったんだよ!」
 恥ずかしくて自然と声が大きくなっていた。純のピアノを聴いて勃起しましたとか墓まで持っていく秘密だ。
「週三であのこってりラーメンやめた方がいいんじゃない? 結斗油っぽいもの食べたらすぐ腹壊すし」
「よくご存知で!」
「多分、俺なんでも知ってるんじゃないかな。結斗のことなら」
「な、なんでも?」
「うん。なんでも」
 さらりと笑顔で口にした自信。純の口が綺麗な弧を描く。
「こ、怖いこというなよ、俺の何知ってんだよ」
「結斗も俺のことなんでも知ってるじゃん」
「それは……」
 今日の昼まではなんでも知ってると思っていた。でも、今は知らないと思っている。
「――なんでもは知らないよ」
 普通に答えたつもりだったのに、おでん鍋の灰汁をすくいながら結斗の声は勝手に萎んだ。
「え……大丈夫? まだお腹痛いの?」
 頭の上にぽんと純の手が乗った。癖がかった茶色の髪を指で弄ばれる。その手の重さの分気が重くなる。
「なぁ、純いつからピアノやってんの」
「え、頭でも打った? 四歳から」
 隣から結斗の顔を覗き込んでいた純は目を瞬かせた。
 結斗は純がピアノを始めた日も、通っていたピアノ教室をやめた日も知っている。
 知らなかったのは、純が、いつ、どうして、ピアノの動画配信を始めたのか、だ。
「そうじゃなくて。ずっと、人前でピアノ弾いてなかったのに、今日、弾いてたから」
「人前って、結斗の前ではずっと弾いてるよ?」
「俺じゃない人!」
「あー確かに、それは最近だね」
 人の気も知らないで返事は酷くあっさりしたものだった。
「だから、純さ、プロになるんだろ?」
 真剣な目で結斗は純の目を見た。
 けれど次の瞬間、純は弾けるように笑いだす。目に涙まで浮かべているけれど、決して変なことを言ったつもりはない。
「え、俺が、プロ? ないない。あのな、結斗は知らないと思うけど、プロの演奏家っていうのは子供の頃から毎日練習続けて、コンクールとかにも出ないといけないよ?」
「それは、知ってる、けど、他にも方法なら」
 今の時代、聴いてもらう人がいてお金が貰えたらそれはもうプロだ。どんな形でも。
「あと、そもそも俺、音高も音大行ってないじゃん。英文学科の俺がなんでピアニスト?」
 昔とは違う。厳しい教室に通って言われた通りに弾いて、点数をつけて上に行くだけがプロじゃない。
「……俺の友達、動画でお前のこと知ってたし、俺は知らなかったけど」
「あ……うん」
「純は、その界隈では有名人なんだろ? 純の演奏聴きたいって人がいるなら、それってもうプロのピアニストじゃん」
 もやもやした気持ちを目で訴えて、澄んだ純の瞳を見た。「だから」とつづけようとしたが先の言葉を制するように名前を呼ばれた。
「ゆーい」
 抑揚がないけれど、すごく甘く響く落ち着いた声。
「な、何だよ」
 純がピアニストになる。これで、もう安心だと思った。これは本当の気持ちだ。
「どうしたの? 何か嫌な事でもあった? 俺のピアノでなんか言われたとか」
「嫌なことじゃなくて、何か俺お前のピアノをたくさんの人が聴けるの嬉しいのに、こう、なんか変っていうか……なぁ、お前、俺の気持ち分からない?」
 喋りながら自分の頭は大丈夫か、と我ながら心配になってくる。
 五歳児だってもっとまともに自分のこと説明出来るだろう。
「んー結斗の気持ちねぇ」
 結斗はハッと我に返った。大学生なのに純の前だと、いつも思考回路が幼稚になる。
「あ、ごめ、別に、お前のこと責めたいとかじゃなくて、今日の演奏すげー良かったし、大学のピアノあんな音出せるんだな、知らなかった。いつも変な音だったから」
「変?」
「うん、音が、純のピアノと違う」
 いつまでたってもゴール出来ないショパンのエチュードとか、階段を途中で滑り落ちるトルコ行進曲とか。毎日あの建物の前を通るたび聴いていた。
 上手でも下手でもピアノの楽しい音が結斗は好きだ。
 けれど日常的に上手な純のピアノを聴いているからなのか、大学のピアノの音は聴くたびに背中がぞわぞわして落ち着かない気分になっていた。
「あーあのピアノすごく古くてピッチ440Hzなんだけど、少し前まではさらに低くて、結斗わかったの?」
「え、なんとなく、変って思っただけだけど」
「あいかわらず耳いいね、今日調律してたから、昨日よりはいい音だったと思うけど」
「……ふーん」
 ただの違和感程度のものだ。今は大学のピアノの良し悪しよりも、もっと気になっていることがあった。
 純が近いうちに、どこか遠くに行くんじゃないかって思ってる。
 そんな今の恥ずかしい思考回路が筒抜けになっているのか、純は急にニヤリと笑った。
「ねぇ、結斗!」
「な、なんだよ」
「とりあえず、俺は昔から何も変わってないし、別にプロになるつもりもないよ」
「な、なんでだよ!」
 どこへでも好きなところにいって、プロとして羽ばたけばいいと思った。
「なんでって、俺、お前と遊びたいからピアノ弾いているしなぁ」
「遊ぶって、俺とやるのは、ただのカラオケだろ」
「それが! 楽しいの。そうだ今度一緒に京都駅行く? ストリートピアノ一週間だけ置くらしいよ」
 そんな情報をどこから手に入れるのか、衆人環視のなかピアノを弾きたがるような男じゃなかったのに。なぜ? いつそんな動画配信みたいな趣味を持った? 疑問ばかりが増えていく。
 結斗は気になって仕方がない。けど、どういう訊き方をしたところで、純を責めるようで言葉にならなかった。
 遊ぶのが楽しいだけなら、今までと同じで良くないか? って言ってしまいそうだった。
「俺と行ってどうすんだよ?」
「えー隣で歌ってくれたら、もっと楽しいかな」
「俺のは人に聴かせるような歌じゃない、俺が歌って界隈から出禁になっても知らねーぞ」
「そんなことないのに。昔から結斗は、自己評価低いよね。あんなに歌上手なのに」
「俺は別にいいんだよ。人前で歌なんて子供のときに辞めたんだから」
「嘘だなぁ、飽きずに毎週毎週楽しそうにカラオケ行ってるのに? 俺と変わらないって」
 全然違うだろって、心の中で盛大にツッコミを入れておいた。
 結斗はやっぱり、急に純のことが分からなくなった。
 おでんが完成したあと、純がいる地下室に行く気になれなくて、結斗はリビングのソファーでテレビをつけ横になった。
 眠かったというよりはふて寝だ。
 気づいたらテレビの音が頭の中から消えて、遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。
 いま純の家にあるピアノより、記憶の中の音はもっとキラキラしていた。
 *

 結斗の家にはピアノがない。でも、純の家には立派なグランドピアノがある。
 子供の頃、母に「純の家みたいなピアノ欲しい」と言ったら「うちはダメ」と言われてしまった。
 純の家が良くて結斗の家がダメな理由が分からなくて、結斗は何度も母に訊いた。なんで?
って。
 結斗の家はマンションの三階で会社の社宅だから、楽器を演奏できる環境ではない。あとは単純にお金の問題。両親から言われた正論に納得できなくて、お手伝いを頑張るとか誕生日プレゼントとか、子供が思いつく限りの交換条件をいくつもだした。
 当たり前だけど全部ダメだった。なかなか諦めない結斗に母が言った言葉を、結斗は今でも覚えている。
 ――お母さんもお父さんも音楽やらないから無理よ。
 真っ直ぐに目を見て言われた。お金や家が理由では納得できなかったのに、それならうちはダメかもしれないと、なぜか納得してしまった。
 純の家は、純だけじゃなく両親ともに音楽をやる家だったから。身近に一流の音が常にある家。
 カエルの子はカエルかもしれない。
 将来、結斗もきっと親が好きなことを好きになるし、同じような道を進むんだと気づいてしまった。
 親が音楽をしていたら子供も音楽をする。親がしないなら子供もしない。音楽は選ばれた人間しかできない。自分には楽器をやる資格がないんだと思った。
 極め付けに「弾きたいなら純くんの家で弾けばいいじゃない」と言われてしまい、ついにピアノを買う理由がなくなってしまった。
 純の家には飛んでも跳ねても歌っても怒られない楽器が演奏できる部屋があった。
 結斗が遊びに行けば、純は喜んでいつもピアノを弾かせてくれた。もちろん結斗は曲が弾けないので音を鳴らすだけ。結斗は綺麗な音が鳴る純の家のピアノが大好きだった。
 実は、そのピアノは宝石の値段くらい高い代物だったのだが、その驚愕の事実を知ったのは恥ずかしながら、つい最近のこと。
 ――なぁ、そういえば昔、お前の家で俺が遊んでたピアノってさ、今使ってんのと違うだろ。
 ――今のはヤマハ。昔はスタインウェイ、あれはいま知り合いの家にあるけど。
 ――何それ、ウェイ系? 高いの?
 ――まぁ値段聞いたら、お前ウェイってなるかもね。
 純は楽しそうに、にやりと笑っただけで、もったいぶって詳細な値段は教えてくれなかった。
 あとでネットで検索してウェイどころかオエッって吐きそうになった。
 子供がオモチャにしていい楽器ではない。
 由美子さんが純に買い与えるのはいい。ただ、それを子供のころ結斗に触らせていたのはどうかと思うし「純くんの家のピアノで遊べば?」なんて言った無神経な母は反省するべきだ。
 そもそも結斗が最初にピアノを欲しがった理由は、純と一緒に遊びたかったからだ。
 純はサッカーもドッヂボールもしない子だったし、結斗が好きなゲームにも興味がなかった。共通の話題が音楽だけだったので自然と音楽が遊びになった。
 小学校の音楽室の鍵は壊れていて、勝手に忍び込んで放課後は自由に遊べた。もし先生に見つかったとしても純が一緒だと怒られなかったし「ピアノの練習」と言えば二人とも偉いわねと褒めてくれた。
 結斗はピアノが弾けないから歌ってタンブリンとカスタネットを叩いていた。だから純はえらいけど、別に結斗が先生に褒められる理由なんてなかった気がする。
 結斗が歌えば純は伴奏してくれたし、その時間が楽しかった。音楽を何も知らないのに、結斗は歌うのが大好きになった。
 結斗は単純だったから楽器を弾く資格は無くても、歌ならやってもいいんじゃないかと考えるようになった。
 歌を習えば純ともっと遊べるし、絶対に楽しい気がした。思ったら即行動していた。
 母親もピアノを買うことは了承しなかったけれど、歌を習うことは渋々認めてくれた。
 たまたま市の合唱団の子供の部で募集があり、入団テストにまぐれで受かった結斗は小学二年生から「音楽」を始めた。
 入団テストでは「元気でよろしい」と先生に褒められて天狗になってた結斗も、習い続けるにつれて、周りの様子がおかしいと気づいた。
 今ならわかるが、おかしかったのは結斗の方だった。
 世間知らず。
 本当の音楽は自由で楽しいだけじゃないって気づき始めた。少しの狂いも許されない。正しい音程、正しいリズム。それを機械のように練習を重ね楽譜通り再現する。
 元々男の子で歌を習っている子が少なかった上に、数少ない同じ年の男の子はピアノやバイオリンをやっていて、結斗は周りと話が合わずに場違いだった。
 純は結斗のレベルに合わせて音楽の話をしてくれたけれど、そこにいる子たちは当たり前のことが分からない結斗を笑ってバカにした。
 周りに何を言われても歌うことが好きだった。だからそこで友達が出来なくても気にしていなかった。
 徐々に積み重なっていく違和感を無視して、結斗は習い事を続けていた。
 歌の教室で友達ができなくても、結斗は純と共通の話題が増えることがすごく嬉しかった。
 でも音楽の話題は増えたのに、楽しかった二人きりの音楽室での遊びは、純のピアノ教室の宿題が増えるにつれて次第になくなっていった。

 小学校四年生になった頃お互いの家に遊びに行く頻度は週一くらいになっていた。相変わらず仲は良かったが、低学年のころを思うと、前はもっと一緒に遊べていたのにと残念に思っていた。
 その日は久しぶりに一緒に遊ぶ約束をしていた。結斗は嬉しくて自分の家にランドセルを置いてから、すぐに純の家まで続くなだらかな坂道を急いで駆け上がった。
 家に着いてチャイムを鳴らすと玄関で由美子さんが出迎えてくれた。
「こんにちは、純いますか?」
「あらー結斗くん。いらっしゃい。あの子いま宿題で地下に篭ってるのよ」
 柔らかで優しい声。でも、いつも美術室の絵画みたいに微笑んでいる由美子さんが、その日は何故か困った顔をしていた。
「宿題?」
「あとで、ケーキ持っていくね」
 自分の母親はケーキなんて焼かないし、家ではコンビニのケーキくらいしか馴染みがなかった。大抵「ケーキ食べたい欲」みたいなものは純の家へ行けば満たされている。
 由美子さんにケーキと言われた瞬間、結斗は玄関で感じた違和感が頭から消えていた。
 階段を一段飛ばしで降り地下に到着して、ドアの隙間から中を覗くと純はピアノの前に座ってじっと楽譜を眺めていた。
(宿題ってピアノか)
 鉛筆で何かをメモしながら、確認するように弾いていく。
 片手ずつ。ゆっくりとフレーズごとに。
 音の階段を途中まで降りて、また最初から。
 結斗も同じような練習を歌でよくやっていた。気持ちよく最初から最後まで一気に歌わせてもらえるのは、練習日に数回しかない。基礎基本の繰り返しばかり。
 純が弾くピアノの音はいつも隣にいるだけで胸がわくわくした。
 けれど今日の音はどこか悲しかった。初めて見る真剣な純の眼差し。背中がすっと冷たくなるような心地だった。結斗はドアを開けて部屋の中に足を踏み入れたのに中々純に話しかけられなかった。
(今日……遊び、誘わない方が良かったかな)
 けれどそんな結斗の不安をよそに、純は結斗の顔を見るなり目をキラキラと輝かせる。カードをひっくり返したみたい。
「結斗いらっしゃい」
「宿題、邪魔だったら帰るよ?」
「邪魔じゃないよ。遊ぼう遊ぼう、何する?」
「いーよ。俺も宿題あるから、歌の。だから純もピアノの宿題終わってから遊ぼう」
「そう? 分かった」
 笑ってくれた純にほっとした。
 結斗は黒の革張りのソファーに寝転がり鉛筆を手に取る。純の真似をして楽譜とにらめっこした。けれど純がピアノに向き合っていたときみたいに真剣にはなれない。
 純の宿題は終わったのかな、と顔を上げると、さっきまで周りの空気がピリピリしていたのに、鼻歌なんて歌いながらピアノを弾いていた。
 結斗が大好きな楽しいキラキラしたピアノの音に変わっている。さっきまでのあの怖い空気は勘違いだったのだろうか。
 結斗が楽譜を前にしてうんうん唸っていると、純はピアノから顔を上げて結斗を見た。
「ねー終わったけど。結斗の宿題はどう?」
「まーだ」
「次はなに歌うの? 練習するなら弾いてあげよっか」
 宿題が無事に終わったらしい純は、前に結斗が歌っていたアニソンを陽気に弾き出した。さっきまでと同じピアノなのに全然違う響きになる。
「メンデルスゾーン」
「え?」
 急に純のピアノを弾く手が止まる。陽気なBGMが突然とまってムッとなった。いい曲が途中で終わると、なんだか痒いところに手が届かないみたいにモヤモヤする。
「だーかーら! メンデルスゾーン」
「結斗が? ちなみにそれは曲名じゃなくて作曲家の名前だけど」
「知ってる! 俺がメンデルスゾーンやってたら悪いか」
「悪くないけど、去年までアニメソングばっかりだったのに?」
「純だって、ショパンとかベートーヴェンやってるじゃん!」
「ふぅーん、じゃ、これだ」
 突然、部屋のなかに結斗が知っている華やかな音が鳴り響いた。
「だれか結婚すんの?」
 結婚行進曲。ジャジャジャジャーンって有名なメロディ。
 ピアノしかないはずなのに、純が弾くと、まるで他の楽器の音まで聴こえてくるようで不思議だった。
「結斗がメンデルスゾーンっていうから、あと春の歌が弾ける」
「それどうやって歌うんだよ。てか、それもメンデルスゾーンなの」
「そう。だって俺、合唱曲知らないし、何歌うの?」
「賛美歌? とかいってた。ら……うなんとかかんとか?」
「それ楽譜?」
 純は結斗が寝転んでいるソファーのところまでくると、隣に座って結斗の手元を覗き込んだ。楽譜は結斗が教室で聴き取れた階名だけが書いてある歯抜けの状態だ。絶賛暗号を解読中だ。
「純は読めるの?」
「うん」
 音がなければ楽譜をみたところで五線譜の下の歌詞しか読めない。それもカタカナで書いてあるので暗号文書だ。
 次の練習までに楽譜に階名を書いて歌える状態にしなければいけない。一人でできる気がしなかった。
 この宿題が結斗にとってストレスだった。毎週半端に終わらせて周りの音を聴きながらその場で書き込んで乗り切っている。
 そして宿題ができていない結斗を周りの生徒たちは白い目で見てくる。
 こんな暗号みたいな楽譜を読まなくても、一度聴けば歌えるのにと思っていた。難しい勉強は嫌いだ。歌は好きなのに勉強すればするほど嫌いになりそう。
「なー純、移動ド分かる?」
「結斗の口から、移動ド。固定ドじゃなくて」
「だから、それ教えて、楽譜にドレミ書くのが俺の宿題なの」
「ソルフェージュ習うの?」
「ソル? 何?」
「楽譜のお勉強。移動ドは長調の場合には主音をドにして、短調の場合は主音をラにするんだけど」
「純、日本語しゃべって」
「日本語だけどなぁ。じゃあ、いっぱいシャープがあったら一番右にあるやつをシにする、いっぱいフラットがあったら、一番右のフラットをファにする」
「ふーん」
 純は結斗が言った通り「日本語」で話してくれた。
 教室の人も最初からそう言えばいいのにって思った。別に楽譜の勉強がしたいわけじゃなかった。歌うために必要だったから仕方なくしている。
 もっといっぱい歌いたい。音楽を勉強すればするほど、楽しいことが遠くなっている気がした。
「俺は楽しく歌えたらいいや、勉強とかしたくない」
「まぁ、結斗は、そうだよね」
「なんだよそれ、俺、すげー頑張ってんだけど!」
 拗ねて口を尖らせる。教室ではこんなふうに本音は言えない。純だから弱音を吐ける。
 楽譜が正しく読めず周りからは「お前なんでいるの?」って嫌味言われてムカムカする。でも歌が好きだから諦めたくなくて習い事を続けている。
「うん。結斗はちゃんと頑張ってるよ」
「……純」
 頑張ってるって言われて急に目の奥がジンってなった。涙が出そうになる前の感覚。
「楽譜読めなくても、聴き取れた音は書けてるし、書いているとこはちゃんとあってたよ」
「そっか」
「音を正しく聴けるのって、誰でもできることじゃないよ」
 周りからは楽譜は読めて当たり前だって言われる。両親は音楽が分からないから、結斗の習い事には無関心だ。
 それは最初から分かっていた。自分の家は音楽をやる家じゃない。それに反発するように一人で音楽をする子になろうとした。
 純と一緒に遊びたかったから。
 純は音楽ができて当たり前だって言わない。同じ目線で話をしてくれるからいつだって一緒にいて居心地がよかった。
 純が一緒に音楽を楽しんでくれるのが嬉しかった。
 結斗が、どれほど必死に目の前の課題と向き合っているか、純は気づいてくれた。純がいつも譜読みしているように、結斗の楽譜から努力のあとを見つけてくれた。
 ふいに涙がこぼれそうになって慌てて服の袖で目を擦った。
「どうしたの」
「目にゴミ入った」
「だったら、こすったらダメだよ」
 手首を掴まれる。
「うるさいなぁ」
「目、赤いよ」
「すぐ治るよ!」
「そう? 結斗、とりあえず早く宿題やって遊ぼうよ」
「え」
 純は結斗の手を引いてピアノの前に座る。椅子の中央じゃなくて左によって隣に結斗を座らせた。
「俺、弾くから、右手が結斗の宿題の音。楽譜は開いたままにしてね」
「うん」
 一瞬で音楽に引き込まれる。
 ――魔法だと思った。
 結斗が知りたかった音が鳴る。
 少し前、発表会で聞いた教会のオルガンみたいな――胸を震わせる音だった。
 一人で音楽をしているときはどんどん暗く淀んでいく心が、純が隣でピアノを弾くと不思議と澄んでいく。
 ずっと、ざわざわとして落ち着かなかったのに、知りたい音だけが正しく耳に届いた。
「純、全部できた!」
 ピアノの伴奏で歌いながら楽譜の上に鉛筆を走らせて、純に見せると正解といって笑ってくれた。
「俺は結斗の歌声、好きだよ」
 突然褒められて慣れていない結斗は一瞬で顔が赤くなった。合唱団の入団テストのときに「元気でよろしい」と言われたときよりもはるかに舞い上がっていた。
 そんな自分の心を知られたくなくて子供のくせに「ケンソン」をした。
「歌が上手いやつなら、教室にもっといっぱいいるよ」
「もっと自信持ったらいいのに、結斗、将来は歌手かなぁ」
 そんなありえないバカみたいなことを言って純は綺麗に微笑んだ。その笑顔を見て結斗は心がふわふわと浮かれてしまう。
 自分が歌手なら、きっと純は将来ピアニストになるのだと思った。
 それがどんな大変な仕事か知りもしないのに、漠然と純の未来を想像していた。
 その日は、お互いの宿題が終わったら、音楽に関係ない話をして笑いあっていた。
 一年くらい前はゲームの話ばかりする結斗に純は、いつも首を傾げていた。いつの間にか結斗の好きなことも純は知るようになっていた。
 最初は一緒にいるとき音楽くらいしか話すことがなかったのに、お互いの好きなことをたくさん知っていくようになった。
 ある意味音楽バカだった純が人並みに子供らしい娯楽を知るようになった。
 それが結斗と一緒にいたお陰なのか、ごく普通の子供の成長なのかは分からない。けれど純の笑顔が増えたのが結斗は嬉しかった。
 夕方になって、結斗が家に帰るとき由美子さんが玄関まで見送ってくれた。そのときなぜか「今日は、ありがとうね」と言っていた。
 結斗が家に行くまでに、由美子さんと純の間で何があったのかは知らない。
 ただ、険しい顔でピアノに向き合わなければいけなかった純が、結斗が会いにいったことで元気になったのなら良かったと思った。
 純はあの部屋に一人でいて寂しかったのだろうか。
 相手もなく一人で奏でる音楽は寂しくてつまらない。一人で歌っているとき結斗は純の顔を思い浮かべる。純に聴いて欲しいなって。純もそんな気持ちだったのだろうか。
 その日は、何となく純の家から自分の家まで続く長い坂道をスキップして帰った。
 * * *


「結斗」
 純の呼ぶ声で目が覚めた。さっき家にスキップして帰ったはずなのに、なんでまだ純の家にいるんだろうって少し混乱した。
「う……んん。さっき由美子さんのケーキ食べた」
「寝ぼけてるな」
 自分の手の大きさを見てやっと今の状況を把握する。もう小学生じゃない立派な大学生だった。
 さっきまでの夢が心地よくて、ずっと眠っていたかったなんて思った。
「ゆーい、結斗。寝るなら亜希さんに電話してベッド行きな。風邪引くから」
「ね、いま、何時」
「七時前」
 リビングのソファーで、ぐっすりと眠っていた。ほんの三十分くらいの間なのに長い夢をみていた気がした。
「夕飯は? もうおでん食った?」
「いや今から」
 今だって幸せなのに、昔のことを思い出すと幸せな今が急に不安になる。
 今日までが完璧で満たされていたから、少しの綻びが怖くなる。純が外でピアノを弾いていた。それだけだ。良かったじゃないか。
「おーい、まだ寝てる?」
 ソファーの横に立っている純を見上げる。さっきまで子供の姿を見ていたせいか、伸びた身長に違和感を覚えた。ちょこんとして可愛らしい顔をしていたのに、顔のラインはいつの間にか縦に伸びて大人びている。
 小さくて愛らしかった男の子が立派な青年になっている。――透き通るような白い肌、長いまつ毛。知性と品の良さが滲み出ている。
 中学までは結斗の方が少しだけ背が高かったのに高校で抜かれて差をつけられた。周りが騒ぐのも理解できる。誰よりもかっこいい結斗の幼馴染。
「……なぁ純、ピアノ好き?」
「好きだよ」
 すぐに返ってきた言葉。少しの迷いもなかった。その瞳は嘘じゃないって分かる。
「うん、そっか」
 そうやって何も変わっていないことに安心している。結斗は勢いをつけてソファーから上体を起こすと台所へ歩いていった。
 眠る前まで大鍋に入っていたおでんは純の家用に小鍋に入っていた。結斗の分は持って帰れるように蓋つきのプラ容器に詰められている。
 何もかもが完璧だった。
(べつに俺……純の世話とかしなくても良いじゃん)
 もっと一緒にいて欲しいって、結斗がいないとダメだって思われたい。ふいに、そんな感情が湧き上がってきた。
 純は台所にいる結斗のところまで来て、目を細めて顔を覗いてくる。
「な、なに」
 つい声が詰まってしまった。
「大丈夫?」
 結斗の寝起きのまとまりのない思考を、純はエスパーみたいに察知したんだろうか。ほんと長く一緒に居過ぎたせいか、純には何でも気付かれてしまう。
「結斗、昔から変なところで繊細だよね。感覚が独創的だし」
「それ褒めてないよな」
「あと図太そうに見えて、なんか良くわからないタイミングで急に不安定になる」
「不安定って、人を病気みたいに。元気だっつーの!」
「でも本当だよ。急に内側に入り込む。のめり込むっていうのかな」
「よく分からないけど」
「繊細で感受性が強い人は表現力がある。結斗の音楽は昔からそう、だから面白いよ」
「音楽ねぇ」
 自分の音楽なんて最近はカラオケしかしていない。純は、いつの話をしているんだろう。
「――まぁそういうところがいいのかな」
「音楽って、それカラオケの話?」
「子供のころの結斗の話。歌、勉強してただろ」
「ちょっとだけ……な」
 やっぱりエスパーだと思った。子供のころの夢をみていたと気付いているみたいだった。
「音楽ってさ、完璧すぎると逆に面白くないよ」
「ふーん」
「人を惹きつける音楽ってそういうものだ。今の結斗の音楽も俺は好きだよ」
 純がいう結斗の音楽が、どんなものか分からない。
 歌をやめてから音楽らしい音楽は、大学の仲間たちと行くカラオケくらいだった。あとは強いていうなら、純が弾くピアノで一緒に歌って遊ぶ程度。
 結斗がしているのは、別に純のピアノみたいな、ちゃんとした音楽じゃない。
「で、帰るの? 泊まっていけばいいのに」
「ババアにおでん持って帰るって朝に約束したから。多分そろそろ帰ってくるだろ」
「そう、じゃあ気をつけて。亜希さんによろしく」
 純の亜希さんという自分の母親の呼び方は何回聞いてもぞわぞわする。
 ママ、お母さん、おばちゃん、おかん、おふくろ。
 全部、同じで違う生き物だ。
「俺の母親はオバちゃんでいいって、亜希さんとか呼ばなくても」
 どう考えても、自分の母は「亜希さん」って顔じゃない。
「結斗だって俺の母さんのこと、由美子さんって呼ぶだろ?」
「雰囲気だよ! お前のとこの母さんは、オバちゃんじゃねーじゃん。ケーキ焼けるし、バイオリン弾けるし」
「なに、ケーキとバイオリンが基準?」
 あははと純は声をだして楽しそうに笑う。
「あー昔食べた由美子さんのチーズケーキがめちゃうまだったなぁ。さっき夢で見たから食べたくなった」
 自分の母親はケーキは絶対手作りしない、ホットケーキでさえ食べたければ結斗は自分で焼く。
「言えば喜んで焼いてくれるんじゃない?」
「今度日本に帰った時に言ってみる」
「うん。あと俺らの母さんは同級生だから年齢なら、どっちも同じ。亜希さんがオバちゃんなら、うちもオバちゃんだよ」
「それでもうちのはババアなの。――じゃあな帰る、台所かしてくれてありがとな」
「どういたしまして。玄関まで送るよ」
「別にいいのに。鍵持ってるし」
「いいから」
 台所で自分がしようと思っていた片付けが残っていなかったので、おでんの容器を袋に詰めて玄関に向かった。
 玄関近くにあるクロークから自分のコートを取り出して羽織り靴をはく。この一連の流れが純の家だなと感じる。
 今も昔も自分の家と純の家の違いは多過ぎる。
 結斗の家ならコートはリビングのソファーに投げっぱなし。靴も玄関に散乱している。母親に片付けろと怒られるまでがデフォルト。いいお家のお坊ちゃんと庶民。
 でも純が結斗の家に来た時に「コート掛けはどこですか?」なんて訊く男かというと、そんな事は全然ない。
 だいたい適当に置いているし、純が結斗の家に泊まれば雑魚寝もする。
 そういうところが長い付き合いが出来る理由のような気がした。
「なぁ、純」
「ん、なぁに」
「――ピアノ、続けろよ。絶対」
 玄関でドアノブに手をかけたとき、振り返らずに結斗は背中でそう言った。
「続けるもなにも、いつも弾いてるよ」
 精一杯の気持ちで頑張って伝えたのに全然伝わっていなくて、内心地団駄を踏む。
 純の才能を埋もれさせたくないのは本心なのに口に出すと寂しくなる。
 この先も遠くに行かないで、自分だけの純でいて欲しい。
「だーかーらー。そうじゃなくて! もう、いい!」
「赤ちゃんかよ急にヒスるし。どうした? お腹すいているんでしょ」
 髪を後ろからぐちゃぐちゃとかき混ぜられる。
「うるせー!」
「あはは。寝ぼけて坂で転ぶなよ、ちゃんと前向いて歩けよ」
 そう楽しそうに笑いながら結斗の後ろについて純も外に出た。玄関までと言ったのに結局、門の前まで送ってくれた。
 純の中で自分はまだ小学生なのだろうか。
 そんなことを思いながら悪態をついて坂道を下る。
 純は昔のことをいつまでも覚えている。自分も同じだ。――純の家の前から続くだらだらと長い坂。小学生のとき両手じゃ足りないくらいこの辺で転けた。自転車でブレーキをミスって転けたときは一回足の骨も折っている。注意力散漫な子供だった。
 さっき純が言った通り、すぐに考え込むというか、のめり込むところがあるかもしれない。
 長い坂道が終わり高級住宅街を抜け駅の高架の下を潜ると、周りの人の気配に下の世界に帰ってきたみたいな気持ちになる。
 十何年と繰り返し純の家と自分の家を往復してきた。
 純の家も間違いなく自分の居場所で落ち着く場所だ。でも坂道を降りた瞬間だけは正しく現実を認識させられる。
 川と駅を挟んで景色が急に変わる。閑静な住宅街を抜けると突然コンビニとスーパー、チェーン店の飲食店が軒を連ねている。
 春は川沿いの桜を目当てにたくさんの観光客が訪れる場所だが、それ以外は住みごこちのいい静かな街。
 昔から親が純の家と仲がいいから、自分の家と純の家を比べてコンプレックスを感じたことはなかった。けれど、やっぱり住んでいる世界が違うなと折に触れて感じる。
 純と二人でいると感じないのに不思議だ。

 家に着くとマンションのエントランスで、タイミングよく母親に会った。
 長いくせ毛をひっつめて後ろでまとめバレッタで留めている姿は、どう見ても「亜希さん」じゃない。よくいるお局さんとか、バリキャリって奴だと思う。
「おかえり息子。いい子にしてたかい」
 大げさに抱きついてくる母の拘束から逃げる。どいつもこいつも、自分のことを子供扱いだ。
「ただいま、離れろよ。おでんがこぼれる」
「機嫌悪いなぁ、純くんと喧嘩したの?」
「したことねーよ。アイツ怒ったとこなんか見たことねぇし」
「確かにねぇ、純くんホントあんたと違って優しいし紳士だから」
「純が紳士?」
「君は基本的に無神経だよ。色々我慢させてんじゃないの」
「純は、そんなんじゃねーよ」
 純が我慢してるなんて怖いことを言わないで欲しい。結斗が知らない純を知ってから、ずっと不安定だ。
「おっ、彼女面かよ」
「彼女じゃねーよ。怒るぞ」
 自分で言って、なぜか胸がチクリと痛んだ。
「もう、怒ってるじゃん、こわーい」
 つまらないやりとりをしながらマンションのエレベーターに乗り行き先ボタンを押す。
 純とは喧嘩らしいことは本当に今まで一度もしたことがない。
 ――彼女ヅラって。
 多分「彼女」という存在よりも長い時間一緒にいる。
 家族よりも同じ時間をすごしてるし、家族よりも純は結斗のことを知っている。多分、純も結斗のことを知っていた。
 彼女面というより深い言葉があるなら知りたいと思った。
 部屋に入って荷物を置くと母が風呂に入っている間に夕飯の準備をする。
 友達のような親子という言葉があるが自分の家の場合は会社だ。親とは昔から上司と部下みたいな関係が続いている。家族という会社の中で全員が各々役割を持っていて、一定の秩序のもと不可侵に生きている。
 放任主義とも違うし、育児放棄をされていた訳でも親の愛情を感じていない訳でもない。
 昔は自分の家を変な家だと思っていたが、いい加減もう慣れていた。
 いい年なんだから仕事はそこそこにして主婦にでもなればいいのに。母親はずっと働いている。
 父も母も別に喧嘩はしてないし仲が悪い訳でもないのに、互いにベタベタ一緒にいるところを結斗はあまり見ない。
 家にいつもいない両親の代わりに家を守ってきたのが結斗だ。家事全般なんでもやる。
 結斗が家のことが苦手だったら親も家事をしたかもしれないけど、残念なことに結斗は家事が得意だった。
 いい意味でも悪い意味でもドライな家。
 久しぶりに母子で食卓に座り顔をつきあわせる。風呂上がりの母はビールを片手におでんを美味しそうに食べていた。喜んで感謝されると次も頑張ろうと思えるし、料理に関しては段々と結斗の趣味になっていった。もしかして好きになるように両親に仕向けられてたのだろうか。
「なーんで、今日は、ぶすっとした顔してんの?」
 近くにあるテレビからは明日の天気が流れている。天気予報士は最近毎日、明日は寒いって言う。言われなくても知っているって思った。
「元々こういう顔なのー。アンタが産んだんだろ、よく似てるよ」
「そうね、父さんにそっくり」
 アンタにそっくりなんだよって心のなかで毒づいた。一重で猫目なところがそっくりだ。
「そうそう、今年のクリスマスさ。由美子ちゃんたちと遊ぶことにしたから」
「は? なんで、つか由美子さん帰ってくるの?」
 それなら純と家族で過ごすんじゃないのかと思った。
 別にクリスチャンでもないから、教会に行ったりはしないだろうけど。
「行くのよ私が。あ、父さんも一緒。ニューヨークまで」
「歳考えろよババア」
「あらぁ、海外旅行に年なんて関係ないでしょう? たまに父さんと顔合わせないと、家族って忘れそうだし」
「はぁ」
「父さんが出張だって言うからついでよ、ついで」
 昔から自分の親は好き勝手に生きている。
「普通さぁ、息子一人置いて、海外遊びに行くか?」
「アンタだって、大学で遊んでるじゃない。私たちだって遊びたいし」
「勉強もバイトもしてる!」
「そう偉いねぇ? でもさ大学なんて遊び方を覚える場所でしょう。一年の間に真面目に単位とって二年は自分探しという大義名分で朝から晩まで遊んで」
「俺は違う」
 酒が回ってきたのか母は普段より饒舌だ。
「三年になったら酒を覚えて四年で絶望する。ちなみにあんたの父さんとあったのは、三年の時。ほんと酒の力って恐ろしいわ、あんたも気をつけなさい、私の血をひいているんだし」
 親の出会いとか聞きたくないと思った。
「別に旅行は自分たちが稼いだ金だし、好きにすればいいけど」
「ありがとう、お土産買ってくるね」 
「いらねぇよ」
「えーなになに暗い顔。お母さんいなくて寂しいの? クリスマス純くんに遊んでもらいなよー」
 完全に酔っ払いだ。
 別に酒癖は悪くないし悪いお酒じゃないから適当にあしらって放っておくことにした。
「寂しくなんか」
 言いかけて嫌なことに気づく。
 クリスマスに母親はいなくてもいいが、純がいないと寂しいと感じている自分に。
 そして自分の親は、酔ってても息子のことをよく見ているし、何も見てないのに結斗のことをちゃんと知っている。
 それが親というものなんだろうか。
 純が今年も結斗と当たり前のように一緒にいてくれる保障なんてどこにもない。
「純だってクリスマスは忙しいだろ。俺だってバイトあるし忙しい」
「ふぅん。やっぱり寂しいんじゃない。ほんと、四六時中一緒にいたからねぇ君らは、兄弟みたいに。で、大学行ったら一気に世界が広くなるのよねーわかるわかる」
「何が!」
「母さんも高校の時の友達って今はぜーんぜん会ってないもん」
 そんなふうに母親に不安を煽られた。
「べ、別に純は俺がいなくても、好きにやってるし、俺だって」
「素直にクリスマス一人が寂しいから今年も一緒にいてくださいって純くんにお願いすればいいじゃない、きっと喜ぶよ?」
「誰が言うかよ!」
「去年も二人でいたくせに」
「きょ、去年は純の親も帰ってきたし、アンタらも純の家にいたじゃん」
 去年は純の家で二家族でクリスマスパーティーをした。夕飯を食べたら地下の純の部屋で映画を観ていたので、母親が言う通り二人でいたというのは間違いではない。
「そ……そうだっけ」
「そう!」
「ま、純くんもあんたが嫌だったら嫌っていうし、アンタも純くんが嫌ならいやって言うでしょう。そんなに悩まなくても、そんだけのことじゃないの。ほんとアンタ昔から図太いくせに変に繊細なんだから、誰に似たのよ。父さんかしら?」
 同じことをさっき、純に言われたところだった。
「そうか?」
「そうそう。純くんに彼女が出来たらアンタ泣くんだろうなー。まぁ、純くんもアンタに彼女が出来たら泣くだろうけど」
「あいつが泣くかよ」
 純が自分のことで泣くところは想像が出来なかった。いまいちピンとこない顔をしていたら、母は呆れたように息を吐く。
「ほぉら、アンタそういうところが無神経なのよ」
「無神経ってなんだよ」
「同じだけ一緒にいたんだから思考回路も同じよ。なんで分からないかなぁ君は。由美子ちゃんも言ってたけど、私たちからみたらあんたら似た者同士よ」
「似てねーよ」
「似てるって。顔は純くんの方がいいけど。すっごい美形よね」
「うるせーな」
 勝手に似た者同士で纏められたけれど、やっぱり純に自分と同じところなんてない。けれど母親の言葉は不思議で、じゃあ、それならまだ一緒にいてもいいかと思えた。
 母親から安心を与えられた気がして少し腹がたった。いつまで経っても子供扱いだ。
 少し冷めたおでんの大根にかぶりつく。
 純は、もう夕飯は食べただろうか。

 + + + +


 夢の中で結斗は昔のクリスマスの思い出のなかにいた。
 純と一緒に冬休みを待ち遠しく思う毎日。
 小学校低学年のころも相変わらず両親は仕事で忙しかったけど、クリスマスには必ず家族揃ってケーキを囲んでいた。父もまだ単身赴任していなかったので、毎日家に帰ってきていた。だから結斗の心踊る気持ちもあいまって、毎年十二月は普段より家の中が賑やかだったかもしれない。
 けれど、そんな楽しい冬の思い出は小学校低学年までだった。
 ――夕飯のときに母親が「クリスマス」なんて言ったからだ。
 結斗の目の前に苦い思い出が静かに広がっていた。

 思えば結斗が歌を習いにいくようになってから、家族はバラバラになった気がする。
 結斗は小学校三年生から、冬休みに行われる定期公演会に出演するのが恒例行事になっていた。そのためクリスマス前は普段より歌の練習時間が長くなり忙しかった。
 本番前は一日通しでゲネプロがあり、クリスマスイブには本番。
 子供の体力や集中力は、訓練である程度は伸ばせるものだ。でも、もともと大人ほど強くはない。
 はっきりとした目標があれば、厳しい練習だって耐えられるかもしれない。でも「楽しい」という気持ちだけでは、続けるうちに心が折れてしまうこともある。
 今ならそんなことは当たり前だと分かる。
 けれど、子供だった結斗には、その「当たり前」がまだ分からなかった。
 結斗のことを繊細だと母や純は言っていたが、自分からすれば単純で頑固なだけだと思っている。
 結斗自身がやりたいと言って始めた習い事を、自分から辞めるなんて恥ずかしくて言えなかった。
 クリスマスの公演が終わっても合宿での練習があった。あんなに好きだった歌うことが苦痛になり始めていた。もちろん習っていた当時は、それが苦痛なのだと気付いていなかった。
 ――加減を知らないバカだったから。
 習い事に関して両親は反対しなかったが、元々音楽に興味もなかった。
 子供が定期公演に出る場合でも両親は見に来てくれなかったし、無関心が興味に変わることはなかった。
 結斗の生活が音楽中心になるにつれ、クリスマスや年末の楽しいイベント行事は全て親や純と離れて過ごす時間に変わっていた。
 一緒の目標を持った友達がいたら、習い事が居場所になったかもしれない。けれど何年通っても居心地が悪く、いつしかクリスマスは結斗にとって「寂しい時間」に変わっていた。
 クリスマスの公演では、毎年決まって『くるみ割り人形』が演じられた。
それは自分たちの合唱団だけでなく、市の交響楽団やバレエ団、ピアノ教室も合同で参加する大きな催しだった。
 最初の年は結斗も、迷路のような舞台裏や地下にある秘密基地みたいな控室に興味津々だったし、煌びやかな大ホールに目を輝かせていた。けれど、五年生の時は本番前から気落ちしていた。連日の厳しい練習に疲れていたし、神経がビリビリと張り詰めていた。
 その年はピアノの演奏で純も出演することになっていたので、クリスマスに純と遊ぶことだけが楽しみだった。公演が終わったら由美子さんの車で純と一緒に帰る約束をしていたので、ずっと純の顔ばかり思い浮かべていたかもしれない。
 本番前の昼休み時間だった。
 朝から体調が悪かったし、気持ち悪くて結局ご飯は食べられなかった。
 結斗はロビーに漏れ聞こえる音に誘われ一人でふらりと大ホールに入りこんだ。目の前ではバレエの『金平糖の精の踊り』の最終演出の調整中だった。舞台の前には、たくさんの楽器が並んでいる。
 赤いベロアの客席。結斗は一番後ろの席に座った。近くに座っていたバレエ団の保護者たちは、自分の子供たちをじっと見守っていた。結斗はその光景を少しだけうらやましく感じていた。
 そこに大きな声が割り込んだ。
 ――XXXちゃん! それじゃあ、飛べてない! 低い! 妖精に見えないでしょう。
 ――さっきも言いました! なんで出来ないの? そんなので今日の舞台立てると思ってる?
 ヒステリックな先生の金切り声とパンパンと殴るように拍を取る手拍子の音が客席まで響く。
 『金平糖の精の踊り』は、去年舞台袖から観て楽しい気分になって大好きになった。
 結斗が大好きな曲だった。
 大好きな音が嫌いな音になる。鼓膜に傷のように記憶が残る。
 楽しくて自由な音が一つまた一つと消えていく。耳を塞げば良かった。後悔した。
 美しい音楽の舞台裏なんて知らなければ良かった。
 自分は自由で楽しいだけで良かったのに。
 楽しかった記憶が一瞬で怖い記憶に塗り替わった気がした。
 自分の歌の先生も練習のときは同じように厳しくひどいことを言う人だった。子供だからといって手を抜いたり甘やかしたりしない。
 それが音楽と真摯に向き合うことだと教えられた。
 音楽と真摯に向き合うと、その先に何があるんだろうといつも思っていた。
 いつかこの苦しい気持ちが「楽しい」と「嬉しい」に変わるんだろうか。このまま歌い続けていけば、
純と一緒に、もっと楽しい時間を重ねていけるのだろうか。誰も答えなんて教えてくれない。
 ずっと暗く細い道を孤独に歩いている気がした。
 いつも純はこんな寂しさを抱えて一人で音楽と向き合っているのだろうか。あんなにも鮮やかで、心を弾ませる音色を結斗に届けてくれるのに。
 もし自分と同じなら、いますぐ純を抱きしめたいと思った。「ちゃんと純の音は俺に届いてるよ」って、毎日飽きるほど純のピアノが大好きだって伝えたいと思った。
 一人ぼっちの誰にも届かない音楽は寂しい。
「冷たい、音だ。痛い」
 ぽつりと誰にも聞こえない声。客席でひとり呟いていた。
 心が冷えて凍っていく。
 本当の芸術は、冷たくて寂しいものなんだと結斗は知った。
 休憩のつもりで大ホールに遊びにきたのに、雰囲気にのまれて休憩前よりも疲れていた。外へ出ても、舞台裏ではレッスンに熱心な母親に怒られている子供たちに遭遇した。結斗が怒られているわけでもないのに、嫌な気持ちでいっぱいになった。結斗は人より音の感じ方が繊細だったかもしれない。耳の奥が痛くてたまらなかった。
 あんなに厳しい練習を乗り越えて今日を迎えたのに、結斗はその日の本番中ずっと上の空だった。

 公演後、先生の講評が終わり、純と待ち合わせをしていたロビーのソファーまで辿りつくと、急に身体中の力が抜けて座りこんでしまった。
 結斗が今日歌ったのは、ベートヴェン第九『喜びの歌』だった。
 幸せな歌なのに全然違う音になった。
 ずっと耳の奥にざらざらとした不快な音が残っている。
 待合ロビーの高い天井とシャンデリアを見上げていた。
 ふと階段下の入り口を見た。入り口は開け放たれ、十二月の冷たい空気がロビーまで流れ込んでくる。
 本番前に一方的に怒られて、歯を食いしばって耐えていた子供たちが、にこにこ楽しそうに花束を抱えて出口に向かっていく様子が、なんだか気持ち悪いなと思った。
 花を渡されたくらいで、嫌な気持ちがゼロになるなんて嘘だと思った。
 毎年、公演後は少しだけ暗い気持ちになっていたけれど、その年は去年の比じゃなかった。その日まで気づかないふりをしていた嫌な感情の積み重ねが、どっと波のように押し寄せてきた。
 多分限界だった。
 純の顔をみた途端に、抑えていた感情が溢れてきて止まらなくなった。
「結斗お待たせ、帰ろー」
 結斗の前に他の出演者と同じように花束を持ってやってきた純を見て急に寂しくなった。目の前に純がいるのに、急に自分がこの世界にひとりぼっちのような気がした。
 それでも由美子さんの車に乗るまでは無理をして、いつも通り純とくだらない話をして笑っていた。
「今日、客席で初めて結斗の歌聴いたよ」
「……うん。俺、純のピアノは聴けなかった。出演順真ん中だったから」
 聴きたかった。純の楽しい音が。
「俺も今日はベートーヴェンだったんだけど――結斗?」
「……うん」
 純は突然となりで静かになった結斗の顔を覗き込む。不思議そうな顔をしていた。
 運転席から由美子さんも「結斗くん、すごく上手だったよ」と言ってくれた。
 歌ならいつも純の前で歌っていた。親の前でも、いつも好き勝手に歌っていた。
 歌えるならなんだって、どこだっていいと思っていた。でも自分は違った。
 一人で歌うのが寂しかった。楽しくなかった。苦しかった。
 あの広い大ホールの客席で誰かが自分の歌を聴いていた。
 由美子さんが、純が。
 他の誰でもない一番聴いて欲しかった純が自分の歌を聴いてくれたのに、上の空で歌ってしまったことが悔しかった。
 せっかく練習したのに、とその瞬間、後悔した。
 何のために、誰のために自分は頑張って歌っていたのか。純のためだった。全部。
 とにかく泣きたかった。
 疲れと心細さがピークまできていた。結斗はぼろぼろと涙が溢れてくるのを自分で止められなかった。
 気付いたときには後部座席で隣に座っている純の胸にすがりついていた。
 うんと小さいときは抜きにして、由美子さんの前や純の前で取り乱すくらいに、べしょべしょに泣いたのは初めてだった。
「結斗、どうしたの」
「……つか……れた」
 そのかすかな声は多分純にしか聞こえていない。
 純の胸で、ひく、としゃくり上げた瞬間。決壊する。
 運転席にいた由美子さんには、突然泣き出した結斗がミラー越しにしか見えていなかったと思う。
 純は、すごく驚いていたけれど、しがみ付いてきた結斗を引き離そうとはしなかった。
 好きに泣かせてくれた。
 自分の心の声を説明する言葉が見つからなくて一番近い感情が「疲れた」だった。
 ピアノの発表会で純はいい服を着ていた。その服を涙と胃液を吐いて汚した。けれど純はなにも言わずに背中と頭を撫でて手を握ってくれた。
「どうしたの、大丈夫? 結斗くん」
「……母さん、結斗、調子悪いみたい」
「まぁ大変。亜希ちゃん迎えに来るまでうちで寝たらいいよ」
「……大丈夫だよ。結」
 結斗の耳元で純があやすように言った「大丈夫」って繰り返す声が優しかった。
 冷たくなっていた体が純に温められる。公演会場の空気に当てられて泣いていた自分は純のお陰で段々と落ち着きを取り戻していた。

 純の家に着くと自分の家じゃないのに、自分の家みたいに由美子さんと純に世話されてしまった。
 あったかいココアを飲んだあたりから公演会場で感じていた、よく分からない不安は消えていた。
 そして、もう大丈夫だって言ったのに、純に手を引かれて地下の純の部屋のベッドに押し込められた。
「ねぇ結斗、歌嫌いになった?」
 純に訊かれて好きだとすぐに答えられなかった。
「――分かんない」
「今日さ、会場のピアノすごく良かったよ。明るくて、楽しい音だった」
 結斗は布団から頭を出してピアノの前に座る純を見た。たくさん弾いたのに、家に帰ってもピアノの前に座る純は本当にピアノが好きなんだと思った。
 結斗だって少し前まで同じだった。今は違うけど。
「ねぇ。俺、今日純の演奏聴けなかったから、弾いてよ」
「何がいい?」
「くるみ割り人形」
「ピアノじゃなくてオケじゃん、もういっぱい素敵な演奏聴いたのに?」
「純のがいい、純の音が聴きたい」
 駄々っ子のように純の音楽を欲しがった。
「いいよ」
 純は『くるみ割り人形』の序曲を少し小さな音で弾き始める。体調が悪かった結斗に気を使っているのだとわかった。
 あんなに耳がタコになるくらい聴いて、もうクリスマスに『くるみ割り人形』なんてうんざりだった。けれど純が弾くとちゃんと舞台袖で聴いた時と同じワクワクとドキドキが蘇ってきた。
 キラキラした音。楽しい音。
 耳を擘くような、あの嫌な音が綺麗に消えていった。
 演奏はバレエの演目順に続き、二部に聴いた『ロシアの踊り』で、結斗はすっかり元気になって純の横に座って歌いながら笑っていた。
 本当に結斗は単純な子供だったと思う。
 単純だったからクリスマスイブの苦しかった思い出は、純のピアノで楽しい思い出に変わった。
 音楽ってすごいなって思った。人の気持ちをこんなに変えられるんだって思った。

 だから何もなければ、来年も結斗は嫌な気持ちを抱えながら歌の習い事を続けていた。
 けれど由美子さんがあの日、母親へ何か伝えたらしく帰り道で「歌を辞めなさい」と言われた。
 結斗の音楽に母親は無関心だった。
 だから、それが例え辞めろという形でも結斗の音楽に初めて家族が関わってくれたことに、内心少しだけほっとしていた気がする。
 多分、あのままだと音楽自体が嫌いになっていたし、母の判断は正しかった。
 クラスが上がれば海外への演奏旅行もある。それに関連するお金や親のサポートも必要になる。
 あとから純に聞いたけど、由美子さんは自分が通っている教室や練習について結斗の母親に全部伝えたらしい。あそこのお教室は大変よ、みたいなこと。 
 反対しても結斗が続けると言えば親も協力してくれただろうし、本気で音楽をやると言ったならマンションだって引っ越して、ピアノも買ってレッスンへ行かせてくれたかもしれない。
 でもその時点で親の反対を押し切る理由が結斗にはなかった。
 結斗は、母親に言われて初めてこの先、自分がどうしたいのかわかった。
 ――歌なら、どこでも歌えるのに、どうして結斗は、習い事を続けたいのか、お母さんに説明できる?
 楽しく歌っていたいだけ。純と一緒にいたかった。一緒に遊びたかった。
 結斗が音楽を始めた理由なんて、結局それだけだった。
 結局「好き」以外に続ける明確な理由も目的も母親に説明が出来なかった。
 結果的に、結斗は納得して次の年、習い事を辞めたし、シニアクラスに上がる入団試験も受けなかった。
 結斗はクリスマスに、あまりいい思い出がない。
 けれど全部が悪い思い出にならなかったのは、やっぱり純が隣にいたからだと思っている。