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 ナイフは肺を貫いたらしく、息と血が共に唇を濡らす。心臓の脈打つ感覚を意識しようとしても、それも感じられない。

「すみませんすみませんすみません……」

 力が抜けて膝が白大理石を打つ。直後に腹と頬に冷たく硬い感触を覚えた。しかしその冷たさも、すぐに生ぬるい、ぬめっとした何かで染められる。視界の半分を満たしたのは、鮮やか過ぎる程に鮮やかな赤だ。

 視線だけを後ろに回そうとすると、どす黒くなった着物の肩が見えた。遅れて鉄臭さが鼻の中に入り込んできて、気持ちが悪い。

「こうするしか、こうするしかなかったんです。イリニを助けないとだから」

 ぶつぶつと独り言を垂れ流す彼がどんな表情をしているのか、私には見えない。ただ酷く震えた声音の、上ずった懺悔ばかりが耳に入ってくる。

「言わなくてすみません黙っててすみません。薬の材料はまだ揃ってなかったんです龍の血と魂が必要だったんです。僕は悪くないあいつがこうしろって言ったんだそうするしかないって、そうしないとイリニが死ぬって」

 胸の異物が抜かれる感触がした。硬いもの同士が細かくぶつかる音も聞こえる。

「どうせ人間じゃないから、蛇だから、平気だって。誰も責めないって。イリニを救いたいならこれしかないって。もう失いたくなかったんです許してください僕は悪くないはずなんです」

 少しばかり支離滅裂になってきた言葉は、なおも滝のように流れ続ける。覚悟を決めていたはずだろうにそれでもこれだけ動揺しているのは、きっと彼が良心の呵責に耐えられないごく普通の人間だからだ。
 これがあいつの見たかったものの一つなのだと思うと、いっそ哀れに思えてくる。

 いや、そもそもこうなることは分かっていた。分かっていて、そうするように仕向けた。背中を向けたのはわざとだ。だから、怒ってもいないし、悲しくもない。なるべくしてなっただけ。
 だから、そろそろ許しをあげよう。そして、慈悲を。

「えっ……?」

 手のひらを地面につくと、気持ちの悪い熱が伝わってきた。そのまま何事もなく立ち上がって、下手人、ファウロスへ微笑みかける。彼は幽霊でも見たように顔を青くして、唇をわなわなと震わせていた。しかしその中に、一抹の安堵も見えて、なるほど、あいつの気持ちが少し、分かってしまう。

「残念だけど、私は心臓を貫かれたくらいじゃ死なないんだ」

 その前に魔法で機能を代替できるからね。

「それじゃあ、おやすみ、哀れなお父さん」

 額を指先で一突きしただけで彼の身体から一切の力が抜けて、私の作った血だまりへ跳び込んでしまう。傍には赤い液体に濡れた瓶が一本。ナイフも回収されているから、それが魂を削ぎ取るのだと騙されたのだろう。
 本当に、弱い生き物だね。

 さて、ここを出る前に迷宮の支配を確立させてしまおう。どうせあいつのことだ。必要もないのにわざわざ攻略しているとは思えない。
 それが終わったら、彼をイリニちゃんのところに連れて帰ってあげよう。ファウロスを恨むことなんて、何一つないんだから。

 着替えと水浴びを済ませ、イリニちゃんの家に帰ったのは夜もすっかり更けた頃だった。すぐに家主をベッドへ転がし、数時間だけ目を瞑る。最後の戦いは、少しばかり心を乱されてしまったから。
 
 朝日が昇った。窓から差し込む光に、ゆっくり瞼を開く。傷口はとっくに治っていて、もういつでも旅立てる状態。でも、まだ出発するわけにはいかない。

「おはよう、ファウロス」
「……ハロ、さん。どうして……」
「どうしてって、何が? 気絶しちゃった依頼主を優しくも家まで連れ帰ってベッドに寝かせてあげたこと?」

 ファウロスは何かを言いかけて、口をつぐむ。現実感が無かったのか、隣の部屋でイリニちゃんが眠っているからか。
 夜墨にどうしててもらうかは悩んだけど、けっきょく隣で待機させてる。娘を人質に取られてると思う方が彼には辛いはずだから。

 まぁ、意地悪はこれくらいにしておいてあげようか。胸を刺された分のお返しくらいにはなったでしょう。

「あなたを殺さなかったのは、理由がないから。そもそもああなるってのは、だいたい分かってたしね」
「なら、それこそ!」
「あなたが出会った悪魔の正体も、私は知ってる。それが分かってて、何か企んでると知ってて、協力した。イリニちゃんを助けたかったのは本当だし」

 そこだけはちょっとムカついてるんだ。まぁ、それはあの馬鹿に直接文句を言うつもりだから、ファウロスには言わないけど。
 その彼は理解できないものを見る目を向けてきていて、一瞬、目を逸らしてしまう。

「まぁ、そんなことよりさ、早く薬を作ってあげなよ。魂とやらに関しては、私がどうにかできると思うからさ」
「……分かりました」

 うんうん、優先順位を間違えないのは大事なことだよ。

 薬づくりは思ってた以上に時間がかかっていて、気が付けば夕方になっていた。間に合う間に合わないで言えば、十分余裕がある。イリニちゃんの容態からして、多少寿命が縮んでいることはあっても誤差の範囲だろう。

 というか、たぶん最初からそういう想定で出力を調整してる。私がわざと刺されるのも想定の内だと思う。
 なんだかんだ、私とあいつはよく似ている。近い境遇にあったウィンテや令奈よりも、ずっと。だから分かってしまう。その動機も。

「ハロさん、ここで魂を混ぜ込むとなってます」
「ん、了解」

 魂。まあ、そのまま魂力だろう。
 膨大な魂力で呪いを希釈し、薬による補助だけであの呪いに打ち勝たせる。見ていた感じ、そういったものを作らされているようだったから。

「あっ、この反応です! 良かった……」

 そりゃ不安だよね。本来の材料と思ってる物が手に入ってないと彼は勘違いしてるんだから。

「あとは神酒を加えて……。完成、しました」
「そう。それは良かった。早く飲ませてやりな」
「はい!」

 薬を飲んだイリニちゃんの呼吸はすぐに落ち着いて、魂の中で荒ぶっていた呪いも、すっかり見えなくなった。ただの病気じゃないから、効くのが早くていいね。

「お父、さん……?」
「イリニっ!」

 大の男が人前で泣くなんて、とは言わない。唯一残された宝物が壊されずに済んだんだから。私にはあまり共感のできない感情だけど。

「ハロさん、本当に、ありがとうございました! それと、すみませんでした!」
「いいのいいの。それより、イリニちゃん」
「なーに? お姉ちゃん」

 くっ、親子の情は共感できないけど、この子が可愛いのはよくわかる……!
 思わず頭を撫でたくなっちゃったけど、別にいいよね?

「イリニちゃん、お父さんを大事にしなよ?」
「ん? うん」

 まぁ、わざわざ言わなくてもいいとは思うけどね。
 
 さて、これでイリニちゃんは大丈夫。一応夜墨を残しておいて、私は野暮用を片付けようか。晩御飯までには戻りたいね。

「ちょっと出てくるよ。そんなにかからないと思う」
「え? 分かりました」

 夕焼け空になってからは一瞬だね。もう星が見える。それに、地中海でも月は変わらないね。
 あいつのいる場所は、まあ、こっちかな。魔族の群れを相手するところも見てただろうし。

 あの時は道なりに行って迷っちゃったから、今回は屋根の上を行こう。それなら、まっすぐだ。

「よっと。ふぅ」

 街壁の上に到着っと。
 誰の姿も見えない。気配もない。でも違和感はばっちり。

「出てきなよ、ゼハマ」
「実験の協力、感謝する」

 あら、思ったより近くにいたね。カメレオンの魔族の能力を再現したのか。もしくは、取り込んだかだね。こいつならあり得る。

「配信切った後の録画、どうやって渡したらいい?」

 おん? いや、無言でスレッドの申請飛ばしてこないでほしいんだが?
 まぁ、とりあえず投下しとくか。

 ていうかこの名前……。

「これで八岐大蛇(やまたのおろち)の時の借りは返したから」
「ああ」

 あの時助言のコメントしてきた謎の人、やっぱりゼハマだったかぁって感じ。善意じゃないだろうから、これ以上感謝はしないけど。

「で、人間観察が動機なのは分かってるけど、どういった実験だったの?」
「人間がどれほど醜くなれるか、だ」

 うへ、やっぱ趣味悪いなぁ。どうせ似たような実験あちこちでしてるんだろうし。実験データなんて数があるだけいいしね。

「それにしたって家族の絆を弄ぶのは悪趣味だと思うけどね。あ、相変わらずって付け足しとくよ」
「本当にそう思っているのか?」

 踏み込んできてる意識は、ないんだろうね。あーあ、星はこんなに綺麗なのになぁ。

「……まぁ、少なくとも、人として超えてはいけないラインってことは分かるよ」
「フン」
「何さって、もういないし……」

 失笑だけで挨拶もなしか。本当、相変わらずだ。

「……お父さんを大事に、ね」

 まったく、どの口が言うんだか。

 母の顔を思い出す。まだ若かったころの、私が高校生だった頃の顔だ。
 愛情故に暴走して、痛みに動けない私を階段から突き落した人。その人を、私は嫌ってはいない。

 ただ、憎んだ。私の色んなものを壊したあの人を。
 憎しみと好意は両立する感情だ。それは私自身の心が証明してる。

 あの人を憎んで、憎んで憎んで、利用しつくしてやると心に決めて、あの人の最期に教えてやるんだと決めていた。
 同時にあの人に家族としての好意を向け、一緒に食卓を囲んだり旅行につきあったりもしていた。

 人間らしさにこだわるのは、あの人への憎しみゆえか、好意ゆえか、どっちなんだろう。世界が変容したあと、初めて故郷の空を飛んだ時、あのとき流した涙は、どっちの涙だったんだろう。

 もし、憎しみだとしたら。その憎しみが、私とあの人を繋ぐ唯一のものだったことになる。
 だから私は八雲ハロとなった時に、その憎しみすら捨てると決めたはずなんだ。それなのに、まだ人間でありたいと、人間であろうとしている。

「悪魔ほど人に近い姿をしている、だったっけ」

 まったく、我ながら、ゼハマに笑われても仕方ない。
 でも、それでも捨てきれないから、私は人龍なんだよ。

 一人になってしまった白い壁の上で、私はしばらく、ぼんやりと星の海を眺めていた。