夜、寄宿舎。

 章吾はベッドに寝転び、天井を睨んでいた。

 毛布をかぶっても、閉じた瞼の裏にまで、昼間の光景が焼きついて離れない。

 ──お似合い……?
 ──我々の関係は──ただのルームメイトだ。

 アルジャーノンの、あの冷静な台詞。

(……俺も同意すればよかった)

(なのに)

 あの声が、あの視線が、脳裏に焼きついて、離れない。

 なんなんだよ、これ。小さく寝返りを打つ。

 隣のデスクに目を向ける。すると、薄暗いスタンドライトの下、本を読むアルジャーノンの姿があった。

 顔を上げた、その瞬間──目が、合った。

(……)

(……)

 ふたりとも、声を出せなかった。……だが、先に目をそらしたのは、アルジャーノンだった。



 夜半。

 寄宿舎には、静寂が満ちていた。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、デスクに肘をついたまま、目を閉じていた。眠れなかったのだ。

 こんなことは、珍しかった。秩序を重んじる自分が、感情に振り回されるなど、本来あり得ないはずだった。

 それなのに──あの視線。あの沈黙。たったそれだけで、胸の奥にどうしようもない波紋が広がる。

 ベッドを見やると、章吾は毛布に顔をうずめたまま、静かに寝息を立てていた。

 小柄な体。硬さを隠した寝顔。
 どうして、こんなにも愛おしいと思ってしまうのか。

(……馬鹿げている)

 私は、妻を娶り、家を継ぐ身だ。誰かに感情を預けるなど。ましてや、男に──あり得るはずがない。

 アルジャーノンは、きつく目を閉じた。

 だが、なぜだ。
 胸の奥から湧き上がる、たったひとつの願い。
 ──守りたい。

 理由などいらない。立場も、未来も、すべてを横に置いて。ただ、この存在を、守りたいと。
 そんな自分が、ひどく怖かった。

「私は、どうかしている」

 静かな夜のなかで、アルジャーノンは、ひとり、自分自身に抗い続けた。



 夜明け前。
 章吾は、浅い眠りの中でふと目を覚ました。

 部屋の空気はひんやりとして、窓の外にはまだ闇が残っている。

 寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。

 あたたかいものが、すぐそばにある気がした。

 目を凝らすと、暗闇の中──アルジャーノンが、自分のベッドのほうへ歩み寄っていた。

 章吾は、声を出せなかった。出したくなかった。胸の奥が、きゅうっと鳴った。

 なんで、そこにいるだけで、こんなにも安心するんだろう。
 何も言わない。何もしていない。ただ、そばにいるだけ。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。

(バカか、俺)

 毛布を引き寄せて、顔を隠す。

 眠ったふりをする。起きていることが、知られたくなかった。だって、目が合ったら、あふれてしまうから。

 静かな夜。小さな、あたたかい距離。
 
 章吾は、目を閉じながら、ぽつりと呟いた。

「……ずっと、こうしていられたらいいのに」



 朝。

 窓の外は、うっすら霧が立ち込めていた。
 
 章吾は、毛布にくるまったまま、ゆっくりと目を開けた。

 デスクの前。アルジャーノンが、いつも通り制服を整えている。

 ネクタイを締める手。
 カフスボタンを留める仕草。すべてが整然としていた。──なのに。

(ぜんっぜん、ふつうじゃねぇ)

 夜中、あいつが傍にいたことを、章吾は知っている。

 アルジャーノンは、知らないふりをしている。
 章吾も、知らないふりをするしかなかった。

「……おはよう」
「……ああ」

 章吾は、わざとぶっきらぼうに続けた。

「……今日、天気悪そうだな」
「霧が出ている。だが、すぐに晴れるだろう」
「ふーん」

 何でもない言葉を交わす。何も変わっていないふりをする。

本当は、言葉の隙間から、すぐに心が覗きそうだった。



 夕方。

 寄宿舎への帰り道。ふたりは、肩を並べて歩いていた。
 寮へ続く石畳の小道。冷たい風に、制服の裾がはためく。

 会話はなかった。それでも、不自然な沈黙ではなかった。

 ただ隣にいる。それだけで、十分だと──思いたかった。

(でも……触れたい)

 歩幅を合わせながら、そんな衝動が胸をかすめた。

 肩に、指先に、どこでもいい。ほんの少しだけでいい。確かめたかった。

(でも、ダメだ)

(あいつは、男だ)

(それに──)
 
 ちらりと視線を向ける。アルジャーノンは、前を向いたまま歩いていた。凛として、孤独で、美しく。

 いつもの姿。──のはずだった。

 ふと、スカーフが肩から滑りかけるのに気づく。

 章吾は、思わず手を伸ばしかけて──ぐっと、こらえた。

(……だめだ)

(これ以上、近づいたら)

 自分が、どうなるかわからなかった。
 章吾は、拳をぎゅっと握りしめる。

 同じように、アルジャーノンもまた、ポケットの中で指先を固く絡めた。

 ふたりは、並んで歩いた。触れずに。声もかけずに。

 心だけは、必死で叫んでいた。

 君に、触れたい。

 その想いは夕暮れの空に溶けて、音もなく消えていった。