放課後、寄宿舎の裏庭。いつもは静かなこの場所に、今日は妙な熱気が漂っていた。

 向かい合うのは、章吾とレジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 普段はろくに話しもしないふたりが、今、まるで一触即発の空気をまとって立っていた。

「……で?」
 壁にもたれながら章吾は睨みつける。

 レジナルドは珍しく真剣な顔だった。
「アルジャーノンの縁談の件、知っているよね」

「まあな」
 冷たく返したが、心の奥はざわついていた。

 レジナルドはゆっくり手を組み、
「私は、彼が不幸になるのを見たくない」と言った。

「君も、同じでしょ?」

 一瞬、答えに詰まった。でも、嘘はつけなかった。
「……ああ」

 かすれた声で応じると、レジナルドはふっと微笑んだ。どこか諦めを孕んだ笑みだった。

「なら、共闘しようよ」
「は?」
 思わず聞き返す。

「君も私も、立場は違えど想いは同じ。彼を守りたい。なら、手を組むべきだよ」
 ビジネスの交渉みたいな口調に、章吾は苦笑したくなった。だが、この提案だけは無視できなかった。

 静かに頷く。
「……わかった。共闘、してやるよ」

 レジナルドは心底嬉しそうに笑った。
「決まりだ、Hiwatari君」

 風が吹き抜け、新しい戦いの幕が静かに上がった。



 寄宿舎の談話室。夕暮れの光が古びた机に斜めに落ちている。

 章吾はノートパソコンを開き、隣には腕を組んだレジナルド。緊張気味の彼を横目に、章吾は涼しい顔で黙々とキーを叩いた。

 画面には、令嬢のSNSアカウント。レジナルドが見つけたものだった。

 パーティー写真のバックに映る金色のモザイク壁画を見つけた章吾は、すぐに画像検索にかける。
 数秒後、高級クラブ『The Golden Ivy』──ロンドン中心部、未成年立ち入り禁止エリアがヒットする。

「……ここだな」
 低く呟き、投稿時間に目を走らせる。夜の2時過ぎ。明らかに未成年がいる時間ではない。

「まずいな、これは」
 レジナルドがぽつりと言った。

 さらに章吾は、写真に映る男のタトゥーに目を留めた。この模様、どこかで──。

「『ダンディ・ライオンズFC』の選手?いや、まて──」
 章吾は顎に手を置いて、考え込んだ。
「まさか……いや違うか……」

「ちょっと待って。この画像、反転してる」
 レジナルドが、気づく。

「そうか。もう1回、画像検索だ」

 章吾は、伏し目がちに画面を見つめた。

 結果──その模様は、選手の熱狂的なサポーター、ロックバンドのボーカル「Tomy」のものだった。

 絶句するレジナルドをよそに、章吾は画面を閉じた。

「証拠は揃った。この女、アルジャーノンにはふさわしくねぇ」
 冷たく言い放つと、レジナルドは血の気の引いた顔で呟いた。
「……君、思ったより恐ろしいね」

 章吾は肩をすくめた。
「別に……必要だったから、やっただけだ」
 口にした瞬間、自分がひどく薄汚れているような気がした。

 ──お前を、こんな奴になんか、渡すもんか。



 夕暮れの寄宿舎、談話室の隅。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、椅子に座っていた。

 目の前には、章吾とレジナルドが並び立ち、無言でタブレットを差し出す。

 画面に映る、令嬢の素行を示す決定的な証拠。アルジャーノンは、眉ひとつ動かさず、静かに画面を閉じた。

「……私の家に、泥を塗ったつもりか?」
 静かな、冷えた声。

 章吾は一瞬目を伏せた。
 ──今、言わなきゃ。あいつは、あの女と一生……

 しかし、喉が絞まるようで、声が出ない。それを見たレジナルドは、不適な笑みを浮かべた。

「章吾が見つけたんだ。僕は、少し心配だっただけ」
 レジナルドの声は滑らかだったが、手が震えている。

(こいつ……!)
 章吾の額に、一筋の汗がつたった。

 蒼い目が、章吾を捉える。
 重い沈黙。時計の針の音だけが、響いていた。

 それから、彼は何も言わず──ふたりを残して去っていった。



 レジナルドは、その場にへたり込んで、肩を震わせた。

「……アルジー、怒ってた。どうしよう」
「お前、なぁ……」
「……嫌われた、もう生きていけない、僕の全て……僕の初恋」

 独り言のように繰り返すレジナルド。章吾の声はまるで聴こえていないようだった。

(……嫌われた、か)

 章吾の手足は、芯から冷たくなっていく。

 こんなこと、自分だってしたくなかった。だけど、こうするしか、なかったんだ。

 自分のなかに、黒い霧が立ち込めていた。



 その日の夜。

 章吾の部屋に、ノックの音が響く。

 あいつだ。章吾の心は知っていた。 

 心臓の鼓動が早くなる。

(……あいつは、俺に何て言うかな)

 汗ばんだ手で、慎重にドアを開く。

 ──そこには、アルジャーノンが立っていた。

「Hiwatari」
「……レジナルドに頼まれて、あんな事をしたのだろう」
 瞬間、章吾は目を見開いた。

(俺のことを、信じている)

 胸が熱い。苦しい。

「レジナルドは、そういう奴だと知っている。でも、なぜだ。なぜ、君は力を貸した」
 アルジャーノンの声には、怒りよりも、困惑の色が滲んでいた。
 
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」
 かすれた声で、絞り出すように言った。

「Hiwatari、それはどういう──」
 言葉を遮るように、章吾は力任せにドアを閉める。冷たい隙間風が、ふたりの背中をなぞった。


 小刻みに揺れるドアの前、アルジャーノンは、立ち尽くしていた。

 音を失った世界の中。アルジャーノンは思う。

 まさか。あれは──好きだと、そういう意味だったのか。

 頬がかっと熱くなった。馬鹿な。ありえない。ありえないはずなのに、止まらない。

 ぐしゃぐしゃに顔を歪め、椅子の背もたれを握りしめた。

(Hiwatari──君はこの扉の向こうで、一体何を考えている。私は、どうしたらいい)

 答えは、どこにもなかった。





 深夜、寄宿舎の個室。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、ベッドの上で天井を見つめたまま、身動きもせずにいた。

 胸の奥だけが、どうしようもなく、うるさかった。

(Hiwatari)

 あのときの声が耳にこびりついて離れない。

『お前に結婚なんてしてほしくない』

 たったそれだけなのに、どうしてこんなにも。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。息ができない。気づけば唇が勝手に動いていた。

 かすれた声で、
「Shogo……」

 呼んでしまった。

 瞬間、全身に信じられないほどの熱が広がった。
跳ね起き、毛布を蹴散らし、頬まで真っ赤になっているのがわかる。

「……な、なにを。私はいったい──」
 もだえるように枕を抱きしめる。胸の中では、名前だけが、何度も何度もこだました。

 Shogo──

(……馬鹿だ。私は、もう……取り返しがつかない)
(父に知られたら──否、知れても構わない。私の想いは、もう……)

 震える手で毛布をぎゅっと掴む。

 夜の静けさの中、ただひとり、アルジャーノンは自分の鼓動に翻弄され続けていた。