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 水底になってる魔法陣のような結界を抜けると、水特有の圧迫感が消えた。ここから先はどうやら、空気があるらしい。
 正面を見ると、重々しい雰囲気の金属の扉がある。あの先にセメレーなり、冥府の番人なりがいるんだろうね。

 重々しいのはあの扉ばかりじゃない。空気もそうだし、部屋全体が暗くて不気味な雰囲気を持ってる。おどろおどろしいわけではなくて、むしろシンプルなんだけど、なんか暗い。色味もあるのかな? 濃紺のような、暗紫のような、灰色のような、何とも言えない色の空間だ。

「ほれファウロス、起きなー?」
「んんっ……」

 ……うん、全然起きない。反応はあったから、もう少ししたら起きると思うんだけども。

 さて、どうしようか。守護者の間の前室である以上、危険はないと思う。少しくらい待っててもいいんだけど、今回は急ぎ目の攻略だ。あと待ってるの面倒くさい。暇。

「よし、置いてこう」

『鬼がおる』
『鬼だ』
『龍な』
『起きてこんな部屋だったらまた気絶しそう』
『どんまいファウニキ』
『人の心ないんか。……あ、龍だったわこの人』

 なんか好き勝手言われてる。まったく心外な。

「考えてみ? ファウロス的には急いで進みたいんだ。なら寝てる間に守護者倒しといてもらえたほうが嬉しいでしょう?」

 つまりこれは優しさなのだよ。

『なる、ほど?』
『確かにそうかもしれない』
『それはそう』
『ダマされちゃダメですよ。さっきぼそっとめんどいとか暇って言ってましたし』

「耳敏いリスナーは嫌いだよ」

 ちゃんと聞かれてたとは。

「まあそれはいいとして、サクッと行こうか。こんだけ話してても起きないし」

 黒金の扉へ手を当てると、ほんのり温かい。いや、熱い? 力を込めるほど熱が発せられるらしい。少しずつ動くくらいの力の込め方ですら、人間なら火傷するかもしれない温度まで上がってしまった。
 こんな所にも一種の罠を置くなんて、嫌らしいね。

『中も暗いな』
『真ん中になんかもふもふしたのが見える』
『でっかい犬か?』
『三体くらいいない?』

「いや、一体だね」

 真っ暗な部屋の中央で、すやすやと寝息を立ててる犬。黒い体毛に覆われた体は高熱を帯びてるのか、周囲の形式少し歪んで見える。
 尾は蛇のような形。ただし人間サイズならなんの苦労もなく一飲みに出来るような大きさだ。百八十階層の大蛇よりはマシだけど、その差に大した意味はない。
 一歩中に入ると、山のような影はピクリと動いて、ゆっくり立ち上がる。そして見下ろしてきたのは、燃えるような三対の眼。

 こいつは、冥府の番犬。三つ首の怪物。

「ケルベロスだ」
 
 こうしてみると、本当に大きい。ちょっとした小山くらいのサイズはあるんじゃなかろうか。まさかディオニューソス神の迷宮でこいつと相まみえることになるなんてね。

「アオオオンッ」

 その遠吠えは、開戦の合図か。音の衝撃だけで全身がビリビリしたよ。
 魂力支配の方も、さすが、六、七割しか奪えない。さすがは冥府を守る存在だ。

 私もまずは挨拶をしておこうか。雷の嵐だ。
 真っ暗闇をいくつもの雷光が閃き、ケルベロスを貫く。けど意に介した様子はない。毛に焼け焦げたような痕もないし、どうやら雷にはそうとう強いらしいね。

 それなら別の手段で攻めるだけだけども。

 地を蹴り、槍を顕現させる。迎撃に向けられるのは、地獄の業火。三つ首から吐き出された炎はオレンジ色で、一見すればそれほど高温には見えない。けどそこは魔法の現実となった世界。内包する熱量は私の鱗を越えて肉を焼くにも十分だろう。
 当たればね。

 槍を一閃。左右に分かれた紅蓮を横目に見て、ケルベロスの足下へ到達する。ケルベロスが対するに選んだのは、前足の爪での攻撃だ。

 甘いね。

『うおっ あんな太い脚どうやって切ってんだ』
『ぶつ切りさすがすぎる』
『あれ、泥になるんだ』

 泥? ほんとだ、切った脚が泥に。何かありそうではあるけど、何かあるまで勝負を決めれば関係ないか。

「て、そんな一瞬で再生するのね」

 もう脚生えてきたよ。ケルベロスってそんな感じなのね。
 とはいえ、隙としては十分。

「まず一つ」

 右側の首が地面に落ちて、これもまた泥になった。こっちは、腕みたいには再生しないらしい。
 じゃあ、全部落とせば死ぬね。

「おっと、そういう感じか」

 着地しようとしたら足下に気配。見ると、泥が人型になってる。冥府の罪人達かな。
 侮るには少し力が強そうだから、ちゃんと処理しておこうか。

 切ってもあまり意味ないだろうし、魔法で消し飛ばす。ケルベロスも巻き込むなら、爆発でも起こそうか。ケルベロスは熱には強いだろうけど、衝撃でダメージいくでしょう。
 原理は、まあテキトーなエネルギー放出でいいか。放射線が出るヤツは制御が面倒だし。

 ちょっとかっこつけて指を鳴らしてみる。こんなことしなくてもノータイムで爆破できるんだけど、まあ様式美的な。

 パチンと乾いた音が響いた直後、冥府の入り口が再び光に包まれた。一瞬遅れて熱波が届き、そして衝撃に空間が揺れる。ダメージになるだけの熱しか防がなかったから、髪が、着物が、その衝撃を受けて大きくはためく。

 コメント欄が阿鼻叫喚だけど、もしかして光をもろ受けたかな? ちょっと悪いことしたかも。まあ、いいか。
 そんなことより、ケルベロスだ。泥人形達は跡形もなく消し炭になっていて、気配もない。目的の一つはクリア。
 ケルベロス本体の方は、うん、しっかりダメージ入ってるね。案の定毛皮に焼けた痕はないけど、端の方まで吹き飛んで倒れている。動きからして、肋の一本か二本くらいは折れてるね。

 どうせすぐ再生するだろうから畳みかけようか。

 槍を投げ、同時に巨大化。壁に縫い付けて動きを止める。きゃいんって悲鳴は普通の犬と同じで、ちょっと心が痛まないこともない。
 そのまま空を蹴り、真ん中の頭の眉間へ膝。身を捻って勢いをつけ、そのまま蹴り落とす。そうして伸びきった首へ尾の一閃。これで二つ目だ。

「よっと。私は食べても美味しくないよ」

 後ろに飛べばついさっきまで私の居たところを大蛇が通り過ぎる。ケルベロスの尾だ。蛇は槍の柄に食らいつき、無理矢理に引き抜く。牙から滴るのは、毒液かな。垂れた地面が酸っぱい匂いの白い煙を上げてる。強酸の類いだね。

 とりあえず槍を一旦消して手元へ戻し、残った頭で睨み付けてくる番犬に睥睨を返す。

『地獄の番犬がまるで相手になってない』
『こうなると普通の犬みたいだな』
『ちょっとケルベロスの方を応援したくなってきた』
『なんか可愛いかもしれない』
『いうてお前らじゃそっこー食われて死ぬけどな』
『それはそう』

 コメント欄も日常そのもの。エンタメとしてもここまでかな。
 ん?

「あら、頭も再生するのね」

 最初に落とした右の頭が再生しちゃった。時間がかかるだけか。
 とはいえ、最初と何か変わった様子があるわけでもないし、面白いことにはならなそう。

 殆ど溜めなしで繰り出してきたタックルを上に躱しながらトドメの準備をする。獣の瞬発力はさすがで、今の私と同じくらいのスピードが出てるけど、予兆を見抜くのが難しくないからね。躱すのは簡単。

 鋭く切り返して向けてきた牙は、頭ごと細切れにすることで防ぐ。ついでに通り過ぎる蛇の尾を切り落としてやれば、もうただ大きいだけの犬だ。

「まあ、トータルで言えばこの前の獅子よりちょっと強いくらいだったかな」

 バランスを崩し、倒れ伏すケルベロス。そうなるともう、私の魂力支配に抵抗することは難しい。一息の間に周囲全ての魂力を支配下に置き、そして魔法を発動する。
 具現化する現象は、一転へ向けて収束する超圧力。あるいは超重力と表現した方が分かりやすいだろうか。

 現出したそれは、ブラックホールのようにその範囲内の全てを圧縮する。あのわんこが逃れることは不可能。メキメキと音を立てながら丸まり、少しずつ、しかし確実に潰れていく。
 映像としてはなかなかに黒いかもしれない。肉が、骨が、血の滴ることすら許さずに一つの塊に凝縮されていく。

 残ったのは真っ黒い球ばかり。これ以上やって重力崩壊のような現象が起きても面倒だから、このあたりで止めておく。
 うん、私の勝ちだ。

 ん、ちょうどファウロスも目覚めたらしい。迎えに行ってあげよう。そしたら次は、百九十一階層だ。
 この感じなら最上層は二百十階層くらいだろうし、もうひと踏ん張りだよ。