迷宮の最終階層に到達してから、丸一日が経過していた。
 王都アイゼンを照らす西日も、その殆どが既に山の向こうに隠れた。日本なら(かり)が群れを為して飛び、鴉がカァカァと寂しく泣いていそうな時間だ。

「お前ら! 嬢ちゃんらに礼言え!」

 ヘパストさんの声が響いたのは、彼の工房にある大食堂。金属製の無骨なテーブルが並んだそこに、鍛冶師たちが集まっていた。各々の手元には鈍色(にびいろ)のコップがあって、中は濃い琥珀色のとろっとした液体に満たされている。

「嬢ちゃんありがとよ!」
「困った事あったら相談しな! 手ぇ貸してやる!」
「最高だぜ嬢ちゃんたち!」

 ドワーフたちが口々にお礼を叫んでくれるけれど、正直耳を塞ぎたい。けれどそういう訳にもいかなくて、引き攣り気味の笑顔を返す。

「よぉし、(さかずき)を持て! 大仕事は終わった! 今日は飲むぞ! 火と土の大精霊の恵み、水と風の大精霊の祝福に感謝を! 幻の酒を恵んでくれた嬢ちゃんらに感謝を!」
「感謝を!」

 大声が重なって、金属の杯が合わせられる。私も彼らに倣ってスズさんやヘパストさんらと乾杯し、戦利品たる幻の酒に口をつける。
 
 音が消えた、ような気がした。いいえ、実際に消えているわね。さっきまで騒がしくしていたドワーフたちは皆、惚けたような顔をして虚空やグラスの中を見る。スズさんとココアを飲んでいるアストばかりは普段の調子でニコニコしているけれど、それは例外だ。
 私もつい、ほぅっと溜め息を漏らしてしまった。なるほど、これが幻の酒。スズさんが探そうと言うはずね。

「ああ、これだ……」
「ヘパストさんは、以前にも飲んだ事だあったんですね」
「ああ……。若造の時だ。今と同じようにな、恵んでくれた人がいたんだ」

 ヘパストさんは懐かしそうに目を細める。ドワーフの寿命で彼の容姿なら、相当昔なのだろう。その当時に、彼もあの迷宮に挑んだのだそうだ。

「若気の至りだな。その辺の冒険者よか腕っぷしはあるとか勇んで、挑んで、死にかけて、助けられた」

 彼の目には憧憬が見えた。今もなお刻まれているそれに、その人物の人柄が見えた気がする。

「どことなくだが、スズネの嬢ちゃんは雰囲気が似てんな。動きも近い」
「んー、剣術も突き詰めたら近い所にいきつくだろうしねー」
「それもそうだが……いや、いい。少し感傷的になってたらしい」

 スズさんは尤もな事を言っているし、いつも通りの太陽みたいな笑顔なんだけれど、何か知っている気がしてならないのはどうしてかしら?

「似てると言えばよー、大親方。嬢ちゃんらもなんか似てるよな」
「あぁん? あー、まあ、確かにな。実は姉妹だったりしねぇよな?」

 私とスズさん?

「あ、それ僕も分かる。具体的にどこって言えないんだけどさ」
「だって! ふふ、姉妹ってことにしちゃう?」

 スズさん、酔ってる? いえ、これは揶揄ってるだけね。めちゃくちゃニヤニヤしてる……。
 
「冗談はよしてください。本当のお姉さんに怒られます!」
「あはは、本当に怒られちゃうかも! 笑顔で激怒だよ?」

 え、本当に?
 スズさんより強い人が笑顔で激怒?
 私死ぬのでは?

「……本当に冗談はやめましょう?」
「仕方ないなー?」
「あ、ソフィア本気でビビってる」

 アスト、しゃらっぷ。余計なこと言わない。周りも笑わない!

 しかし流石はドワーフ、とスズさんね。幻の酒は瞬く間に無くなって、元々用意されていた酒樽も見る間に空になっていった。酒の泉でもあれば、ドワーフはいつまでも飲んでいるのだろう。
 けれども、残念ながらそんなものは無い。縁の切れ目が金の切れ目ならば、(えん)の切れ目は酒のそれなのだろう。最後の酒樽が立てたこぎみの良い音を合図として、宴は終わった。

「ふぅ、楽しかった!」
「ですね。幻のお酒も期待よりずっと美味しかったです」

 気が付けば、周囲に人の気配はない。大きな通りのはずだけれど、時間の問題なのだろうか。差し込む光を辿って天を仰げば、辿り着いた先の青白い満月は、いつもよりも大きい気がした。

「もう、本当に大丈夫そうだね」

 スズさんが言った、筈だった。
 彼女の声だったし、彼女の方から聞こえてきた。けれど、いつもの天真爛漫さは感じられない。

「これから貴女が過ごす悠久の中で、同じような経験は何度もする事になると思う」
 
 もっと神秘的で、強い力を持った、不思議な声音。私は今と同じ感覚を、知っている。それも一度の経験ではない。

「でも、絶望しきっちゃダメだよ。歩き続ければ、未来は拓ける。貴女にはその為の智慧も、家族もあるんだから」

 もう少しで思いだせそうなのに、彼女の言った意味を考えてしまって思いだせない。今の私は相当、間抜けな面を晒していることだろう。

「スズさん、貴女は――」
「スズ様、お迎えにあがりました」

 不意に聞こえたのは、凛として落ち着いた、柔らかな声。そして感じる重圧。
 ああ、そうだ。これだ。これと同じなんだ。

「やっほー、アリスちゃん」

 いつの間にか、金髪碧眼の侍女がそこにいた。月の光の中で彼女は、その容姿以上に美しい礼をスズさんへ向けていた。

「『女神の、侍女』……」
「あ、そっか、あの時はアリスちゃんが行ったんだったね」

 笑みを浮かべるスズさんはいつの間にか、いつものスズさんに戻っていた。天真爛漫で、太陽の様な笑みを浮かべるスズさん。彼女を、私もアストも見開いた目で見つめる。
 いや、スズさんなんて呼んでいて良いのだろうか? だって、『女神の侍女』を侍らしているということは……。

「まあ、そういう事! あ、もしどこかで会っても、今まで通りスズって呼んでね?」
「え、でも」
「アストくん、これは女神命令なのだよ!」

 ……なんだか、緊張するのが馬鹿らしくなってくるわね。青白い光に照らされる笑顔は、どこからどう見ても、私たちのよく知っているスズさんのものだ。

「それで、何かあったの?」
「はい。件のお客様がお待ちです」
「あー、なるほど、了解」

 三女神の一柱であるスズさんを急かす必要があるような客……? スズさんは納得しているようだから、相当な存在なのだろうけれど。三女神と同じように分割された旧世界を管理している神々かしら?

「それとマスターからの伝言です。介入は程々にしておくように、との事です」
「あはは、一番気にしてたのお姉ちゃんなのに」

 スズさんはアリスと呼んだ『女神の侍女』の横まで行くと、くるっとこちらへ振り向いた。本当に、動きの一つ一つに華のある人だ。

「それじゃ、私はもう行くね。おっかない酒飲み友達が待ってるみたいだから」
「はい。色々、ありがとうございました」
「ありがとう、ございます?」

 アストのぎこちない敬語に、スズさんがまた笑う。

「はは、言葉遣いもこれまで通りで良いって。うん、ソフィアちゃん、アストくん、こちらこそありがと! 楽しかったよ!」

 残ったのは、そんな鈴の音ばかり。
 また、私の認識できない間に二人の姿は消えていた。あまりにあっさりしていて、この数日が全て夢だったんじゃないかって思うくらい。
 二人が帰ったからか、大通りを歩く人の気配はどんどん増えて行って、余韻の冷める頃には随分と騒がしくなっていた。

「まさか、女神様だったなんてね」
「……ええ。容姿からして、次女の『黒の女神』かしらね?」

 冒険者登録をした時、受付嬢さんが推しだと言っていた一柱だ。

「……なるほど、確かに推せるわね」
「ソフィア?」

 アストの胡乱な目には咳ばらいを返して、歩き出す。
 しかし、カノカミをしっかりぶん殴ろうと思ったら、スズさんの本気とある程度戦えるようにならないといけないのね。かなり加減していただろう、あのレベルと……。

「頑張らないと、ね」
「ん? まあ、そうだね」

 アストはよく分かっていない様子だけれど、それで良い。遠い、本当に遠い道のりだけれど、歩き続けるためのものは、確かに持っているのだから。

 さあ、杖の手直しをお願いしたら、次はどこへ行こうかしら。
 せっかくだし、高難易度の迷宮に潜ってみるのも、良いかもしれない。