──まだ、好きじゃない。
 でも、もう「どうでもいい相手」には戻れなかった。



 その日の放課後。図書室はしんと静まり返っていた。

 人影はまばらで、窓から差し込む西日が床に淡い縞模様を落としている。

 章吾はソファに身を沈め、本を開いたまま、そっと目を閉じた。

 ふと父の声が頭の奥で響く。

「一流のリーダーには、一流の学び舎を。世界に通じる場所で鍛えてくるように」

 その言葉が、今も心に残っていた。

 昼の講義、慣れない英語、気の張る異国の空気。疲れがピークに達したとき、眠気がそっと忍び込んできた。

 まぶたの裏に、じんわりと温かさがにじむ。
 そのとき──背後に気配を感じた。


 誰かが見ている気がした。
 でも、目は開けなかった。開けたくなかった。

 ぱたん、と本を閉じる音がする。
 静かな音なのに、妙に心の奥まで届いた。

(……あいつ、いるのか)

 さっきまで、口論めいたやりとりをしたばかりだ。それなのに、ここに来て──しかも、自分のほうを見ているなんて。

 なんだか、ひとり腹を立てている自分がばかみたいだった。



 夜。共用ラウンジには紅茶の湯気と、やさしい甘い香りが漂っていた。

 章吾は、何も言わずにマグカップを差し出す。取っ手は、右側に向けて。

「さっき、図書室にいただろ。……これ、いらなかったら、俺が飲む」

 照れ隠しのような声だった。目は合わせられず、手だけが近づいていく。

 カップを受け取ろうとしたアルジャーノンの指先と、自分の指が触れた。

「……っ、わ、悪い……」

 反射的に肩が跳ね、そっぽを向いた。耳のあたりが、じんじんと熱い。こんなの、いつぶりだろう。

「ありがとう、Hiwatari」
「……お、おう」

 思いがけない感謝の言葉に、じんと熱が滲んでいく。こんなふうに、さりげなく距離を詰めてくるから──気づけば、また目で追ってしまっていた。

 消灯前。

「……電気、消していいか?」

「……うん」

 たったそれだけの会話なのに、なぜだか胸が落ち着かない。声が少しだけ掠れていたのを、自分でも自覚していた。

 ぱちん。スイッチの音とともに、世界が闇に沈む。

「……っ」

 思わず、布団の端を握りしめる。

「……君、暗闇が怖いのか?」

 アルジャーノンの声が、驚きもからかいもなく、ただやわらかかった。その声音だけで、少し呼吸が楽になる。

 返事はできなかった。

 やがて、隣のベッドがわずかに軋む。気配が、すぐ近くまで来て──何かが、布団越しに触れた。

 あたたかい手だった。重ねるのではなく、触れているだけの距離。

「大丈夫だ。すぐ隣にいる」

「なんだよ、子ども扱いして……」

 精一杯の反発だったけれど、声は少し震えていた。それでも、手は離れず──ふたりの距離は重なったままだった。

 そのとき、耳元で。

「……かわいい」

 小さな声が、ぽつりと零れた。

「な……っ」

 章吾は思わず布団を頭までかぶった。肩が小さく揺れるが、逃げなかった。

 それだけで、何かが、少しだけ変わった気がした。

 
 ふと、夜中に目が覚めた。喉が渇いて毛布を押しのけ、そっと体を起こす。

 寄宿舎は静まり返っている。床が軋まないように気をつけながらドアへ向かいかけた──そのとき。

 ──視界の端に、月明かりを拾った髪が見えた。

 金糸のような髪。アルジャーノンの寝顔だった。

 眠っているはずなのに、妙に静かで、どこか目が離せなかった。

(……なに見てんだよ、俺)

 視線を逸らそうとして、できなかった。

 そのとき、視界の端で光が反射した。机の上のフォトフレーム。母と並んで写る、幼い自分。

「……ママ」

 思わず漏れた声が、夜の空気に滲んでいった。

 被災した日から、これだけはずっと守ってきた。この写真がなければ、自分の場所がなくなる気がしていた。

(でも今は……)

 視線を戻す。隣には、眠る誰かがいる。その呼吸が、静かに部屋の空気を満たしていた。

(あいつ……なんなんだよ)

 ムカつく。なのに、気づけば思い出してしまう。

 そっとベッドに戻ったとき、気配が変わった気がした。

 ……寝息が、止まった?

 いや、気のせいかもしれない。だけど、あいつが眠ったふりをしていたら──それはそれで、なんだか腹が立つような、妙な気持ちだった。

 ──そして、朝。

 まぶたを開けて最初に感じたのは、違和感だった。

 腹にかかる見覚えのない毛布。
 指先に触れる、あたたかさ。
 耳元で聞こえる、誰かの寝息。

 ……寝息?

 ゆっくりと視線を落とす。そこには、金色の髪。

「……なっ……」

 声が喉で詰まり、瞬時に跳ね起きた。毛布ごと後ろに飛びのいて、頬が熱くなる。

「なんで俺のベッドに……!」

 真っ赤になって叫んだ声に、アルジャーノンも目を開ける。少しだけ伏せた視線の奥、髪をかきあげながら呟くように言った。

「……昨夜、君が眠れないようだったから」
「そ、そんな理由で!」

 反論しようとして、言葉が出ない。むしろ心臓のほうが、うるさくて。

(まさか……ずっと、隣にいてくれたのか)

 布団越しに感じたぬくもり。触れかけた自分の指。

 ふたりの間に落ちた沈黙。それは気まずさではなく、名もない何かのはじまりだった。

 もう、元には戻れない。それだけは、確かに分かっていた。