178
百三十階層に続く階段を上ると、そこは暗い森の中だった。空を見るに、夜っぽい。傾斜がそれなりにあるし、木の並びも雑多だし、さっきまでいた山にある林とかかな?
扉らしい扉が無いのは、九十階層みたいなフィールド型の守護者の特徴だから不思議ではない。でもなんか、そんな雰囲気ではないんだよねぇ。魂力の流れにはしっかり区切りがあるし。
とりあえずファウロスを呼ぼうか。先に明かりを用意しましてっと。
「来て大丈夫。暗いから気をつけて」
恐る恐るって表現がぴったりだね。上から照らしてるせいでファウロスの顔こそホラーチックだけども。
「またあの村みたいな感じですか?」
「どうだろうね」
そういえばディオニューソスの神話はギリシャ神話に珍しく物語的なんだっけ。次の話、コメント欄で聞いてみるか――て、先にコメントが。ナイスタイミング。
えーっと、なんとかって王様が山中の宴だか儀式だかを覗きに行ってマイナデスに惨殺された話、ね。追加情報でマイナデスはマイナスの複数形と。ディオニューソスのマイナスは女性信者のことだったかな。
「なるほどねぇ。儀式中のディオニューソス信者たちがここの守護者か。それで」
儀式の場っていうのは確かに、フィールド型と言えるかも。たぶん、その儀式を覗く事がトリガーとなってあの魂力の領域が階層全体に広がるんだろうなぁ。
「僕は、今回も障壁の中で待機ですか?」
「そうなるかな」
大勢いるっぽいし、なおさら。扉の前で待っててもらうのが一番手っ取り早いんだけども。精神攻撃系がめんどうだし。フィールド型はその辺が困る。かと言って前の階層で待機の方が危ないしなぁ。
というわけで、さっさと護衛対象を閉じ込めて、奥へ進む。いくら方向音痴気味な私でも、これだけ嫌な気配が集まってたら迷わない。ディオニューソスの神威でも借りてるのかねぇ。
枝葉を避けながら斜面を登ると、茂みの隙間からオレンジ色の光が。その先には大きなかがり火があって、周囲で酷く肌の上気した女達が獣の屍肉を喰らっていた。
これは、配信画面に映していいか迷うね。酒はともかく、血の滴る生肉を直接喰らう様子は刺激が強すぎる、気がする。獣の皮を被ってる以外は普通の人間っぽい姿なのが余計に。
あ、バレた。
妖しげに笑っていた顔が恐ろしい形相に変わり、こっちをじろっと見る。と同時に、外周を満たす魂力の支配権も守護者側に移った。
「#$%&’!」
うん、金切り声。うるさい。思わず耳押さえちゃった。
『うるさっ!』
『うちの姉ちゃんみたいな声出さないで欲しい』
『嫌な感じがする声ですね。。。』
「げっ……」
儀式自体にちゃんと魔法的な効果があったか。酩酊と狂乱、熱狂を植え付ける呪いのようなものが階層全体を満たしてる。
私には届かないから良い。問題はファウロスだ。今の私じゃ、彼のいる位置まで支配できない。
「アハハハハッ!」
ああほら、バッチリ影響受けてる。高笑いなんかしちゃって、らしくない。障壁は、維持できてるか。でも血の匂いがする。額でも打ち付けたかな?
下がれば正気に戻してやれる、とは思う。でもまあ、それより早い手があるね。
樹上に飛び乗り、儀式が行われていた広場を見下ろす。獣の皮を被った女達、マイナデスは手に松ぼっくりの取り付けられた木の杖を持っており、歯をむき出しにしてこちらを睨んできた。
まずは目に入った方から、ということか。私としては、都合が良い。
「悪いけど、さっくり終わらせるよ」
この広場くらいなら、問題なく支配下における。
これに反応する様子はなし。しょせんは借り物の力か。
広場全体を覆うよう水を生み出し、渦と為す。常人ならばこれだけで骨を砕かれ、呼吸を失って藻屑と消えるだろう。しかしそこは流石、神の威を受けた守護者。激流をどうにかかき分け、その外へ出ようとしていた。
これくらいは想定内。仮にも百三十階層を守っている存在なのだから、当然だ。
だから、もう一手。
渦の内を満たす魂力に加えた情報は、水は火となる、とする偽りの理。偽り、だけど、魂力の性質は、己を魔力と為すあらゆる情報を吐き出し、具現化する。つまり、真と為す。
森が赤く染まった。先ほどまであったかがり火なんて目ではないほどの、巨大な火柱だ。暗天すらも照らしたそれがマイナデスを抱き、そして星に変える。逃げられはしない。視界いっぱいを埋め尽くす業火に焼かれ、女達は土に帰る。
まったく、魂力とは恐ろしい性質を持っていたものだ。自然の理すらも塗り替えてしまうなんてね。
ん、終わったか。次の階層に繋がる感じがした。火はもういらないね。
火の渦を消し去り、ドロップアイテムを拾ってから入り口の方に戻る。ファウロスは、正気に戻ったらしい。でも額から出血してるし、無事とは言いがたいか。
「ファウロス」
「あ、はい。終わったんですか?」
ふむ、意識ははっきりしてるね。傷だけ治したら出発しても問題無さそうだ。
「ごめん、守り切れなかった」
「いえいえ、そんな」
ぶっちゃけ、こんな階層で障壁内に影響を与えられるとは思ってなかった。油断はしてなかったつもりだったけど、迷宮そのものの生み出す精神干渉を甘く見ていたよ。最悪の想定を下回ってはいない、は言い訳にならないね。
『オールレンジ精神干渉は正直しょうがないと思う。』
『精神デバフみたいなの多くて護衛しづらそうだな』
『てかホント、ファウロスさんって俺ら側なんだな。めっちゃ普通の人で見てて安心する』
『分かる 普通の範疇で あといい人」
そう、普通の人間の枠内なんだ。だからできるだけ、戦闘に巻き込まない位置でって判断だったんだけど、これなら近くにいてもらった方がマシだね。巻き込むリスクは許容するしかない。
「次同じような状況になったらもっと近くまで付いてきてもらうね。それなら精神攻撃からも守れる」
「分かりまし――あ、あれはっ!」
うん? なんだろ。拾いそびれたドロップアイテムでもあったかな?
ファウロスの走る先は、木?
いや、それに巻き付いてる蔓か。つまり、アレだね。
「それが狂蔓?」
「そうです!」
ほうほう。じゃああとは、最下層で神酒を手に入れるだけか。思ったよりずっと早く揃った。
ファウロスもほっとしたようで、ずいぶん柔らかな表情をしてる。と同時に、頬は赤らんでいて、漏れ出る魂力も喜色を孕んだ明るさを持っているのだから、どれだけ喜んでるのかよく分かるよ。
「最初はどれくらいかかることかって思ったけど、順調だね。良かったね、あまり苦しませずに済むよ」
「そう、ですね」
あら、なんだか歯切れ悪いね。魂力に混ざる感情にも陰りが。いったいどうしたのやら。
なんにせよ、ここからは一気にペースを上げられる。このままならもう十階層だけ進んでから帰らないとかなって思ってたけど、必要ではなくなった。
うん、一回帰ろうか。精神的な疲労もあるだろうし。あと、イリニちゃんの調子も気になってるだろうからね。
配信を閉じ、迷宮の転移魔法陣を使って外に出たら、町までは一瞬だ。龍らしい龍の姿で飛ぶなんてサービスはせず、ファウロスを脇に抱えた状態で走るだけだけど。
そんな移動にもすっかり慣れたみたいで、最近は最初の頃みたく顔を青ざめさせたりはしていない。
「イリニ、帰ったぞ」
荷物を置く時間ももったいないといった様子だね。イリニちゃんの部屋に入った彼と入れ違いに、無駄に綺麗な顔をした黒髪の男が出てきた。夜墨だ。イリニちゃんのお世話をするには人型の方がやりやすいってことで、特別に許してる。
「ロードよ、調子は良さそうだな」
「そうだね。今のところ、想定外はないよ」
ファウロスの消えた方を見ながら伝えておく。本当に、彼は普通だ。普通の人間だ。今のところ、不自然な点はない。
だからこそ思う。本当に悪趣味だなって。
「まあ、あとは最下層以外消化試合だね。来週か、再来週には踏破できると思うよ」
「ならば良――」
「イリニっ!?」
ふむ、何かあったらしい。夜墨と目配せをして、彼女の部屋へ向かう。ベッドにあるだろうその気配は、以前にも増して弱々しい。
「どうしたの」
「ハロさん、イリニが、イリニがっ……!」
「どいて」
見るからに息が荒い。ここ暫くでこれほどの事は無かった。夜墨をちらっと見ると、やはり首を横に振られる。熱は、高いね。触れた手が焼けそうだ。四十度は超えてるか。脈も速い。どういうこと? ここまで強い症状を引き起こすような呪いじゃなかったはず。
「これは……。ファウロス、いつもの薬を」
「は、はい!」
呪いが少し変質してる。この症状で死ぬことはないだろうけど、寿命は縮まりそうだ。
「持ってきました!」
受け取った薬を飲ませてやる。少ししたら呼吸は落ち着いた。熱も、下がり始めてはいる。
「いったい何が!」
「遠隔で呪いを上書きされたみたいだね。呪いをかけてきたのと同じ魔族の仕業だと思うよ」
イリニちゃんを夜墨に任せ、ファウロスを居間へ連れて行く。症状の方は分かりやすく落ち着いては来てるけど、ここで大声を出されて障ってもいけない。ひとまず椅子に座らせて、遮音結界を張っておこう。
「これまで通り、呪いがイリニちゃんを生かそうとするのは変わらない。けど、症状が強まった分魂に掛かる負荷が増えた。今の状態が続く場合は、代償として寿命そのものを削ることになるだろうね」
「そんなっ……!?」
「落ち着いて、最後まで聞いて」
そうなると、呪いの引き起こす症状自体では死ななくても、魂自体が摩耗して遠くないうちに死んでしまうと思う。
「幸い、もうあとは最下層まで行くだけだ。寿命に影響が出る前に攻略できると思う」
「そう、ですか……」
それだけ呟くと、ファウロスは浮かせかけていた腰を下ろして下を向く。何やら考え込んでるみたいだ。
まあ、無理もない。彼にとっては、イリニちゃんが全てなんだから。
「本当に、大丈夫なんですよね……?」
しばらく口の中で何かを呟いていたと思ったら。不安からなのか、なんなのか、瞳が揺れてる。
「うん、本当。そこは任せて」
「……分かりました。よろしく、お願いします」
そこは誓うよ。
しかしまあ、本当に、趣味が悪い。
百三十階層に続く階段を上ると、そこは暗い森の中だった。空を見るに、夜っぽい。傾斜がそれなりにあるし、木の並びも雑多だし、さっきまでいた山にある林とかかな?
扉らしい扉が無いのは、九十階層みたいなフィールド型の守護者の特徴だから不思議ではない。でもなんか、そんな雰囲気ではないんだよねぇ。魂力の流れにはしっかり区切りがあるし。
とりあえずファウロスを呼ぼうか。先に明かりを用意しましてっと。
「来て大丈夫。暗いから気をつけて」
恐る恐るって表現がぴったりだね。上から照らしてるせいでファウロスの顔こそホラーチックだけども。
「またあの村みたいな感じですか?」
「どうだろうね」
そういえばディオニューソスの神話はギリシャ神話に珍しく物語的なんだっけ。次の話、コメント欄で聞いてみるか――て、先にコメントが。ナイスタイミング。
えーっと、なんとかって王様が山中の宴だか儀式だかを覗きに行ってマイナデスに惨殺された話、ね。追加情報でマイナデスはマイナスの複数形と。ディオニューソスのマイナスは女性信者のことだったかな。
「なるほどねぇ。儀式中のディオニューソス信者たちがここの守護者か。それで」
儀式の場っていうのは確かに、フィールド型と言えるかも。たぶん、その儀式を覗く事がトリガーとなってあの魂力の領域が階層全体に広がるんだろうなぁ。
「僕は、今回も障壁の中で待機ですか?」
「そうなるかな」
大勢いるっぽいし、なおさら。扉の前で待っててもらうのが一番手っ取り早いんだけども。精神攻撃系がめんどうだし。フィールド型はその辺が困る。かと言って前の階層で待機の方が危ないしなぁ。
というわけで、さっさと護衛対象を閉じ込めて、奥へ進む。いくら方向音痴気味な私でも、これだけ嫌な気配が集まってたら迷わない。ディオニューソスの神威でも借りてるのかねぇ。
枝葉を避けながら斜面を登ると、茂みの隙間からオレンジ色の光が。その先には大きなかがり火があって、周囲で酷く肌の上気した女達が獣の屍肉を喰らっていた。
これは、配信画面に映していいか迷うね。酒はともかく、血の滴る生肉を直接喰らう様子は刺激が強すぎる、気がする。獣の皮を被ってる以外は普通の人間っぽい姿なのが余計に。
あ、バレた。
妖しげに笑っていた顔が恐ろしい形相に変わり、こっちをじろっと見る。と同時に、外周を満たす魂力の支配権も守護者側に移った。
「#$%&’!」
うん、金切り声。うるさい。思わず耳押さえちゃった。
『うるさっ!』
『うちの姉ちゃんみたいな声出さないで欲しい』
『嫌な感じがする声ですね。。。』
「げっ……」
儀式自体にちゃんと魔法的な効果があったか。酩酊と狂乱、熱狂を植え付ける呪いのようなものが階層全体を満たしてる。
私には届かないから良い。問題はファウロスだ。今の私じゃ、彼のいる位置まで支配できない。
「アハハハハッ!」
ああほら、バッチリ影響受けてる。高笑いなんかしちゃって、らしくない。障壁は、維持できてるか。でも血の匂いがする。額でも打ち付けたかな?
下がれば正気に戻してやれる、とは思う。でもまあ、それより早い手があるね。
樹上に飛び乗り、儀式が行われていた広場を見下ろす。獣の皮を被った女達、マイナデスは手に松ぼっくりの取り付けられた木の杖を持っており、歯をむき出しにしてこちらを睨んできた。
まずは目に入った方から、ということか。私としては、都合が良い。
「悪いけど、さっくり終わらせるよ」
この広場くらいなら、問題なく支配下における。
これに反応する様子はなし。しょせんは借り物の力か。
広場全体を覆うよう水を生み出し、渦と為す。常人ならばこれだけで骨を砕かれ、呼吸を失って藻屑と消えるだろう。しかしそこは流石、神の威を受けた守護者。激流をどうにかかき分け、その外へ出ようとしていた。
これくらいは想定内。仮にも百三十階層を守っている存在なのだから、当然だ。
だから、もう一手。
渦の内を満たす魂力に加えた情報は、水は火となる、とする偽りの理。偽り、だけど、魂力の性質は、己を魔力と為すあらゆる情報を吐き出し、具現化する。つまり、真と為す。
森が赤く染まった。先ほどまであったかがり火なんて目ではないほどの、巨大な火柱だ。暗天すらも照らしたそれがマイナデスを抱き、そして星に変える。逃げられはしない。視界いっぱいを埋め尽くす業火に焼かれ、女達は土に帰る。
まったく、魂力とは恐ろしい性質を持っていたものだ。自然の理すらも塗り替えてしまうなんてね。
ん、終わったか。次の階層に繋がる感じがした。火はもういらないね。
火の渦を消し去り、ドロップアイテムを拾ってから入り口の方に戻る。ファウロスは、正気に戻ったらしい。でも額から出血してるし、無事とは言いがたいか。
「ファウロス」
「あ、はい。終わったんですか?」
ふむ、意識ははっきりしてるね。傷だけ治したら出発しても問題無さそうだ。
「ごめん、守り切れなかった」
「いえいえ、そんな」
ぶっちゃけ、こんな階層で障壁内に影響を与えられるとは思ってなかった。油断はしてなかったつもりだったけど、迷宮そのものの生み出す精神干渉を甘く見ていたよ。最悪の想定を下回ってはいない、は言い訳にならないね。
『オールレンジ精神干渉は正直しょうがないと思う。』
『精神デバフみたいなの多くて護衛しづらそうだな』
『てかホント、ファウロスさんって俺ら側なんだな。めっちゃ普通の人で見てて安心する』
『分かる 普通の範疇で あといい人」
そう、普通の人間の枠内なんだ。だからできるだけ、戦闘に巻き込まない位置でって判断だったんだけど、これなら近くにいてもらった方がマシだね。巻き込むリスクは許容するしかない。
「次同じような状況になったらもっと近くまで付いてきてもらうね。それなら精神攻撃からも守れる」
「分かりまし――あ、あれはっ!」
うん? なんだろ。拾いそびれたドロップアイテムでもあったかな?
ファウロスの走る先は、木?
いや、それに巻き付いてる蔓か。つまり、アレだね。
「それが狂蔓?」
「そうです!」
ほうほう。じゃああとは、最下層で神酒を手に入れるだけか。思ったよりずっと早く揃った。
ファウロスもほっとしたようで、ずいぶん柔らかな表情をしてる。と同時に、頬は赤らんでいて、漏れ出る魂力も喜色を孕んだ明るさを持っているのだから、どれだけ喜んでるのかよく分かるよ。
「最初はどれくらいかかることかって思ったけど、順調だね。良かったね、あまり苦しませずに済むよ」
「そう、ですね」
あら、なんだか歯切れ悪いね。魂力に混ざる感情にも陰りが。いったいどうしたのやら。
なんにせよ、ここからは一気にペースを上げられる。このままならもう十階層だけ進んでから帰らないとかなって思ってたけど、必要ではなくなった。
うん、一回帰ろうか。精神的な疲労もあるだろうし。あと、イリニちゃんの調子も気になってるだろうからね。
配信を閉じ、迷宮の転移魔法陣を使って外に出たら、町までは一瞬だ。龍らしい龍の姿で飛ぶなんてサービスはせず、ファウロスを脇に抱えた状態で走るだけだけど。
そんな移動にもすっかり慣れたみたいで、最近は最初の頃みたく顔を青ざめさせたりはしていない。
「イリニ、帰ったぞ」
荷物を置く時間ももったいないといった様子だね。イリニちゃんの部屋に入った彼と入れ違いに、無駄に綺麗な顔をした黒髪の男が出てきた。夜墨だ。イリニちゃんのお世話をするには人型の方がやりやすいってことで、特別に許してる。
「ロードよ、調子は良さそうだな」
「そうだね。今のところ、想定外はないよ」
ファウロスの消えた方を見ながら伝えておく。本当に、彼は普通だ。普通の人間だ。今のところ、不自然な点はない。
だからこそ思う。本当に悪趣味だなって。
「まあ、あとは最下層以外消化試合だね。来週か、再来週には踏破できると思うよ」
「ならば良――」
「イリニっ!?」
ふむ、何かあったらしい。夜墨と目配せをして、彼女の部屋へ向かう。ベッドにあるだろうその気配は、以前にも増して弱々しい。
「どうしたの」
「ハロさん、イリニが、イリニがっ……!」
「どいて」
見るからに息が荒い。ここ暫くでこれほどの事は無かった。夜墨をちらっと見ると、やはり首を横に振られる。熱は、高いね。触れた手が焼けそうだ。四十度は超えてるか。脈も速い。どういうこと? ここまで強い症状を引き起こすような呪いじゃなかったはず。
「これは……。ファウロス、いつもの薬を」
「は、はい!」
呪いが少し変質してる。この症状で死ぬことはないだろうけど、寿命は縮まりそうだ。
「持ってきました!」
受け取った薬を飲ませてやる。少ししたら呼吸は落ち着いた。熱も、下がり始めてはいる。
「いったい何が!」
「遠隔で呪いを上書きされたみたいだね。呪いをかけてきたのと同じ魔族の仕業だと思うよ」
イリニちゃんを夜墨に任せ、ファウロスを居間へ連れて行く。症状の方は分かりやすく落ち着いては来てるけど、ここで大声を出されて障ってもいけない。ひとまず椅子に座らせて、遮音結界を張っておこう。
「これまで通り、呪いがイリニちゃんを生かそうとするのは変わらない。けど、症状が強まった分魂に掛かる負荷が増えた。今の状態が続く場合は、代償として寿命そのものを削ることになるだろうね」
「そんなっ……!?」
「落ち着いて、最後まで聞いて」
そうなると、呪いの引き起こす症状自体では死ななくても、魂自体が摩耗して遠くないうちに死んでしまうと思う。
「幸い、もうあとは最下層まで行くだけだ。寿命に影響が出る前に攻略できると思う」
「そう、ですか……」
それだけ呟くと、ファウロスは浮かせかけていた腰を下ろして下を向く。何やら考え込んでるみたいだ。
まあ、無理もない。彼にとっては、イリニちゃんが全てなんだから。
「本当に、大丈夫なんですよね……?」
しばらく口の中で何かを呟いていたと思ったら。不安からなのか、なんなのか、瞳が揺れてる。
「うん、本当。そこは任せて」
「……分かりました。よろしく、お願いします」
そこは誓うよ。
しかしまあ、本当に、趣味が悪い。



