朝から空が、どこか落ち着かない色をしていた。
晴れてはいるのに、光が白すぎる。
今日は保護者を招いた式典の日だった。中庭の生徒たちは、いつもより静かだ。足音は抑えられ、笑い声もどこか上ずっている。
章吾は、窓辺の席にひとりで座っていた。
「……来ると思う?」
気配に振り返ると、アルジャーノンが立っていた。その手の甲が不自然にこわばっていた。
「来るさ。おまえんとこの親父……欠席なんかしないだろ」
章吾はそう言いながら、隣の椅子を足で引いた。
アルジャーノンは無言で腰を下ろす。影が落ちる。
ひとすじ、風が冷たく吹いた。いつもなら皮肉のひとつも返すくせに、今日は何も言わなかった。
「にしても、なんか変な空気だよな、今日……」
軽く肩を叩こうと、章吾はアルジャーノンの肩に手を伸ばした。
──その瞬間。
「やめろ」
バシッ。
はじかれた音が響いた。
鋭く振るわれたアルジャーノンの手が、章吾の手をたたき落とした。
驚きよりも先に、理解の追いつかない動揺が広がる。それと同時に、風の音が止み、空気が凍った。
ゆっくりと歩いてくる黒の燕尾服。
背筋を真っすぐに伸ばし、絶対に揺らがない目でふたりを見下ろしてくる男──ロデリック・フォーセット卿。
章吾の背に冷たいものが走った。
「まさか──」
ロデリックは一歩だけ、前に出る。彼は事実を確認するような、無表情な声音で続けた。
「──男と、むつみあっているのか?」
風が吹いた。テーブルクロスの端がめくれ、ナプキンが翻る。
アルジャーノンの瞳が、揺れた。ほんの一瞬、唇が動くが、言葉にはならない。
いずれ、自分の隣には「誰か」が用意される。その顔も、名前も知らないまま──家の存続のため。
「違います」
かろうじて口をついて出た声は、乾いていた。言い切ったあと、アルジャーノンはほんのわずか、目を伏せる。
「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」
それはまるで台本の一節のように、淀みなく、感情のない言葉だった。
章吾は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
視線を感じる。目の前で、自分は判断されている。貴族の名の下に、家の格式の下に、「それ」は許されるべきではないと──そう言われている気がした。
「アルジャーノン」
父が再び名を呼ぶ。声は重く、乾いていて、どこまでも冷たい。
「お前は、我が家の名をなんだと思っている。」
アルジャーノンは答えなかった。静かに目を伏せたままだ。
章吾は、心の奥で小さく何かが壊れる音を聞いた。
*
扉が閉まった瞬間、空気が一気に濁った。
章吾は寮の部屋に入るなり、カバンを床に投げるように置いた。靴も脱ぎ捨て、ベッドの端に腰を下ろす。
アルジャーノンは部屋の奥、机の前に立ったまま、黙っていた。上着の襟元を緩めても、その背はまるで鉄で固められたように硬い。
しばらく沈黙が続いた。
章吾の中に渦巻いていたものが、限界を超えるのにそう時間はかからなかった。
「さっきのさ……」
低く、しかし抑えきれない声が部屋に落ちた。
「『むつみあっているのか』って、言われてさ。なんで否定した?」
アルジャーノンは振り向かなかった。
彼は微動だにせず、ただ黙っていた。その無言が、章吾の怒りに火をつける。
「俺といたのが、そんなに恥ずかしかった? 『お見苦しいところ』って、俺のことか?」
椅子を蹴るように立ち上がる。アルジャーノンとの距離を詰める。
それでも、彼はまだこちらを向こうとしなかった。
「ふざけんなよ……おまえ、いつも自分のことばっかじゃんか」
章吾の声が少しずつ上ずっていく。
「おまえの事情も、家のことも、勝手に抱えてりゃいい。でもな、こっちはずっとそばにいて、わけもわかんねーまま『見苦しい』って言われて、はいそうですかって黙ってられるかよ!」
その瞬間だった。
「やめろ!」
アルジャーノンが振り返り、叫んだ。その声には、かすれたような痛みが混ざっていた。
章吾は言葉を失った。
アルジャーノンの顔が、ほんの少しだけ歪んでいた。
怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。追い詰められた人間の顔だった。
「……すまない」
絞り出すような声。
「でも、私は……君を守れる立場では、ない」
その言葉に、章吾の胸の奥がきしむ。
「なにそれ」
彼はベッドに倒れ込むように座り、背を向けた。
「もういい。おまえのそういうとこ、ほんと嫌い」
布団を被り、枕に顔をうずめる。その背中を、アルジャーノンはただ見つめていた。
そして、静かにベッドの端に腰を下ろす。
顔を上げると、天井の模様が滲んでいた。知らぬ間に、目尻から涙がひとすじ、頬を伝っていた。
──なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。
*
夜が来ても、部屋の空気は凍ったままだった。
章吾はベッドに背を向けたまま、目を閉じていた。眠れているわけじゃない。眠ったふりをしているのだ。
隣のベッドからは物音ひとつしない。アルジャーノンの気配はある。息づかいが、かすかに布の向こうから伝わってくる。
「……謝るぐらいなら、最初から言うなよ」
布団の中で、小さくつぶやいた。背中越しの距離は、たった数メートル。そのはずなのに、遠い。
あいつは、俺のことを「見苦しい」と思ってたんだろうか。
それとも──あんな父親の前では、何もかも諦めてしまうほど、従うしかない存在だったのか。
章吾は、答えのない問いをいくつも胸に抱えながら、目を開けた。
天井は、闇に溶けてどこまでも遠かった。
一方のアルジャーノンは、カーテンを閉めたベッドの中で、毛布をきつく抱いていた。
心臓の音がやけに耳につく。鼓動が、罪悪感を刻むように打ち続けていた。
「Hiwatari ……」
名前を呼んでも、声にはならなかった。自分は守れない立場だと、言ってしまった。
それは本心だった。家の名、伝統、父の目。そのどれもが、彼の言葉より重くのしかかってくる。
でも、それでも──。
「君の手を、本当は払いたくなかった」
あのとき、あの肩に触れてくれたあたたかさに、少しでも応えることができたなら。
悪かった。
ありがとう。
そばにいてほしい。
何ひとつ、口にできなかった。
きつく目を閉じると、また涙が滲んだ。父の前では泣いたことなど一度もなかったのに。
なぜ、章吾の背中を見ると、涙が出るのだろう。
──ひとりになるのが、あんなに怖いなんて、思っていなかった。
*
朝が来た。
章吾は毛布を頭からかぶったまま、うっすらと目を開けた。
隣のベッドは、変わらず静かだった。
「……起きてる?」
問いかけは、自分のために吐き出したようなものだった。当然、返事はない。
すくりと起き上がり、靴を履く音だけが響く。
キッチンの片隅に置かれたティーポットに水を注ぎ、湯を沸かした。
「……別に、謝れとは言ってねえよ」
呟いた声もまた、返事のない空間に溶けていく。
背後で、ふいにベッドの軋む音がした。
章吾が振り返ると、アルジャーノンがゆっくりと起き上がっていた。
髪は乱れていたが、制服のシャツのボタンはきちんと留まっている。それだけで、いつも通りの彼に見えた。
しかし、目は赤かった。
「起きたんなら、こっち来れば?」
そう言うと、章吾は黙ってカップを押し出した。
アルジャーノンは数秒のあいだ迷っていたが、やがて歩み寄ってきた。
向かい合って座ると、ふたりの間には湯気だけが揺れていた。
「昨日は、悪かった」
アルジャーノンが言った。その声は、ひどく低くて小さかった。
章吾はひと口だけ、紅茶を飲んだ。熱さが喉を通り、胸の奥で静かに溶けていく。
「俺も、怒りすぎた」
それだけ言って、目をそらす。するとアルジャーノンが、珍しく少しだけ笑ったような気がした。
ふたりの間に、まだ拭いきれないものはあった。
それでも──今はそれでいい。
その朝の紅茶は、どこか苦くて、でもほんの少しだけ甘かった。
──名前ひとつ、呼べないくせに。それでも俺は、あいつの隣にいたかった。
談話室へ向かう途中、章吾はひとり苛立っていた。
視線の先、ベンチに並んで座るふたり──アルジャーノンと、レジナルド。
レジナルドはにこやかに笑いながら、アルジャーノンの肩に軽く手を置いていた。
「ねぇ、アルジー。君、昔はもっと素直だった気がするけど?」
章吾の胸に、じわりと熱がにじんだ。
(……アルジー?なんだよそれ)
自分は──いまだに。あいつの名前を、口に出せたことすらない。隣にいるくせに。それなのに、レジナルドには、あたりまえのように許されている。
視線を逸らそうとした、そのとき。
「……やめろ、レジー」
低く、静かな声が響いた。アルジャーノンだった。
その呼び方すら、章吾には遠かった。
──やめろ、レジー。
ふたりだけに許された、親しい響き。
レジナルドは肩をすくめた。
「昔は僕のこと、朝も夜も呼び出してたくせに。懐かしいね」
軽く、からかうように。そして何事もなかったかのように、話題を切り替える。
「そういえば、今年のクリケット大会、また僕らがペアになるかもね」
「ああ」
アルジャーノンが、短く答えた。レジナルドは、満足げに微笑む。
章吾は、ただ黙ってそのやりとりを見つめていた。胸の奥でぐるぐると渦巻くものを、必死に押し殺しながら。
──俺には、呼べないくせに。
隣にいるのに、どうしてこんなにも遠いのか。改めて思い知らされた。
やがてレジナルドは、満面の笑みのまま章吾に向き直った。
「そうだ、Hiwatari君」
章吾は、無言で視線を返す。
「君、クリケットの経験ある?」
軽い調子。無邪気に聞こえるその声の奥に、微かな意図が透けていた。
「……ねぇよ」
短く答える。それ以上、言葉を重ねる気になれなかった。
レジナルドは、肩をすくめる。
「そっか。まぁ、アルジーと組むには、まだ早いかもしれないね」
さらりと、何でもないふうに。それがかえって、章吾の心を波立たせた。
「『アルジー』って、そんなに軽く呼べる名前かよ」
気づいたら、口に出していた。
「そうだよ?だって僕の幼馴染みだから」
レジナルドは、負けじと言い返す。
「それ、嫉妬?Hiwatari君」
「……嫉妬?」
その言葉が、胸に鈍く刺さった。冗談にしては、鋭すぎた。心のなかで何かが壊れる音がした。
そのとき。
「……レジー!」
低く鋭い声が、章吾の前に割って入った。
アルジャーノンだった。彼はまっすぐレジナルドを見据えたまま、静かに告げる。
「言葉を選べ」
滅多に見せない、張り詰めた声音だった。レジナルドは、小さく目を見開いた。
そして、困ったように笑いながら言った。
「……ごめん、アルジー。冗談のつもりだったんだけど」
あくまで軽く、場をなだめるように。
章吾には、その一瞬、アルジャーノンの瞳に浮かんだ色が焼き付いて離れなかった。
守ろうとする目。自分に向けられた、はっきりとした、意志。
章吾は、そっと拳をほどいた。小さな音を立てて。
レジナルドは、困ったように笑ったまま、軽く手を上げ、その場を離れていった。
朝の光が、芝生の上に静かに伸びていく。
寄宿舎の庭に、新しい風が吹いた。
談話室に静寂が戻る。残されたのは章吾と、アルジャーノン。春の空気が、どこか気まずく流れていた。
章吾は、両手をポケットに突っ込んだまま、ベンチの端に立っていた。何か言いたかった。
怒鳴りたかった。ふざけんな、って。俺だって、ちゃんと──でも口が動かなかった。
何をどう言えばいいのか、わからなかった。
アルジャーノンが、ゆっくりと章吾に近づく。
「……すまない」
ぽつりと落とされた声に、章吾は驚いた。
悪いのはレジナルドだ。無神経にあんなことを言ったあいつのほうだ。
それなのに、アルジャーノンはまっすぐ章吾を見ていた。蒼い瞳が、まるで章吾の痛みをすべて受け止めようとするみたいに。
(……やめろ)
そんなふうに、優しくすんな。章吾は奥歯を噛みしめた。
「……別に、気にしてねぇし」
吐き捨てるように言うと、アルジャーノンの表情が陰った。
言葉が途切れ、沈黙が落ちる。
章吾は目をそらしたまま、小さく息をついた。
春の風が中庭を抜け、ふたりの間に、どうしようもない遠さを残していった。
*
夜の寄宿舎は静まり返っていた。消灯後の廊下は、月明かりだけが薄く照らしている。
章吾はベッドに横たわり、天井をじっと見つめていた。何度目を閉じても、蒼い瞳が脳裏に浮かんだ。
シーツを握りしめる。
「……なんで、俺じゃないんだよ」
胸の奥で、小さく崩れた声がした。
同じ頃、同じ部屋で、アルジャーノンもまたベッドに座り、カーテン越しに夜空を眺めていた。
高く昇る月。けれどその美しさも、今の彼にはただ遠く、冷たく感じられた。
(……Shogo Hiwatari)
心の中で、そっと名前を呼ぶ。ただ呼ぶだけで、胸が痛んだ。その名を呼んでも、君は気づいてくれない。私が何を願っているのか。
放課後の図書室。
最初はただ、本を返すだけのつもりだった。
けれど、棚の向こうにあの姿を見つけた瞬間、時間の流れが変わった気がした。
白いシャツ、整ったネクタイ、そして指先に一冊の古書。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、まるで何百年前からそこにいたかのように、静かにページをめくっていた。
「……やぁ、Hiwatari」
ふと棚の向こうから声がかかった。章吾は、ほんの少しだけ肩を強張らせた。
「……おう」
短く返す。ぎこちない沈黙。昨日のレジナルドとの一件。その後、うまく言えなかった自分の言葉。胸にしこりのように残っていた。
アルジャーノンはそんな様子を気にするふうもなく、静かに本を開く。ぱらぱらとページをめくる繊細な指先。章吾は、思わず覗き込んだ。
そこには、びっしりと、見たこともない文字列が並んでいる。
「……なに、それ」
思わず問いかけると、アルジャーノンは顔を上げずに答えた。
「ラテン語だよ。この学校の図書室には、何世紀も前の古書が保管されている」
それから、自然な仕草で──ページを指でなぞりながら、流れるように読み上げた。
「……『In silentio crescit anima』」
柔らかな発音。耳に心地よい響き。アルジャーノンは顔を上げ、さらりと訳した。
「『静けさの中で、魂は成長する』――アウグスティヌスの言葉だ」
さらっとした説明。それが、彼にとってどれほど自然なものか、痛いほど伝わった。
(……すげぇ)
素直に、そう思った。同時に、胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
(……やっぱ、こいつは──)
本物なんだ。エラグレイヴ・カレッジの頂点に立つ、本物の貴族。
届かない。胸の奥で、誰にも言えない言葉が、静かに沈んでいった。
章吾は、黙ったまま立ち尽くしていた。
すると、アルジャーノンが手にしていた古書を閉じ、章吾に差し出した。
「……読んでみる?」
驚いて顔を上げる。
「……いや、俺……ラテン語なんか、わかんねぇし」
ぼそっと答えると、アルジャーノンはほんの少しだけ口元を緩めた。
「わからなくてもいい。最初は、言葉の響きだけでも感じればいいさ」
柔らかい声だった。押しつけがましくもなく、ただ自然に。
章吾は、差し出された本をぎこちなく受け取った。分厚くて、重たい。擦り切れた革装の表紙。長い年月を超えてきた本。
(……俺なんかが、触れていいもんなのか)
そんな考えがよぎったけれど、手の中には、たしかな温もりが残っていた。アルジャーノンが、触れていたもの。
胸の奥が、そっと震える。
「……ありがと」
かろうじて、それだけを呟いた。アルジャーノンは静かにうなずく。図書室の静寂がふたりを包み込んだ。
外では、春の風が木々を揺らしている。その音が遠く聴こえて、別世界みたいだった。
数日後。また図書室。
章吾は、自分でも驚くほど自然に、そこにいた。
借りた本を返すため。それだけだったはずなのに、棚の向こうに白いシャツの背中を見つけたとき、思わず足を止めていた。
アルジャーノンも気づき、軽く会釈する。ごく自然な動作。
章吾が近づくと、彼は手にしていた本をゆっくりと閉じた。その表紙に見覚えがあった。
──『冬の翳りに花は咲く』。
祖父・日渡秋水の代表作。世界的に評価され、英訳版も多く出ている。
章吾の視線に気づいたのか、アルジャーノンが穏やかに問いかける。
「……もしかして、『日渡秋水』と君は血縁か?」
「ああ。祖父だよ」
章吾はそう言って、椅子に腰を落とした。
「『日渡』って名前、出した瞬間から空気変わるんだよ。親切なやつもいたけど、勝手に期待してくるやつもいた。……それがしんどくて、ずっと黙ってた」
その言葉を、アルジャーノンは一言も遮らなかった。
彼は静かに、章吾の正面に立ったままだった。
「こっちでも言うつもりなかった。でも、おまえが読んだから、もう意味ねぇな」
「……名とは、ただの記号だ。だが時に、人間そのものより重くなる」
「わかってんじゃん」
章吾は、ふっと苦く笑った。その笑いには、自嘲と、どこか安心の影があった。
自分の背負うものを、言葉にせずとも理解する相手が、いま目の前にいる。その事実だけで、胸の奥がじんと熱を帯びていく。
そのとき。
「Yoー!Shogo!アルジーー!」
元気すぎる声が、図書室の静寂を破った。チャドだった。大きな荷物を肩に抱えたまま、にこにこ笑いながら近づいてくる。
「お前ら、また一緒かよー! もしかして、運命の赤い糸ってやつ?」
ふざけたチャドの声に、章吾の顔が一瞬で熱を帯びた。
「……ちげーし!」
即答したものの、声は裏返り、説得力などどこにもなかった。
チャドは、珍しく押し黙った。
隣のアルジャーノンは、いつも通り静かに本を閉じていたが──耳が、わずかに赤い。
(……バカか、チャド)
内心で悪態をつきながらも、胸の奥が落ち着かなかった。
(赤い糸、だなんて)
笑い飛ばせばよかった。くだらねえ、って鼻で笑ってやればよかった。なのに、頭のどこかで想像してしまう。指と指が、目に見えない糸で繋がってるなんて。そんな、馬鹿げた話。
でも、もしそれが本当にあるとしたら──
自分でも気づきたくなかった気持ちが、輪郭を持ち始めていた。
章吾は、ページをめくる手を止めた。
遠くに座っているアルジャーノン──姿勢よく、穏やかな指先でページをめくるその横顔。
(……あいつの、隣にいたい)
自分でも、あっけないほど自然に思った。
でも、すぐに胸の奥がひりついた。その人は、ただのクラスメイトじゃない。レイヴンズデイル家の嫡男。気高く、正確に言葉を選び、伝統の重みとともに息をしている。
(……わかってる。俺とは、生きてる世界が違う)
たとえば、肩がふいに触れたとして。笑いあったとして。その隣に立つには、覚悟がいると思った。
この気持ちは、手放しに笑って言えるものじゃない。「隣にいたい」なんて、軽く告げた瞬間に──この関係のすべてが壊れてしまいそうで。
視線を伏せ、唇を噛んだ。手のひらが、うっすらと汗ばんでいた。
アルジャーノンは、何も気づかずに本を閉じた。
願わくば、まだ名前をつけないままで。傷つけないままで。
この時間を、少しでも長く守っていたかった。
──また「伝統」かよ。
白いシャツの襟が、妙に首に重たかった。ここに来てから何度目かわからない、疎外感。
「今年のFounders' Day Ceremony(創立祭)に向けて、今日からカレッジソングの練習を始める!」
担任の声が響いた瞬間、教室にため息が渦巻いた。
そんな教室の最前列でひときわ背筋を伸ばして座っている存在があった。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。白いシャツに、ぴったりと整えられたブレザー。
蒼い瞳で前を見据える姿は、このエラグレイヴ・カレッジの伝統そのもののようだった。
(……こいつは、完璧に馴染んでやがる)
胸の奥にひりつく感情が走った。
午後、ホールに集められた生徒たち。
パイプオルガンの伴奏が鳴る中、章吾は必死で口を開いた。ふと隣を見ると、アルジャーノンがまっすぐに歌っていた。
完璧な発音。正確な音程。その姿は、この伝統に完全に溶け込んでいた。
(……俺は)
どれだけ声を出しても、自分だけが場違いだった。しかし──
「Hoooow graaand the laaand of oooour foooorefaaaathers〜〜!」
突如、斜め後ろから飛び出した破壊的な歌声に、章吾は思わず吹き出しそうになった。
チャド。背は高く、髪は金色でくるくると跳ねている。
いつも陽気で騒がしい彼は、今日もまた絶妙なタイミングで空気をぶち壊してくれた。
「おい、チャド、黙れ!音痴すぎんだろ!」
前の席から誰かが笑いながらツッコミを入れる。
チャドはまるで気にした様子もなく、得意げに親指を立ててみせた。
「Don't worry, guys!これは心のハーモニーだ!」
言いながら、今度は調子っぱずれなビートボックスまで始める始末。指揮の教師がこめかみを押さえている。
(……バカだな、ほんと)
そのバカさが、どこか救いだった。
チャドはたぶん、ここに馴染めてなんかいない。
でも、それを気にするでもなく、自分をそのままぶつけてくる。まるで「ここが自分の場所じゃない」なんて、一度も思ったことがないように。
「SHOGO!」
また名前を呼ばれて、章吾が振り返ると、チャドが満面の笑みで親指を立てていた。
「お前、けっこうイケてたぜ。日本の侍パワー、見た!」
「……あほか」
ぼそりと返しながらも、口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
礼拝堂の控室。
和やかな雰囲気が一変して、静寂が辺りを包み込む。
章吾の緊張はピークに達していた。アルジャーノンや他の貴族のような、歌の素養もない。音痴でも開き直る、チャドのような度胸もない。
握った拳からは、汗が滴り落ちていた。
「Hiwatari」
静かな声が、すぐ傍で響いた。驚いて振り向くと、そこにいたのはアルジャーノンだった。
「……歌詞、忘れたか?」
淡々としたその声が、なぜだか無性にあたたかかった。
「いや」
章吾は首を振った。本当は、歌詞の問題じゃなかったからだ。
「なら、問題ない」
そう言って、アルジャーノンは章吾の肩を軽く叩いた。ごく自然に、ごくさりげなく。その手のひらが、熱かった。
(ああ、やっぱり)
この男は、俺のこと、見てくれてるんだ。誰にもわからない痛みも、どうしようもない孤独も。きっと──どこかで、わかろうとしてくれてる。
章吾はまっすぐ顔を上げ、隣にいるアルジャーノンを、そっと見た。その姿は、誰よりもまぶしくて、誰よりも近く感じた。
礼拝堂の扉が、重たく静かに閉まる音がした。
壇上。生徒たちが所定の位置に並んでいく。章吾は、アルジャーノンの隣に立った。
横顔が、すぐそこにあった。
(……遠いな)
と思った。
ふとアルジャーノンがこちらを見た。言葉はない。ただ、頷いた。
(わかってる)
章吾は胸の奥でそっと答えた。
パイプオルガンの前奏が流れ、空気が震えた。歌声が、ひとつ、ふたつ、重なり始める。章吾も声を出した。
最初は震えた。でも、隣でアルジャーノンが歌っている。彼のまっすぐな歌声に導かれるようにして、自分の声も、まっすぐに伸びていった。
それだけで、怖くなかった。ふたりの声が、礼拝堂に溶けていく。誰の目も気にならなかった。
隣にいる、このひとりだけを見つめていた。
Founders' Day。伝統を歌い上げるこの瞬間。
俺はこの世界で、お前と並んでいたいんだ。
心の奥底から、そう思った。
Founders' Day Ceremonyが終わった礼拝堂。さっきまでの厳かな空気がうそのように、行き交う人々でざわめいていた。
生徒たちは互いにスーツの袖を引き、ネクタイを直しながら、来賓たちの間を縫って歩いている。章吾は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。
そこに、近づく足音。
「あの!」
背後から聞き覚えのある声がして、振り返ると──栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女が立っていた。
どこかで見た顔だ、と思うよりも早く、彼女がぺこりと頭を下げた。
「ガーデンパーティーのとき、お見かけしました。
わたし、ここの在校生の妹で……チャドって知っていますか?」
「そうだったのか。チャド、いい奴だよな」
彼女の顔がぱっと明るくなった。
「あのときは、あまりちゃんとお話できなかったので……今日また会えて嬉しいです」
「そりゃ、どーも」
「私、日本のアニメが大好きで!ずっと日本の方と話してみたかったんです」
笑顔でそう言われて、章吾は戸惑いながらも、軽く会釈を返す。
「……そっか。アニメ、何観てるの?」
「いろいろ観てますけど……最近は『蒼月の双剣』です!あと、昔の『光のグレイス』も!」
「……まさかの名作チョイスだな」
少女は嬉しそうに笑ったあと、ふっと視線を逸らすように言った。
「……でも、正直それより気になってるのは、あなたとアルジャーノンさんのことなんです」
心臓が、どくんと跳ねた。
「すごく……仲がいいんですね。見てると、恋人同士みたいに見えるから。私まで、見てると嬉しくなっちゃいます」
思わず息を呑む。ごまかそうとする前に、少女は慌てて首を振った。
「ごめんなさい、変なこと言いました!でも、きっと、他にもそう思ってる人、いると思います」
──他人から、そう見えるんだ。あいつがどう思ってるかじゃない。もう、周りには「そう見える」距離感なんだ。
「……迷惑、かけてないかな」
ぽつりとこぼした言葉に、少女は静かに微笑んだ。
「そんなふうには、見えませんでしたよ。アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした」
しばし沈黙していると、
「あっ!チャドだ!──いつかまた、お話しましょうねっ!」と少女は一礼してから駆けていった。
*
少女と別れた後、章吾は、礼拝堂を抜け、人気のない談話室へと逃げ込んだ。
昼間でも薄暗いその部屋には、大きな暖炉がある。春とはいえまだ肌寒い寄宿舎の空気の中で、炭火が赤く光っていた。
外は春の陽気が満ちていても、この場所だけは冬の名残を留めたまま、ひっそりと静かだった。
章吾はソファに沈み込み、少女の言葉を反芻していた。
(恋人、みたい……か)
他人にそう見られるほど、俺たちは近かったのか。目をつぶると、あのやさしい声が蘇る。
『アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした』
苦い思いが胸の奥でにじんで、思わず顔を伏せる。
──カツン。廊下に、小さな靴音が響いた。
章吾は無意識に顔を上げる。談話室のドアが、静かに、ためらうように開いた。
そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。
一瞬、ふたりの視線が重なる。章吾の喉が、ごくりと鳴った。
アルジャーノンも、わずかに足を止めたが、何も言わず、ゆっくりと歩を進める。
そして、章吾の隣のソファへ。距離は、ほんの数十センチ。触れそうで、触れない、静かな緊張。
その存在感が、胸の奥をかすかにざわつかせた。
沈黙が落ちる。暖炉の赤い火だけが、ぱち、と音を立てた。
章吾はちらりと横目で隣を盗み見る。アルジャーノンは手を組み、燃え残る炭火を見つめていた。
ちらちらと揺れる炎が、彼の横顔を柔らかく照らす。蒼い瞳に、赤い光がゆらりと映っている。
(……なんで、俺の隣に座るんだよ)
聞きたかった。でも、聞けなかった。この時間が、壊れてしまいそうで。
章吾はそっと目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「……俺、歌……下手だったろ」
それは、自分でも驚くほど素直な声だった。沈黙が一瞬、深くなる。
やがて──
「……君の声は、よく響いていた」
低く、芯のある声が返ってきた。
「……きれいだった」
思わず、章吾はアルジャーノンを見つめた。彼はまっすぐに章吾の目を見ていた。一切のためらいも、飾りもない視線で。
「私には、そう聴こえた」
声もまなざしも、あまりに真っ直ぐで、逃げ場がなかった。
章吾は反射的に視線をそらす。こめかみにじんわりと熱が広がる。
「……やめろよ、からかうな」
言いながら、唇をかすかに噛む。自分でも、声が少し震えていたのがわかる。そのとき、すぐに返ってきた。
「からかっていない」
思わず振り返ると、アルジャーノンが、すぐそこにいた。距離が、さっきより近い。
「私は、君の声が好きだ」
ぽつりと落とされたその言葉に、章吾の胸は高鳴った。心臓の音が、やけにうるさい。
「……バカじゃねーの」
呟いたその声に、どこかすがるような照れが滲む。思わず目を伏せた。
アルジャーノンは何も言わなかった。ただ隣で、じっと章吾を見つめていた。
そのときだった。
──「君たち」
静かに開いた扉の隙間から、老教授が顔をのぞかせた。
「……よく『ふたり』でいるのかね? ずいぶんと仲がよいようだ」
一瞬にして、談話室の空気が凍りついた。
ぽつりと落ちたその言葉は、軽口にも冗談にも聞こえなかった。どこか探るようで、含みがあって──皮肉よりも残酷だった。
教授は、何も気づかぬふりでにこやかに微笑み、そのまま扉を閉めた。
章吾は固まったまま、呼吸の仕方さえ忘れていた。鼓動が、耳の奥で嫌な音を立てている。
隣で、ソファがきしむ。アルジャーノンが、ゆっくりと立ち上がった。
「……悪かった」
その一言は、驚くほど小さくて。でも確かに震えていた。
章吾は思わず顔を向けた。
──逃げるような背中。
「待って──」
声が、出ない。喉の奥が焼けついたみたいで、言葉にならなかった。
(なんで……謝るんだよ)
謝られる理由なんて、なかった。でも──それは、明らかに「線を引く」ための言葉だった。
何かを拒まれた気がして、胸がぎゅっと締めつけられた。
章吾は、なにもできずに、その背中を見送った。扉が閉まる音が、妙に遠くで聞こえた。
*
夜。
ベッドに背を沈めながら、章吾は天井の暗がりを見つめていた。手足は冷えきっているのに、胸の奥だけがずっと熱い。
(……あのとき、呼び止めればよかった)
あんなの、「教授も冗談を言うんだな」って笑えばよかった。何も変わらないって、言えばよかったのに。
でも、できなかった。手を伸ばす勇気が、出なかった。
(あいつ……俺と一緒にいると、恥ずかしいと思ったのか?)
考えるたびに、心臓がぎゅうっと痛む。呼吸の仕方さえ、わからなくなりそうだった。
ただひとつ、はっきりしているのは──あのとき、あの背中が、世界でいちばん、遠かったということ。
どれだけ声を上げても、届かないところへ行ってしまう気がした。
目を閉じると、胸の奥で、ぐしゃりと音がした。
それが、泣きたいという感情なのか、好きという気持ちの破片なのか──自分でも、もうわからなかった。
扉が、ノックされた。
「Hiwatariくん。修理が完了したそうだ」
寮監督の落ち着いた声に、章吾は思わず振り向いた。扉の外に立つ男の背後には、別の職員がふたり、控えるように立っていた。
「えっ……?」
「君の部屋だよ。今朝には家具も整っていたらしい」
まるで予約していた部屋に案内されるような調子だった。
章吾は一瞬、言葉を失った。そんな急な話、昨日の時点では何も聞いていなかったはずだ。
目をやると、アルジャーノンが窓際でティーカップを手にしていた。その目は外の景色の一点を見つめたまま動かない。
「……急だな」
ようやく絞り出した章吾の言葉に、アルジャーノンはゆっくりとこちらを見た。
「そうだな」
それ以上、彼は何も言わなかった。
監督生が一歩下がり、「案内します」と促す。
章吾は立ち上がり、最後にもう一度部屋を見渡した。数日前には見知らぬ場所だった空間が、なぜか今は、背中にひっかかるように名残を残す。
何もなかったように整った部屋。何も言わないままの相手。それでも、章吾は直感していた。
──これは、誰かの「意思」だ。
そしてその誰かが、ただの寮職員ではないことも、薄々わかっていた。
*
食堂を出たあと、ふたりは並んで廊下を歩いた。靴音だけが、石造りの床に小さく響く。落ち着かない気持ちで、章吾はただ前を向く。
(……なんだよ、この空気)
何か言わなきゃ、と思った。沈黙が、耐えられなかった。
「……そろそろ、荷物まとめないとな」
軽い調子のつもりだった。でも、声は思った以上に乾いていた。
アルジャーノンが、ぴたりと足を止める。章吾も立ち止まった。振り返ると、アルジャーノンは何かを言いかけて、やめた。
無言で、並んで歩き出した。それぞれ、胸の中に答えのないざわざわを抱えながら。春の光だけが、廊下の先を白く照らしていた。
*
章吾はスーツケースの前で、手を止めた。荷物は少ない。すぐに終わる。しかし、ひとつずつ物を詰めるたび、胸の奥がざわついた。
(……ここで終わりにするのが、いちばん平和なんだろ)
ふたりでいることで、何かを壊してしまうくらいなら。
これ以上、あいつが周囲から変な目で見られるくらいなら。自分が引くのが、きっと正解なのだ。
(これが、あいつのため……かもしれない)
理由づけのように、そう思った。そう思うことでしか、自分の胸の苦しさに抗えなかった。
──そのときだった。
「……夜まで、ここにいてくれないか」
後ろから、低く落ちる声。章吾は、驚いて振り返った。
「……は?」
アルジャーノンは視線を落としたまま、もう一度、言った。
「……夜まで。今日で最後だなんて、……思いたくなかった」
その声は、震えてはいなかった。それでも、どこか切実だった。
章吾は、言葉を失った。
(なんで、そんな顔で言うんだよ)
(俺は、おまえのために離れようとしてたのに……)
理屈も距離も、胸の奥のざわつきも、全部が意味を失っていく。
(ずるいよ、おまえ……そんな顔すんなよ)
断れるはずがなかった。
「……わかった」
小さくうなずいたとき、アルジャーノンの肩が、すこしだけ落ちた。
ほんのわずかでも、安心したような気配が漂っていた。
なにか、大切なものがひっそりと結び直された気がした。
荷物を整理し終わった章吾は、無意識に深く息を吐いた。
窓辺では、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルが静かに本を読んでいた。
章吾は手元に置いていたペンを弄びながら、ちらりとアルジャーノンを見た。
何も変わらない横顔。でも──その指先が、いつもと違って、震えているように見えた。
(……俺だけじゃない)
(こいつも、気づいてる)
(これは、最後の夜なんだって)
ただ、ふたりは黙って、同じ夜を過ごしていた。
暗い天井をぼんやりと見つめていた。気がつけば、章吾は目を覚ましていた。部屋は静まり返っている。
暖炉の火も、すっかり小さくなっていた。寝返りを打とうとしたとき──ふと、気づいた。
窓辺に、まだ灯りがある。いや、違う。そこに、アルジャーノンがいた。
本は閉じられ、じっと夜の外を見つめていた。
章吾はためらいながら声をかけた。
「……眠れないのか」
アルジャーノンは、少しだけ驚いたように顔を上げ、小さく首を振った。
「君こそ」
低い、ささやくような声だった。
章吾は、苦笑して肩をすくめた。
「……なんか、落ち着かなくて」
それ以上、言葉が続かなかった。アルジャーノンは、それで十分だと言うように、そっと頷いた。
夜の闇がふたりを包んでいた。
不思議だった。何もないこの時間が、たまらなく愛おしかった。
章吾は、何かを言いたくて。でも、言葉にならなくて。アルジャーノンの横顔を見つめていた。
(……そばにいるのに)
(こんなに近くにいるのに)
(どうして、こんなに)
(触れられないんだろう)
夜が、深まっていった。
迷った。ほんの数秒。でも、章吾にとっては、永遠みたいに長い時間だった。
そして、意を決してベッドを降りた。
冷たい床に素足をつけ、窓辺に歩み寄る。アルジャーノンは、驚いた様子も見せず、窓の外を見つめたままだった。
章吾は、その隣に腰を下ろした。
ふたり。肩が触れるか触れないかの距離。同じ窓。同じ夜。同じ景色を見つめていた。しばらく、また沈黙が続いた。
それは、もう苦しいものじゃなかった。静かで、やさしかった。
ぽつり、と。章吾が呟いた。
「……意外と、静かだな」
アルジャーノンも、かすかに笑った。
「……この時間は、いつもこんなものだ」
低く、穏やかな声だった。その声を聞くだけで、胸がいっぱいになった。
章吾は、窓の外に目を向けた。満天の星空。遠く、森の向こうに、街の灯りがちらちらと瞬いている。
「……ずっとこうだったらいいのに、なんてな」
気づいたら、口から漏れていた。隣のアルジャーノンが、こちらを見た気配がした。
ふたりはただ、夜空を見つめ続けた。
夜空には、満天の星が瞬いていた。章吾はそれを見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……卒業したら、どうする?」
問いかけたのは、軽い調子だった。
でも心のどこかでは、答えが怖かった。
アルジャーノンは、少しだけ考えるように視線を上げて、それから低い声で答えた。
「……家を継ぐことになるだろう」
当たり前のこと。この国、この世界では、彼に課せられた当然の運命。
章吾の胸は、きゅっと縮んだ。
(……やっぱり、こいつは)
(俺とは、違う世界の人間だ)
言葉にしなくても、わかっていたことだった。わかっていたのに──痛かった。
「そっか」
かろうじて、それだけ答えた。
アルジャーノンも、問い返してきた。
「君は?」
「……俺、日本に帰ったら、外交官になると思う。親父みたいに」
アルジャーノンが、わずかに目を伏せた。
「そうか」
その一言のなかに、いくつもの言葉が詰まっているように感じた。
「──ま、まだ分かんねぇけどな」
章吾は、照れ隠しのように笑った。その声は少しだけ、かすれていた。
本当はもっと話したかった。もっと伝えたかった。
でも、伝えてしまえば、いよいよ「終わり」になりそうで。
どちらも、ほんとうの気持ちは、胸の奥にぎゅっと押し込めたままだった。
空が、ほんのり白み始めていた。章吾とアルジャーノンは、まだ窓辺に並んでいた。寒くも暑くもない、不思議な温度の夜だった。
ふたりとも、もう何も話していなかった。でも、それが寂しくはなかった。
章吾は、ちらりと隣を見る。アルジャーノンも、ふと章吾を見た。
目が合う。一瞬、お互いに、どちらからともなく、ふっと微笑んだ。
(……また、会える)
章吾は、そんなふうに思った。根拠なんてなかった。でも、信じられた。
カーテンの隙間から、朝陽の一筋が差し込んできた。そろそろ、時間だった。
章吾は立ち上がり、スーツケースの取っ手に手をかける。重さが指先に伝わる。
アルジャーノンも、静かに立ち上がった。そして、ごく自然に、言った。
「……またな」
それは、ふたりが最初に交わした、ありふれた別れの挨拶だった。
章吾も、にやりと笑って返す。
「……またな」
ふたりは、それぞれの道へ歩き出した。
春の朝陽が、石畳を照らしていく。たった一晩の、やさしい世界はこうして終わった。
地面に延びるふたりの影は、ゆっくりと交差していた。
アルジャーノンが父の部屋に呼ばれたのは、授業が終わった直後のことだった。
寄宿舎から少し離れた、古い煉瓦造りの建物──学院内でも限られた者しか出入りを許されない貴族専用の応接室。
その重厚な扉の前に立つと、アルジャーノンは一度だけ深く息を吐き、何の躊躇もなく扉を押した。
中には、すでに父がいた。変わらぬ姿勢で椅子に座り、ティーカップを手にしている。その仕草一つひとつが、完璧に訓練された振る舞いで、まるで彫像のようだった。
「……来たか」
それだけの声に、アルジャーノンは黙って一礼した。
対面に腰を下ろすと、すぐに銀のトレイが運ばれた。用意された紅茶は、父の好む銘柄──濃く、苦味のあるもの。彼の席にも同じものが注がれる。
「どうだ、ひとりの部屋の使い心地は」
静かな問いだが、そこに込められた意図は明白だった。
アルジャーノンは表情を変えず、紅茶に口をつける。
「とても快適です」
「そうか。それなら何よりだ」
薄く笑った父の目には、決して情が差さない。
しばらくの沈黙が落ちた。カップを置く音だけが、空間に小さく響く。
「……あの少年、Hiwatariというのだったか」
突然、名指しされたその名前に、アルジャーノンの手が止まった。
「彼と共に過ごしていたようだな。まあ、事情は聞いている。雷で部屋が使えなかったとか」
「一時的な措置です」
「その一時が、想像以上に長く続いたように見えたが」
淡々とした口調のなかに、揺るがぬ圧があった。
アルジャーノンは黙っていた。反論はしない。だが、肯定もしない。
カップの中の紅茶は、冷め始めていた。
「君は、忘れてはならない。何者であるかを」
父の声は、冷たい水面に石を落としたように静かで、それでいて深く響いた。
「フォーセット家の嫡子としての自覚を持ちなさい。誰と時を過ごすか、それは君自身の趣味の問題ではない。『血筋』は、交わる相手によって試されるのだ」
その言葉は、アルジャーノンの胸に刺さった。
「……彼は、私に影響を与えるほどの存在ではありません」
「ならば、なぜ沈黙した」
父の目が、わずかに細められた。
鋭利な問いだった。感情の綻びを見逃さぬ目。
彼の父、ロデリック・フォーセット卿は、言葉の裏に潜む空白に敏感な男だった。
「……」
アルジャーノンは答えなかった。答えられなかった、のかもしれない。
たしかに章吾は、ただのルームメイトだった。
だが、自分の中で何かが変わりはじめていたのは、否定できなかった。
紅茶の香りに紛れて、小さな声が聞こえるようだった。
──「目ぇ合ってんだよ、貴族」
そんなことを言われた日のことが、ふと脳裏に蘇る。
「感情は、力を曇らせる」
父の声が、静かにかぶさった。
「君は、孤高でなくてはならない。誰にも染まることなく、家名の誇りと共に生きる。それが、君の役目だ」
それは命令ではなく、当然のこととして語られた。
「……わかりました」
アルジャーノンは、小さく返事をした。答えはそれしかなかった。少なくとも、今この場では。
父は満足そうに頷くと、再びティーカップに口をつけた。その姿は、揺るがぬ格式そのものだった。
そして、冷え切った自分のカップを見つめながら、アルジャーノンは静かに思った。
──この紅茶は、もう、何の味もしない。
アルジャーノンが父の部屋をあとにし、応接室を出てすぐのことだった。
中庭を横切ろうとしたとき、見慣れた姿が目に入る。 石畳の縁に腰かけ、本を開いていたのは──レジナルドだった。
「……何をしている」
声をかけると、レジナルドは軽く顔を上げた。 その表情に驚きも気負いもない。
「アルジー、君を待っていた」
まるで当然のように言って、ページを閉じる。
「父上に呼ばれたのだろう?」
アルジャーノンは答えずに隣に腰を下ろした。コートの裾がかすかに触れる。
「おまえは、私の監視役か?」
「違うよ。──君は、言葉を交わさなくても、見ていれば分かる」
ふ、とアルジャーノンの肩から力が抜ける。 章吾といるときとは違う、どこか緊張のとけた吐息。
「……ああ、昔はこれが普通だったな」
ふっと遠くを見たその横顔に、どこか懐かしさが滲んでいた。
レジナルドは黙ったまま、カバンから小さな缶を取り出す。 中には紅茶のティーバッグがひとつ。
「飲む? 僕の持ち込みだ」
「……こんなところで。品がない」
「君が好きな、甘い香りのやつだよ」
受け取った缶の蓋を開ける。 どこか、章吾が淹れていたものと似た匂いがした。
アルジャーノンは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「……レジー、君は私にやけに執着するが」
言いかけて、口をつぐむ。
レジナルドはティーバッグをゆらしながら、穏やかに言った。
「君の笑顔が、好きだからだよ。できれば、ずっと笑っていてほしい」
その言葉は、まるで陽だまりのようだった。
「……私は、笑ってなどいない」
「そうだね。でも、笑える君を、僕は知っている」
静かな声だった。押しつけでもなければ、期待でもない。ずっと見てきたからこそ出た、確信のような優しさ。
アルジャーノンは、無言のまま湯気の立つカップを見つめた。
(……ああ、こいつは、昔からこうだった)
必要なことだけを見抜き、余計なことは言わずに隣にいる。
「レジー。君が、心を明かせる友人であることに変わりはない」
ようやく言葉にして返すと、レジナルドは目を細めた。嬉しさを表すにはあまりにささやかだったが、それで十分だった。
その沈黙の優しさが、今のアルジャーノンには、ひどく心に沁みた。
──章吾といるときは、言葉を選ぶのにあれほど気を遣うのに。
(……これが、本来の私だ)
無理をしない会話。構えなくていい間。緊張も張り合いもない穏やかさ。
──しかし、なぜだろう。あの騒がしさが、少しだけ恋しかった。
ティーバッグから漂う甘い香りの向こう、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
振り返っても、誰の姿もなかった。
ひとりきりの部屋には、沈黙しかなかった。
章吾はベッドに仰向けに寝転がり、無造作に蹴った毛布が床に落ちるのも気にせず、天井を見つめていた。
この部屋は、完璧に修繕された。天井のひび割れも、雨染みも、すべて跡形もない。新品のように磨かれた空間。
なのに、何ひとつ心は整っていない。
夜になると眠れない。朝が来ても、起きたくない。
誰かと笑っていても、その空白は消えない。
(……もういいって、思ってたはずなのに)
耳を塞ぐように横を向くと、視界の端に、あのティーカップが見えた。
いつだったか、アルジャーノンが自分の手元に無言で置いたもの。中身の紅茶はもう乾いて、縁には薄く茶渋が残っている。
思わず手を伸ばしそうになって、止めた。
もう、意味はない。ただの器に、想い出をなすりつけてるだけだ。
章吾は立ち上がった。何も考えたくなくて、とにかく外に出たくて、廊下を無目的に歩いた。
風が吹き抜ける中庭に出ると、正門のほうから誰かの声が聞こえた。
その中に、聞き覚えのある名があった。
「──ロデリック卿は、寄付の名目で工事に圧力をかけたのさ。あの修繕も、早まったのは彼の……」
章吾はそのまま立ち止まった。
木陰のベンチ。そこにいたのは、レジナルドとアルジャーノンだった。
「ロデリック卿は、この学院にとって特別な存在だ。誰も逆らえないし、誰も本音では抗えない。君も、それを一番わかっているだろう?」
レジナルドの声はいつものように落ち着いていたが、どこか慎重だった。言葉を選ぶような間。
「……修繕は、ただの偶然だと思っていた」
アルジャーノンの声は、低く、やや掠れていた。その声音に、章吾の心臓はどくんと打った。
「偶然じゃない。父上は寄付というかたちで明確に動いていたよ。君がHiwatari君と同室であることを不本意としていたらしい」
章吾は呼吸を忘れた。
(……俺の部屋が直ったのは、アイツの父親の金と意向で?)
そう思った瞬間、足元がすっと冷えていく。
つまり──あの別れは、「自然に終わった」のではなく、「終わらせられた」ものだったのだ。
アルジャーノンが何かを言いかけた瞬間、彼の身体がわずかによろめいた。
力が抜けたように片膝を折りかけたそのとき、レジナルドが素早く手を伸ばし、肩を支えた。
「……大丈夫かい?」
「平気だ。すまない」
小さな声で返すアルジャーノンの顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。同時に──その横顔には、ほんの一瞬、安堵も滲んでいた。
レジナルドの手が肩にあるまま、彼はふっと目を閉じた。まるで、いまだけは息をつける場所を得たかのように。
章吾は、それを見ていた。
木陰のベンチ、寄り添うようなふたりの姿──そこに自分の居場所がないことを、あまりにも明確に突きつけられた気がした。
唇の裏を噛んだ。熱い感情が、喉の奥を焼いた。
(なんだよ、それ)
章吾は木陰の陰に身を潜めたまま、じっとふたりを見ていた。
アルジャーノンの肩に手を添えるレジナルド。何も言わずにその手に寄りかかるようなアルジャーノン。
姿勢を正したあとも、彼は顔を上げられずにいた。その横顔が、珍しく不安げだったことが、逆に章吾の胸に刺さった。
(だったら、最初から……)
心の中で言葉が膨らんでいく。
(だったら俺なんか、初めからいなくてもよかったじゃんか)
同じ傘の下で肩を並べた、雨の日も。
ともに星空を見上げた、あの夜も。
──全部、ただの「悪い夢」だったんだろう?
所詮、貴族の世界の人間で。俺なんか、あの父親のひと声で、簡単に外に放り出せる部外者。
熱くて、苦くいものが喉元までせりあがってきた。
章吾は、その場から静かに立ち去った。気配を悟られないように。音を立てないように。
風の吹く中庭の石畳を踏みしめながら、どこへ向かうのかも分からず歩いた。
誰とも会いたくなかった。誰の声も聞きたくなかった。
──あいつの姿を、今はもう見たくなかった。
胸がぎゅっと苦しくて、何もかもがうるさく感じた。
「……くそ」
つぶやいた声が、自分でも驚くほど荒かった。
その日の夕方、章吾は談話室の隅の席にひとり座っていた。
机の上に開いたノートは白紙のまま。書く気も、読む気も起きなかった。
窓の外では、風に吹かれて木々の葉が揺れていた。ガラス越しの景色は静かで、何も語らなかった。
「Hiwatari」
背後からかけられた声に、章吾は反射的に振り向いた。
そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。夕暮れの光が差し込んで、彼の金髪をぼんやりと縁取っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
「……なに」
返した声は、意識せずに冷たくなった。
アルジャーノンはひと呼吸置いて、近づいてきた。
「さっき……中庭にいただろう」
章吾の背中がこわばった。
「……見てたのか」
「偶然だ」
短い返事。それ以上、何を言うでもなく立ち尽くすアルジャーノン。
その沈黙が、いつもより重たかった。
章吾はノートを閉じ、立ち上がった。
「気にすんなよ。お前には、ちゃんと支えてくれるやつがいるみたいだし」
「……何の話だ」
「別に。たいしたことじゃねえよ」
そう言い捨てて、章吾はすれ違いざまにアルジャーノンの肩をかすめた。
章吾は振り返らずに、そのまま廊下へ消えた。廊下に出ると、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。
章吾は、ひとりで歩いていた。
(支えてくれるやつがいるなら、それでいいじゃん)
何度も心の中で繰り返した。その言葉は呪いのように、自分の心をさらに締めつけていく。
アルジャーノンがレジナルドに支えられる姿。よろめいて、寄りかかって、それを当然のように受け止める彼。
あのとき、自分じゃない誰かが彼のそばにいた。
──それだけのことで、こんなにも胸が痛むなんて、知らなかった。
「バカみたいだな……俺」
独り言が、薄暗い廊下に滲んでいった。
いつからだろう。あいつの仕草や声が、少しずつ胸の中に入り込んでいて、気づけばそこがぽっかり空いてしまっていた。
「……別に、期待なんかしてなかったのに」
ぼそりと呟いた声は、自分に向けたものだった。
遠く、時計塔の鐘が鳴った。午後七時。夜の始まりを告げる音。
章吾は立ち止まり、顔を上げた。前を見ても、誰もいない廊下。でも、どこかであいつも、同じように立ち止まっているような気がした。
すぐに、そんな幻想をかき消して、また歩き出す。
その背中には、誰の声も届かなかった。
──おまえなんて、いなくても。
そう思いたかったのに。
そう言い切れなかった自分が、一番嫌いだった。