──名前ひとつ、呼べないくせに。それでも俺は、あいつの隣にいたかった。


 談話室へ向かう途中、章吾はひとり苛立っていた。

 視線の先、ベンチに並んで座るふたり──アルジャーノンと、レジナルド。

 レジナルドはにこやかに笑いながら、アルジャーノンの肩に軽く手を置いていた。

「ねぇ、アルジー。君、昔はもっと素直だった気がするけど?」

 章吾の胸に、じわりと熱がにじんだ。

(……アルジー?なんだよそれ)

 自分は──いまだに。あいつの名前を、口に出せたことすらない。隣にいるくせに。それなのに、レジナルドには、あたりまえのように許されている。

 視線を逸らそうとした、そのとき。

「……やめろ、レジー」

 低く、静かな声が響いた。アルジャーノンだった。
 その呼び方すら、章吾には遠かった。
 ──やめろ、レジー。

 ふたりだけに許された、親しい響き。
 レジナルドは肩をすくめた。

「昔は僕のこと、朝も夜も呼び出してたくせに。懐かしいね」

 軽く、からかうように。そして何事もなかったかのように、話題を切り替える。

「そういえば、今年のクリケット大会、また僕らがペアになるかもね」
「ああ」

 アルジャーノンが、短く答えた。レジナルドは、満足げに微笑む。

 章吾は、ただ黙ってそのやりとりを見つめていた。胸の奥でぐるぐると渦巻くものを、必死に押し殺しながら。

 ──俺には、呼べないくせに。

 隣にいるのに、どうしてこんなにも遠いのか。改めて思い知らされた。

 やがてレジナルドは、満面の笑みのまま章吾に向き直った。

「そうだ、Hiwatari君」

 章吾は、無言で視線を返す。

「君、クリケットの経験ある?」

 軽い調子。無邪気に聞こえるその声の奥に、微かな意図が透けていた。

「……ねぇよ」

 短く答える。それ以上、言葉を重ねる気になれなかった。

 レジナルドは、肩をすくめる。

「そっか。まぁ、アルジーと組むには、まだ早いかもしれないね」

 さらりと、何でもないふうに。それがかえって、章吾の心を波立たせた。

「『アルジー』って、そんなに軽く呼べる名前かよ」
 気づいたら、口に出していた。

「そうだよ?だって僕の幼馴染みだから」
 レジナルドは、負けじと言い返す。

「それ、嫉妬?Hiwatari君」
「……嫉妬?」
 その言葉が、胸に鈍く刺さった。冗談にしては、鋭すぎた。心のなかで何かが壊れる音がした。

 そのとき。
「……レジー!」
 低く鋭い声が、章吾の前に割って入った。

 アルジャーノンだった。彼はまっすぐレジナルドを見据えたまま、静かに告げる。

「言葉を選べ」

 滅多に見せない、張り詰めた声音だった。レジナルドは、小さく目を見開いた。

 そして、困ったように笑いながら言った。

「……ごめん、アルジー。冗談のつもりだったんだけど」

 あくまで軽く、場をなだめるように。
 章吾には、その一瞬、アルジャーノンの瞳に浮かんだ色が焼き付いて離れなかった。

 守ろうとする目。自分に向けられた、はっきりとした、意志。

 章吾は、そっと拳をほどいた。小さな音を立てて。

 レジナルドは、困ったように笑ったまま、軽く手を上げ、その場を離れていった。

 朝の光が、芝生の上に静かに伸びていく。
 寄宿舎の庭に、新しい風が吹いた。




 談話室に静寂が戻る。残されたのは章吾と、アルジャーノン。春の空気が、どこか気まずく流れていた。

 章吾は、両手をポケットに突っ込んだまま、ベンチの端に立っていた。何か言いたかった。

 怒鳴りたかった。ふざけんな、って。俺だって、ちゃんと──でも口が動かなかった。

 何をどう言えばいいのか、わからなかった。
 
 アルジャーノンが、ゆっくりと章吾に近づく。

「……すまない」

 ぽつりと落とされた声に、章吾は驚いた。
 悪いのはレジナルドだ。無神経にあんなことを言ったあいつのほうだ。

 それなのに、アルジャーノンはまっすぐ章吾を見ていた。蒼い瞳が、まるで章吾の痛みをすべて受け止めようとするみたいに。

(……やめろ)

 そんなふうに、優しくすんな。章吾は奥歯を噛みしめた。

「……別に、気にしてねぇし」
 吐き捨てるように言うと、アルジャーノンの表情が陰った。

 言葉が途切れ、沈黙が落ちる。

 章吾は目をそらしたまま、小さく息をついた。

 春の風が中庭を抜け、ふたりの間に、どうしようもない遠さを残していった。



 夜の寄宿舎は静まり返っていた。消灯後の廊下は、月明かりだけが薄く照らしている。

 章吾はベッドに横たわり、天井をじっと見つめていた。何度目を閉じても、蒼い瞳が脳裏に浮かんだ。

 シーツを握りしめる。

「……なんで、俺じゃないんだよ」
 胸の奥で、小さく崩れた声がした。


 同じ頃、同じ部屋で、アルジャーノンもまたベッドに座り、カーテン越しに夜空を眺めていた。

 高く昇る月。けれどその美しさも、今の彼にはただ遠く、冷たく感じられた。

(……Shogo Hiwatari)

 心の中で、そっと名前を呼ぶ。ただ呼ぶだけで、胸が痛んだ。その名を呼んでも、君は気づいてくれない。私が何を願っているのか。