ルームメイトは貴族様 ー俺たちは雷で結ばれたー

 アルジャーノンが父の部屋に呼ばれたのは、授業が終わった直後のことだった。

 寄宿舎から少し離れた、古い煉瓦造りの建物──学院内でも限られた者しか出入りを許されない貴族専用の応接室。

 その重厚な扉の前に立つと、アルジャーノンは一度だけ深く息を吐き、何の躊躇もなく扉を押した。

 中には、すでに父がいた。変わらぬ姿勢で椅子に座り、ティーカップを手にしている。その仕草一つひとつが、完璧に訓練された振る舞いで、まるで彫像のようだった。

「……来たか」

 それだけの声に、アルジャーノンは黙って一礼した。

 対面に腰を下ろすと、すぐに銀のトレイが運ばれた。用意された紅茶は、父の好む銘柄──濃く、苦味のあるもの。彼の席にも同じものが注がれる。

「どうだ、ひとりの部屋の使い心地は」

 静かな問いだが、そこに込められた意図は明白だった。

 アルジャーノンは表情を変えず、紅茶に口をつける。

「とても快適です」

「そうか。それなら何よりだ」

 薄く笑った父の目には、決して情が差さない。

 しばらくの沈黙が落ちた。カップを置く音だけが、空間に小さく響く。

「……あの少年、Hiwatariというのだったか」

 突然、名指しされたその名前に、アルジャーノンの手が止まった。

「彼と共に過ごしていたようだな。まあ、事情は聞いている。雷で部屋が使えなかったとか」
「一時的な措置です」
「その一時が、想像以上に長く続いたように見えたが」

 淡々とした口調のなかに、揺るがぬ圧があった。

 アルジャーノンは黙っていた。反論はしない。だが、肯定もしない。

 カップの中の紅茶は、冷め始めていた。

「君は、忘れてはならない。何者であるかを」

 父の声は、冷たい水面に石を落としたように静かで、それでいて深く響いた。

「フォーセット家の嫡子としての自覚を持ちなさい。誰と時を過ごすか、それは君自身の趣味の問題ではない。『血筋』は、交わる相手によって試されるのだ」

 その言葉は、アルジャーノンの胸に刺さった。

「……彼は、私に影響を与えるほどの存在ではありません」
「ならば、なぜ沈黙した」

 父の目が、わずかに細められた。
 鋭利な問いだった。感情の綻びを見逃さぬ目。

 彼の父、ロデリック・フォーセット卿は、言葉の裏に潜む空白に敏感な男だった。

「……」

 アルジャーノンは答えなかった。答えられなかった、のかもしれない。

 たしかに章吾は、ただのルームメイトだった。
だが、自分の中で何かが変わりはじめていたのは、否定できなかった。

 紅茶の香りに紛れて、小さな声が聞こえるようだった。
 ──「目ぇ合ってんだよ、貴族」

 そんなことを言われた日のことが、ふと脳裏に蘇る。

「感情は、力を曇らせる」

 父の声が、静かにかぶさった。

「君は、孤高でなくてはならない。誰にも染まることなく、家名の誇りと共に生きる。それが、君の役目だ」

 それは命令ではなく、当然のこととして語られた。

「……わかりました」

 アルジャーノンは、小さく返事をした。答えはそれしかなかった。少なくとも、今この場では。

 父は満足そうに頷くと、再びティーカップに口をつけた。その姿は、揺るがぬ格式そのものだった。

 そして、冷え切った自分のカップを見つめながら、アルジャーノンは静かに思った。

 ──この紅茶は、もう、何の味もしない。


 アルジャーノンが父の部屋をあとにし、応接室を出てすぐのことだった。

 中庭を横切ろうとしたとき、見慣れた姿が目に入る。 石畳の縁に腰かけ、本を開いていたのは──レジナルドだった。

「……何をしている」

 声をかけると、レジナルドは軽く顔を上げた。 その表情に驚きも気負いもない。

「アルジー、君を待っていた」

 まるで当然のように言って、ページを閉じる。

「父上に呼ばれたのだろう?」

 アルジャーノンは答えずに隣に腰を下ろした。コートの裾がかすかに触れる。

「おまえは、私の監視役か?」
「違うよ。──君は、言葉を交わさなくても、見ていれば分かる」

 ふ、とアルジャーノンの肩から力が抜ける。 章吾といるときとは違う、どこか緊張のとけた吐息。

「……ああ、昔はこれが普通だったな」

 ふっと遠くを見たその横顔に、どこか懐かしさが滲んでいた。

 レジナルドは黙ったまま、カバンから小さな缶を取り出す。 中には紅茶のティーバッグがひとつ。

「飲む? 僕の持ち込みだ」
「……こんなところで。品がない」
「君が好きな、甘い香りのやつだよ」

 受け取った缶の蓋を開ける。 どこか、章吾が淹れていたものと似た匂いがした。

 アルジャーノンは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

「……レジー、君は私にやけに執着するが」

 言いかけて、口をつぐむ。
 レジナルドはティーバッグをゆらしながら、穏やかに言った。

「君の笑顔が、好きだからだよ。できれば、ずっと笑っていてほしい」

 その言葉は、まるで陽だまりのようだった。

「……私は、笑ってなどいない」
「そうだね。でも、笑える君を、僕は知っている」

 静かな声だった。押しつけでもなければ、期待でもない。ずっと見てきたからこそ出た、確信のような優しさ。

 アルジャーノンは、無言のまま湯気の立つカップを見つめた。

(……ああ、こいつは、昔からこうだった)

 必要なことだけを見抜き、余計なことは言わずに隣にいる。

「レジー。君が、心を明かせる友人であることに変わりはない」

 ようやく言葉にして返すと、レジナルドは目を細めた。嬉しさを表すにはあまりにささやかだったが、それで十分だった。

 その沈黙の優しさが、今のアルジャーノンには、ひどく心に沁みた。

 ──章吾といるときは、言葉を選ぶのにあれほど気を遣うのに。

(……これが、本来の私だ)

 無理をしない会話。構えなくていい間。緊張も張り合いもない穏やかさ。

 ──しかし、なぜだろう。あの騒がしさが、少しだけ恋しかった。

 ティーバッグから漂う甘い香りの向こう、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 振り返っても、誰の姿もなかった。
 ひとりきりの部屋には、沈黙しかなかった。

 章吾はベッドに仰向けに寝転がり、無造作に蹴った毛布が床に落ちるのも気にせず、天井を見つめていた。
 この部屋は、完璧に修繕された。天井のひび割れも、雨染みも、すべて跡形もない。新品のように磨かれた空間。

 なのに、何ひとつ心は整っていない。

 夜になると眠れない。朝が来ても、起きたくない。
 誰かと笑っていても、その空白は消えない。

(……もういいって、思ってたはずなのに)

 耳を塞ぐように横を向くと、視界の端に、あのティーカップが見えた。

 いつだったか、アルジャーノンが自分の手元に無言で置いたもの。中身の紅茶はもう乾いて、縁には薄く茶渋が残っている。

 思わず手を伸ばしそうになって、止めた。

 もう、意味はない。ただの器に、想い出をなすりつけてるだけだ。

 章吾は立ち上がった。何も考えたくなくて、とにかく外に出たくて、廊下を無目的に歩いた。

 風が吹き抜ける中庭に出ると、正門のほうから誰かの声が聞こえた。

 その中に、聞き覚えのある名があった。

「──ロデリック卿は、寄付の名目で工事に圧力をかけたのさ。あの修繕も、早まったのは彼の……」

 章吾はそのまま立ち止まった。

 木陰のベンチ。そこにいたのは、レジナルドとアルジャーノンだった。


「ロデリック卿は、この学院にとって特別な存在だ。誰も逆らえないし、誰も本音では抗えない。君も、それを一番わかっているだろう?」

 レジナルドの声はいつものように落ち着いていたが、どこか慎重だった。言葉を選ぶような間。

「……修繕は、ただの偶然だと思っていた」

 アルジャーノンの声は、低く、やや掠れていた。その声音に、章吾の心臓はどくんと打った。

「偶然じゃない。父上は寄付というかたちで明確に動いていたよ。君がHiwatari君と同室であることを不本意としていたらしい」

 章吾は呼吸を忘れた。

(……俺の部屋が直ったのは、アイツの父親の金と意向で?)

 そう思った瞬間、足元がすっと冷えていく。

 つまり──あの別れは、「自然に終わった」のではなく、「終わらせられた」ものだったのだ。

 アルジャーノンが何かを言いかけた瞬間、彼の身体がわずかによろめいた。

 力が抜けたように片膝を折りかけたそのとき、レジナルドが素早く手を伸ばし、肩を支えた。

「……大丈夫かい?」
「平気だ。すまない」

 小さな声で返すアルジャーノンの顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。同時に──その横顔には、ほんの一瞬、安堵も滲んでいた。

 レジナルドの手が肩にあるまま、彼はふっと目を閉じた。まるで、いまだけは息をつける場所を得たかのように。

 章吾は、それを見ていた。

 木陰のベンチ、寄り添うようなふたりの姿──そこに自分の居場所がないことを、あまりにも明確に突きつけられた気がした。

 唇の裏を噛んだ。熱い感情が、喉の奥を焼いた。

(なんだよ、それ)

 章吾は木陰の陰に身を潜めたまま、じっとふたりを見ていた。

 アルジャーノンの肩に手を添えるレジナルド。何も言わずにその手に寄りかかるようなアルジャーノン。

 姿勢を正したあとも、彼は顔を上げられずにいた。その横顔が、珍しく不安げだったことが、逆に章吾の胸に刺さった。

(だったら、最初から……)

 心の中で言葉が膨らんでいく。

(だったら俺なんか、初めからいなくてもよかったじゃんか)

 同じ傘の下で肩を並べた、雨の日も。
 ともに星空を見上げた、あの夜も。

 ──全部、ただの「悪い夢」だったんだろう?

 所詮、貴族の世界の人間で。俺なんか、あの父親のひと声で、簡単に外に放り出せる部外者。

 熱くて、苦くいものが喉元までせりあがってきた。

 章吾は、その場から静かに立ち去った。気配を悟られないように。音を立てないように。

 風の吹く中庭の石畳を踏みしめながら、どこへ向かうのかも分からず歩いた。

 誰とも会いたくなかった。誰の声も聞きたくなかった。

 ──あいつの姿を、今はもう見たくなかった。

 胸がぎゅっと苦しくて、何もかもがうるさく感じた。

「……くそ」

 つぶやいた声が、自分でも驚くほど荒かった。

 その日の夕方、章吾は談話室の隅の席にひとり座っていた。

 机の上に開いたノートは白紙のまま。書く気も、読む気も起きなかった。

 窓の外では、風に吹かれて木々の葉が揺れていた。ガラス越しの景色は静かで、何も語らなかった。

「Hiwatari」

 背後からかけられた声に、章吾は反射的に振り向いた。

 そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。夕暮れの光が差し込んで、彼の金髪をぼんやりと縁取っていた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。

「……なに」

 返した声は、意識せずに冷たくなった。

 アルジャーノンはひと呼吸置いて、近づいてきた。

「さっき……中庭にいただろう」

 章吾の背中がこわばった。

「……見てたのか」
「偶然だ」

 短い返事。それ以上、何を言うでもなく立ち尽くすアルジャーノン。

 その沈黙が、いつもより重たかった。
 
 章吾はノートを閉じ、立ち上がった。

「気にすんなよ。お前には、ちゃんと支えてくれるやつがいるみたいだし」
「……何の話だ」
「別に。たいしたことじゃねえよ」

 そう言い捨てて、章吾はすれ違いざまにアルジャーノンの肩をかすめた。

 章吾は振り返らずに、そのまま廊下へ消えた。廊下に出ると、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。

 章吾は、ひとりで歩いていた。

(支えてくれるやつがいるなら、それでいいじゃん)

 何度も心の中で繰り返した。その言葉は呪いのように、自分の心をさらに締めつけていく。

 アルジャーノンがレジナルドに支えられる姿。よろめいて、寄りかかって、それを当然のように受け止める彼。

 あのとき、自分じゃない誰かが彼のそばにいた。

 ──それだけのことで、こんなにも胸が痛むなんて、知らなかった。

「バカみたいだな……俺」

 独り言が、薄暗い廊下に滲んでいった。

 いつからだろう。あいつの仕草や声が、少しずつ胸の中に入り込んでいて、気づけばそこがぽっかり空いてしまっていた。

「……別に、期待なんかしてなかったのに」

 ぼそりと呟いた声は、自分に向けたものだった。

 遠く、時計塔の鐘が鳴った。午後七時。夜の始まりを告げる音。

 章吾は立ち止まり、顔を上げた。前を見ても、誰もいない廊下。でも、どこかであいつも、同じように立ち止まっているような気がした。

 すぐに、そんな幻想をかき消して、また歩き出す。

 その背中には、誰の声も届かなかった。

 ──おまえなんて、いなくても。

 そう思いたかったのに。
 そう言い切れなかった自分が、一番嫌いだった。
 雨が降り出したのは、夕食を終えた頃だった。

 最初は静かだった雨音が、じわじわと激しさを増し、やがて風が窓を軋ませ始めた。春の終わりにしては、あまりに荒々しい嵐。

 章吾はひとり、灯りのついた部屋で机に向かっていた。だが、ノートの文字はまったく頭に入ってこない。

 ガラス越しに響く風と雨の不穏なリズムが、胸の奥のざわつきを煽ってくる。

「……うるせぇっての……」

 無理やり独り言で紛らわせようとするも、ペンを握る手がかすかに震えていた。

 ピカッ。

 窓の外が、昼間のように一瞬真っ白になる。

 ──ドンッ!!!

「っ……!」

 爆音のような雷鳴が、天井を突き破るように響いた直後。

 照明が、ぱちん、と音を立てて消えた。

 寄宿舎全体が、瞬く間に沈黙と闇に沈む。
 章吾の心臓が、ぎゅうっと縮こまった。

 ──息が、できない。

 ただの停電。それはわかっていた。でも、頭より先に、体が凍りついていた。

 ──地震だ。
 ──また、あの夜が来た。

 視界が奪われる前に脳裏に焼き付いている記憶が、雪崩のように押し寄せる。

 瓦礫の音、割れた皿、母の叫び声。助けを呼ぶ声も、泣き声も、全て飲み込まれた暗闇。

「……やだ……やめてくれ」

 喉の奥で声にならない声が漏れる。

 がたがたと震える手でスマートフォンを探り、わずかな光を頼りに扉へ駆け出した。

「っ……!」

 廊下に飛び出した瞬間、誰かとぶつかった。

 バランスを崩し、背中から床に倒れ込む。スマートフォンが転がり、暗がりの中にぼんやりと光を投げた。

「大丈夫か」

 その声に、反射的に肩が跳ねた。

 ──知っている声。

「Hiwatari……だろう?」

 光の中で、はっきりと輪郭が浮かび上がった。アルジャーノンだった。

 章吾は、呼吸ができなかった。喉が詰まり、涙が止まらない。

「だいじょ……ぶ、じゃ、ない……っ」

 震えながら、ようやく絞り出した声。みっともないなんて思う余裕もなかった。この世界のどこにも、自分の居場所がないような気がしていた。

「落ち着け。大丈夫だ。何も壊れていない。停電だけだ」

 アルジャーノンの声は、静かだった。急がず、諭すような調子で、一語一語が胸に沁み込んでいく。

 章吾は、ひざを抱えて座り込むしかなかった。冷たい床が背中にしみる。頭の中は真っ白なのに、恐怖だけが鮮やかに残っている。

「……むり……嫌だ……こわい……」

 震える唇から、こぼれた言葉は子どもみたいだった。そんな自分が情けなくて、でも、それすら言葉にできなかった。

「……怖くない。私がいる」

 その一言に、章吾はぴたりと動きを止めた。アルジャーノンが、ゆっくりと膝をつき、そっと背中に手を添えてくる。

 優しくて、あたたかい掌。力を加えるでもなく、ただそこに在るように。中を、ゆっくりと、一定のリズムで撫でてくれる。

「っ……あ……」

 喉が詰まり、しゃくりあげるように泣いた。でも──不思議と、少しずつ呼吸が整っていった。掌から伝わる体温が、じんわりと心に染みてくる。

(……この人が、いてくれてよかった)

 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。こわばっていた指が少しずつゆるみ、瞼が静かに震えた。

 そして章吾は、はっきりと気づいた。

 ──好きだ。

 この人の声が、この人の手が、他の誰でもなく自分に向けられていることが、こんなにも安心するなんて、知らなかった。

 でも──その安堵は、あまりにも唐突に破られる。

 バチン。

 どこかのブレーカーが作動する音がして、ぱっと廊下の照明が点いた。眩しい光が、容赦なくふたりを照らす。

 章吾は反射的に顔を背けた。目元を腕で覆いながら、ぎゅっと膝を抱える。

(見ないでくれ)

 涙でぐしゃぐしゃの顔。情けないほど取り乱した姿。震えながら縋っていた自分。

 たった今まで闇の中だから許せていたのに、光が差した途端、それらが恥ずかしさとなって全身を焼く。

 でも──それだけじゃない。
 さっき、思ってしまった。

(……好きだ)

 その感情が、はっきりしてしまった今。彼の顔を見るのが、怖かった。顔を上げれば、きっとアルジャーノンの目がある。まっすぐな、あの目。
 あの目を、今の自分に向けられるのが、どうしようもなく、こわい。

 消えかけた涙が、また目尻ににじんだ。
 
 アルジャーノンは何も言わず、静かに立ち上がった。

 その金髪が、光に照らされて輝いていた。

 瞳は、驚くほど青くて、澄んでいて──まっすぐに章吾を見ていた。

「もう、大丈夫か」
「……ありがと。マジで助かった」

 章吾は小さく、けれどしっかりと言った。

 アルジャーノンは目を細めた。

 まるで、安堵と優しさとを同時に浮かべるような、そんな表情だった。

 ふたりの間に、言葉がなくても通じ合う何かが流れていた。

 章吾はそっと立ち上がり、壁にもたれかかる。

「……俺さ、前に地震で家が壊れたことあんだ」

 それはずっと喉の奥に詰まっていたものでもあった。

「真夜中に、家、揺れて……天井、落ちて。
母親の声も聞こえなくなって。
真っ暗の中で、誰かに触れるのも怖くて──でも、ひとりじゃいられなかった」

 声が少し震えていた。それでも話しながら、どこか少しだけ心が軽くなっていくのを感じていた。

 アルジャーノンは何も言わず、黙ってその話を聞いてくれていた。

「……怖かったんだよ、あのとき」

 章吾はそう言いながら、ふっと笑った。情けなくて、恥ずかしくて、でもどこかで笑うしかないと思っていた。

 アルジャーノンはその横顔を、黙って見つめていた。

「それ以来、暗闇とか、音とか……ダメになっちまってさ。普段は平気なふりしてても、急にスイッチ入ると、もう……動けなくなる」

「それは、自然なことだ。誰だって、恐怖には形がある」

 低く、落ち着いた声だった。無理に励まそうとするわけでもなく、ただ寄り添うような言葉。

 その言葉の響きが、心にやさしく触れた。

「……おまえ、なんか兄貴っぽいな」

 ふと、章吾が口にした。言ってから、少しだけ照れくさくなって、視線を逸らした。

 アルジャーノンは小さく瞬きをして、口元をゆるめた。

「そうかもしれんな。私は、六人兄弟の長男だ」

「……は?」

 章吾は思わず、ぽかんと口を開けた。

「六人……って、マジで?!」
「ああ。弟も、妹もいる。あまり騒がしくて、いつも私はひとり静かな場所を探していた」

 言いながら、どこか懐かしそうな口調だった。

 章吾は驚きながらも、なんとなく納得したような気がした。

「そっか……だから、なんか落ち着いてんのか。背中さすんのとか、めっちゃ慣れてたし」

「子どもはよく泣く。あやすのも、背中をさするのも、だいたい長男の仕事だ」

「へぇ、じゃあ、俺も子ども扱いされてたってことかよ」

 ぼやきながらも、その声はどこか照れていた。

 アルジャーノンは、静かに笑った。そして、思う。

 ──この少年は、まるで昔の弟のようだ。でも、もっと脆くて、不器用で、守りたくなる。


 照明が復旧した寮の廊下には、もうあの闇は残っていなかった。

 章吾は窓の外をちらりと見た。雷は遠ざかり、雨も音を潜めている。嵐はもう、過ぎ去ったのかもしれない。

「なあ」

 口を開くと、さっきまで張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。

「お前、あん時……なんであんなに落ち着いてたんだよ。俺なんか、ガチでヤバかったのに」

「私は、暗闇が嫌いではない。静かで、余計なものが見えないからな」

 アルジャーノンの言葉はいつも通りだった。章吾は、ふっと笑った。

「そっか。でも、ほんとにありがとな」

「礼には及ばない。私は、君の兄のようなものだからな」

「言ったな、それ」

小さく言い返して、ふたりは再び静かになった。

 章吾はゆっくりとアルジャーノンのほうを見た。その金髪も、碧い瞳も、もう見慣れたはずなのに──今夜は、なぜだかやけに綺麗に見えた。

(こいつのこと、好きだ)

 それは、静かに心の中で何度も繰り返された確信だった。

「じゃ、俺……そろそろ部屋、戻るわ」

「……ああ」

 章吾が背を向けて歩き出したとき、後ろから優しい声がかかった。

「なあ、Hiwatari」

「ん?」

「……私の隣は、暗くないぞ」

 その言葉に、章吾は驚いたように顔を上げる。
 ほんの数秒の間を置いて、彼はふいとそっぽを向いた。

「……何言ってんだ」

 その一言に、アルジャーノンはくすりと笑った。

「Hiwatari──また、明日」

 章吾は立ち止まって、振り返らずに手をあげた。兄弟のように温かく、信頼をもって。
 五月の終わり、風はもう夏の匂いを運んでいた。

 寮の掲示板に貼られた、白地に金文字のポスターが目に飛び込んでくる。

【Flower & Boat Festival 開催!】
初夏を祝おう! 花とボートと、サッシュ(飾り帯)と笑顔で!

 それを見た瞬間、章吾は顔をしかめた。

 隣でチャド・マクブライドが、ソーセージを頬張りながらにやにやと笑う。

「おっ、これ初めて? エラグレイヴ恒例の『花の儀式』だぜ。男子も花冠つけて、リボン巻いて、ボート漕いで大騒ぎ! ……楽しみだな〜、な?」

「……花冠?」

 一拍置いて聞き返すと、チャドは誇らしげに親指を立てる。

「もちろん! 男も全員、強制! 伝統なんだわ。大昔は王族もかぶってたんだってさ」

「げっ……」

 章吾は口を閉ざした。脳裏に「自分が花なんぞ乗せられている姿」が浮かび、無言で掲示板を睨みつける。

 その表情を見て、チャドが背中をバンバンと叩いた。

「まあまあ、良い気分転換になるって。最近、なんか元気ないだろ?……もしかして『元ルームメイト』が気になる?」

「関係ない」

 思わず強めに言ってしまい、少し間を置く。

 言われなくとも、分かっていた。別々の部屋になってから、何か「足りない」ままだということを。




 当日。中庭は花の香りと、柔らかな笑い声に包まれていた。

 白い制服に、斜めに巻かれた光沢のサッシュ。生徒たちの頭には、白と青の花冠。

「はい、これ、Hiwatariの分!」
 チャドが花冠を差し出す。

「……マジでやんのか、これ」
 章吾はしぶしぶ受け取り、適当に頭にのせた。すぐにズレる。 手直しするのも面倒で、そのまま列の後ろに並んだ。



 少し離れた場所で、それを見ていた金髪の少年がいた。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。

 その視線の先にあるのは、むすっとした顔のまま花冠をのせた章吾の姿だった。

 額に汗を浮かべ、照れ隠しのように視線を落とす。 無造作に髪をかきあげる手。

(……カラヴァッジョの、バッコスみたいだ)

 口には出せなかったが、心のどこかが熱を帯びていた。

 それを「懐かしい」と感じたのは、ほんの少し前まで毎朝見ていた光景だったから。

 ──もう、隣にはいない。

 それを思い出すだけで、胸の奥が、ひどくざわめいた。



 整列した生徒たちの向こうに、金髪の少年の姿が見えた。
 章吾は、無意識に目を奪われた。

 金糸のような髪にのせられた小さな花冠。朝の光を受けて、ふわりと輝いていた。

(……あいつが、あいつが、だぞ)

 いつもは貴族様で、澄ました顔で、偉そうにしているくせに──今だけは、どこかの西洋絵画から抜け出した無垢な天使みたいだった。

 そして、ふっと目が合った。たったそれだけで、世界がぐらりと揺れた気がした。

(……隣に、行きたい)

 胸のざわめきは、誰にも止められなかった。



 ボートの順番が読み上げられていく中で、章吾は嫌な予感がしていた。

「次、東舎代表──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル、Shogo Hiwatari」

「……マジかよ」

 一斉に生徒たちから歓声と笑い声が起こった。

「息ぴったりコンビじゃん!」 「夫婦舟〜!」

「うるせぇ……」

 額を押さえながら、章吾はため息をつく。だが、ボートの上で隣に座る金髪の姿を横目で見ると、背筋がすっと伸びた。

 アルジャーノンは視線を前に向けたまま、静かに言った。

「……行くぞ、Hiwatari」

 笛が鳴る。水を切る音が響く。

 最初は息が合わなかった。オールは交錯し、水飛沫が顔にかかる。

「おい、漕げよ!逆!」
「うるさい、そっちが速すぎるんだ!」

 それでも、数度目の往復で、ふたりの動きがようやく噛み合ってきた。 呼吸が合う。リズムが生まれる。

(……懐かしいな)

 同じ部屋で、同じ時間を過ごしていた頃。 無言のやりとりでも、なぜかうまく回っていたことを、体が思い出す。

 ゴールに近づいたころには、もう息は切れていた。 それでも、笑っていた。

「……意外と悪くなかったな」

 ポツリと呟いた章吾に、隣のアルジャーノンがふと顔を向けた。

 風が吹く。花冠が傾く。

 無意識に、章吾はその花を直すために手を伸ばした。 指先が髪にふれた瞬間、ふたりの動きが止まる。

 目が合う。
 逃げなかった。
 ただ、見つめた。

 その時間が、やけに長く感じた。

「……おまえ、まだサッシュずれてる」

「君の花も傾いていた」

「……そういうとこだよ」

 ため息まじりに言いながら、ふたりは顔をそらす。

 風にそよぐ花の冠。水面に反射する光。

 ──少しずつ、何かが戻りはじめていた。



 その様子を、木陰からじっと見つめている影があった。

 レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 濃い緑の葉陰に身をひそめ、彼は微動だにせず、ただふたりを見ていた。

 アルジャーノンが、あの少年──Hiwatariに向かって、かすかに笑った。目元が、ほんのわずかに緩んだだけ。それだけなのに。

(……あれは、僕だけが知っていた笑顔だ)

 そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと苦しくなった。

「……まったく、愚かだね」

 指先はわずかに震えていた。胸の奥に、冷たいものがじわじわと広がっていく。

(あんな顔……もう、僕には見せてくれない)

 嬉しいはずだった。笑っている彼を見られたことが、本来なら。

 でもそれが、自分ではなく、あの少年に向けられていると気づいた瞬間に──何かが、静かに崩れていった。

 記憶のなかのアルジャーノンは、無口で、不器用で、それでも笑えばまぶしかった。その笑顔を、ずっと護ってきたつもりだった。

 なのに。
 今、その笑顔は他人のものになろうとしている。

(……なら、僕は何のために、そばにいた?)

 答えは出なかった。木の幹に背を預け、小さく息を吐く。
 胸の奥で、決意が生まれていた。

(君を、手放す気はないよ。アルジー)

 それは、愛というより祈りだった。願わくば、もう一度、あの笑顔が僕に向けられますようにと。

 風が吹いた。葉がわずかに揺れ、レジナルドの影をゆらした。

 その顔に浮かぶ微笑みは、どこまでも寂しげだった。
 花冠をかぶって、微笑む。春の天使みたいだったアルジャーノン。

 翌日もその姿がまぶたに浮かんで、章吾はどこか落ち着かなかった。

 寄宿舎の廊下を、うろうろと歩き回って。自分の熱を冷やすように、風に当たっていた。

 さらに──

(……どっかで、会わねぇかな)

 そんなことを考えていた。情けないと思いながらも、止められなかった。

 そして、曲がり角の向こうから――アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルが現れた。

「……よ」
 章吾はかろうじて、それだけ口にした。

「……ああ」
 アルジャーノンも、かすかに頷いた。

 それだけだった。ふたりは、すれ違った。背中合わせに、何もなかったふりをして。

 でも、章吾は振り返ることができなかった。

 アルジャーノンも、振り返らなかった。その背中が、やけに遠かった。

(……なんだよ)
(なんで、こんなに、簡単にすれ違えるんだよ)

 胸の奥で、小さな棘がずっと刺さったままだった。



 朝。

 章吾はぼんやりとベッドに腰掛けていた。
 ひとりきりの空間。誰にも気を遣わなくていい。

 好きなときに好きなように過ごせる。それは本来なら、歓迎すべきことだった。それなのに。

(……落ち着かねぇ)

 ポツンと広がる静けさ。どこにも、窓辺で本を読んでいる誰かはいない。

 章吾はわざと大きな音を立てて荷物をいじった。でも、その音すら、やけに虚しく響いた。



 廊下を歩く足音が、やけに響いていた。章吾はすれ違ったアルジャーノンの背中を思い出していた。

(……なんなんだよ、あの空気)

 ぎこちない挨拶。振り返ることもできなかった自分。情けなくて、胸の奥がざわついて仕方なかった。

 そんなとき、後ろから軽い足音が近づいてきた。

「Hiwatari君、浮かない顔だね」

 気だるげな声。振り向かなくても、わかった。レジナルドだった。

「……うるせぇ」

 ぶっきらぼうに返す。レジナルドは気にしたふうもなく、にやりと笑った。

「アルジーと、すれ違った?」
 ビクッと、肩が跳ねた。

 レジナルドは悪びれもせず続けた。

「寂しいんじゃない? ひとりの部屋に戻ったら、静かすぎて……ほら、ね?」

 にやにや。茶化すような、悪戯っぽい笑顔。章吾は顔をしかめた。

「別に、そんなこと──」
 言いかけて、言葉に詰まった。

 返事をし損ねた章吾に、レジナルドはますますにやにやして肩をすくめた。

「ふうん、まあいいけど。顔に、全部出てるよ」

 最後に軽くウインクまでして、レジナルドは軽やかに歩き去っていった。

 章吾はその背中を見送りながら、深くため息をついた。

 胸の中で、ぐらぐらと小さな波紋が広がっていった。

 夜。章吾はベッドに寝転がっていた。天井を、ぼんやりと見つめる。レジナルドに言われた言葉が、まだ耳に残っていた。

「寂しいんじゃない?」「顔に出てるよ」

(……うるせぇ)
(そんなわけ、ねぇだろ)

 そう思って、そう思い込もうとして。でも、どうしても。胸の奥のざわざわは、消えてくれなかった。


 目を閉じる。暗闇の中に浮かぶのは、金色の髪と、蒼い瞳。礼拝堂で。談話室で。窓辺で。静かに隣にいたあいつの姿。

(……あいつ)
(いま、なにしてんだろ)

 無意識に、そんなことを考えていた。隣の部屋にいるわけでもないのに。隣にいない、今だからこそ。やけに、強く思い出してしまう。胸が、ぎゅうっと締めつけられる。

(なんで、こんなに)
 ただの寂しさとも、ただの友情とも違う。章吾は薄く目を開けた。

 冷たい天井を見上げながら、小さく、吐息をこぼした。

(……やっぱ、俺、あいつが好きだ)

 夜の静けさが、余計に、胸のざわつきを際立たせていた。
 寮の談話室。章吾はソファに沈み込んでいた。窓の外では、アイビーの葉が風に揺れている。

 手元の携帯電話が、低く震えた。【父親】。周囲に誰もいないことを確認してから、通話ボタンを押した。

「──もしもし」

 受話器の向こうから、張りつめたような父の声が聞こえた。

『章吾。様子はどうだ?成績は?』

「──まぁ、普通だよ」

 無駄のない問いかけ。そして、父が思い出したように言った。

『留学先には、馴染めたか?』

 章吾は少し黙り、ぽつりと口を開いた。

「いまは、馴染めてる。『友達』のおかげだ」

『そうか』

 父の声は、一瞬だけ柔らかくなった気がした。

『世界を導く者は、支え合う術も覚えねばならん』

 それだけ言って、あっさりと通話は切れた。章吾は、スマホを見つめたまま、しばらく動かなかった。

「……友達、か」

 ぽつりと呟く。

 部屋で、教室で、ボートの上で。
 何度も、何度も、笑って、ぶつかって、それでも並んで立ってきた顔が浮かぶ。そして、胸の奥がざわめいた。

(……あいつも、友達、だよな)

 だけど、どうして。アルジャーノンの顔だけ、こんなにも鮮やかに浮かぶんだろう。

 その答えは、もうとっくに知っていた。

 友達なんかじゃない。俺はあいつのことが──

「Hiwatari」

 心臓がひとつ跳ねて、振り返る。いつも通りの微笑を浮かべた、アルジャーノンが立っていた。

「電話?」
「あ、ああ」
 章吾は目を泳がせた。そのぎこちない視線に、アルジャーノンは眉をひそめた。

「どうした?」
「……なんでもない」
「何かあったか?言ってみろ。友達じゃないか」

 そのとき、「友達」という二文字が──刃物のように章吾を刺した。それがほしかった言葉なのに、それじゃ足りないことに、気づいてしまった。

「……お前はもう、俺の『友達』じゃない」
 章吾は、スマホを握りしめる。

 言いながら、自分の心が小さくひび割れていくのがわかった。

 どこかで、期待してた。ほんの少しでいいから──こいつだけは、わかってくれるんじゃないかって。

 だけど、アルジャーノンの目は揺れたままで。何も気づいていない、みたいで。それが、なんだか腹立たしくて。

(なんで、こいつ、こんなに鈍いんだ)
(俺が、どれだけ──)

 気づけば、アルジャーノンが章吾の腕にそっと手を伸ばしていた。
「意味が分からない、説明し──」

 その瞬間、章吾は手を振り払った。乾いた音がして、アルジャーノンの手が宙を泳いだ。空気が裂けた。

「──っ!」
「俺の気持ちなんて、知らないくせに……!」

 言葉にしたら、かえって苦しくなった。こみあげるものを飲み込む喉が、ひりついた。

アルジャーノンは、少しだけ後ずさる。「Hiwatari……」と呼びかける声が、遠くに聞こえた。

 沈黙の中で、たしかに何かが、壊れた。ふたりの間に積み重なっていた、やわらかくて大切なものが──二度と元には戻らない音で、砕け散った。
 日没前の中庭。

 西日が斜めに差し込むなか、章吾はベンチの端で本を読んでいた。ページをめくる手はゆるやかで、文字の内容は頭に入ってこなかった。

「SHOGO!!」

 いきなり声が響き、顔を上げる。

 チャドだった。息を切らし、砂利を蹴りながら一直線にこちらへ駆けてくる。

「……なんだよ、騒がしいな」

 眉をひそめる章吾に、チャドはまるで弾丸のように言った。

「ちょっと、マジでヤバい。聞いてくれ。オレ、聞いちまったんだよ。アルジャーノンの……縁談の話」

 その言葉に、指先がぴたりと止まった。

「……縁談?」

 喉の奥で、何かがぎりっと軋む。

 チャドは一気にまくしたてる。

「カレッジの個室でさ、たまたま通りかかって。『私が、縁談を、ですか』って……そんなふうに言ってた。たぶん、卒業後に決められた相手と結婚させられるって話だった」

 章吾は手の中の本を、強く握りしめた。ページの端が、くしゃりと折れる。

「……別に、関係ねぇよ」

 かすれた声だった。チャドの顔色が変わる。

「本当に、そう思ってんのか?」

 答えようとしたが、言葉が出なかった。胸の奥で、何かがぐらりと傾いていた。

 チャドは、ふっと笑った。

「……俺、アメリカの高校で、好きだった子がいたんだ。先輩で、笑うとすげー可愛くてさ」

 章吾は、黙って聞いていた。

「結局、なにも言えなかった。付き合ってもなかったし、タイミング逃して……そしたら、そのまま卒業して、すぐに結婚したんだよ」

 その声には、普段の軽さはなかった。

「たったひと言、言ってたら、何か変わってたかもって、今でも思う。フラれてもよかったのに」

 章吾は視線を落としたまま、小さく舌打ちをした。

「知らねぇよ……人の恋愛なんて、関係ねぇだろ」

 立ち上がった足が、思わず前へ踏み出す。その一歩が、逃げだということは、痛いほど分かっていた。

「……関係ねぇくせに、なんでそんなに苦しそうなんだよ」

 チャドの声は追いかけてこなかった。その言葉だけが、背中に残った。

 章吾は歩く速度を上げた。足音が、やけに大きく響いた。

 背後から、かすかな声が聞こえた気がした。

「……頑張れよ、バカ」

 なぜかその言葉だけが、妙に胸に染みた。



 夜。寄宿舎の廊下を、章吾はひとり歩いていた。ローファーの音が、やけに響く。

(俺には、関係ない)

 何度そう唱えても、足元が揺れるような感覚は消えなかった。

 図書室の前を通りかかる。開け放たれた扉の向こうに、金色の髪が見えた。

 アルジャーノン。机に向かい、本を読んでいる。白いシャツの襟、すっと伸びた背筋、静かな横顔。

 胸が、きゅっと鳴った。

 この空気も、この光景も、やがて手の届かないものになる。

 章吾は扉から目をそらし、足早に背を向けた。

「……くそ」

 低く吐き捨てた声は、自分に向かっていた。

 わかっていた。もう惹かれている。どうしようもなく。

 夜の風が廊下に吹き込み、章吾は肩をすくめて目を閉じた。



 同じころ。

 アルジャーノンは、自室の窓辺に立っていた。手には、母から届いた手紙。差し出された縁談と、卒業後の予定。

 目を閉じる。

(選ぶ自由など、最初からなかった)

 家の名を継ぐ者として、誇りを守ること。ただ、それだけを信じてきた。

(私情など、許されるはずがない)

 それでも、浮かんでしまう。

 無邪気な笑顔。ふいに振り払われた手の感触。

(Hiwatari。君は──)

(君は、私の誇りを揺らす)

(君は、私に「望んではいけないもの」を、望ませる)

 窓の外では、霧が石壁を這っていた。

 ペンを握り、返事を書こうとした。でも、紙には、一文字も浮かばなかった。

「……馬鹿な」

 自嘲のように漏らす。

(それでも、君に、触れたかった)

 沈んでいく想い。夜は深く、ふたりの心を、静かにすれ違わせた。
 胸の奥には、昨日チャドから聞かされた言葉がまだ刺さったままだった。──アルジャーノンには、もう決められた未来がある。

 章吾は回廊をひたすらに歩きながら、無理やり自分に言い聞かせる。朝日の明かりも空しく、すべてがモノクロに見えた。

(……そうだった。俺が関われるような相手じゃない)

 だけど、思えば思うほど、あいつの顔も、声も、ふとした仕草も、頭の中に鮮明に蘇ってしまう。

 ポケットの中で拳を握る。進まない足を無理に動かした、そのときだった。

 回廊の角を曲がった先に、アルジャーノンの姿があった。金色の髪を微かに濡らしながら、彼もまた一人で歩いていた。

 心臓がどくんと脈打つ。

 そして、目が合った。

 一瞬だけ、互いに、何も言わずに。そしてすれ違った。言葉ひとつ交わさず、石畳に小さな靴音だけを残して。 

 立ち止まることも、振り返ることもできなかった。

 これでいい、これでいいんだ。そう思いながら、胸の奥では、ぐしゃぐしゃの感情が暴れ続けていた。



 章吾は裏庭へと足を向けた。石畳は先程よりさらに濡れて、鏡のように自分を映していた。

(俺、ひっでぇ顔)

 誰もいない庭で、石畳を覗き込む。隈のできた目元を見て、喉の奥が詰まった。

 せめて、もう少しだけ、傍にいられたら。そんな届かない願いを、心の奥でそっと握りつぶした。



 午後、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルもまた、一人で回廊を歩いていた。手には革張りの本。

 視界の端に、黒い髪の影が見えた。Shogo Hiwatari。

 中庭で、ひとり、うつむいていた。

 アルジャーノンは立ち止まった。声をかけたかった。ただ名前を呼びたかった。

 でも、電話口の母の声が脳裏に甦った。私には、そんな資格はない。未来を縛られた自分には、もう。踏み出すことも、許されない。

 たとえ、こんなにも惹かれてしまっていても。

 君のことを、こんなにも追いかけたくなるなんて、知らなかった。

 そっと視線を伏せ、その場を離れた。
 放課後、寄宿舎の裏庭。いつもは静かなこの場所に、今日は妙な熱気が漂っていた。

 向かい合うのは、章吾とレジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 普段はろくに話しもしないふたりが、今、まるで一触即発の空気をまとって立っていた。

「……で?」
 壁にもたれながら章吾は睨みつける。

 レジナルドは珍しく真剣な顔だった。
「アルジャーノンの縁談の件、知っているよね」

「まあな」
 冷たく返したが、心の奥はざわついていた。

 レジナルドはゆっくり手を組み、
「私は、彼が不幸になるのを見たくない」と言った。

「君も、同じでしょ?」

 一瞬、答えに詰まった。でも、嘘はつけなかった。
「……ああ」

 かすれた声で応じると、レジナルドはふっと微笑んだ。どこか諦めを孕んだ笑みだった。

「なら、共闘しようよ」
「は?」
 思わず聞き返す。

「君も私も、立場は違えど想いは同じ。彼を守りたい。なら、手を組むべきだよ」
 ビジネスの交渉みたいな口調に、章吾は苦笑したくなった。だが、この提案だけは無視できなかった。

 静かに頷く。
「……わかった。共闘、してやるよ」

 レジナルドは心底嬉しそうに笑った。
「決まりだ、Hiwatari君」

 風が吹き抜け、新しい戦いの幕が静かに上がった。



 寄宿舎の談話室。夕暮れの光が古びた机に斜めに落ちている。

 章吾はノートパソコンを開き、隣には腕を組んだレジナルド。緊張気味の彼を横目に、章吾は涼しい顔で黙々とキーを叩いた。

 画面には、令嬢のSNSアカウント。レジナルドが見つけたものだった。

 パーティー写真のバックに映る金色のモザイク壁画を見つけた章吾は、すぐに画像検索にかける。
 数秒後、高級クラブ『The Golden Ivy』──ロンドン中心部、未成年立ち入り禁止エリアがヒットする。

「……ここだな」
 低く呟き、投稿時間に目を走らせる。夜の2時過ぎ。明らかに未成年がいる時間ではない。

「まずいな、これは」
 レジナルドがぽつりと言った。

 さらに章吾は、写真に映る男のタトゥーに目を留めた。この模様、どこかで──。

「『ダンディ・ライオンズFC』の選手?いや、まて──」
 章吾は顎に手を置いて、考え込んだ。
「まさか……いや違うか……」

「ちょっと待って。この画像、反転してる」
 レジナルドが、気づく。

「そうか。もう1回、画像検索だ」

 章吾は、伏し目がちに画面を見つめた。

 結果──その模様は、選手の熱狂的なサポーター、ロックバンドのボーカル「Tomy」のものだった。

 絶句するレジナルドをよそに、章吾は画面を閉じた。

「証拠は揃った。この女、アルジャーノンにはふさわしくねぇ」
 冷たく言い放つと、レジナルドは血の気の引いた顔で呟いた。
「……君、思ったより恐ろしいね」

 章吾は肩をすくめた。
「別に……必要だったから、やっただけだ」
 口にした瞬間、自分がひどく薄汚れているような気がした。

 ──お前を、こんな奴になんか、渡すもんか。



 夕暮れの寄宿舎、談話室の隅。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、椅子に座っていた。

 目の前には、章吾とレジナルドが並び立ち、無言でタブレットを差し出す。

 画面に映る、令嬢の素行を示す決定的な証拠。アルジャーノンは、眉ひとつ動かさず、静かに画面を閉じた。

「……私の家に、泥を塗ったつもりか?」
 静かな、冷えた声。

 章吾は一瞬目を伏せた。
 ──今、言わなきゃ。あいつは、あの女と一生……

 しかし、喉が絞まるようで、声が出ない。それを見たレジナルドは、不適な笑みを浮かべた。

「章吾が見つけたんだ。僕は、少し心配だっただけ」
 レジナルドの声は滑らかだったが、手が震えている。

(こいつ……!)
 章吾の額に、一筋の汗がつたった。

 蒼い目が、章吾を捉える。
 重い沈黙。時計の針の音だけが、響いていた。

 それから、彼は何も言わず──ふたりを残して去っていった。



 レジナルドは、その場にへたり込んで、肩を震わせた。

「……アルジー、怒ってた。どうしよう」
「お前、なぁ……」
「……嫌われた、もう生きていけない、僕の全て……僕の初恋」

 独り言のように繰り返すレジナルド。章吾の声はまるで聴こえていないようだった。

(……嫌われた、か)

 章吾の手足は、芯から冷たくなっていく。

 こんなこと、自分だってしたくなかった。だけど、こうするしか、なかったんだ。

 自分のなかに、黒い霧が立ち込めていた。



 その日の夜。

 章吾の部屋に、ノックの音が響く。

 あいつだ。章吾の心は知っていた。 

 心臓の鼓動が早くなる。

(……あいつは、俺に何て言うかな)

 汗ばんだ手で、慎重にドアを開く。

 ──そこには、アルジャーノンが立っていた。

「Hiwatari」
「……レジナルドに頼まれて、あんな事をしたのだろう」
 瞬間、章吾は目を見開いた。

(俺のことを、信じている)

 胸が熱い。苦しい。

「レジナルドは、そういう奴だと知っている。でも、なぜだ。なぜ、君は力を貸した」
 アルジャーノンの声には、怒りよりも、困惑の色が滲んでいた。
 
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」
 かすれた声で、絞り出すように言った。

「Hiwatari、それはどういう──」
 言葉を遮るように、章吾は力任せにドアを閉める。冷たい隙間風が、ふたりの背中をなぞった。


 小刻みに揺れるドアの前、アルジャーノンは、立ち尽くしていた。

 音を失った世界の中。アルジャーノンは思う。

 まさか。あれは──好きだと、そういう意味だったのか。

 頬がかっと熱くなった。馬鹿な。ありえない。ありえないはずなのに、止まらない。

 ぐしゃぐしゃに顔を歪め、椅子の背もたれを握りしめた。

(Hiwatari──君はこの扉の向こうで、一体何を考えている。私は、どうしたらいい)

 答えは、どこにもなかった。





 深夜、寄宿舎の個室。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、ベッドの上で天井を見つめたまま、身動きもせずにいた。

 胸の奥だけが、どうしようもなく、うるさかった。

(Hiwatari)

 あのときの声が耳にこびりついて離れない。

『お前に結婚なんてしてほしくない』

 たったそれだけなのに、どうしてこんなにも。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。息ができない。気づけば唇が勝手に動いていた。

 かすれた声で、
「Shogo……」

 呼んでしまった。

 瞬間、全身に信じられないほどの熱が広がった。
跳ね起き、毛布を蹴散らし、頬まで真っ赤になっているのがわかる。

「……な、なにを。私はいったい──」
 もだえるように枕を抱きしめる。胸の中では、名前だけが、何度も何度もこだました。

 Shogo──

(……馬鹿だ。私は、もう……取り返しがつかない)
(父に知られたら──否、知れても構わない。私の想いは、もう……)

 震える手で毛布をぎゅっと掴む。

 夜の静けさの中、ただひとり、アルジャーノンは自分の鼓動に翻弄され続けていた。