ルームメイトは貴族様 ー俺たちは雷で結ばれたー

 雷が落ちた瞬間、人生も軌道を外れた。

「大好きだ、アルジャーノン」

 ずぶ濡れの制服。肩に打ちつける雨。
 息がかかる距離で、黙って抱きしめていた。

 頬に触れる髪が冷たくて、それでも温かかった。

 ──それから、物語は遡る。
 すべての始まりだった、あの朝へ。



 ロンドンの街に、冷たい雨が降っていた。

「……最悪。なんで今日なんだよ」

 日渡章吾は、泥の跳ねた革靴にうんざりしながら、キャリーバッグを引く。
 目の前には──石造りの校舎、Elargrave College(エラグレイヴ・カレッジ)。

 完璧に刈り込まれた芝生と、どこか博物館めいた静けさ。

(……こたつとみかんの方が、百万倍ありがたい)

 しかし、父は言った。

「一流のリーダーには、一流の学び舎を」

 こうして章吾は、この全寮制の男子校に、放り込まれたのだった。
 額をぬぐいながら、章吾は深く溜息をつく。

「……日本帰りてぇ」

 その瞬間だった。
 空が、雷鳴で裂けた。

 思わず顔を上げた、その先に──ひとりの少年が、中庭に立っていた。

 金色の髪。濡れたような青い瞳。
 何もかもが現実離れしているのに、視線だけが真っ直ぐだった。

 章吾は、言葉を失っていた。
 彼の唇が、確かに動いた。

「……君は、誰だ」

 声は聞こえない。それでも、わかる気がした。
 章吾は、ふいと視線を逸らし、キャリーバッグの取っ手を握り直す。胸の鼓動がおさまらない。

──たった一度、目が合っただけなのに。
 その一瞬が、目に焼き付いて離れなかった。



 雷は、いつの間にか遠ざかっていた。悪天候にもかかわらず、講堂の中は不自然なほど静かだった。

(……なんだったんだ、あれ)

 泥。雨。雷光。
 金色の髪。青い瞳。
 ──そして、あの視線。

 ほんの数秒の出来事なのに、頭の奥で、何度も繰り返している。

 ふう、と浅く息を吐いて、章吾は椅子に腰を下ろした。
 正面には重厚なパイプオルガン。ステンドグラス越しの雨空が、鈍く滲んで見える。

 壇上では、式典が粛々と進んでいた。
 校長、卒業生代表、理事──よく通る声が、雨音の記憶を上書きしていく。

 ……そして。

 次に舞台に現れたのは──

 あの、雷のなかの少年だった。

 燕尾服に身を包み、静かに立つ。一切の無駄がない、完璧な所作。照明に浮かぶ姿は、まるで絵画のようだった。

「在校生代表、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル」

(……名前、長っ)

 章吾は思わず眉をひそめた。

 アルジャーノンは、壇上から視線を滑らせるように客席を見渡した。その動きは淀みなく、美しく、冷たかった。

 目が合った──ような気がした。
 その一瞬、章吾の背筋に、微かな緊張が走った。

 続いて、式次第は「新入生成績発表」へ。壇上に立った校長が、名を告げる。

「Top of the class──Shogo Hiwatari」
(首席──日渡 章吾)

 講堂に、ざわめきが広がった。

 すぐに気づく。多くの視線が、自分に向いていることに。

「無名のアジア人が首席?」
 目は何も言わないけれど、空気は語っている。

(……ふぅん)

 章吾は無表情のまま、ゆっくりと立ち上がる。そして、壇上を見た。

 あの金髪の少年が、いた。

 それから、目が合った。彼の眉が、ほんのわずかに跳ねる。

──敵意。

(……なるほど)

 章吾は、鼻で笑った。そして、口の端を少しだけ吊り上げる。

 ざわめきも視線も、敵意も。そのすべてが、なぜか心地よかった。

(最悪な始まりも──悪くない。ちょっと、面白い)



 寄宿舎。

 扉を開けるなり、陽気な声が飛んできた。

「チャドリー・モンゴメリー! みんなチャドって呼んでる! よろしくな!」

 言うが早いか、がっしりと肩を抱かれる。

「ようこそ俺のテリトリーへ! ……ってのは冗談だけどさ、まずはハウスルールな!」

 章吾は思わず半歩引いた。けれど、目の前の少年の明るさは、思っていたより悪くなかった。

 手渡されたのは、一枚の紙。手書きでびっしりと書かれた「ゆるすぎるルール」。

「カップラーメンは奪い合い禁止」
「夜中に叫ぶのは週2まで」
 ──ツッコミどころしかない。

(……ま、ちょっとくらいなら。ここで、やってみてもいいかも)

 そう思いながら、個室の扉に手をかけた──その瞬間だった。

 雷が、落ちた。

「……は?」

 破裂音と同時に、空気が弾け飛ぶ。机の上のノートは宙を舞い、コンセントからは火花が散った。

 天井からは、信じがたいほどの雨水。バケツをひっくり返したような音とともに、部屋が水浸しになる。

 完全に、災害区域。

 そこへ、タオル片手にチャドが飛び込んできた。

「おいおいマジかよ! お前、呪われてんのか!?」

 章吾は、ぽたぽたと雫を垂らす髪をかき上げながら、小さく笑った。

「……笑うしかねぇだろ」



 その夜。

 廊下に響く革靴の音とともに、章吾はハウスマスターに呼び出された。

「Hiwatari。君の部屋は当分使えん。よって──」

 重厚な扉の前で、淡々とそう告げられる。扉が開いた先に、立っていたのは──

 燕尾服。金色の髪。
 そして、突き刺すような視線。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。

「……気の毒だが、私の部屋はリゾートホテルではない。首席でも、間違うことがあるのだな」

 完璧な仮面の奥に、確かな敵意がにじんでいる。   
 章吾は肩をすくめ、ふっと笑った。

「光栄だな、ルームメイト。俺から『学ぶ』いいチャンスだ」

 その瞬間、アルジャーノンの眉が、ぴくりと動いた。

「……最悪だ」
「どういたしまして」

 窓の外、再び雷鳴が空を引き裂く。ぶつかる視線。剥き出しのプライド。
 稲光が、ふたりの間に一本の裂け目を走らせる。

 しかし、章吾の胸は思いがけず高鳴っていた。
(……こいつとの喧嘩、楽しいかも)

 嵐よりも危うく、どこまでも惹かれ合う、ふたりのルームシェアが──静かに幕を開けた。
 朝。寄宿舎には目覚ましよりも早く、不機嫌な舌打ちが響いた。

──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルの声だった。

「おい、起きろ」

 肩をぐいと揺さぶられて、章吾は反射的に呟いた。

「……ママぁ……」

 その瞬間、意識が一気に冴える。

「ふむ、Hiwatariはママと同室か」
「ち、ちが……っ!」

 章吾は慌てて布団に潜り込んだ。耳の奥までじんわりと熱くなる。

 ふと、空気が止まった気がした。布団越しに、彼の視線を感じる。

(……見てる?)

 笑ったのか、呆れたのか。──それとも。

「起きろ、Hiwatari。私はママではない」

 その言葉の優しさに、胸がどきりと高鳴った。



 初めての授業。

「先生。そこ、符号が逆です」

 章吾の指摘にざわめく教室。その中で──また、視線。横から、まっすぐに。

(また、こいつ……)

「見んなよ、貴族」

 言いながら、内心はもっと騒がしい。あの目に触れるたび、心の奥がざわっと揺れる。

 アルジャーノンはほんの少し、口元を動かした。あれは──笑った、のか?

 返事はない。視線だけが、妙に胸に残った。理由なんてない。それでも、また──目で探してしまう。



 夕暮れ。中庭を歩いていて、ふと視線を上げた。──校舎の窓辺に、アルジャーノンがいた。そしてその隣には、ひとりの少年。

 ふたりの距離は、近い。

「なぁ、アルジー。まさか本気で彼のこと、気にしてるんじゃないだろうな?」

「はは、レジー。Hiwatariはそんなんじゃないよ」

 声が届いた。

(……俺のこと?)

 足が、止まった。声は軽く笑っていたのに、胸の奥がきゅっと縮まる。

──レジー。アルジー。

 親しげな呼び名が、ひどく遠く感じた。
 その瞬間、アルジャーノンがこちらに目を向けた。そして、遅れて、隣の少年も。

 レジーと呼ばれたその少年は、章吾と目が合うと、にやりと片頬を上げた。

 そのまま、何かを悟ったようにゆっくりと視線を逸らし、アルジャーノンの肩に軽く手を添えて、先に踵を返す。

 アルジャーノンも、それに続くように窓の奥へと消えていった。

(……誰だよ、あいつ)

 胸の奥で、ひとつ音がした。ぱきりと、ヒビが入るような音。

 クラスメイトのエミールが名前を呼んでくれたのに、返事ができない。

 笑うふりはできた。でも、気持ちは笑ってなんかいなかった。

──あんな顔、俺には向けたことなかったくせに。

 あの目、あの笑い声、あの距離。

(……何なんだよ、お前)

 ざわつく心をごまかすように、章吾は足早に歩き出した。あの光景だけが、脳裏にこびりついて離れなかった。



 夜。ペンを走らせながら、ふと顔を上げる。

──向こうのベッドから、アルジャーノンが見ていた。

 目が合って、すぐに逸らされる。

「……なに、見てた?」
「君が先に見ていた」
「は? いや、そっちが先に──」
「証拠は?」

 ムカついて、思わず笑ってしまう。アルジャーノンもふ、と目元を緩めた。

 敵でも、ただのルームメイトでもない──気づけば、あの目を追ってしまう。

(これって──?)

 章吾は、ランプの明かりをそっと落とした。暗闇の中で、鼓動だけが熱を持っていた。
「……なあ、俺のこと、見てるよな?」

 朝の食堂。カップを手にしたまま、章吾がふいに言った。

 アルジャーノンはスプーンをじゃりと鳴らしながら、顔を上げる。

「何の話だ」
「いや、最近……視線、感じるっていうか」
「君の『自意識過剰』ではないか?」
「マジで言ってんの?」
章吾は目を細めて、訝しげに相手を見返す。

「っていうかさ。お前、角砂糖入れすぎだろ」
「……君には関係ない。五個だけだ」
 アルジャーノンは、いかにも当然という口ぶりだった。

「甘すぎんだろそれ」
「甘さは、心の余白だ」
 どこか誇らしげな態度に、章吾は吹き出した。

「君は甘さを避ける。だから、人生もほろ苦い」
「……お貴族さまの人生哲学、ありがたく頂戴しときます」
 そう返しながらも、頬のあたりが自然と緩んでいた。

 ……ただの、くだらない朝の会話。
 なのに、そんなやりとりが少しだけ心地よかった。

 ふと、脳裏をよぎった。

(案外、ルームシェアも悪くないかもな)

 ──だが。日常なんて、いつだって崩れるものだ。




「さて、今日は『貴族制の変遷』について」

 静かに始まった授業で、チョークが黒板を走る。

「British Peerage System」

 白い文字の向こうで、章吾の喉が、かすかに鳴った。

(……嫌なテーマきた)

 ひやりと背筋が凍る。

「日本は、戦後に華族制度が廃止されましたね」

 教授の目が、ふいにこちらを向いた。

「Hiwatari君。君の家は?」

 ……一瞬、空気が止まった。

「元・男爵家のひ孫です」

 そう答えると、何人かがくすっと笑った。冗談めいた空気の中に「棘」があった。

 アルジャーノンが、何かを言いかけた気がした。章吾はそれを断ち切るように、ペンを動かし続けた。

(……こっちじゃ、笑い話なんだよ。いくら日本で『日渡家』が有名でも)

 黒板に並ぶ「Duke」「Earl」「Marquess」。 目の前の貴族たちと、自分との隔たり。それが胸に刺さって、抜けなかった。


 授業後。

 廊下の片隅で、ふいにアルジャーノンが言った。

「……君のことを、家柄で測るつもりはない」
 その声は、穏やかで、あたりまえのように優しかった。

 章吾の肩が、ぴくりと動く。

「そういうとこが、ムカつくんだよ」

 真っ直ぐすぎる目。なんでだろう、それが少しだけ腹立たしかった。

 わかったような顔をするなよ。わかってないくせに。

「お前には、わかんねぇだろ」

 アルジャーノンの瞳が、わずかに揺れた。不意に、胸の奥に沈めていた記憶が顔を出す。


「章吾。おうちのこと、誇っていいのよ」

 ──母の声だった。

 優しくて、やわらかくて。でももう、どこにも届かない声。一度家が壊れたとき、誇りも、安心も、全部なくなった。

 だから今は、自分で守らなきゃいけない。プライドも、居場所も、誰にも任せられない。

「……わかろうとしている。君が思っている以上に」

 アルジャーノンの声が、低く、静かに響いた。

 章吾は机の縁を握りしめた。

「だったら──俺の劣等感、イメージできるのかよ」

 喉の奥がつまって、声が震えた。

 アルジャーノンは、目を伏せて、ぽつりと呟く。

「……わからないことはある。しかし、君を一人にすることはできない」

「……勝手にすれば」

 章吾は立ち上がる。椅子を引く音だけが、教室に残った。
 アルジャーノンはただ、黙ってその背中を見送った。



(感情は、言葉にするものではない)

 アルジャーノンは、そう教えられてきた。喜びも怒りも、愛さえも──静かに、沈黙の中に封じ込めるものだと。

 それなのに、その沈黙は──あまりにも、届かなかった。

(もし、言葉で届くのなら)

 胸の奥で、何かがつかえていた。その先を言葉にしようとするのに、どうしても声にならなかった。

 ふたりのあいだに、また沈黙が落ちる。それは深く、重く、そして、痛かった。

 同時に、その沈黙の向こうにあるものを──もう少しだけ知りたくなっていた。

 なぜなら、あの背中が、どうしようもなく、放っておけなかったからだ。
 ──まだ、好きじゃない。
 でも、もう「どうでもいい相手」には戻れなかった。



 その日の放課後。図書室はしんと静まり返っていた。

 人影はまばらで、窓から差し込む西日が床に淡い縞模様を落としている。

 章吾はソファに身を沈め、本を開いたまま、そっと目を閉じた。

 ふと父の声が頭の奥で響く。

「一流のリーダーには、一流の学び舎を。世界に通じる場所で鍛えてくるように」

 その言葉が、今も心に残っていた。

 昼の講義、慣れない英語、気の張る異国の空気。疲れがピークに達したとき、眠気がそっと忍び込んできた。

 まぶたの裏に、じんわりと温かさがにじむ。
 そのとき──背後に気配を感じた。


 誰かが見ている気がした。
 でも、目は開けなかった。開けたくなかった。

 ぱたん、と本を閉じる音がする。
 静かな音なのに、妙に心の奥まで届いた。

(……あいつ、いるのか)

 さっきまで、口論めいたやりとりをしたばかりだ。それなのに、ここに来て──しかも、自分のほうを見ているなんて。

 浅い眠りのなか、襟元のゆるみや頬の熱を意識してしまう。変に意識してしまう自分が、なんだか悔しかった。



 夜。共用ラウンジには紅茶の湯気と、やさしい甘い香りが漂っていた。

 章吾は、何も言わずにマグカップを差し出す。取っ手は、右側に向けて。

「さっき、図書室にいただろ。……これ、いらなかったら、俺が飲む」

 照れ隠しのような声だった。目は合わせられず、手だけが近づいていく。

 カップを受け取ろうとしたアルジャーノン。その指先と、自分の指がふと触れた。

「……っ、わ、悪い……」

 反射的に肩が跳ね、そっぽを向いた。耳のあたりが、じんじんと熱い。こんなの、いつぶりだろう。

 カップを持ち上げたアルジャーノンの仕草が視界の隅に映る。

「ありがとう、Hiwatari」
「……お、おう」

 思いがけない感謝の言葉に、じんと熱が滲んでいく。こんなふうに、さりげなく距離を詰めてくるから──気づけば、また目で追ってしまっていた。

 消灯前。

「……電気、消していいか?」

「……うん」

 たったそれだけの会話なのに、なぜだか胸が落ち着かない。声が少しだけ掠れていたのを、自分でも自覚していた。

 ぱちん。スイッチの音とともに、世界が闇に沈む。

「……っ」

 思わず、布団の端を握りしめる。

「……君、暗闇が怖いのか?」

 アルジャーノンの声が、驚きもからかいもなく、ただやわらかかった。その声音だけで、少し呼吸が楽になる。

 返事はできなかった。

 やがて、隣のベッドがわずかに軋む。気配が、すぐ近くまで来て──何かが、布団越しに触れた。

 あたたかい手だった。重ねるのではなく、触れているだけの距離。

「大丈夫だ。すぐ隣にいる」

「なんだよ、子ども扱いして……」

 精一杯の反発だったけれど、声は少し震えていた。それでも、手は離れず──ふたりの距離は重なったままだった。

 そのとき、耳元で。

「……かわいい」

 小さな声が、ぽつりと零れた。

「な……っ」

 章吾は思わず布団を頭までかぶった。肩が小さく揺れるが、逃げなかった。

 それだけで、何かが、少しだけ変わった気がした。

 
 ふと、夜中に目が覚めた。喉が渇いて毛布を押しのけ、そっと体を起こす。

 寄宿舎は静まり返っている。床が軋まないように気をつけながらドアへ向かいかけた──そのとき。

 ──視界の端に、月明かりを拾った髪が見えた。

 金糸のような髪。アルジャーノンの寝顔だった。

 眠っているはずなのに、妙に静かで、どこか目が離せなかった。

(……なに見てんだよ、俺)

 視線を逸らそうとして、できなかった。

 そのとき、視界の端で光が反射した。机の上のフォトフレーム。母と並んで写る、幼い自分。

「……ママ」

 思わず漏れた声が、夜の空気に滲んでいった。

 壊れかけた日々のなかで、これだけはずっと守ってきた。この写真がなければ、自分の場所がなくなる気がしていた。

(でも今は……)

 視線を戻す。隣には、眠る誰かがいる。その呼吸が、静かに部屋の空気を満たしていた。

(あいつ……なんなんだよ)

 ムカつく。なのに、気づけば思い出してしまう。

 そっとベッドに戻ったとき、気配が変わった気がした。

 ……寝息が、止まった?

 いや、気のせいかもしれない。だけど、あいつが眠ったふりをしていたら──それはそれで、なんだか腹が立つような、妙な気持ちだった。

 ──そして、朝。

 まぶたを開けて最初に感じたのは、違和感だった。

 腹にかかる見覚えのない毛布。
 指先に触れる、あたたかさ。
 耳元で聞こえる、誰かの寝息。

 ……寝息?

 ゆっくりと視線を落とす。そこには、金色の髪。

「……なっ……」

 声が喉で詰まり、瞬時に跳ね起きた。毛布ごと後ろに飛びのいて、頬が熱くなる。

「なんで俺のベッドに……!」

 真っ赤になって叫んだ声に、アルジャーノンも目を開ける。少しだけ伏せた視線の奥、髪をかきあげながら呟くように言った。

「……昨夜、君が眠れないようだったから」
「そ、そんな理由で……!」

 反論しようとして、言葉が出ない。むしろ心臓のほうが、うるさくて。

(まさか……ずっと、隣にいてくれたのか)

 布団越しに感じたぬくもり。触れかけた自分の指。

 ふたりの間に落ちた沈黙。それは気まずさではなく、名もない何かのはじまりだった。

 朝の光が、金色の髪を照らしていた。

 もう、元には戻れない。それだけは、確かに分かっていた。
 ──その日、空は嘘をついていた。
 降らないふりをして、ふたりを、傘の下へ押し込めるために。

「午後からガーデンパーティ開催だってさ!」
 チャドが、朝食のソーセージをもぐもぐしながら叫んだ。

  「ふーん」と章吾は他人事のように流していると、アルジャーノンが当然のように付け加えた。

「伝統行事だからな。参加は必須だ」

 紅茶の香りがふわりと立った。
 英国の伝統行事。紅茶。古城の庭園。悪くない。
少なくとも、日本では体験できなかった空気が、そこにはある。

「当然だが、君も私と同伴だ」
「は?」
「別々に動いても、我々『ルームシェア中』だろう。目立つからな」
「……めんどくさ」とは言いつつも、章吾は断らなかった。

 結局、今日もまた、「ふたりきり」の時間を過ごすことになる。
 灰色の、重たい雲が空を覆っていた。



 ガーデンパーティが始まったのは、昼を少し過ぎたころだった。

「さっきから、やたら視線感じるんだけど」

 章吾がぼそっと呟いた。アルジャーノンは、腕を組んだまま視線を巡らせる。

「当然だ。我々は異色の組み合わせだからな。君が日本人で、私が王室奨学生。目立つのは仕方がない」
「それにしたって、ジロジロ見すぎだろ……」
「君が不用意に目立つからだ」
「俺のせいかよ」

 そんなくだらない言い合いをしているときだった。

「あの……!」

 背後から、控えめな声が聞こえた。声をかけてきたのは、近隣の女子校の生徒だった。栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女。

「これ、落としました……」

 彼女が差し出したのは、章吾のスケジュール帳だった。どうやらポケットから落ちたららしい。

「あー、サンキュ。助かった」

 受け取って、軽く頭を下げる。少女は、少し顔を赤らめた。

「もしかして、日本人の方ですか?遠い国なのにすごいなあって……」
「え?」

 章吾は素で戸惑った。それを──横で見ていたアルジャーノンは、内心をざわつかせていた。

(……何を、当然のように話しかけている)

 視線が無意識に鋭くなるのを、自分でも止められなかった。
 少女はそれに気づいたのか、きゅっと身をすくめた。

「あ……す、すみません!邪魔してごめんなさい!」

 言うなり、彼女は足早に立ち去っていった。
 取り残された章吾が、苦笑まじりに肩をすくめる。

「なんか、悪いことしたかな」
「……知らん」
 冷たく答えた自分自身に、アルジャーノンは顔をしかめた。

 君は、私の隣にいるべきだ──そんな言葉が、喉の奥まで上ってきた。だが、それを口に出すことは、できなかった。




 ぽつ、ぽつ、と。空から、冷たい粒が落ちてきた。

「……来たな」

 章吾がぼそっと呟く。
 曇っていた空は、ついに限界を迎えたらしい。あっという間に、細かい霧雨が庭全体を包み始めた。

 生徒たちは、ざわめきながらテントや校舎へと走り始める。

 章吾は上着のポケットをまさぐった。が、傘なんて持っていない。

「おい、おまえは?」
「当然だ。英国紳士たるもの、備えは怠らん」

 そう言うと、アルジャーノンは背筋を伸ばして、優雅な仕草で小さめの黒い傘を広げた。

 ぱさり、と開いた傘は、章吾ひとり分の体をぎりぎり覆えるかどうか、というサイズだった。

「……ちっさくね?」
「紳士用は本来これが標準だ。むしろ合理的だろう」
「合理性とかいらねぇから。びっちょびちょだろ」
「文句を言う暇があるなら、早く入れ」

「……はいはい」
 章吾はため息まじりにアルジャーノンの隣に滑り込んだ。当然、距離は近い。

 肩がわずかに触れる。互いの体温が、じわりと傘の内側にこもる。

「近すぎだろ……」
「この傘の半径では、これが最適解だ。文句を言うなら濡れるがいい」
「言い方がムカつくな」
「それは君の心が未熟だからだ」

 そんなやり取りをしていても、章吾はふと、アルジャーノンの横顔に目を奪われていた。

 少し濡れた金髪。まっすぐな鼻筋。光をたたえた青い瞳。

 ……雨のせいだ。こんなに綺麗に見えるのは、たぶん、雨のせいだ。

 自分にそう言い聞かせながら、章吾は視線をそらした。

(これ以上、距離を詰めたら……)

 何か、決定的に変わってしまいそうで。でも、傘の中のこの狭い世界から、出ていく勇気もなかった。

「走るぞ」

 アルジャーノンが短く告げた。

「え、いや、この傘で走るとか無理だろ――」

 章吾の抗議を待たず、アルジャーノンはぐいと腕を引いた。片手で傘を支え、もう片方の手で章吾を引っ張る。雨脚はどんどん強くなり、すでに足元はぬかるんでいる。

「うわっ、すべっ――」

 その瞬間だった。章吾の足元がぬかり、バランスを崩す。倒れる、と思ったとき──

 バランスを崩した章吾の身体が傾く。反射的に伸びた腕が、彼の腰を掴んだ。

 手のひら越しに、湿った制服の下から伝わる熱。それは自分の体温ではない。彼のものだった。

「……大丈夫か」

 耳元に落ちた声は、妙に近くて、妙に熱かった。章吾は、小さく息を呑む。

 すぐに身を引いたつもりだった。なのに傘の下は狭すぎて、肩が離れない。

 目が合う。近すぎる距離。呼吸が、混ざりそうだった。

「……っ」  

 雨の音だけが、ふたりを包み込んでいた。章吾は一歩、後ろへ。
 
 顔を少しでも動かせば、触れてしまいそうだった。

 
「……」

「……」

 言葉は出なかった。代わりに、呼吸だけがやけにうるさく響く。

 アルジャーノンが、肩越しに視線を逸らす。吸い込んだ息が、浅い。
 
 校舎へ向かうあいだ、ふたりはほとんど話さなかった。濡れた芝を踏む足音と、傘の内側で交わる呼吸だけが、静かに続いていた。

 章吾がふと隣を見ると、いつもより少しだけ、気を抜いた顔。

(……やばい)

 こんなに近くて、まだ「ただのルームメイト」でいられるのか。いや──きっと、彼も。

「……すまなかった」

 ふいに、アルジャーノンが低く言った。

「は?」
「君を、無理に引っ張った。軽率だった」

 章吾は肩をすくめる。

「……別に、ケガしてねぇし」
「それでも……傷つけたくはない」

 空気が、変わった。

 章吾は一瞬、言葉を失い、苦し紛れに笑ってみせる。

「……貴族様ってやつは、責任感バカ高ぇな」
「黙れ」

ふたり同時に笑って、また黙った。

 傘の内側は狭い。どこまでが自分の鼓動で、どこまでが相手のものか、もうわからない。

 雨音も、ざわめきも、遠ざかる。

 ──こんな時間が、また来たらいい。きっと隣の彼も、同じことを思っていた。
 ──まさか、こんな夜になるなんて。
 傘の下でも、毛布の中でも、心臓の音はごまかせなかった。

 夜の寄宿舎は、昼間とは別の顔を見せていた。外にはまだ雨の名残があり、遠く森からフクロウの声がほうほうと響く。

 章吾は、ベッドに寝転がりながら天井をぼんやり見つめていた。隣では、アルジャーノンがデスクで本を読んでいる。

 夜の空気は、いつもよりほんの少しだけ違っていた。

 さっきの、傘の下での距離感。あの、触れたら壊れそうだった沈黙。

(……なんなんだよ、あれ)

 考えたって答えは出ない。章吾はごろりと寝返りを打った。その音に、アルジャーノンがちらりと視線を寄越す。

「……眠れないのか」
「うるせぇ。起きてるだけだ」
「どちらも同じだろう」

 投げ合う言葉は、いつも通り。なのに、不思議と胸の奥がくすぐったかった。

 章吾は、ふと窓の外に目を向けた。星はまだ見えない。
 雨雲は遠ざかりつつあるのに、空はまだ重たかった。

「……なあ」

 自然と口を開いていた。

「日本って、こういうとき星が見えるんだよ。晴れたら、な」
「……そうか」

 アルジャーノンは本から目を上げなかったが、指先はページをめくるのをやめていた。

 静かな夜。まだ遠い星空。

「……君は、星を見るのが好きなのか」

 アルジャーノンがぽつりと尋ねた。視線は窓の外、晴れない夜空のまま。

 章吾は、毛布を軽く握った。

「別に。好きとか考えたことねぇよ」
「なら、なぜ今、そんな話を?」
「……さあな」

 ぼそりと返し、毛布に顔を半分埋める。本当は、言葉にできなかっただけだった。

 静かな夜空に、隣に誰かがいてくれたらいい。そんな景色を、ただ思い浮かべたかった。

(……なに考えてんだ、俺)

 頭を振っても、胸のざわつきは消えなかった。
 アルジャーノンは静かに本を閉じ、椅子に背を預ける。

「私も星を見る習慣はない。……だが、君となら、少しは見てみたいと思った」

 章吾は、思わず喉を鳴らした。

(おまえ……)

 そんな顔で、そんな言葉を言うな。普通、言わねぇだろう。

「……恥ずかしいこと、さらっと言うよな」
「事実を述べただけだ」

 アルジャーノンは淡々と答えた。だが、その耳たぶはうっすら赤く染まっていた。

 章吾は小さく笑い、毛布を引き寄せる。

 窓の外に、まだ星はない。でも、胸の奥に小さな光が、そっとまたたいた気がした。誰にも見えない、ふたりだけの夜に。

 ごそごそと毛布を引き寄せた章吾は、それを無言でアルジャーノンに放った。

「……使えよ」

 ぶっきらぼうな声。目も合わせない。
 アルジャーノンは驚いた顔をしながら、毛布を拾い上げた。
 ふわりと漂う、章吾の微かな体温。

「……私は、問題ない」
「知ってる。でも、おまえ、前に俺にかけてくれただろ」

 毛布にくるまったまま、章吾はぽつりと続けた。

「……サンキュな」

 その一言に、アルジャーノンの指先がぴくりと震えた。

(……ありがとう、だと?)

 心臓が暴れるように脈打つ。章吾が、素直に礼を言うなんて。

「……当然のことだ」

 かすれた声を必死に整える。

「そういうとこ、けっこういいやつだよな、おまえ」
「……黙れ」

 滲んだ照れを、章吾が気づいたかはわからない。ただ、その傍らにいる存在だけが、アルジャーノンの世界を確かに変えつつあった。

(……夜は、まだ終わらないでほしい)

 そんな願いを、誰にも知られないように胸に隠した。

 時間は、ゆっくりと流れていった。
 章吾は体を起こし、無意識のうちにアルジャーノンを見た。ちょうどそのとき、アルジャーノンも章吾を見た。

──目が、合った。

「……」

「……」

 どちらも、すぐには目をそらせなかった。まるで、何かを確かめるように。

 胸が、ひどくうるさく鳴った。

 章吾は小さく息を吐き、アルジャーノンも、ほんの少しだけまぶたを伏せた。

 そして、何も言わずに視線を外した。

 ただ、それだけ。だけど──

(……もう、前みたいには戻れねぇな)

 そんなことを思いながら、章吾は再び毛布に顔をうずめた。

 静かに、優しく、夜が更けていった。

 朝、寄宿舎に差し込む光はまだ淡く、窓の外には、ようやく雨上がりの青空がのぞいていた。

「……晴れた、か」

 寝ぼけた頭でぼんやりと考える。隣のデスクでは、アルジャーノンが制服を整えていた。

 その仕草を、自然に目で追う。

 昨日までと何も変わらない。……はずなのに、少しだけ変わっていた。

「ぼさっとするな。遅刻するぞ」

「わかってる」

短く返事をして、章吾はベッドを出た。

 朝の喧騒の中に、アルジャーノンの澄んだ声が混ざっていた。それは昨日よりほんの少しだけ、やわらかい音だった。

「……悪くねぇな」

 誰にも聞こえないように、ぼそりと呟いた。
 昼休みの校庭には、春の日差しがやわらかく降り注いでいた。

 章吾はチャドと並んで、校舎脇のベンチに腰を下ろし、黙々とサンドイッチをかじっていた。

「Hiwatari君」

 背後から名前を呼ばれ、振り返ると、整えすぎた制服を着た少年が立っていた。

 ──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。アルジャーノンの幼馴染だという。

 第一印象は、やけに整っていて、どこか冷たい。涼しい目元の奥に、かすかな棘が光るのを章吾は見逃さなかった。

「よかったら、午後の空き時間、一緒に勉強しない?」
「……は?」

 思わず視線だけで返す。

(なに、こいつ)

 口調は柔らかいくせに、妙に圧がある。誘いの裏に、何か含まれている。

 ふと目をやると、校庭の向こう、ベンチで本を読んでいる金髪が視界に入った。
 ──アルジャーノンだ。

「悪い。用事ある」

 サンドイッチの包み紙をくしゃっと握りしめて、立ち上がる。そのとき、レジナルドがぽつりと呟いた。

「君には、似合わないと思うけどね」

 視線は、まっすぐアルジャーノンに向けられていた。
 章吾は言葉を返さず、そのまま歩き出す。だけど、胸の奥に、ひとつだけ残っている想い。

(あいつの隣に、行きたい)

 そう、それだけだった。



 中庭のベンチには、まだアルジャーノンがいた。本を読みながら、章吾のほうをちらりと見たように思えたけれど、確信はない。

 まっすぐ視線を向けることができず、章吾は一度だけ深呼吸した。

「……隣、いいか?」
「好きにしろ」

 ぶっきらぼうな返事。いつもと変わらないはずなのに、どこか棘があった。

 章吾は黙って腰を下ろした。拳ひとつぶんの距離が、今日は妙に遠く感じられる。

 沈黙のまま、数秒が過ぎた。やがて、アルジャーノンが本のページを閉じ、低く問いかけた。

「──レジナルドと、何を話していた?」

 章吾は一瞬、返事に詰まった。

「勉強に誘われた。試験前だし、手伝ってやるってさ」
「そうか」

 それきり、アルジャーノンは沈黙した。その指先がわずかに本の表紙を撫でる仕草が、どこかぎこちなく見えた。

 章吾は、少し躊躇ってから口を開いた。

「おまえと、あいつって仲いいんだろ?」
「……ああ」

 アルジャーノンは、ためらわずに答えた。その声は、いつもよりわずかに低かった。

「家族ぐるみの付き合いだ。幼い頃から、特別な存在だった」

 言葉は整っているが、顔はこわばっていた。

 本を握る手が、ほんの少し強くなる。章吾は、その横顔をまっすぐ見ることができなかった。

(……特別、か)

 胸のどこかが、きゅっと締めつけられるようだった。

「おまえ、機嫌悪い?」

「そんなことはない」

 返ってきたのは即答だったが、言葉の端がやけに尖っていた。

 章吾は眉をひそめた。朝までは、もっと自然に話せていたのに。

「……なら、いいけど」

 それ以上、踏み込めなかった。拳を握ったまま、ただ隣にいることしかできない。

 横目でそっと見ると、案の定、目が合った。深い青。アルジャーノンの瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。

「……っ」

 慌てて視線を逸らす。
 あの目は、何を見ていたんだろう。



 放課後。古びた渡り廊下を歩きながら、章吾は首をひねる。

(……あれ、スケジュール帳、どこやったっけ)

 教室に置いたか、それとも昼のベンチか──そんなことを考えていたところで、背後から声がかかった。

「Hiwatari」

 振り返ると、制服姿のアルジャーノンが立っていた。手には、探していたあのスケジュール帳。

「……君のものか?」

「あ、悪い。気づかなかった」

 受け取った瞬間、指先に触れた水気に気づいた。彼の手が濡れている。

(……俺のこと、探してくれたのか)

 思わず胸が熱くなる。不機嫌なんかじゃなかった。あいつは、ずっと、変わらずそこにいたんだ。

「……サンキュ」

 ぽつりと漏らした声に、アルジャーノンがほんの少しだけ目を細めたように見えた。

「礼には及ばない」

 短い沈黙が落ちる。

 ──そして、

「……君が隣にいないと、多少、調子が狂うな」

 一瞬、章吾の呼吸が止まった。何も言えずにいると、アルジャーノンがふっと口元をゆるめた。

「気にするな。貴族のくせに、私は精神が脆弱なのだ」
「……は?」

 思わず吹き出しそうになりながら、肩を軽く小突く。

「おまえ、ほんとめんどくせぇな」
「自覚している」

 どちらも目を合わせなかったけれど、少しだけ笑っていた。
 ふたりの距離は、またひとつ近づいていた。
 寄宿舎の石畳を、春の風がそっとすり抜けていく。
 放課後のラウンジには、紅茶の香りが漂っていた。

 章吾はカップ片手にソファへ沈み込み、隣ではアルジャーノンが本を読んでいる。いつもの距離、いつもの空気。

 ──たった一言で、ぐちゃぐちゃにされるとも知らずに。

「なあなあ!」

 スコーンと紅茶を両手に抱えたチャドが、能天気に駆け寄ってきた。

「Shogo、アルジー! おまえらさあ──」
「……何だ、アメリカ人」
「うるさい、要件だけ言え」

 ふたりの冷ややかな応対にも、チャドは悪びれず笑った。

「おまえら、一緒にいすぎじゃね?」
「「は?」」

 声が見事に重なり、章吾はカップを傾けかけ、アルジャーノンも本をぱたりと閉じた。

「え?違うか?」
 チャドは笑いながら続けた。

「「ちがう!!」」

 即座に声を揃えて否定したラウンジには、微妙な沈黙が落ちた。

 章吾は顔が熱くなるのを感じ、アルジャーノンも微妙に耳が赤い。どう取り繕うかもわからず、ふたりはひたすら紅茶をすする。チャドはお構いなしにスコーンを頬張りながら、にやにやと眺めていた。

 たったそれだけのこと。それだけなのに、胸の奥はぎゅっと締めつけられていた。



 朝。リッチモンドハウスの寄宿舎は、まだ薄暗い。
 章吾は毛布にくるまったまま、ぼんやりと目を開けた。

 デスクの前には、制服に袖を通したアルジャーノン。鏡の前できっちりとネクタイを締めている。──いつも通りのはず、なのに。

(……顔、合わせんの、気まずい)

 胸の奥に、妙なざわめきが残っていた。

(……ぜってー今日も、茶化される)

 そう思うと、布団の中がやけに安全に思えた。しかし、いつまでも逃げていられない。

 章吾は、ごそごそと毛布から這い出る。

「……おはよう」

「おはよう」

 また、同時だった。気まずさが音を立てるような間が流れ、ふたりは同時に視線を逸らした。

「……今日、講義サボりてぇ」

 ぽつりと漏れた本音。言い訳がましくない、それだけの気持ち。

「……私も、あまり行きたくはない」

 アルジャーノンの声もまた、小さく、低かった。

 ふたりして顔を合わせず、ぼそぼそと交わすやりとり。

 心臓は馬鹿みたいにうるさくて、息をするたび胸がきしんだ。

 沈黙のなか、アルジャーノンがそっと章吾の毛布を拾い上げる。丁寧にたたんで、ベッドの端に置いた。

「……行くぞ」
「……ああ」

 笑われるのは怖いが、ひとりでいることのほうが、ずっと怖かった。

 触れられない距離。でも、すぐ隣にいる。──それだけで、今日は少し前を向けそうだった。



 昼休みの校庭。チャドは相変わらず元気だった。

「なあなあ、放課後、みんなで街に出ね?」

 章吾は生返事で聞き流す。隣では、アルジャーノンが静かに本を読んでいた。

 そしてまた、唐突にチャドが爆弾を投げた。

「なあ! お前ら、本当に『なんでもない』のか?」

「……」

「……」

 空気が凍った。チャドはお構いなしに続ける。

「どう考えても、お似合いな気がするんだよな~」

 言葉を失うふたり。その静寂を破ったのは、アルジャーノンだった。彼は静かに本を閉じ、顔を上げずに言った。

「お似合い……?」
 わずかに間を置いて、彼は低く呟いた。

「我々の関係は──ただのルームメイトだ」

 淡々とした口調。チャドは「マジで?」ときょとんとする。

 章吾は、ぐっと唇を噛み締めた。否定しなきゃと思った。笑い飛ばさなきゃと思った。なのに、胸の奥に、鋭い痛みが走った。

(あいつは、男だぞ)

(俺は、女が好きなはずだろ)

(……普通に考えろ、俺)

 一方、アルジャーノンも、胸の奥に言葉にならない震えを覚えていた。

(私は、フォーセット家を継ぐ者だ)

(妻を娶り、子をなすべき立場だ)

(それ以外など、許されるはずがない)

 なぜ、視線を逸らせない。なぜ、こんなにも胸が苦しい。

 チャドはというと、無邪気にスコーンを頬張っめいる。まるで、すべてが冗談でできているみたいに。

 チャドは知らない。ふたりの痛みと、その動揺を。
 夜、寄宿舎。

 章吾はベッドに寝転び、天井を睨んでいた。

 毛布をかぶっても、閉じた瞼の裏にまで、昼間の光景が焼きついて離れない。

 ──お似合い……?
 ──我々の関係は──ただのルームメイトだ。

 アルジャーノンの、あの冷静な台詞。

(……俺も同意すればよかった)

(なのに)

 あの声が、あの視線が、脳裏に焼きついて、離れない。

 なんなんだよ、これ。小さく寝返りを打つ。

 隣のデスクに目を向ける。すると、薄暗いスタンドライトの下、本を読むアルジャーノンの姿があった。

 顔を上げた、その瞬間──目が、合った。

(……)

(……)

 ふたりとも、声を出せなかった。……だが、先に目をそらしたのは、アルジャーノンだった。



 夜半。

 寄宿舎には、静寂が満ちていた。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、デスクに肘をついたまま、目を閉じていた。

(眠れない)

 こんなことは、珍しかった。秩序を重んじる自分が、感情に振り回されるなど、本来あり得ないはずだった。

 それなのに──あの視線。あの沈黙。たったそれだけで、胸の奥にどうしようもない波紋が広がる。

 ベッドを見やると、章吾は毛布に顔をうずめたまま、静かに寝息を立てていた。

 小柄な体。硬さを隠した寝顔。
 どうして、こんなにも愛おしいと思ってしまうのか。

(……馬鹿げている)

 私は、妻を娶り、家を継ぐ身だ。誰かに感情を預けるなど。ましてや、男に──あり得るはずがない。

 アルジャーノンは、きつく目を閉じた。

 だが、なぜだ。
 胸の奥から湧き上がる、たったひとつの願い。
 ──守りたい。

 理由などいらない。立場も、未来も、すべてを横に置いて。ただ、この存在を、守りたいと。
 そんな自分が、ひどく怖かった。

(私は、どうかしている)

 静かな夜のなかで、アルジャーノンは、ひとり、自分自身に抗い続けた。



 夜明け前。
 章吾は、浅い眠りの中でふと目を覚ました。

 部屋の空気はひんやりとして、窓の外にはまだ闇が残っている。

 寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。

(……なんだ)

 あたたかいものが、すぐそばにある気がした。

 目を凝らす。

 暗闇の中──アルジャーノンが、自分のベッドのほうへ歩み寄っていた。

 章吾は、声を出せなかった。出したくなかった。胸の奥が、きゅうっと鳴った。

(……なんで)

 そこにいるだけで、こんなにも安心するんだろう。
 何も言わない。何もしていない。ただ、そばにいるだけ。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。

(バカか、俺)

 毛布を引き寄せて、顔を隠す。

 眠ったふりをする。起きていることが、知られたくなかった。だって、目が合ったら、あふれてしまうから。

 静かな夜。小さな、あたたかい距離。
 
 章吾は、目を閉じながら、心の中で呟いた。

(……ずっと、こうしていられたらいいのに)



 朝。

 窓の外は、うっすら霧が立ち込めていた。
 
 章吾は、毛布にくるまったまま、ゆっくりと目を開けた。

 デスクの前。アルジャーノンが、いつも通り制服を整えている。

 ネクタイを締める手。
 カフスボタンを留める仕草。すべてが整然としていた。──なのに。

(ぜんっぜん、ふつうじゃねぇ)

 夜中、あいつが傍にいたことを、章吾は知っている。

 アルジャーノンは、知らないふりをしている。
 章吾も、知らないふりをするしかなかった。

「……おはよう」
「……ああ」

 短いやりとり。冷たくも、親密でもない距離。目が合った瞬間、お互い、わずかに息を呑んだ。

(バカみてぇ)

 章吾は、わざとぶっきらぼうに続けた。

「……今日、天気悪そうだな」
「霧が出ている。だが、すぐに晴れるだろう」
「ふーん」

 何でもない言葉を交わす。何も変わっていないふりをする。

本当は、言葉の隙間から、すぐに心が覗きそうだった。



 夕方。

 寄宿舎への帰り道。ふたりは、肩を並べて歩いていた。
 寮へ続く石畳の小道。冷たい風に、制服の裾がはためく。

 会話はなかった。それでも、不自然な沈黙ではなかった。

 ただ隣にいる。それだけで、十分だと──思いたかった。

(でも……触れたい)

 歩幅を合わせながら、そんな衝動が胸をかすめた。

 肩に、指先に、どこでもいい。ほんの少しだけでいい。確かめたかった。

(でも、ダメだ)

(あいつは、男だ)

(それに──)
 
 ちらりと視線を向ける。アルジャーノンは、前を向いたまま歩いていた。凛として、孤独で、美しく。

 いつもの姿。──のはずだった。

 ふと、スカーフが肩から滑りかけるのに気づく。

 章吾は、思わず手を伸ばしかけて──ぐっと、こらえた。

(……だめだ)

(これ以上、近づいたら)

 自分が、どうなるかわからなかった。
 章吾は、拳をぎゅっと握りしめる。

 同じように、アルジャーノンもまた、ポケットの中で指先を固く絡めた。

 ふたりは、並んで歩いた。触れずに。声もかけずに。

 心だけは、必死で叫んでいた。

 君に、触れたい。

 その想いは夕暮れの空に溶けて、音もなく消えていった。