空の雲のように時は流れ、二人だけの茶会からふた月が過ぎた。点在する雲の間から陽の光が地上を照らす様は、きっと今の私の胸の内にそっくりだ。

「アスト、陛下が時間を作れるか、誰かに確認してきてもらえる? 私は先にここを片付けるから」

 一応観察を続けながら傍でソワソワしている黒猫に声をかける。彼は私のすぐ隣まで来て、床いっぱいの紙に書き込まれた魔法陣の光を覗き込んだ。
 
「つまり?」
「完成よ。ウルは死なない」

 魔法陣を観察していた視線をアストに向け、思いっきり緩める。満面の笑みにアストは元々大きなアメジストの瞳を更に大きくする。

「行ってくる!」

 女王への報告の場が設けられたのは、彼が飛び出して行って十分も経たない頃だった。

 案内されたのは、城内にある小さな会議室の一つ。小さなと言っても二十人くらいは余裕で入れるその部屋に、女王たちは集まっていた。
 入り口の正面で緊張の面持ちを浮かべる女王の左右には、事情を知る数名の重臣がいた。ウルの姿は、ない。

「ウルは今北の森に出ていて同席できぬ。今いる者だけで聞くことになるが、問題ないな?」
「はい。問題ありません」

 後ろで扉の閉められるのを確認して一歩会議机に近づくと、アストがその上に飛び乗ってこちらを伺ってきた。彼にもまだ詳しい話はしていない。

「それで、アーテル殿、殿下は……!」

 壮年の男が身を乗り出すようにして聞いてきた。彼は確か、この国の建国以前からいる古代死魔霊(エルダーリツチ)。顔色が悪い以外は普通の人族の魔導士だ。上位種だけあって、生前の人格をほとんど完全に保っているみたい。研究中によく差し入れをくれた人物の一人だ。

「落ち着け、エンドロノス」
「はっ、失礼しました」

 諫めてはいるが、魔女王も気が気ではないだろう。

「それでは報告いたします。まず、『女神の侍女』召喚の術式と魔法陣が完成しました」

 会議室の面々の表情が明確に明るくなった。おお、と声を漏らしている者もいる。接点の殆どの無かった者たちが多いけれど、ウルは本当に愛されているみたい。現女王が不老かつ絶大な力を持った魔女な以上、後継者の価値は相対的に低くなるのだから。

「危険な技術な為、後世に残さぬよう詳細の開示は陛下にのみさせていただきます。こちらを」

 近くに控えていた侍女へ資料を手渡し、女王に届けてもらう。どうせ見せたところでその手の知識がない人には暗号文にしか見えないだろうけれど、魔女王なら問題ない。禁書を含め、書庫にあった魔導書関連は全て魔女王の集めたものらしいし、そもそも魔法の発現に至れるだけの技量は最低限あるはずだから。

「……なるほど、これは、私では扱えないな」
「魔力操作ですか?」
「そうだ」

 たしかに、初めて会った時も魔力操作がそれほど得意でないと察せられるようなことは言っていた。ウルへの処置が出来なかったのはその為なんだろうとも納得した記憶がある。

「ですが、陛下に発動していただかなくてはなりません。ある条件の定義が私では不十分ですので」
「そなたでは不十分?」

 そう、私ではいけない。この条件に気が付けたのは、初めて二人でした茶会がきっかけだ。茶会自体はあれからも何度かしたけれど、直接的なのは最初の一回。

「『女神の侍女』と『女神の騎士』の関係はご存じですか?」

 どちらも三女神に次ぐ位にある神の呼称だ。

「夫婦だったか」
「はい。それも、『銀の女神』が少し辟易としてしまう程のオシドリ夫婦です」
「ほう、それは知らなんだ。そういえば、グラシア教で愛を司る神は二柱の子であったな」

 これは旧世界の記録で知った話。今の世界の記録には残っていない。

「問題となる条件は、これに関わります。愛、特に家族への愛を示す因子を大きな割合で組み込む必要がありました」
「そういうことか……」

 術式だけで組み込める因子と、そうでない因子がある。これは主に必要量の問題になるのだけれど、今回は()という曖昧なものが多量に必要だった。術式だけで足りない分は、術者が補うしかない。

 私もウルが好きだけれど、家族愛ではない。だから、魔女王がやらなければならない。

「私が補助します」
「……分かっ――」

 魔女王に少し遅れて私も気づく。直後、後ろの扉が勢いよく開いた。

「会議中失礼します! 国境警備隊より緊急連絡です! 正体不明の大型魔物が国境結界を超えました! 推定ランクはSランクオーバー! 陛下の判断を仰ぎたいとの事です!」

 今感じたこの気配の事で間違いない。やはり結界より内側で間違いなかった。
 魔女王に視線を向ける。どうしてそのレベルの魔物が結界を通過できたのかが気になった。

「……警備隊はそのまま待機。国民には知らせず、避難誘導の準備を進めよ。レンディエ、タイミングの判断は任せる」
「はっ」

 まあ、このレベルになるとそうなるわね。

「アーテル殿、別途依頼を出す。謎の魔物への対応に力を貸して欲しい。報酬は、一先ず金銭で良いか?」
「はい、それで問題ありません」

 というか、そうせざるを得ない。Sランクオーバーと伝令は言ったけれど、あれはそんなレベルではない。私一人では、まず間違いなく死ぬ。アストが一緒なら逃げる事くらいはできるだろう。
 私たち以外ならなんて、論じるまでもないこと。

「私とアーテル殿たちだけで出る。皆は万が一に備えよ」

 家臣たちは誰も反応せず、一斉に(こうべ)を垂れる。これがこの国の形だ。

 城のバルコニーへ出て杖を取り出し、暗くなり始めた空へ飛ぶ。初めは地平線の辺りにも影は見えなかったけれど、城を完全に見下ろす頃になると、それらしい存在が目に映った。ここからでは細かい部分は見えない。

「早いですね」
「ああ。出来れば国民には知られたくない。出来れば結界の外に弾きだしたいが……」

 力づくで吹き飛ばすには、少し大きすぎるか。それにこの方向。

「ウルがいる森はこの方向でしたよね」
「ああ。だが森にあの子の気配はない。避難したのだろう」

 もしもの時に備えて生存が確認できる魔道具を持たせていると言っていたから、それで確認したんだろう。
 ウルがあっちにいないのなら、問題ない。

「私が吹き飛ばします。周りに被害は出しません」
「任せよう」

 術式を組みながら、謎の魔物へ向けて加速する。魔力の温存もしたいけれど、それ以上に急がなければならない。

 近づくほどにその巨大さを実感する。下手なアウトレットモールよりも大きいのでは無いかしら? それにこの魔力量。あんなものが街まで来たら、一瞬で壊滅させられてもおかしくない。

「気持ちの悪いやつ……」

 アストの気持ちも分かる。
 フォルムとしてはすらっとした金の四足獣。猫のような獣の下半身に、人の上半身で、頭はイヌ科の獣。その額からは小さな人間の上半身が生えている。頭部から垂れる毛は一見美しいけれど、その先が人間の手になっていた。
 いや、頭部の毛ばかりではない。よく見れば人の身体を構成しているのも無数の手だ。

 その体で地を這うような体勢のまま移動しており、後ろで揺れる九つの尾は人の手であったり虫の体であったり何かしらの触手であったり、統一性がない。

「一先ず吹き飛ばします」

 使う魔法は慣性に干渉するもの。力のベクトルに働きかけて、後方へ吹き飛ばす。

「きゃぁっ!」

 魔物のの足が地から離れ、森の木々を超えて、結界を再度通過する。何の抵抗もなかった事を思うと、戦闘経験の少ない個体なのかもしれない。
 人間の少女のような悲鳴が聞こえたけれど、言葉を介する存在なのかしら?

「一応対話を試みますか?」
「ああ、そうしよう」

 戦わずに住むのならそれが良い。あのクラスとの戦いになるとどれだけ周囲を破壊する事になるか。
 急いで追いついて、十分な距離を保った上で倒れ伏す異形の獣を見下ろす。今いる位置は大森林の入り口から数キロある位置だから、戦いになっても大丈夫だろう。

「手荒な真似をしてすまない」

 なぎ倒された木々の先端で金色の獣が上体を起こし、声の主を探す。

「この先には私の守るべき街があってな、あれ以上進ませるわけにはいかぬのだ」

 今のところ獣はこちらの言葉を聞こうとしているように見える。ようやく私たちを見つけたらしくて頭の向きが固定された。その目は細められているけれど、睨んでいるというよりは、私たちの事をよく見ようとしているように感じられた。

「この結界を――」
「お母様……?」