Founders' Day Ceremonyが終わった礼拝堂。さっきまでの厳かな空気がうそのように、行き交う人々でざわめいていた。

 生徒たちは互いにスーツの袖を引き、ネクタイを直しながら、来賓たちの間を縫って歩いている。章吾は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。

 そこに、近づく足音。

「あの!」

 背後から聞き覚えのある声がして、振り返ると──栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女が立っていた。
 どこかで見た顔だ、と思うよりも早く、彼女がぺこりと頭を下げた。

「ガーデンパーティーのとき、お見かけしました。
わたし、ここの在校生の妹で……チャドって知っていますか?」
「そうだったのか。チャド、いい奴だよな」

 彼女の顔がぱっと明るくなった。

「あのときは、あまりちゃんとお話できなかったので……今日また会えて嬉しいです」
「そりゃ、どーも」
「私、日本のアニメが大好きで!ずっと日本の方と話してみたかったんです」

 笑顔でそう言われて、章吾は戸惑いながらも、軽く会釈を返す。

「……そっか。アニメ、何観てるの?」
「いろいろ観てますけど……最近は『蒼月の双剣』です!あと、昔の『光のグレイス』も!」
「……まさかの名作チョイスだな」

 少女は嬉しそうに笑ったあと、ふっと視線を逸らすように言った。

「……でも、正直それより気になってるのは、あなたとアルジャーノンさんのことなんです」

 心臓が、どくんと跳ねた。

「すごく……仲がいいんですね。見てると、恋人同士みたいに見えるから。私まで、見てると嬉しくなっちゃいます」

 思わず息を呑む。ごまかそうとする前に、少女は慌てて首を振った。

「ごめんなさい、変なこと言いました!でも、きっと、他にもそう思ってる人、いると思います」

 ──他人から、そう見えるんだ。あいつがどう思ってるかじゃない。もう、周りには「そう見える」距離感なんだ。

「……迷惑、かけてないかな」

 ぽつりとこぼした言葉に、少女は静かに微笑んだ。

「そんなふうには、見えませんでしたよ。アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした」

 しばし沈黙していると、
「あっ!チャドだ!──いつかまた、お話しましょうねっ!」と少女は一礼してから駆けていった。



 少女と別れた後、章吾は、礼拝堂を抜け、人気のない談話室へと逃げ込んだ。

 昼間でも薄暗いその部屋には、大きな暖炉がある。春とはいえまだ肌寒い寄宿舎の空気の中で、炭火が赤く光っていた。

 外は春の陽気が満ちていても、この場所だけは冬の名残を留めたまま、ひっそりと静かだった。

 章吾はソファに沈み込み、少女の言葉を反芻していた。

(恋人、みたい……か)

 他人にそう見られるほど、俺たちは近かったのか。目をつぶると、あのやさしい声が蘇る。

『アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした』

 苦い思いが胸の奥でにじんで、思わず顔を伏せる。

 ──カツン。廊下に、小さな靴音が響いた。
 
 章吾は無意識に顔を上げる。談話室のドアが、静かに、ためらうように開いた。

 そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。

 一瞬、ふたりの視線が重なる。章吾の喉が、ごくりと鳴った。

 アルジャーノンも、わずかに足を止めたが、何も言わず、ゆっくりと歩を進める。

 そして、章吾の隣のソファへ。距離は、ほんの数十センチ。触れそうで、触れない、静かな緊張。

 その存在感が、胸の奥をかすかにざわつかせた。

 沈黙が落ちる。暖炉の赤い火だけが、ぱち、と音を立てた。

 章吾はちらりと横目で隣を盗み見る。アルジャーノンは手を組み、燃え残る炭火を見つめていた。

 ちらちらと揺れる炎が、彼の横顔を柔らかく照らす。蒼い瞳に、赤い光がゆらりと映っている。

(……なんで、俺の隣に座るんだよ)

 聞きたかった。でも、聞けなかった。この時間が、壊れてしまいそうで。

 章吾はそっと目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。

「……俺、歌……下手だったろ」

 それは、自分でも驚くほど素直な声だった。沈黙が一瞬、深くなる。

 やがて──

「……君の声は、よく響いていた」

 低く、芯のある声が返ってきた。

「……きれいだった」

 思わず、章吾はアルジャーノンを見つめた。彼はまっすぐに章吾の目を見ていた。一切のためらいも、飾りもない視線で。

「私には、そう聴こえた」

 声もまなざしも、あまりに真っ直ぐで、逃げ場がなかった。

 章吾は反射的に視線をそらす。こめかみにじんわりと熱が広がる。

「……やめろよ、からかうな」

 言いながら、唇をかすかに噛む。自分でも、声が少し震えていたのがわかる。そのとき、すぐに返ってきた。

「からかっていない」

 思わず振り返ると、アルジャーノンが、すぐそこにいた。距離が、さっきより近い。

「私は、君の声が好きだ」

 ぽつりと落とされたその言葉に、章吾の胸は高鳴った。心臓の音が、やけにうるさい。

「……バカじゃねーの」

 呟いたその声に、どこかすがるような照れが滲む。思わず目を伏せた。

 アルジャーノンは何も言わなかった。ただ隣で、じっと章吾を見つめていた。

 そのときだった。

 ──「君たち」

 静かに開いた扉の隙間から、老教授が顔をのぞかせた。

「……よく『ふたり』でいるのかね? ずいぶんと仲がよいようだ」

 一瞬にして、談話室の空気が凍りついた。

 ぽつりと落ちたその言葉は、軽口にも冗談にも聞こえなかった。どこか探るようで、含みがあって──皮肉よりも残酷だった。

 教授は、何も気づかぬふりでにこやかに微笑み、そのまま扉を閉めた。


 章吾は固まったまま、呼吸の仕方さえ忘れていた。鼓動が、耳の奥で嫌な音を立てている。

 隣で、ソファがきしむ。アルジャーノンが、ゆっくりと立ち上がった。

「……悪かった」

 その一言は、驚くほど小さくて。でも確かに震えていた。

 章吾は思わず顔を向けた。
 ──逃げるような背中。

「待って──」

 声が、出ない。喉の奥が焼けついたみたいで、言葉にならなかった。

(なんで……謝るんだよ)

 謝られる理由なんて、なかった。でも──それは、明らかに「線を引く」ための言葉だった。

 何かを拒まれた気がして、胸がぎゅっと締めつけられた。

 章吾は、なにもできずに、その背中を見送った。扉が閉まる音が、妙に遠くで聞こえた。



 夜。

 ベッドに背を沈めながら、章吾は天井の暗がりを見つめていた。手足は冷えきっているのに、胸の奥だけがずっと熱い。

(……あのとき、呼び止めればよかった)

 あんなの、「教授も冗談を言うんだな」って笑えばよかった。何も変わらないって、言えばよかったのに。

 でも、できなかった。手を伸ばす勇気が、出なかった。

(あいつ……俺と一緒にいると、恥ずかしいと思ったのか?)

 考えるたびに、心臓がぎゅうっと痛む。呼吸の仕方さえ、わからなくなりそうだった。

 ただひとつ、はっきりしているのは──あのとき、あの背中が、世界でいちばん、遠かったということ。

 どれだけ声を上げても、届かないところへ行ってしまう気がした。

 目を閉じると、胸の奥で、ぐしゃりと音がした。

 それが、泣きたいという感情なのか、好きという気持ちの破片なのか──自分でも、もうわからなかった。