夜の寄宿舎は、昼間とは別の顔を見せていた。外にはまだ雨の名残があり、遠く森からフクロウの声がほうほうと響く。

 章吾は、ベッドに寝転がりながら天井をぼんやり見つめていた。隣では、アルジャーノンがデスクで本を読んでいる。

 夜の空気は、いつもよりほんの少しだけ違っていた。

 さっきの、傘の下での距離感。あの、触れたら壊れそうだった沈黙。

(……なんなんだよ、あれ)

 考えたって答えは出ない。章吾はごろりと寝返りを打った。その音に、アルジャーノンがちらりと視線を寄越す。

「……眠れないのか」
「うるせぇ。起きてるだけだ」
「どちらも同じだろう」

 投げ合う言葉は、いつも通り。なのに、不思議と胸の奥がくすぐったかった。

 章吾は、ふと窓の外に目を向けた。星はまだ見えない。
 雨雲は遠ざかりつつあるのに、空はまだ重たかった。

「なあ」

 自然と口を開いていた。

「日本って、こういうとき星が見えるんだよ。晴れたら、な」
「そうか」

 アルジャーノンは本から目を上げなかったが、指先はページをめくるのをやめていた。

 静かな夜。まだ遠い星空。

「……君は、星を見るのが好きなのか」

 アルジャーノンがぽつりと尋ねた。視線は窓の外、晴れない夜空のまま。

 章吾は、毛布を軽く握った。

「別に。好きとか考えたことねぇよ」
「なら、なぜ今、そんな話を?」
「……さあな」

 ぼそりと返し、毛布に顔を半分埋める。本当は、言葉にできなかっただけだった。

 静かな夜空に、隣に誰かがいてくれたらいい。そんな景色を、ただ思い浮かべたかった。

(なに考えてんだ、俺)

 頭を振っても、胸のざわつきは消えなかった。
 アルジャーノンは静かに本を閉じ、椅子に背を預ける。

「私も星を見る習慣はない。……だが、君となら、少しは見てみたいと思った」

 章吾は、思わず喉を鳴らした。

(おまえ……)

 そんな顔で、そんな言葉を言うな。普通、言わねぇだろう。

「恥ずかしいこと、さらっと言うよな」
「事実を述べただけだ」

 アルジャーノンは淡々と答えた。だが、その耳たぶはうっすら赤く染まっていた。

 章吾は小さく笑い、毛布を引き寄せる。

 窓の外に、まだ星はない。でも、胸の奥に小さな光が、そっとまたたいた気がした。誰にも見えない、ふたりだけの夜に。

 ごそごそと毛布を引き寄せた章吾は、それを無言でアルジャーノンに放った。

「……使えよ」

 ぶっきらぼうな声。目も合わせない。
 アルジャーノンは驚いた顔をしながら、毛布を拾い上げた。
 ふわりと漂う、章吾の微かな体温。

「私は、問題ない」
「知ってる。でも、おまえ、前に俺にかけてくれただろ」

 毛布にくるまったまま、章吾はぽつりと続けた。

「……サンキュな」

 その一言に、アルジャーノンの指先がぴくりと震えた。

(……ありがとう、だと?)

 心臓が暴れるように脈打つ。章吾が、素直に礼を言うなんて。

「当然のことだ」

 かすれた声を必死に整える。

「そういうとこ、けっこういいやつだよな、おまえ」
「……黙れ」

 滲んだ照れを、章吾が気づいたかはわからない。ただ、その傍らにいる存在だけが、アルジャーノンの世界を確かに変えつつあった。

(夜は、まだ終わらないでほしい)

 そんな願いを、誰にも知られないように胸に隠した。

 時間は、ゆっくりと流れていった。
 章吾は体を起こし、無意識のうちにアルジャーノンを見た。ちょうどそのとき、アルジャーノンも章吾を見た。

──目が、合った。

「……」

「……」

 どちらも、すぐには目をそらせなかった。まるで、何かを確かめるように。

 胸が、ひどくうるさく鳴った。

 章吾は小さく息を吐き、アルジャーノンも、ほんの少しだけまぶたを伏せた。

 そして、何も言わずに視線を外した。

 ただ、それだけ。だけど──

(……もう、前みたいには戻れねぇな)

 そんなことを思いながら、章吾は再び毛布に顔をうずめた。

 静かに、優しく、夜が更けていった。

 朝、寄宿舎に差し込む光はまだ淡く、窓の外には、ようやく雨上がりの青空がのぞいていた。

「晴れた、か」

 寝ぼけた頭でぼんやりと考える。隣のデスクでは、アルジャーノンが制服を整えていた。

 その仕草を、自然に目で追う。

 昨日までと何も変わらない。……はずなのに、少しだけ変わっていた。

「ぼさっとするな。遅刻するぞ」

「わかってる」

短く返事をして、章吾はベッドを出た。

 朝の喧騒の中に、アルジャーノンの澄んだ声が混ざっていた。それは昨日よりほんの少しだけ、やわらかい音だった。

「……悪くねぇな」

 誰にも聞こえないように、ぼそりと呟いた。