あの悪魔に出会ったのは、深い深い、絶望の底だった。
今でも覚えている。月の大きく見える夜だ。玄関の戸が叩かれて、妻が出た。
悲鳴は聞こえなかった。だから特に何かを気にすることもなく、いつもどおり、でも少しだけ遅れて玄関に向かった。
妻が死んでいた。
化け物の腕に胸を貫けれて、虚ろな目で僕を見つめていた。
あんな目で見られたことはなかった。訳がわからなくて、立ち尽くすことしかできなかった。
あの時立ち向かえていたら、何か変わったのだろうか。いや、きっと、もっと悪いことになっていた。僕も殺されて、イリニだけが一人に残されてしまっていた。
それほどあの悪魔は、悪魔だった。悪魔の目をしていた。
「娘に呪いをかけた。死なせたくないのなら、この薬を作って飲ませるといい」
悪魔の言っている意味は、正直分からなかった。なぜ呪いをかけておいて薬の作り方まで教えるのか。
その薬がおかしなものの可能性も考えたが、そうは見えなかった。調剤の知識には自信があったから、一先ずはそれを信じることにした。
幸い、なのだろうか。イリニは薬のおかげでどうにか以前に近い状態で生活できていた。ベッドに居る時間は増えたが、死なせるよりはいい。
僕にはもう、イリニしかいなかった。イリニだけが生きがいで、支えだった。
そんな生活が何年か続いた。近所の人はイリニをただ身体が弱いだけだと思って、色々助けてくれていた。妻が悪魔に殺されたと知られていたのもあるんだと思う。
なんにせよ、おかげでどうにか、生きていられた。
あの人に初めて会ったのは、薬を作るのも材料集めもすっかり慣れて、日課になったころだった。
その日は珍しく外の悪魔たちに見つかってしまって追いかけられた。いくらか町に近づくと悪魔は諦める。それが常識だったのに、そいつらはいつまでも追いかけてきた。
もうだめだ、イリニ、すまない。心の内でそう謝る僕の目の前にあの人は、ハロさんは現れて、悪魔たちを一撃で粉々にしてしまった。
正直なことを言えば、少し恐ろしくもあった。蛇に似た姿をしていたから、昔話に出てくるような悪魔の化身かと思ったからだ。
そんな僕の内心に気づいていたのかは分からない。たぶん気づいていたように思うけど、その上で、ハロさんは町まで送ってくれた。
お礼に家に泊めることになって、久方ぶりに張り切って料理を作った。途中でハロさんは散歩に行ってしまったから、どうせなら手の込んだものを作ろうかと考えていた時に、あの時の悪魔がまた、現れた。
「完治のための薬のレシピだ。延命ではない。運が良かったな」
どうして今更。そう思いはしても、レシピに目を通さないことはできない。
そこに書いてある材料を見て、愕然とした。
迷宮の素材ばかりだったからではない。龍の血と、龍の魂。この二つの文字列が、目の前の男が悪魔だということをこれでもかと伝えてきた。
「龍の素材は必須ではない。それが無くても、多少身体が弱い程度で走り回る分には問題ない程度まで回復するだろう」
正直ほっとした。そんな簡単な話であるはずがないのに。
僕は目の前の餌と希望に釣られて、まんまとあの悪魔に魂を売り渡すようなことをしてしまった。
最初は、ハロさんに血だけでももらえたら十分だと考えていたんだ。魂を、その命を差し出してほしいだなんて、いくらなんでも考えすらしなかった。
だって、それでもイリニは生きていられて、外で走り回りこともできるようになるんだから。
それなのに、覚悟を決めるしかなくなってしまった。裏切るしかなくなってしまった。
僕にはイリニしかいないんだ、仕方ないんだと、言い聞かせ続けた。
ハロさんにばれないように、必死に隠した。
いつの間にか僕の部屋に置かれていたナイフと、ハロさんを殺す方法、そしてその意思を気取られないように。
そんな努力も無駄だったみたいだけど、それでも、僕はやってしまった。神酒のゴブレットを指さすのに向けられた背中へ、魂を削ぎ取るというナイフを突き立ててしまった。
実を言えば、少しだけ、期待はしていた。あれほど頑丈に見えた鱗だ。僕の力で突き出されたナイフなんて、弾いてくれるんじゃないかって。
悪魔がそんなものを用意するわけがないなんてことは、冷静になった今ならわかる。
そんな錯乱状態でも、肉を貫く感覚はしっかり手に伝わって、今でも離れない。恐ろしい。人を、恩人を刺してしまった自分が。
そして、ハロさんが。仮に命に関わらなかったとしても、自分の心臓を、背中から突き刺した人間に何も思わないなんてことがあるんだろうか。あんな笑みを向けることが、できるのだろうか。
やっぱり、あの人も人ではない何かであることには違いないんだろう。悪魔でないなら、神の化身かなにかだろうか。思い返せば、配信のコメント欄にも、ハロさんのことを龍神と呼ぶ人がいた。
あれは配信主に対する敬称のようなものなどではなくて、本当に、ハロさんが神の類いなのだとしたら。
納得、できる気がした。
むしろ、そうでないと、僕は恩人を恐怖の対象と見てしまう。だから、そうであってほしい。
ただ感謝のみを向けさせてほしい。
「お父さん、今日のご飯はなーに?」
「今日はムサカだよ」
ハロさんがいなくなってから、もう数ヶ月が経った。それなのに、未だに考えてしまう。
もし、悪魔に唆された通りに、ハロさんを殺せていたなら、僕は今みたいにこの子の頭を撫でられたんだろうか。
「えへへ、あれ私好き!」
撫でられ、なかった気がする。
そういう意味でも、僕はハロさんに救われたんだろう。急いで配信を切ったのだって、僕の悪行を世間に知られないためだったんだろうし。
ハロさんは何も求めなかった。ただイリニを助けたかっただけだから、個人的な理由だからって言って。ゴブレットはさすがに渡したけど、迷宮内で手に入った宝物もいくつかは置いていってくれたし。
ああ、そうだ。言われたことがないわけじゃなかった。当たり前のことすぎて、忘れていた。
イリニのことをしっかり愛してやってくれ。その心を大事にしてやってくれ。決して、僕の独りよがりにならないように。
本当に、僕にとっては当然のことだ。だけど、そう言ってるときのハロさんは、いつもと少しだけ違った雰囲気に見えた。
今でも覚えている。月の大きく見える夜だ。玄関の戸が叩かれて、妻が出た。
悲鳴は聞こえなかった。だから特に何かを気にすることもなく、いつもどおり、でも少しだけ遅れて玄関に向かった。
妻が死んでいた。
化け物の腕に胸を貫けれて、虚ろな目で僕を見つめていた。
あんな目で見られたことはなかった。訳がわからなくて、立ち尽くすことしかできなかった。
あの時立ち向かえていたら、何か変わったのだろうか。いや、きっと、もっと悪いことになっていた。僕も殺されて、イリニだけが一人に残されてしまっていた。
それほどあの悪魔は、悪魔だった。悪魔の目をしていた。
「娘に呪いをかけた。死なせたくないのなら、この薬を作って飲ませるといい」
悪魔の言っている意味は、正直分からなかった。なぜ呪いをかけておいて薬の作り方まで教えるのか。
その薬がおかしなものの可能性も考えたが、そうは見えなかった。調剤の知識には自信があったから、一先ずはそれを信じることにした。
幸い、なのだろうか。イリニは薬のおかげでどうにか以前に近い状態で生活できていた。ベッドに居る時間は増えたが、死なせるよりはいい。
僕にはもう、イリニしかいなかった。イリニだけが生きがいで、支えだった。
そんな生活が何年か続いた。近所の人はイリニをただ身体が弱いだけだと思って、色々助けてくれていた。妻が悪魔に殺されたと知られていたのもあるんだと思う。
なんにせよ、おかげでどうにか、生きていられた。
あの人に初めて会ったのは、薬を作るのも材料集めもすっかり慣れて、日課になったころだった。
その日は珍しく外の悪魔たちに見つかってしまって追いかけられた。いくらか町に近づくと悪魔は諦める。それが常識だったのに、そいつらはいつまでも追いかけてきた。
もうだめだ、イリニ、すまない。心の内でそう謝る僕の目の前にあの人は、ハロさんは現れて、悪魔たちを一撃で粉々にしてしまった。
正直なことを言えば、少し恐ろしくもあった。蛇に似た姿をしていたから、昔話に出てくるような悪魔の化身かと思ったからだ。
そんな僕の内心に気づいていたのかは分からない。たぶん気づいていたように思うけど、その上で、ハロさんは町まで送ってくれた。
お礼に家に泊めることになって、久方ぶりに張り切って料理を作った。途中でハロさんは散歩に行ってしまったから、どうせなら手の込んだものを作ろうかと考えていた時に、あの時の悪魔がまた、現れた。
「完治のための薬のレシピだ。延命ではない。運が良かったな」
どうして今更。そう思いはしても、レシピに目を通さないことはできない。
そこに書いてある材料を見て、愕然とした。
迷宮の素材ばかりだったからではない。龍の血と、龍の魂。この二つの文字列が、目の前の男が悪魔だということをこれでもかと伝えてきた。
「龍の素材は必須ではない。それが無くても、多少身体が弱い程度で走り回る分には問題ない程度まで回復するだろう」
正直ほっとした。そんな簡単な話であるはずがないのに。
僕は目の前の餌と希望に釣られて、まんまとあの悪魔に魂を売り渡すようなことをしてしまった。
最初は、ハロさんに血だけでももらえたら十分だと考えていたんだ。魂を、その命を差し出してほしいだなんて、いくらなんでも考えすらしなかった。
だって、それでもイリニは生きていられて、外で走り回りこともできるようになるんだから。
それなのに、覚悟を決めるしかなくなってしまった。裏切るしかなくなってしまった。
僕にはイリニしかいないんだ、仕方ないんだと、言い聞かせ続けた。
ハロさんにばれないように、必死に隠した。
いつの間にか僕の部屋に置かれていたナイフと、ハロさんを殺す方法、そしてその意思を気取られないように。
そんな努力も無駄だったみたいだけど、それでも、僕はやってしまった。神酒のゴブレットを指さすのに向けられた背中へ、魂を削ぎ取るというナイフを突き立ててしまった。
実を言えば、少しだけ、期待はしていた。あれほど頑丈に見えた鱗だ。僕の力で突き出されたナイフなんて、弾いてくれるんじゃないかって。
悪魔がそんなものを用意するわけがないなんてことは、冷静になった今ならわかる。
そんな錯乱状態でも、肉を貫く感覚はしっかり手に伝わって、今でも離れない。恐ろしい。人を、恩人を刺してしまった自分が。
そして、ハロさんが。仮に命に関わらなかったとしても、自分の心臓を、背中から突き刺した人間に何も思わないなんてことがあるんだろうか。あんな笑みを向けることが、できるのだろうか。
やっぱり、あの人も人ではない何かであることには違いないんだろう。悪魔でないなら、神の化身かなにかだろうか。思い返せば、配信のコメント欄にも、ハロさんのことを龍神と呼ぶ人がいた。
あれは配信主に対する敬称のようなものなどではなくて、本当に、ハロさんが神の類いなのだとしたら。
納得、できる気がした。
むしろ、そうでないと、僕は恩人を恐怖の対象と見てしまう。だから、そうであってほしい。
ただ感謝のみを向けさせてほしい。
「お父さん、今日のご飯はなーに?」
「今日はムサカだよ」
ハロさんがいなくなってから、もう数ヶ月が経った。それなのに、未だに考えてしまう。
もし、悪魔に唆された通りに、ハロさんを殺せていたなら、僕は今みたいにこの子の頭を撫でられたんだろうか。
「えへへ、あれ私好き!」
撫でられ、なかった気がする。
そういう意味でも、僕はハロさんに救われたんだろう。急いで配信を切ったのだって、僕の悪行を世間に知られないためだったんだろうし。
ハロさんは何も求めなかった。ただイリニを助けたかっただけだから、個人的な理由だからって言って。ゴブレットはさすがに渡したけど、迷宮内で手に入った宝物もいくつかは置いていってくれたし。
ああ、そうだ。言われたことがないわけじゃなかった。当たり前のことすぎて、忘れていた。
イリニのことをしっかり愛してやってくれ。その心を大事にしてやってくれ。決して、僕の独りよがりにならないように。
本当に、僕にとっては当然のことだ。だけど、そう言ってるときのハロさんは、いつもと少しだけ違った雰囲気に見えた。



