アルジャーノンが父の部屋に呼ばれたのは、授業が終わった直後のことだった。
寄宿舎から少し離れた、古い煉瓦造りの建物──学院内でも限られた者しか出入りを許されない貴族専用の応接室。
その重厚な扉の前に立つと、アルジャーノンは一度だけ深く息を吐き、何の躊躇もなく扉を押した。
中には、すでに父がいた。変わらぬ姿勢で椅子に座り、ティーカップを手にしている。その仕草一つひとつが、完璧に訓練された振る舞いで、まるで彫像のようだった。
「……来たか」
それだけの声に、アルジャーノンは黙って一礼した。
対面に腰を下ろすと、すぐに銀のトレイが運ばれた。用意された紅茶は、父の好む銘柄──濃く、苦味のあるもの。彼の席にも同じものが注がれる。
「どうだ、ひとりの部屋の使い心地は」
静かな問いだが、そこに込められた意図は明白だった。
アルジャーノンは表情を変えず、紅茶に口をつける。
「とても快適です」
「そうか。それなら何よりだ」
薄く笑った父の目には、決して情が差さない。
しばらくの沈黙が落ちた。カップを置く音だけが、空間に小さく響く。
「……あの少年、Hiwatariというのだったか」
突然、名指しされたその名前に、アルジャーノンの手が止まった。
「彼と共に過ごしていたようだな。まあ、事情は聞いている。雷で部屋が使えなかったとか」
「一時的な措置です」
「その一時が、想像以上に長く続いたように見えたが」
淡々とした口調のなかに、揺るがぬ圧があった。
アルジャーノンは黙っていた。反論はしない。だが、肯定もしない。
カップの中の紅茶は、冷め始めていた。
「君は、忘れてはならない。何者であるかを」
父の声は、冷たい水面に石を落としたように静かで、それでいて深く響いた。
「フォーセット家の嫡子としての自覚を持ちなさい。誰と時を過ごすか、それは君自身の趣味の問題ではない。『血筋』は、交わる相手によって試されるのだ」
その言葉は、アルジャーノンの胸に刺さった。
「……彼は、私に影響を与えるほどの存在ではありません」
「ならば、なぜ沈黙した」
父の目が、わずかに細められた。
鋭利な問いだった。感情の綻びを見逃さぬ目。
彼の父、ロデリック・フォーセット卿は、言葉の裏に潜む空白に敏感な男だった。
「……」
アルジャーノンは答えなかった。答えられなかった、のかもしれない。
たしかに章吾は、ただのルームメイトだった。
だが、自分の中で何かが変わりはじめていたのは、否定できなかった。
紅茶の香りに紛れて、小さな声が聞こえるようだった。
──「目ぇ合ってんだよ、貴族」
そんなことを言われた日のことが、ふと脳裏に蘇る。
「感情は、力を曇らせる」
父の声が、静かにかぶさった。
「君は、孤高でなくてはならない。誰にも染まることなく、家名の誇りと共に生きる。それが、君の役目だ」
それは命令ではなく、当然のこととして語られた。
「……わかりました」
アルジャーノンは、小さく返事をした。答えはそれしかなかった。少なくとも、今この場では。
父は満足そうに頷くと、再びティーカップに口をつけた。その姿は、揺るがぬ格式そのものだった。
そして、冷え切った自分のカップを見つめながら、アルジャーノンは静かに思った。
──この紅茶は、もう、何の味もしない。
アルジャーノンが父の部屋をあとにし、応接室を出てすぐのことだった。
中庭を横切ろうとしたとき、見慣れた姿が目に入る。 石畳の縁に腰かけ、本を開いていたのは──レジナルドだった。
「……何をしている」
声をかけると、レジナルドは軽く顔を上げた。 その表情に驚きも気負いもない。
「アルジー、君を待っていた」
まるで当然のように言って、ページを閉じる。
「父上に呼ばれたのだろう?」
アルジャーノンは答えずに隣に腰を下ろした。コートの裾がかすかに触れる。
「おまえは、私の監視役か?」
「違うよ。──君は、言葉を交わさなくても、見ていれば分かる」
ふ、とアルジャーノンの肩から力が抜ける。 章吾といるときとは違う、どこか緊張のとけた吐息。
「……ああ、昔はこれが普通だったな」
ふっと遠くを見たその横顔に、どこか懐かしさが滲んでいた。
レジナルドは黙ったまま、カバンから小さな缶を取り出す。 中には紅茶のティーバッグがひとつ。
「飲む? 僕の持ち込みだ」
「……こんなところで。品がない」
「君が好きな、甘い香りのやつだよ」
受け取った缶の蓋を開ける。 どこか、章吾が淹れていたものと似た匂いがした。
アルジャーノンは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「……レジー、君は私にやけに執着するが」
言いかけて、口をつぐむ。
レジナルドはティーバッグをゆらしながら、穏やかに言った。
「君の笑顔が、好きだからだよ。できれば、ずっと笑っていてほしい」
その言葉は、まるで陽だまりのようだった。
「……私は、笑ってなどいない」
「そうだね。でも、笑える君を、僕は知っている」
静かな声だった。押しつけでもなければ、期待でもない。ずっと見てきたからこそ出た、確信のような優しさ。
アルジャーノンは、無言のまま湯気の立つカップを見つめた。
(……ああ、こいつは、昔からこうだった)
必要なことだけを見抜き、余計なことは言わずに隣にいる。
「レジー。君が、心を明かせる友人であることに変わりはない」
ようやく言葉にして返すと、レジナルドは目を細めた。嬉しさを表すにはあまりにささやかだったが、それで十分だった。
その沈黙の優しさが、今のアルジャーノンには、ひどく心に沁みた。
──章吾といるときは、言葉を選ぶのにあれほど気を遣うのに。
(……これが、本来の私だ)
無理をしない会話。構えなくていい間。緊張も張り合いもない穏やかさ。
──しかし、なぜだろう。あの騒がしさが、少しだけ恋しかった。
ティーバッグから漂う甘い香りの向こう、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
振り返っても、誰の姿もなかった。
ひとりきりの部屋には、沈黙しかなかった。
章吾はベッドに仰向けに寝転がり、無造作に蹴った毛布が床に落ちるのも気にせず、天井を見つめていた。
この部屋は、完璧に修繕された。天井のひび割れも、雨染みも、すべて跡形もない。新品のように磨かれた空間。
なのに、何ひとつ心は整っていない。
夜になると眠れない。朝が来ても、起きたくない。
誰かと笑っていても、その空白は消えない。
(……もういいって、思ってたはずなのに)
耳を塞ぐように横を向くと、視界の端に、あのティーカップが見えた。
いつだったか、アルジャーノンが自分の手元に無言で置いたもの。中身の紅茶はもう乾いて、縁には薄く茶渋が残っている。
思わず手を伸ばしそうになって、止めた。
もう、意味はない。ただの器に、想い出をなすりつけてるだけだ。
章吾は立ち上がった。何も考えたくなくて、とにかく外に出たくて、廊下を無目的に歩いた。
風が吹き抜ける中庭に出ると、正門のほうから誰かの声が聞こえた。
その中に、聞き覚えのある名があった。
「──ロデリック卿は、寄付の名目で工事に圧力をかけたのさ。あの修繕も、早まったのは彼の……」
章吾はそのまま立ち止まった。
木陰のベンチ。そこにいたのは、レジナルドとアルジャーノンだった。
「ロデリック卿は、この学院にとって特別な存在だ。誰も逆らえないし、誰も本音では抗えない。君も、それを一番わかっているだろう?」
レジナルドの声はいつものように落ち着いていたが、どこか慎重だった。言葉を選ぶような間。
「……修繕は、ただの偶然だと思っていた」
アルジャーノンの声は、低く、やや掠れていた。その声音に、章吾の心臓はどくんと打った。
「偶然じゃない。父上は寄付というかたちで明確に動いていたよ。君がHiwatari君と同室であることを不本意としていたらしい」
章吾は呼吸を忘れた。
(……俺の部屋が直ったのは、アイツの父親の金と意向で?)
そう思った瞬間、足元がすっと冷えていく。
つまり──あの別れは、「自然に終わった」のではなく、「終わらせられた」ものだったのだ。
アルジャーノンが何かを言いかけた瞬間、彼の身体がわずかによろめいた。
力が抜けたように片膝を折りかけたそのとき、レジナルドが素早く手を伸ばし、肩を支えた。
「……大丈夫かい?」
「平気だ。すまない」
小さな声で返すアルジャーノンの顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。同時に──その横顔には、ほんの一瞬、安堵も滲んでいた。
レジナルドの手が肩にあるまま、彼はふっと目を閉じた。まるで、いまだけは息をつける場所を得たかのように。
章吾は、それを見ていた。
木陰のベンチ、寄り添うようなふたりの姿──そこに自分の居場所がないことを、あまりにも明確に突きつけられた気がした。
唇の裏を噛んだ。熱い感情が、喉の奥を焼いた。
(なんだよ、それ)
章吾は木陰の陰に身を潜めたまま、じっとふたりを見ていた。
アルジャーノンの肩に手を添えるレジナルド。何も言わずにその手に寄りかかるようなアルジャーノン。
姿勢を正したあとも、彼は顔を上げられずにいた。その横顔が、珍しく不安げだったことが、逆に章吾の胸に刺さった。
(だったら、最初から……)
心の中で言葉が膨らんでいく。
(だったら俺なんか、初めからいなくてもよかったじゃんか)
同じ傘の下で肩を並べた、雨の日も。
ともに星空を見上げた、あの夜も。
──全部、ただの「悪い夢」だったんだろう?
所詮、貴族の世界の人間で。俺なんか、あの父親のひと声で、簡単に外に放り出せる部外者。
熱くて、苦くいものが喉元までせりあがってきた。
章吾は、その場から静かに立ち去った。気配を悟られないように。音を立てないように。
風の吹く中庭の石畳を踏みしめながら、どこへ向かうのかも分からず歩いた。
誰とも会いたくなかった。誰の声も聞きたくなかった。
──あいつの姿を、今はもう見たくなかった。
胸がぎゅっと苦しくて、何もかもがうるさく感じた。
「……くそ」
つぶやいた声が、自分でも驚くほど荒かった。
その日の夕方、章吾は談話室の隅の席にひとり座っていた。
机の上に開いたノートは白紙のまま。書く気も、読む気も起きなかった。
窓の外では、風に吹かれて木々の葉が揺れていた。ガラス越しの景色は静かで、何も語らなかった。
「Hiwatari」
背後からかけられた声に、章吾は反射的に振り向いた。
そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。夕暮れの光が差し込んで、彼の金髪をぼんやりと縁取っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
「……なに」
返した声は、意識せずに冷たくなった。
アルジャーノンはひと呼吸置いて、近づいてきた。
「さっき……中庭にいただろう」
章吾の背中がこわばった。
「……見てたのか」
「偶然だ」
短い返事。それ以上、何を言うでもなく立ち尽くすアルジャーノン。
その沈黙が、いつもより重たかった。
章吾はノートを閉じ、立ち上がった。
「気にすんなよ。お前には、ちゃんと支えてくれるやつがいるみたいだし」
「……何の話だ」
「別に。たいしたことじゃねえよ」
そう言い捨てて、章吾はすれ違いざまにアルジャーノンの肩をかすめた。
章吾は振り返らずに、そのまま廊下へ消えた。廊下に出ると、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。
章吾は、ひとりで歩いていた。
(支えてくれるやつがいるなら、それでいいじゃん)
何度も心の中で繰り返した。その言葉は呪いのように、自分の心をさらに締めつけていく。
アルジャーノンがレジナルドに支えられる姿。よろめいて、寄りかかって、それを当然のように受け止める彼。
あのとき、自分じゃない誰かが彼のそばにいた。
──それだけのことで、こんなにも胸が痛むなんて、知らなかった。
「バカみたいだな……俺」
独り言が、薄暗い廊下に滲んでいった。
いつからだろう。あいつの仕草や声が、少しずつ胸の中に入り込んでいて、気づけばそこがぽっかり空いてしまっていた。
「……別に、期待なんかしてなかったのに」
ぼそりと呟いた声は、自分に向けたものだった。
遠く、時計塔の鐘が鳴った。午後七時。夜の始まりを告げる音。
章吾は立ち止まり、顔を上げた。前を見ても、誰もいない廊下。でも、どこかであいつも、同じように立ち止まっているような気がした。
すぐに、そんな幻想をかき消して、また歩き出す。
その背中には、誰の声も届かなかった。
──おまえなんて、いなくても。
そう思いたかったのに。
そう言い切れなかった自分が、一番嫌いだった。
雨が降り出したのは、夕食を終えた頃だった。
最初は静かだった雨音が、じわじわと激しさを増し、やがて風が窓を軋ませ始めた。春の終わりにしては、あまりに荒々しい嵐。
章吾はひとり、灯りのついた部屋で机に向かっていた。だが、ノートの文字はまったく頭に入ってこない。
ガラス越しに響く風と雨の不穏なリズムが、胸の奥のざわつきを煽ってくる。
「……うるせぇっての……」
無理やり独り言で紛らわせようとするも、ペンを握る手がかすかに震えていた。
ピカッ。
窓の外が、昼間のように一瞬真っ白になる。
──ドンッ!!!
「っ……!」
爆音のような雷鳴が、天井を突き破るように響いた直後。
照明が、ぱちん、と音を立てて消えた。
寄宿舎全体が、瞬く間に沈黙と闇に沈む。
章吾の心臓が、ぎゅうっと縮こまった。
──息が、できない。
ただの停電。それはわかっていた。でも、頭より先に、体が凍りついていた。
──地震だ。
──また、あの夜が来た。
視界が奪われる前に脳裏に焼き付いている記憶が、雪崩のように押し寄せる。
瓦礫の音、割れた皿、母の叫び声。助けを呼ぶ声も、泣き声も、全て飲み込まれた暗闇。
「……やだ……やめてくれ」
喉の奥で声にならない声が漏れる。
がたがたと震える手でスマートフォンを探り、わずかな光を頼りに扉へ駆け出した。
「っ……!」
廊下に飛び出した瞬間、誰かとぶつかった。
バランスを崩し、背中から床に倒れ込む。スマートフォンが転がり、暗がりの中にぼんやりと光を投げた。
「大丈夫か」
その声に、反射的に肩が跳ねた。
──知っている声。
「Hiwatari……だろう?」
光の中で、はっきりと輪郭が浮かび上がった。アルジャーノンだった。
章吾は、呼吸ができなかった。喉が詰まり、涙が止まらない。
「だいじょ……ぶ、じゃ、ない……っ」
震えながら、ようやく絞り出した声。みっともないなんて思う余裕もなかった。この世界のどこにも、自分の居場所がないような気がしていた。
「落ち着け。大丈夫だ。何も壊れていない。停電だけだ」
アルジャーノンの声は、静かだった。急がず、諭すような調子で、一語一語が胸に沁み込んでいく。
章吾は、ひざを抱えて座り込むしかなかった。冷たい床が背中にしみる。頭の中は真っ白なのに、恐怖だけが鮮やかに残っている。
「……むり……嫌だ……こわい……」
震える唇から、こぼれた言葉は子どもみたいだった。そんな自分が情けなくて、でも、それすら言葉にできなかった。
「……怖くない。私がいる」
その一言に、章吾はぴたりと動きを止めた。アルジャーノンが、ゆっくりと膝をつき、そっと背中に手を添えてくる。
優しくて、あたたかい掌。力を加えるでもなく、ただそこに在るように。中を、ゆっくりと、一定のリズムで撫でてくれる。
「っ……あ……」
喉が詰まり、しゃくりあげるように泣いた。でも──不思議と、少しずつ呼吸が整っていった。掌から伝わる体温が、じんわりと心に染みてくる。
(……この人が、いてくれてよかった)
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。こわばっていた指が少しずつゆるみ、瞼が静かに震えた。
そして章吾は、はっきりと気づいた。
──好きだ。
この人の声が、この人の手が、他の誰でもなく自分に向けられていることが、こんなにも安心するなんて、知らなかった。
でも──その安堵は、あまりにも唐突に破られる。
バチン。
どこかのブレーカーが作動する音がして、ぱっと廊下の照明が点いた。眩しい光が、容赦なくふたりを照らす。
章吾は反射的に顔を背けた。目元を腕で覆いながら、ぎゅっと膝を抱える。
(見ないでくれ)
涙でぐしゃぐしゃの顔。情けないほど取り乱した姿。震えながら縋っていた自分。
たった今まで闇の中だから許せていたのに、光が差した途端、それらが恥ずかしさとなって全身を焼く。
でも──それだけじゃない。
さっき、思ってしまった。
(……好きだ)
その感情が、はっきりしてしまった今。彼の顔を見るのが、怖かった。顔を上げれば、きっとアルジャーノンの目がある。まっすぐな、あの目。
あの目を、今の自分に向けられるのが、どうしようもなく、こわい。
消えかけた涙が、また目尻ににじんだ。
アルジャーノンは何も言わず、静かに立ち上がった。
その金髪が、光に照らされて輝いていた。
瞳は、驚くほど青くて、澄んでいて──まっすぐに章吾を見ていた。
「もう、大丈夫か」
「……ありがと。マジで助かった」
章吾は小さく、けれどしっかりと言った。
アルジャーノンは目を細めた。
まるで、安堵と優しさとを同時に浮かべるような、そんな表情だった。
ふたりの間に、言葉がなくても通じ合う何かが流れていた。
章吾はそっと立ち上がり、壁にもたれかかる。
「……俺さ、前に地震で家が壊れたことあんだ」
それはずっと喉の奥に詰まっていたものでもあった。
「真夜中に、家、揺れて……天井、落ちて。
母親の声も聞こえなくなって。
真っ暗の中で、誰かに触れるのも怖くて──でも、ひとりじゃいられなかった」
声が少し震えていた。それでも話しながら、どこか少しだけ心が軽くなっていくのを感じていた。
アルジャーノンは何も言わず、黙ってその話を聞いてくれていた。
「……怖かったんだよ、あのとき」
章吾はそう言いながら、ふっと笑った。情けなくて、恥ずかしくて、でもどこかで笑うしかないと思っていた。
アルジャーノンはその横顔を、黙って見つめていた。
「それ以来、暗闇とか、音とか……ダメになっちまってさ。普段は平気なふりしてても、急にスイッチ入ると、もう……動けなくなる」
「それは、自然なことだ。誰だって、恐怖には形がある」
低く、落ち着いた声だった。無理に励まそうとするわけでもなく、ただ寄り添うような言葉。
その言葉の響きが、心にやさしく触れた。
「……おまえ、なんか兄貴っぽいな」
ふと、章吾が口にした。言ってから、少しだけ照れくさくなって、視線を逸らした。
アルジャーノンは小さく瞬きをして、口元をゆるめた。
「そうかもしれんな。私は、六人兄弟の長男だ」
「……は?」
章吾は思わず、ぽかんと口を開けた。
「六人……って、マジで?!」
「ああ。弟も、妹もいる。あまり騒がしくて、いつも私はひとり静かな場所を探していた」
言いながら、どこか懐かしそうな口調だった。
章吾は驚きながらも、なんとなく納得したような気がした。
「そっか……だから、なんか落ち着いてんのか。背中さすんのとか、めっちゃ慣れてたし」
「子どもはよく泣く。あやすのも、背中をさするのも、だいたい長男の仕事だ」
「へぇ、じゃあ、俺も子ども扱いされてたってことかよ」
ぼやきながらも、その声はどこか照れていた。
アルジャーノンは、静かに笑った。そして、思う。
──この少年は、まるで昔の弟のようだ。でも、もっと脆くて、不器用で、守りたくなる。
照明が復旧した寮の廊下には、もうあの闇は残っていなかった。
章吾は窓の外をちらりと見た。雷は遠ざかり、雨も音を潜めている。嵐はもう、過ぎ去ったのかもしれない。
「なあ」
口を開くと、さっきまで張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。
「お前、あん時……なんであんなに落ち着いてたんだよ。俺なんか、ガチでヤバかったのに」
「私は、暗闇が嫌いではない。静かで、余計なものが見えないからな」
アルジャーノンの言葉はいつも通りだった。章吾は、ふっと笑った。
「そっか。でも、ほんとにありがとな」
「礼には及ばない。私は、君の兄のようなものだからな」
「言ったな、それ」
小さく言い返して、ふたりは再び静かになった。
章吾はゆっくりとアルジャーノンのほうを見た。その金髪も、碧い瞳も、もう見慣れたはずなのに──今夜は、なぜだかやけに綺麗に見えた。
(こいつのこと、好きだ)
それは、静かに心の中で何度も繰り返された確信だった。
「じゃ、俺……そろそろ部屋、戻るわ」
「……ああ」
章吾が背を向けて歩き出したとき、後ろから優しい声がかかった。
「なあ、Hiwatari」
「ん?」
「……私の隣は、暗くないぞ」
その言葉に、章吾は驚いたように顔を上げる。
ほんの数秒の間を置いて、彼はふいとそっぽを向いた。
「……何言ってんだ」
その一言に、アルジャーノンはくすりと笑った。
「Hiwatari──また、明日」
章吾は立ち止まって、振り返らずに手をあげた。兄弟のように温かく、信頼をもって。
五月の終わり、風はもう夏の匂いを運んでいた。
寮の掲示板に貼られた、白地に金文字のポスターが目に飛び込んでくる。
【Flower & Boat Festival 開催!】
初夏を祝おう! 花とボートと、サッシュ(飾り帯)と笑顔で!
それを見た瞬間、章吾は顔をしかめた。
隣でチャド・マクブライドが、ソーセージを頬張りながらにやにやと笑う。
「おっ、これ初めて? エラグレイヴ恒例の『花の儀式』だぜ。男子も花冠つけて、リボン巻いて、ボート漕いで大騒ぎ! ……楽しみだな〜、な?」
「……花冠?」
一拍置いて聞き返すと、チャドは誇らしげに親指を立てる。
「もちろん! 男も全員、強制! 伝統なんだわ。大昔は王族もかぶってたんだってさ」
「げっ……」
章吾は口を閉ざした。脳裏に「自分が花なんぞ乗せられている姿」が浮かび、無言で掲示板を睨みつける。
その表情を見て、チャドが背中をバンバンと叩いた。
「まあまあ、良い気分転換になるって。最近、なんか元気ないだろ?……もしかして『元ルームメイト』が気になる?」
「関係ない」
思わず強めに言ってしまい、少し間を置く。
言われなくとも、分かっていた。別々の部屋になってから、何か「足りない」ままだということを。
*
当日。中庭は花の香りと、柔らかな笑い声に包まれていた。
白い制服に、斜めに巻かれた光沢のサッシュ。生徒たちの頭には、白と青の花冠。
「はい、これ、Hiwatariの分!」
チャドが花冠を差し出す。
「……マジでやんのか、これ」
章吾はしぶしぶ受け取り、適当に頭にのせた。すぐにズレる。 手直しするのも面倒で、そのまま列の後ろに並んだ。
*
少し離れた場所で、それを見ていた金髪の少年がいた。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。
その視線の先にあるのは、むすっとした顔のまま花冠をのせた章吾の姿だった。
額に汗を浮かべ、照れ隠しのように視線を落とす。 無造作に髪をかきあげる手。
(……カラヴァッジョの、バッコスみたいだ)
口には出せなかったが、心のどこかが熱を帯びていた。
それを「懐かしい」と感じたのは、ほんの少し前まで毎朝見ていた光景だったから。
──もう、隣にはいない。
それを思い出すだけで、胸の奥が、ひどくざわめいた。
*
整列した生徒たちの向こうに、金髪の少年の姿が見えた。
章吾は、無意識に目を奪われた。
金糸のような髪にのせられた小さな花冠。朝の光を受けて、ふわりと輝いていた。
(……あいつが、あいつが、だぞ)
いつもは貴族様で、澄ました顔で、偉そうにしているくせに──今だけは、どこかの西洋絵画から抜け出した無垢な天使みたいだった。
そして、ふっと目が合った。たったそれだけで、世界がぐらりと揺れた気がした。
(……隣に、行きたい)
胸のざわめきは、誰にも止められなかった。
*
ボートの順番が読み上げられていく中で、章吾は嫌な予感がしていた。
「次、東舎代表──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル、Shogo Hiwatari」
「……マジかよ」
一斉に生徒たちから歓声と笑い声が起こった。
「息ぴったりコンビじゃん!」 「夫婦舟〜!」
「うるせぇ……」
額を押さえながら、章吾はため息をつく。だが、ボートの上で隣に座る金髪の姿を横目で見ると、背筋がすっと伸びた。
アルジャーノンは視線を前に向けたまま、静かに言った。
「……行くぞ、Hiwatari」
笛が鳴る。水を切る音が響く。
最初は息が合わなかった。オールは交錯し、水飛沫が顔にかかる。
「おい、漕げよ!逆!」
「うるさい、そっちが速すぎるんだ!」
それでも、数度目の往復で、ふたりの動きがようやく噛み合ってきた。 呼吸が合う。リズムが生まれる。
(……懐かしいな)
同じ部屋で、同じ時間を過ごしていた頃。 無言のやりとりでも、なぜかうまく回っていたことを、体が思い出す。
ゴールに近づいたころには、もう息は切れていた。 それでも、笑っていた。
「……意外と悪くなかったな」
ポツリと呟いた章吾に、隣のアルジャーノンがふと顔を向けた。
風が吹く。花冠が傾く。
無意識に、章吾はその花を直すために手を伸ばした。 指先が髪にふれた瞬間、ふたりの動きが止まる。
目が合う。
逃げなかった。
ただ、見つめた。
その時間が、やけに長く感じた。
「……おまえ、まだサッシュずれてる」
「君の花も傾いていた」
「……そういうとこだよ」
ため息まじりに言いながら、ふたりは顔をそらす。
風にそよぐ花の冠。水面に反射する光。
──少しずつ、何かが戻りはじめていた。
*
その様子を、木陰からじっと見つめている影があった。
レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
濃い緑の葉陰に身をひそめ、彼は微動だにせず、ただふたりを見ていた。
アルジャーノンが、あの少年──Hiwatariに向かって、かすかに笑った。目元が、ほんのわずかに緩んだだけ。それだけなのに。
(……あれは、僕だけが知っていた笑顔だ)
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと苦しくなった。
「……まったく、愚かだね」
指先はわずかに震えていた。胸の奥に、冷たいものがじわじわと広がっていく。
(あんな顔……もう、僕には見せてくれない)
嬉しいはずだった。笑っている彼を見られたことが、本来なら。
でもそれが、自分ではなく、あの少年に向けられていると気づいた瞬間に──何かが、静かに崩れていった。
記憶のなかのアルジャーノンは、無口で、不器用で、それでも笑えばまぶしかった。その笑顔を、ずっと護ってきたつもりだった。
なのに。
今、その笑顔は他人のものになろうとしている。
(……なら、僕は何のために、そばにいた?)
答えは出なかった。木の幹に背を預け、小さく息を吐く。
胸の奥で、決意が生まれていた。
(君を、手放す気はないよ。アルジー)
それは、愛というより祈りだった。願わくば、もう一度、あの笑顔が僕に向けられますようにと。
風が吹いた。葉がわずかに揺れ、レジナルドの影をゆらした。
その顔に浮かぶ微笑みは、どこまでも寂しげだった。
花冠をかぶって、微笑む。春の天使みたいだったアルジャーノン。
翌日もその姿がまぶたに浮かんで、章吾はどこか落ち着かなかった。
寄宿舎の廊下を、うろうろと歩き回って。自分の熱を冷やすように、風に当たっていた。
さらに──
(……どっかで、会わねぇかな)
そんなことを考えていた。情けないと思いながらも、止められなかった。
そして、曲がり角の向こうから――アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルが現れた。
「……よ」
章吾はかろうじて、それだけ口にした。
「……ああ」
アルジャーノンも、かすかに頷いた。
それだけだった。ふたりは、すれ違った。背中合わせに、何もなかったふりをして。
でも、章吾は振り返ることができなかった。
アルジャーノンも、振り返らなかった。その背中が、やけに遠かった。
(……なんだよ)
(なんで、こんなに、簡単にすれ違えるんだよ)
胸の奥で、小さな棘がずっと刺さったままだった。
*
朝。
章吾はぼんやりとベッドに腰掛けていた。
ひとりきりの空間。誰にも気を遣わなくていい。
好きなときに好きなように過ごせる。それは本来なら、歓迎すべきことだった。それなのに。
(……落ち着かねぇ)
ポツンと広がる静けさ。どこにも、窓辺で本を読んでいる誰かはいない。
章吾はわざと大きな音を立てて荷物をいじった。でも、その音すら、やけに虚しく響いた。
*
廊下を歩く足音が、やけに響いていた。章吾はすれ違ったアルジャーノンの背中を思い出していた。
(……なんなんだよ、あの空気)
ぎこちない挨拶。振り返ることもできなかった自分。情けなくて、胸の奥がざわついて仕方なかった。
そんなとき、後ろから軽い足音が近づいてきた。
「Hiwatari君、浮かない顔だね」
気だるげな声。振り向かなくても、わかった。レジナルドだった。
「……うるせぇ」
ぶっきらぼうに返す。レジナルドは気にしたふうもなく、にやりと笑った。
「アルジーと、すれ違った?」
ビクッと、肩が跳ねた。
レジナルドは悪びれもせず続けた。
「寂しいんじゃない? ひとりの部屋に戻ったら、静かすぎて……ほら、ね?」
にやにや。茶化すような、悪戯っぽい笑顔。章吾は顔をしかめた。
「別に、そんなこと──」
言いかけて、言葉に詰まった。
返事をし損ねた章吾に、レジナルドはますますにやにやして肩をすくめた。
「ふうん、まあいいけど。顔に、全部出てるよ」
最後に軽くウインクまでして、レジナルドは軽やかに歩き去っていった。
章吾はその背中を見送りながら、深くため息をついた。
胸の中で、ぐらぐらと小さな波紋が広がっていった。
夜。章吾はベッドに寝転がっていた。天井を、ぼんやりと見つめる。レジナルドに言われた言葉が、まだ耳に残っていた。
「寂しいんじゃない?」「顔に出てるよ」
(……うるせぇ)
(そんなわけ、ねぇだろ)
そう思って、そう思い込もうとして。でも、どうしても。胸の奥のざわざわは、消えてくれなかった。
目を閉じる。暗闇の中に浮かぶのは、金色の髪と、蒼い瞳。礼拝堂で。談話室で。窓辺で。静かに隣にいたあいつの姿。
(……あいつ)
(いま、なにしてんだろ)
無意識に、そんなことを考えていた。隣の部屋にいるわけでもないのに。隣にいない、今だからこそ。やけに、強く思い出してしまう。胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
(なんで、こんなに)
ただの寂しさとも、ただの友情とも違う。章吾は薄く目を開けた。
冷たい天井を見上げながら、小さく、吐息をこぼした。
(……やっぱ、俺、あいつが好きだ)
夜の静けさが、余計に、胸のざわつきを際立たせていた。
寮の談話室。章吾はソファに沈み込んでいた。窓の外では、アイビーの葉が風に揺れている。
手元の携帯電話が、低く震えた。【父親】。周囲に誰もいないことを確認してから、通話ボタンを押した。
「──もしもし」
受話器の向こうから、張りつめたような父の声が聞こえた。
『章吾。様子はどうだ?成績は?』
「──まぁ、普通だよ」
無駄のない問いかけ。そして、父が思い出したように言った。
『留学先には、馴染めたか?』
章吾は少し黙り、ぽつりと口を開いた。
「いまは、馴染めてる。『友達』のおかげだ」
『そうか』
父の声は、一瞬だけ柔らかくなった気がした。
『世界を導く者は、支え合う術も覚えねばならん』
それだけ言って、あっさりと通話は切れた。章吾は、スマホを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……友達、か」
ぽつりと呟く。
部屋で、教室で、ボートの上で。
何度も、何度も、笑って、ぶつかって、それでも並んで立ってきた顔が浮かぶ。そして、胸の奥がざわめいた。
(……あいつも、友達、だよな)
だけど、どうして。アルジャーノンの顔だけ、こんなにも鮮やかに浮かぶんだろう。
その答えは、もうとっくに知っていた。
友達なんかじゃない。俺はあいつのことが──
「Hiwatari」
心臓がひとつ跳ねて、振り返る。いつも通りの微笑を浮かべた、アルジャーノンが立っていた。
「電話?」
「あ、ああ」
章吾は目を泳がせた。そのぎこちない視線に、アルジャーノンは眉をひそめた。
「どうした?」
「……なんでもない」
「何かあったか?言ってみろ。友達じゃないか」
そのとき、「友達」という二文字が──刃物のように章吾を刺した。それがほしかった言葉なのに、それじゃ足りないことに、気づいてしまった。
「……お前はもう、俺の『友達』じゃない」
章吾は、スマホを握りしめる。
言いながら、自分の心が小さくひび割れていくのがわかった。
どこかで、期待してた。ほんの少しでいいから──こいつだけは、わかってくれるんじゃないかって。
だけど、アルジャーノンの目は揺れたままで。何も気づいていない、みたいで。それが、なんだか腹立たしくて。
(なんで、こいつ、こんなに鈍いんだ)
(俺が、どれだけ──)
気づけば、アルジャーノンが章吾の腕にそっと手を伸ばしていた。
「意味が分からない、説明し──」
その瞬間、章吾は手を振り払った。乾いた音がして、アルジャーノンの手が宙を泳いだ。空気が裂けた。
「──っ!」
「俺の気持ちなんて、知らないくせに……!」
言葉にしたら、かえって苦しくなった。こみあげるものを飲み込む喉が、ひりついた。
アルジャーノンは、少しだけ後ずさる。「Hiwatari……」と呼びかける声が、遠くに聞こえた。
沈黙の中で、たしかに何かが、壊れた。ふたりの間に積み重なっていた、やわらかくて大切なものが──二度と元には戻らない音で、砕け散った。
日没前の中庭。
西日が斜めに差し込むなか、章吾はベンチの端で本を読んでいた。ページをめくる手はゆるやかで、文字の内容は頭に入ってこなかった。
「SHOGO!!」
いきなり声が響き、顔を上げる。
チャドだった。息を切らし、砂利を蹴りながら一直線にこちらへ駆けてくる。
「……なんだよ、騒がしいな」
眉をひそめる章吾に、チャドはまるで弾丸のように言った。
「ちょっと、マジでヤバい。聞いてくれ。オレ、聞いちまったんだよ。アルジャーノンの……縁談の話」
その言葉に、指先がぴたりと止まった。
「……縁談?」
喉の奥で、何かがぎりっと軋む。
チャドは一気にまくしたてる。
「カレッジの個室でさ、たまたま通りかかって。『私が、縁談を、ですか』って……そんなふうに言ってた。たぶん、卒業後に決められた相手と結婚させられるって話だった」
章吾は手の中の本を、強く握りしめた。ページの端が、くしゃりと折れる。
「……別に、関係ねぇよ」
かすれた声だった。チャドの顔色が変わる。
「本当に、そう思ってんのか?」
答えようとしたが、言葉が出なかった。胸の奥で、何かがぐらりと傾いていた。
チャドは、ふっと笑った。
「……俺、アメリカの高校で、好きだった子がいたんだ。先輩で、笑うとすげー可愛くてさ」
章吾は、黙って聞いていた。
「結局、なにも言えなかった。付き合ってもなかったし、タイミング逃して……そしたら、そのまま卒業して、すぐに結婚したんだよ」
その声には、普段の軽さはなかった。
「たったひと言、言ってたら、何か変わってたかもって、今でも思う。フラれてもよかったのに」
章吾は視線を落としたまま、小さく舌打ちをした。
「知らねぇよ……人の恋愛なんて、関係ねぇだろ」
立ち上がった足が、思わず前へ踏み出す。その一歩が、逃げだということは、痛いほど分かっていた。
「……関係ねぇくせに、なんでそんなに苦しそうなんだよ」
チャドの声は追いかけてこなかった。その言葉だけが、背中に残った。
章吾は歩く速度を上げた。足音が、やけに大きく響いた。
背後から、かすかな声が聞こえた気がした。
「……頑張れよ、バカ」
なぜかその言葉だけが、妙に胸に染みた。
*
夜。寄宿舎の廊下を、章吾はひとり歩いていた。ローファーの音が、やけに響く。
(俺には、関係ない)
何度そう唱えても、足元が揺れるような感覚は消えなかった。
図書室の前を通りかかる。開け放たれた扉の向こうに、金色の髪が見えた。
アルジャーノン。机に向かい、本を読んでいる。白いシャツの襟、すっと伸びた背筋、静かな横顔。
胸が、きゅっと鳴った。
この空気も、この光景も、やがて手の届かないものになる。
章吾は扉から目をそらし、足早に背を向けた。
「……くそ」
低く吐き捨てた声は、自分に向かっていた。
わかっていた。もう惹かれている。どうしようもなく。
夜の風が廊下に吹き込み、章吾は肩をすくめて目を閉じた。
*
同じころ。
アルジャーノンは、自室の窓辺に立っていた。手には、母から届いた手紙。差し出された縁談と、卒業後の予定。
目を閉じる。
(選ぶ自由など、最初からなかった)
家の名を継ぐ者として、誇りを守ること。ただ、それだけを信じてきた。
(私情など、許されるはずがない)
それでも、浮かんでしまう。
無邪気な笑顔。ふいに振り払われた手の感触。
(Hiwatari。君は──)
(君は、私の誇りを揺らす)
(君は、私に「望んではいけないもの」を、望ませる)
窓の外では、霧が石壁を這っていた。
ペンを握り、返事を書こうとした。でも、紙には、一文字も浮かばなかった。
「……馬鹿な」
自嘲のように漏らす。
(それでも、君に、触れたかった)
沈んでいく想い。夜は深く、ふたりの心を、静かにすれ違わせた。
胸の奥には、昨日チャドから聞かされた言葉がまだ刺さったままだった。──アルジャーノンには、もう決められた未来がある。
章吾は回廊をひたすらに歩きながら、無理やり自分に言い聞かせる。朝日の明かりも空しく、すべてがモノクロに見えた。
(……そうだった。俺が関われるような相手じゃない)
だけど、思えば思うほど、あいつの顔も、声も、ふとした仕草も、頭の中に鮮明に蘇ってしまう。
ポケットの中で拳を握る。進まない足を無理に動かした、そのときだった。
回廊の角を曲がった先に、アルジャーノンの姿があった。金色の髪を微かに濡らしながら、彼もまた一人で歩いていた。
心臓がどくんと脈打つ。
そして、目が合った。
一瞬だけ、互いに、何も言わずに。そしてすれ違った。言葉ひとつ交わさず、石畳に小さな靴音だけを残して。
立ち止まることも、振り返ることもできなかった。
これでいい、これでいいんだ。そう思いながら、胸の奥では、ぐしゃぐしゃの感情が暴れ続けていた。
*
章吾は裏庭へと足を向けた。石畳は先程よりさらに濡れて、鏡のように自分を映していた。
(俺、ひっでぇ顔)
誰もいない庭で、石畳を覗き込む。隈のできた目元を見て、喉の奥が詰まった。
せめて、もう少しだけ、傍にいられたら。そんな届かない願いを、心の奥でそっと握りつぶした。
*
午後、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルもまた、一人で回廊を歩いていた。手には革張りの本。
視界の端に、黒い髪の影が見えた。Shogo Hiwatari。
中庭で、ひとり、うつむいていた。
アルジャーノンは立ち止まった。声をかけたかった。ただ名前を呼びたかった。
でも、電話口の母の声が脳裏に甦った。私には、そんな資格はない。未来を縛られた自分には、もう。踏み出すことも、許されない。
たとえ、こんなにも惹かれてしまっていても。
君のことを、こんなにも追いかけたくなるなんて、知らなかった。
そっと視線を伏せ、その場を離れた。
放課後、寄宿舎の裏庭。いつもは静かなこの場所に、今日は妙な熱気が漂っていた。
向かい合うのは、章吾とレジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
普段はろくに話しもしないふたりが、今、まるで一触即発の空気をまとって立っていた。
「……で?」
壁にもたれながら章吾は睨みつける。
レジナルドは珍しく真剣な顔だった。
「アルジャーノンの縁談の件、知っているよね」
「まあな」
冷たく返したが、心の奥はざわついていた。
レジナルドはゆっくり手を組み、
「私は、彼が不幸になるのを見たくない」と言った。
「君も、同じでしょ?」
一瞬、答えに詰まった。でも、嘘はつけなかった。
「……ああ」
かすれた声で応じると、レジナルドはふっと微笑んだ。どこか諦めを孕んだ笑みだった。
「なら、共闘しようよ」
「は?」
思わず聞き返す。
「君も私も、立場は違えど想いは同じ。彼を守りたい。なら、手を組むべきだよ」
ビジネスの交渉みたいな口調に、章吾は苦笑したくなった。だが、この提案だけは無視できなかった。
静かに頷く。
「……わかった。共闘、してやるよ」
レジナルドは心底嬉しそうに笑った。
「決まりだ、Hiwatari君」
風が吹き抜け、新しい戦いの幕が静かに上がった。
*
寄宿舎の談話室。夕暮れの光が古びた机に斜めに落ちている。
章吾はノートパソコンを開き、隣には腕を組んだレジナルド。緊張気味の彼を横目に、章吾は涼しい顔で黙々とキーを叩いた。
画面には、令嬢のSNSアカウント。レジナルドが見つけたものだった。
パーティー写真のバックに映る金色のモザイク壁画を見つけた章吾は、すぐに画像検索にかける。
数秒後、高級クラブ『The Golden Ivy』──ロンドン中心部、未成年立ち入り禁止エリアがヒットする。
「……ここだな」
低く呟き、投稿時間に目を走らせる。夜の2時過ぎ。明らかに未成年がいる時間ではない。
「まずいな、これは」
レジナルドがぽつりと言った。
さらに章吾は、写真に映る男のタトゥーに目を留めた。この模様、どこかで──。
「『ダンディ・ライオンズFC』の選手?いや、まて──」
章吾は顎に手を置いて、考え込んだ。
「まさか……いや違うか……」
「ちょっと待って。この画像、反転してる」
レジナルドが、気づく。
「そうか。もう1回、画像検索だ」
章吾は、伏し目がちに画面を見つめた。
結果──その模様は、選手の熱狂的なサポーター、ロックバンドのボーカル「Tomy」のものだった。
絶句するレジナルドをよそに、章吾は画面を閉じた。
「証拠は揃った。この女、アルジャーノンにはふさわしくねぇ」
冷たく言い放つと、レジナルドは血の気の引いた顔で呟いた。
「……君、思ったより恐ろしいね」
章吾は肩をすくめた。
「別に……必要だったから、やっただけだ」
口にした瞬間、自分がひどく薄汚れているような気がした。
──お前を、こんな奴になんか、渡すもんか。
*
夕暮れの寄宿舎、談話室の隅。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、椅子に座っていた。
目の前には、章吾とレジナルドが並び立ち、無言でタブレットを差し出す。
画面に映る、令嬢の素行を示す決定的な証拠。アルジャーノンは、眉ひとつ動かさず、静かに画面を閉じた。
「……私の家に、泥を塗ったつもりか?」
静かな、冷えた声。
章吾は一瞬目を伏せた。
──今、言わなきゃ。あいつは、あの女と一生……
しかし、喉が絞まるようで、声が出ない。それを見たレジナルドは、不適な笑みを浮かべた。
「章吾が見つけたんだ。僕は、少し心配だっただけ」
レジナルドの声は滑らかだったが、手が震えている。
(こいつ……!)
章吾の額に、一筋の汗がつたった。
蒼い目が、章吾を捉える。
重い沈黙。時計の針の音だけが、響いていた。
それから、彼は何も言わず──ふたりを残して去っていった。
レジナルドは、その場にへたり込んで、肩を震わせた。
「……アルジー、怒ってた。どうしよう」
「お前、なぁ……」
「……嫌われた、もう生きていけない、僕の全て……僕の初恋」
独り言のように繰り返すレジナルド。章吾の声はまるで聴こえていないようだった。
(……嫌われた、か)
章吾の手足は、芯から冷たくなっていく。
こんなこと、自分だってしたくなかった。だけど、こうするしか、なかったんだ。
自分のなかに、黒い霧が立ち込めていた。
*
その日の夜。
章吾の部屋に、ノックの音が響く。
あいつだ。章吾の心は知っていた。
心臓の鼓動が早くなる。
(……あいつは、俺に何て言うかな)
汗ばんだ手で、慎重にドアを開く。
──そこには、アルジャーノンが立っていた。
「Hiwatari」
「……レジナルドに頼まれて、あんな事をしたのだろう」
瞬間、章吾は目を見開いた。
(俺のことを、信じている)
胸が熱い。苦しい。
「レジナルドは、そういう奴だと知っている。でも、なぜだ。なぜ、君は力を貸した」
アルジャーノンの声には、怒りよりも、困惑の色が滲んでいた。
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」
かすれた声で、絞り出すように言った。
「Hiwatari、それはどういう──」
言葉を遮るように、章吾は力任せにドアを閉める。冷たい隙間風が、ふたりの背中をなぞった。
小刻みに揺れるドアの前、アルジャーノンは、立ち尽くしていた。
音を失った世界の中。アルジャーノンは思う。
まさか。あれは──好きだと、そういう意味だったのか。
頬がかっと熱くなった。馬鹿な。ありえない。ありえないはずなのに、止まらない。
ぐしゃぐしゃに顔を歪め、椅子の背もたれを握りしめた。
(Hiwatari──君はこの扉の向こうで、一体何を考えている。私は、どうしたらいい)
答えは、どこにもなかった。
*
深夜、寄宿舎の個室。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、ベッドの上で天井を見つめたまま、身動きもせずにいた。
胸の奥だけが、どうしようもなく、うるさかった。
(Hiwatari)
あのときの声が耳にこびりついて離れない。
『お前に結婚なんてしてほしくない』
たったそれだけなのに、どうしてこんなにも。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。息ができない。気づけば唇が勝手に動いていた。
かすれた声で、
「Shogo……」
呼んでしまった。
瞬間、全身に信じられないほどの熱が広がった。
跳ね起き、毛布を蹴散らし、頬まで真っ赤になっているのがわかる。
「……な、なにを。私はいったい──」
もだえるように枕を抱きしめる。胸の中では、名前だけが、何度も何度もこだました。
Shogo──
(……馬鹿だ。私は、もう……取り返しがつかない)
(父に知られたら──否、知れても構わない。私の想いは、もう……)
震える手で毛布をぎゅっと掴む。
夜の静けさの中、ただひとり、アルジャーノンは自分の鼓動に翻弄され続けていた。