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 ここは、どこだったか。
 白い天井が見える。ぶら下がった傘の中には白熱電球が一つ。けど光を放っていなくて薄暗い。
 不意に景色が横へ動いた。そこにはどこか見覚えのあるリビングがあって、窓から差し込む明かりの中、ブラウン管テレビが沈黙を保っていた。

竜也(たつや)、あんたってさ」
「ん?」

 自分が返事をしたと知って、その名が私のかつての名だったと思い出した。その名を呼んだのは、母だった。

 この時の私はL字に置かれた二つのソファの片方に寝転がったまま、もう一つのソファに座る母の言葉を待っていた。

「あんたってさ、人形みたいよね」

 ……これは、私がまだ一桁の年齢だった頃の記憶だ。古い、古い記憶を夢に見ているんだ。中国でのことを思い出したからだろうか?

 景色が変わった。
 さっきまでのそれと同じような天井が見える。だけど見える電灯はLED電球のものに変わっていて、部屋自体も狭くなっている。実家の自室だと思い出すのに時間はかからなかった。
 枕元の時計へ視線が移る。時刻は、朝八時十二分。家を出て高校に向かっていなければいけない時間だ。

 だけど私は布団から動かない。いや、動けない。
 酷い偏頭痛持ちだった当時の私は、一晩中痛みに苛まれ、気絶しては覚醒してを繰り返していた。この時は、朝になってようやくマシになってきて、あまりの痛みに寝られないだけの状態になった頃だったか。

 ガチャっと荒々しい音がして、氷点下の冷たい空気が入り込んできた。音や急な温度変化で痛みが増したのか、()が目を細めて視界が狭まる。

「あんたいい加減に起きない!」

 この凄まじい剣幕は母のものだ。視界が滲んだのは、ペットボトルから冷水を浴びせられたから。

「頭、いた、い」
「サボりたいだけでしょうが!」

 どうにか絞り出した声は一蹴された。直後に無理矢理、ベッドから引きずり下ろされて、廊下へ運ばれる。抵抗しようにも指一本動かすだけで視界がチカチカするような激痛が走るのだから、それもできない。

 一階に降りる階段の前まで来た。体がその先に向かって投げ出され、霞む意識も強引に引き戻される。
 実家の階段は踊り場が殆ど無いも同然の酷い作りだから、落ちたら階下まで止まらない。ましてや頭から落ちる形になっていたこの状況だと、軽い怪我では済まない。最悪死んでしまう。

 視界の明滅するなか、()はどうにか両腕を突っ張って堪えた。直後に衝撃を受けて、また下の段差が近づいて――

「……おはよう、夜墨。今何時?」
「おはよう。八時を少し過ぎた頃合いだ」

 思ったよりも早く起きてしまったみたい。体を起こして夜墨の頭から下を覗き込むと、白い雲の隙間に水面の青と山々の灰、それから大地の緑が見えた。

 しかし懐かしい夢を見たもんだ。後半の記憶は大学受験のころのだったか。
 
 あの時は、アドレナリンがたっぷり出ていたんだと思う。脳の血管が脈打つ音がはっきり聞こえるのに、付随するはずの痛みが普段よりも少なかった。それから何度か蹴りを入れられたけど、衝撃ほどの痛みもなくて、でも力は十分に入らなくて……。
 
 まあ、玄関までゆっくり落とされることには成功したからセーフだったね。いやー、世界が変容する以前にも病気なんかで何度か死にかけてるけど、あの時が一番三途の川縁に近づいた実感があったよ。

 当の本人はそのこと、私の大学在学中にはすっかり忘れてたんだから信じられないよね。年齢的なホルモンバランスの乱れだとか、当時は私の将来を考えてるつもりになってただとか、色々と理由はあるけども。

 本当に、あのころは酷かった。あの人は、どれだけ気付いていただろうか。私の内心に、己の本心に。
 まあ、その後自分を殺しかけた相手と普通に食卓囲んで談笑してたあたりは人形味があったかもしれないけど。

 ……ああだめだ。何百年も経ったって言うのに、もういない人のことでこんな鬱屈としちゃって。良くない良くない。忘れよう。過ぎたことだ。
 なんだかんだ言って、あの人のことを嫌ってはいないのだし。

 そんな事よりだ。

「今どの辺?」
「黒海の南西辺りだ」

 ふむふむ。じゃあ見えてる陸地はブルガリアがあった辺りで、左手奥の方にあるだろう街がイスタンブールかな?
 地理は得意ってわけじゃなかったから多分だけど、このまま行けばギリシャがあった地域に着くはずだ。

 もうこんな所まで来たかー。旅だってから数十年。早かったね。
 日本じゃもうPCも普及してて、コンシューマのゲームも出てるらしい。ゲーム配信してほしいって要望も出てるけど、それはまあ、また考えよう。それよりも旅の思い出を現像してもらわないと。写真もだいぶ溜まってるんだよね。

 あ、でも帰りに中国がどうなってるかも確認しないとなぁ。もうすっかり落ち着いてるはずだから。
 なんだかんだあそこまで内政に関わったのは、中国だけ、でもないっちゃないけど、自分のしたことの顛末は見ておきたいから。

 どうせ日本は局所的に小競り合いが起きる以外は平和だから。最近はなんか魔族も大人しめって聞くし。
 いやまあ、ゼハマのやつのことだから、どうせなんか変な実験でも企んでるんだろうけども。

 その辺はある意味心配いらない。あいつが私のいないところで私の領域を荒らすことはないから。あるとしたら、私が居るときだ。私の許せる範囲で実験に巻き込んでくる。そういうやつだ。

 なんて考えてるうちに、もう下は地中海だ。ヨーロッパ各国の距離感って日本だと隣の県だとか地方だとかに行くのと同じくらいだから、油断してるとあっという間に通り過ぎちゃう。

 今は、海岸線沿いに飛んでるみたいだね。先の方には島がたくさん見えてる。たぶんエーゲ海。

「ギリシャ、ギリシャか-」
「気になるか」
「そりゃね。知ってるでしょ?」

 なにせ、彼は私の記憶もある程度引き継いでいる。
 ギリシャはかつて世界が変容する前、一度は行ってみたいと思っていた国の一つだ。そこまで詳しくはないまでも、神話の類いは割と好きだったからね。遺跡巡りをしてみたかったんだ。

「ギリシャ神話ってさ、島が舞台なこと多い気がするんだ」

 クレタ島だったりデロス島だったり。
 ミーハーって言われても仕方ないくらいだと思うから、あくまで印象だけど。

「それってさ、あの辺の島々のどれかだよね?」
「であろうな。……いずれに向かう?」

 できれば南から順番に行って、内陸へってしたいところだけど、どうしようか?
 人の気配がする島は限られてる。龍脈の通ってる島も一部だけ。何もない島で配信しても仕方ないし、どっちかを満たす島だけでいいかなってところはある。

 私の行きたいような遺跡はだいたい龍脈上にあるか。他にもあるかもだけど、知る人がいない中自力で探すほどじゃないんだよね。

「ん?」
「どうした?」
「……なんか呼ばれた気がしただけ。でも気のせいっぽい」

 夜墨は何も感じなかったか。やっぱり気のせい、かな?
 でもちょっと気になるね。よし、決めた。

「あの島で」
「ああ、分かった」

 さて、鬼が出るか蛇が出るか、はたまた何も出ないか。何か出たら面白いけども。