ルームメイトは貴族様 ー俺たちは雷で結ばれたー

 昼休み、寄宿舎の裏庭。

 章吾は、ベンチに腰かけ、スマホを手のひらでいじくり回していた。

「……なあ、チャド」

「ん? なんだよ、ブラザー!」

 陽気なアメリカン、チャドがにこにこ顔を向ける。
 章吾は、少し顔を赤らめ、低く続けた。

「……彼女、作りてぇんだけど」

 チャドは目を丸くした。

「マジか! いいじゃん!……でも、本当に『彼女』がほしいのか? 」

 一瞬、間が空いた。

「ほ、ほしい。だから、アプリとかないのかよ」

 章吾はスマホを握りしめる。必死だった。自分に言い聞かせるように。

(俺は……ふつうだ。女が好きなんだ)

 あいつに惹かれてなんか、いない。だから、証明しなきゃ。

 チャドは嬉々としてスマホを取り出す。

「これ、超オススメのマッチングアプリな。恋愛なら俺に任せとけ。とにかく行動あるのみだ!」

「マジか」

 章吾もスマホを開き、画面を覗き込んだ。その瞬間だった。

 背後から、ひやりとした声が飛んだ。

「何をしている?」

 振り返ると──アルジャーノンが、蒼い瞳でじっと立っていた。


 アルジャーノンは、静かに歩み寄ってきた。

 制服の上着が風に揺れる。佇まいは端正だが、足取りには苛立ちがにじんでいた。

「……Hiwatari」

「な、なんだよ」

 章吾はスマホを慌てて背中に隠した。まるで悪いことをした子供みたいに。

 アルジャーノンは一歩、ぐっと踏み込んだ。

 目が合った瞬間、章吾は息を呑む。その蒼い瞳には、見たこともない怒りが宿っていた。

「未成年だろう。マッチングアプリは禁止だ」

 ぴしゃりとした口調。冷静な言葉なのに、どこか焦りが混ざっている。

(……なに、マジギレ?)

 章吾はまばたきした。その横でチャドが小声で呟く。

「お、おい……アルジー、超マジ顔だぞ……」
「……別に、ただ彼女作りたかっただけだろ」

 章吾がぼそっと言い訳すると、アルジャーノンの眉がびくりと動いた。

「……愚か者め」
「な、なんだよ!」
「君が……そのような、見ず知らずの相手に身を預けるなど──あってはならない」

 声が少しだけ上ずっていた。普段の彼からは想像もつかない動揺が、滲んでいた。

「知らない相手にそそのかされたら、どうする。
 そのような者に、君を傷つけさせるわけにはいかない」

 一瞬、口をつぐむ。

「それでもまだ、『誰でもいい』なんて言えるのか?」

 章吾は、ごくりと喉を鳴らした。叱られているはずなのに、どこか、胸が締めつけられた。

「……なんで、そんな真剣なんだよ」

 その問いに、アルジャーノンの唇がわずかに震える。何かを言いかけて、やめたように見えた。

「君は……そんなもので、心を与えるべき人じゃない」

「は?」

「君には、もっと大事にしてくれる人が──」

 言いかけたところで、アルジャーノンは目を逸らした。ほんのわずか、耳が赤くなっていた。

 章吾の胸が、どくんと跳ねる。

(……なんだよ。なにを言いかけたんだよ)

「……俺、別に誰でもいいわけじゃないし」

 そう呟くと、アルジャーノンの肩がふっと緩んだ。

「ならば……最初から、やめてくれ」

 その声音は、さっきよりも少しだけ、優しかった。
 章吾はスマホをポケットにしまいながら、呟く。

「わかったよ。もうやんねぇよ、マッチングアプリなんか」

 アルジャーノンは、どこか安堵したように息を吐いた。

「当然だ」

 そう言った彼の耳は、やっぱり赤かった。

「……嬉しそうな顔すんな」

 章吾が言うと、アルジャーノンは少しだけ顔を背けた。

「嬉しくなど、していない」

「嘘つけ。耳、真っ赤だぞ」

 否定はなかった。その仕草が、何より雄弁だった。

 章吾は、思わず小さく笑った。

(……やっぱバカだ、俺)

 言い合ってばかりなのに、どうしてこんなふうに、心が温かくなるんだろう。



 夕暮れの校庭。

 ふたりは、特に言葉もなく並んで歩いた。章吾は、心の中で呟く。

(……ま、別に。悪くないかもな)

 すると、アルジャーノンがちらりとこちらを見た。章吾は慌てて目を逸らす。

「……変な顔すんな」

「失礼な。君の顔ほどではない」

「は?」

 軽く小突きあいながら、ふたりの歩幅は、自然とぴたりと揃った。

 傾いた夕陽が、ふたりの影をそっと重ねた。 
「Hiwatari。君に伝えておくことがある」

 昼食後の時間、アルジャーノンは静かにそう切り出した。

「なんだよ。昼休みに説教か?」
「違う、音楽の先生に言われた。君に、『やってみたい楽器はないか』と。個人音楽レッスンは必修なのだ」

「はぁ? めんどくせぇ」

 章吾は気だるげにそっぽを向く。アルジャーノンは動じず、軽く顎で音楽棟の方を示した。

「行こう。どうせ暇だろう」
「おい、引っ張んなって……って、うわ、腕っ……!」

 音楽室に着くまでに、三度章吾は「帰っていい?」と聞いた。アルジャーノンはすべて無視した。


 室内にはグランドピアノと、整然と並んだ譜面台。 その真ん中に置かれた長椅子に、章吾はふてくされたように腰を下ろした。

「ピアノはどうだ?」

 と、アルジャーノン。

「まあまあかな」

 章吾は肩をすくめ、無造作にピアノに手を置いた。 そして、何の前触れもなく──音が溢れ出す。

 指が鍵盤の上を滑るたび、部屋の空気が震えた。

 アルジャーノンは言葉を失った。

「……君、本当にそれ、独学か?」
「まーな。レッスンは子供のころ受けたけど」

 さらりと答える章吾に、アルジャーノンはますます眉をひそめた。

「……お前も、弾いてみろよ」
「ならば、私はヴァイオリンを弾こう」

 そう言って、アルジャーノンは静かに棚からヴァイオリンを取り出した。

 アルジャーノンは黙って、構えた。音が、弦からこぼれ落ちる。

 エルガーの『愛の挨拶』。

 そのやさしい旋律が、音楽室に満ちていく。 章吾は吸い込まれるようにその音に耳を傾けた。

「いいじゃん。教えて」

 その一言に、アルジャーノンの指がふと止まる。

「……私がか?」

「うん。今、弾いてみたい」

 アルジャーノンは少しだけ目を伏せ、ヴァイオリンを差し出した。

「では──構えはこう。右手は弓、左手はネックを支える。そう、そこ……」

 ふたりの距離が、ぐっと近づいた。アルジャーノンの手が、そっと章吾の手を導く。温かい指先が、弓の握り方を教えるように触れる。

「こう。……力を抜いて」
「ち、近くね?」
「君の握りが不器用だからだ」

 からかいのような、真面目なような口調。
 しかし章吾の心臓は、先ほどからずっと落ち着かない。

 耳元で響く低い声。わずかに触れ合う肩と肩。

 そして、アルジャーノンが後ろから腕をまわすようにして、構えを整えた瞬間だった。

 章吾が顔を上げる。
 アルジャーノンも同時に、章吾の手元から顔をのぞき込む。

 ふたりの顔が──ほんの数センチのところで、止まった。

 視線が重なる。息が、かかった。

(……えっ)

 どちらともなく、呼吸が止まる。このまま、ほんの少し動けば、唇が……!
 アルジャーノンの蒼い瞳が、すぐそこにあった。章吾の目が見開かれる。

「っ……すまない!」

 先に離れたのは、アルジャーノンだった。距離を取るように一歩下がり、ヴァイオリンをきゅっと抱え込む。

「ご、ごめん……!」

 章吾も弓を置き、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いた。

 音楽室の空気が、しん、と静まり返る。雷の前のような、張り詰めた静けさだった。


「……その、弾きたいって言ったの、取り消してもいい?」

 沈黙を破ったのは、章吾だった。

「いや。教えよう」

 意外にも、アルジャーノンの声は落ち着いていた。が、その耳はほんのりと赤い。

「さっきのは……事故だからな」
「わかってるよ」

 目を合わさずに言い合うふたりは、まるで何かの稽古のようにぎこちない。だが、その空気は少しずつ和らいでいく。


「もう一度、構えからだ」

 アルジャーノンが再び後ろに立つ。章吾は頬を赤らめながらも、素直に身を預けた。

「右肩にヴァイオリンを乗せて。左手は指板を支えて」

 低い声が、背後から優しく響く。少し前とは違う。指導の声には、ほんのわずかな微笑みが混じっていた。

「こうか?」

「……悪くない」

 章吾の手元に、アルジャーノンの長い指がそっと重なる。弓の木肌ごしに、彼の体温がにじんだ。

 指が、そっと弓を導く。

 弦を擦った瞬間、小さな音がふるえた。不格好でも、それは「ふたりで出した最初の音」だった。

「お、出た……!」

 章吾が小さく笑った。アルジャーノンも、その横顔を見て、ふっと息をついた。

(……この人は、本当に掴みどころがない)

 だからこそ、離したくないのかもしれない──そんな思いが、胸の奥に灯った。



「……さっき、あぶなかったな」

 章吾がぽつりと呟いた。

「……何がだ」
「……わかってんだろ。あと少しで、唇、ぶつかってた」

 アルジャーノンの手が止まる。

「……君は、気にしているのか?」

 章吾は苦笑した。

「するだろ、ふつう」
「そうか」
「……お前は、しないわけ?」

 問い詰めるような章吾の声に、アルジャーノンは言葉を詰まらせた。

「……した。気にしている」

 ふたりの間に、また沈黙が落ちる。その沈黙は、先ほどよりもずっと柔らかかった。

「ま、事故だしな」
 章吾が、ぼそっと言う。

「事故、か」
 アルジャーノンはヴァイオリンをケースに片づける。

「……でも、悪い気はしなかった」
 その言葉に、章吾の手がピクリと動いた。

「……お前、そういうこと、さらっと言うなよ」
「事実だからな」

 どこか照れくさそうに、アルジャーノンはケースを棚に戻す。

「また弾きたいと思ったら、いつでも来るといい」
「勝手に開放していいのかよ、音楽室」
「私の名前を出せば、問題ない」
「……お前、便利だな」

 ふたりは肩を並べて部屋を出た。

 廊下の窓の外には、薄曇りの空が広がっていた。さっきまでの張り詰めた空気は、もうどこにもなかった。


 礼拝堂の鐘が、遠くで鳴った。次の授業が始まるまで、あと数分。

「……なあ」

 章吾がぽつりと声を上げる。

「ん?」
「今日、……たのしかった」
 アルジャーノンの足が、一瞬止まる。そして振り返り、章吾を見る。

「私も、だ」
 
 章吾は照れ隠しのように鼻をこすり、先に歩き出す。

「……また教えろよ」
「もちろん」

 その返事が聞こえてくると、どこかくすぐったくて、うれしくなった。
 
 音楽室の出来事は、誰にも話さない。

 ふたりだけの、ちょっとした「秘密」として、胸にしまっておこうと思った。

 厚い雲の切れ間から差す光が、さっきの弓の一音を思い出させるように、ふたりの肩を照らした。
 ──女の話なのに、どうして、あいつの顔が浮かぶんだ。

「なぁ、Shogo!昨日、彼女がベッドでさぁ〜……」

 チャドの能天気な声が、談話室中に響き渡る。空気が、ぴきりと張り詰めた。

 周囲にいた生徒たちが、ちらりとこちらを見て、小さく笑う。

 章吾はカップを持つ手をぎゅっと握りしめた。
 震える指先。顔が真っ赤になるのが、自分でもわかった。

「マジで赤いな」「アジア人って純情だよな」
 無神経な囁き声が、ぐさりと胸に刺さる。

 ほんの一瞬、映像が頭に浮かんだ。ベッドの上、頬を染めた──アルジャーノンの姿。

(……なっ)

 脳が真っ白になった。なんでだ。なんで、あいつなんだ。女の子を想像しろよ。そう言われたのに。

 浮かぶのは、金髪と蒼い瞳。ネクタイを緩めた、あの穏やかな横顔。

(やめろ!!)

 絶叫するような気持ちを抑えきれず、章吾はカップを机に叩きつけた。
 大きな音が、談話室に響く。

 また、ざわりと視線が集まった。

 そのときだった。

 静かに、椅子が引かれる音。

 章吾が顔を上げると、無表情のアルジャーノンが立っていた。凍りつくような蒼い瞳。

 無言でチャドに歩み寄る。

「……君には、品というものがないのか?」

 静かな声だった。それでいて、空気を凍らせるほど冷たかった。

 チャドが肩をすくめる。

「いやいや、Shogoがかわいくって、つい……」
「他人を辱しめて笑いものにするなど、紳士のすることではない」

 ぴたりと、談話室の空気が止まった。チャドは蒼白になり、逃げるように去っていく。

(……なんだよ、あいつ)

 ──俺を、助けてくれた。
 胸が、ざわざわした。

 無意識に、隣に立つアルジャーノンを見上げた。彼は、紅茶のカップを持つ指も、姿勢も、すべてが端正で整っていた。

 でも、目が合いそうで合わない。それは、わざとなのか、偶然なのか。

 章吾には──分からなかった。

 ──談話室にひとり残されたアルジャーノンは、カップを見つめたまま、動かなかった。

 指先で、そっと縁をなぞる。

(……君は、私を壊す)

 誰にも届かない声が、胸の奥で響いていた。

 朝から空が、どこか落ち着かない色をしていた。
晴れてはいるのに、光が白すぎる。

 今日は保護者を招いた式典の日だった。中庭の生徒たちは、いつもより静かだ。足音は抑えられ、笑い声もどこか上ずっている。

 章吾は、窓辺の席にひとりで座っていた。

「……来ると思う?」

 気配に振り返ると、アルジャーノンが立っていた。その手の甲が不自然にこわばっていた。

「来るさ。おまえんとこの親父……欠席なんかしないだろ」

 章吾はそう言いながら、隣の椅子を足で引いた。
アルジャーノンは無言で腰を下ろす。影が落ちる。

 ひとすじ、風が冷たく吹いた。いつもなら皮肉のひとつも返すくせに、今日は何も言わなかった。

「にしても、なんか変な空気だよな、今日……」

 軽く肩を叩こうと、章吾はアルジャーノンの肩に手を伸ばした。

 ──その瞬間。

「やめろ」

 バシッ。

 はじかれた音が響いた。

 鋭く振るわれたアルジャーノンの手が、章吾の手をたたき落とした。

 驚きよりも先に、理解の追いつかない動揺が広がる。それと同時に、風の音が止み、空気が凍った。

 ゆっくりと歩いてくる黒の燕尾服。

 背筋を真っすぐに伸ばし、絶対に揺らがない目でふたりを見下ろしてくる男──ロデリック・フォーセット卿。

 章吾の背に冷たいものが走った。

「まさか──」

 ロデリックは一歩だけ、前に出る。彼は事実を確認するような、無表情な声音で続けた。

「──男と、むつみあっているのか?」

 風が吹いた。テーブルクロスの端がめくれ、ナプキンが翻る。

 アルジャーノンの瞳が、揺れた。ほんの一瞬、唇が動くが、言葉にはならない。

 いずれ、自分の隣には「誰か」が用意される。その顔も、名前も知らないまま──家の存続のため。

「違います」

 かろうじて口をついて出た声は、乾いていた。言い切ったあと、アルジャーノンはほんのわずか、目を伏せる。

「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」

 それはまるで台本の一節のように、淀みなく、感情のない言葉だった。

 章吾は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。

 視線を感じる。目の前で、自分は判断されている。貴族の名の下に、家の格式の下に、「それ」は許されるべきではないと──そう言われている気がした。

「アルジャーノン」

 父が再び名を呼ぶ。声は重く、乾いていて、どこまでも冷たい。

「お前は、我が家の名をなんだと思っている。」

 アルジャーノンは答えなかった。静かに目を伏せたままだ。

 章吾は、心の奥で小さく何かが壊れる音を聞いた。




 扉が閉まった瞬間、空気が一気に濁った。

 章吾は寮の部屋に入るなり、カバンを床に投げるように置いた。靴も脱ぎ捨て、ベッドの端に腰を下ろす。

 アルジャーノンは部屋の奥、机の前に立ったまま、黙っていた。上着の襟元を緩めても、その背はまるで鉄で固められたように硬い。

 しばらく沈黙が続いた。

 章吾の中に渦巻いていたものが、限界を超えるのにそう時間はかからなかった。

「さっきのさ……」

 低く、しかし抑えきれない声が部屋に落ちた。

「『むつみあっているのか』って、言われてさ。なんで否定した?」

 アルジャーノンは振り向かなかった。

 彼は微動だにせず、ただ黙っていた。その無言が、章吾の怒りに火をつける。

「俺といたのが、そんなに恥ずかしかった? 『お見苦しいところ』って、俺のことか?」

 椅子を蹴るように立ち上がる。アルジャーノンとの距離を詰める。

 それでも、彼はまだこちらを向こうとしなかった。

「ふざけんなよ……おまえ、いつも自分のことばっかじゃんか」

 章吾の声が少しずつ上ずっていく。

「おまえの事情も、家のことも、勝手に抱えてりゃいい。でもな、こっちはずっとそばにいて、わけもわかんねーまま『見苦しい』って言われて、はいそうですかって黙ってられるかよ!」

 その瞬間だった。

「やめろ!」

 アルジャーノンが振り返り、叫んだ。その声には、かすれたような痛みが混ざっていた。

 章吾は言葉を失った。

 アルジャーノンの顔が、ほんの少しだけ歪んでいた。

 怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。追い詰められた人間の顔だった。

「……すまない」

 絞り出すような声。

「でも、私は……君を守れる立場では、ない」

 その言葉に、章吾の胸の奥がきしむ。

「なにそれ」

 彼はベッドに倒れ込むように座り、背を向けた。

「もういい。おまえのそういうとこ、ほんと嫌い」

 布団を被り、枕に顔をうずめる。その背中を、アルジャーノンはただ見つめていた。
 そして、静かにベッドの端に腰を下ろす。

 顔を上げると、天井の模様が滲んでいた。知らぬ間に、目尻から涙がひとすじ、頬を伝っていた。

 ──なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。



 夜が来ても、部屋の空気は凍ったままだった。

 章吾はベッドに背を向けたまま、目を閉じていた。眠れているわけじゃない。眠ったふりをしているのだ。

 隣のベッドからは物音ひとつしない。アルジャーノンの気配はある。息づかいが、かすかに布の向こうから伝わってくる。

「……謝るぐらいなら、最初から言うなよ」

 布団の中で、小さくつぶやいた。背中越しの距離は、たった数メートル。そのはずなのに、遠い。

 あいつは、俺のことを「見苦しい」と思ってたんだろうか。

 それとも──あんな父親の前では、何もかも諦めてしまうほど、従うしかない存在だったのか。

 章吾は、答えのない問いをいくつも胸に抱えながら、目を開けた。

 天井は、闇に溶けてどこまでも遠かった。

 一方のアルジャーノンは、カーテンを閉めたベッドの中で、毛布をきつく抱いていた。

 心臓の音がやけに耳につく。鼓動が、罪悪感を刻むように打ち続けていた。

「Hiwatari ……」

 名前を呼んでも、声にはならなかった。自分は守れない立場だと、言ってしまった。

 それは本心だった。家の名、伝統、父の目。そのどれもが、彼の言葉より重くのしかかってくる。

 でも、それでも──。

「君の手を、本当は払いたくなかった」

 あのとき、あの肩に触れてくれたあたたかさに、少しでも応えることができたなら。

 悪かった。
 ありがとう。
 そばにいてほしい。

 何ひとつ、口にできなかった。

 きつく目を閉じると、また涙が滲んだ。父の前では泣いたことなど一度もなかったのに。
 なぜ、章吾の背中を見ると、涙が出るのだろう。

 ──ひとりになるのが、あんなに怖いなんて、思っていなかった。




 朝が来た。

 章吾は毛布を頭からかぶったまま、うっすらと目を開けた。

 隣のベッドは、変わらず静かだった。

「……起きてる?」

 問いかけは、自分のために吐き出したようなものだった。当然、返事はない。

 すくりと起き上がり、靴を履く音だけが響く。

 キッチンの片隅に置かれたティーポットに水を注ぎ、湯を沸かした。

「……別に、謝れとは言ってねえよ」

 呟いた声もまた、返事のない空間に溶けていく。

 背後で、ふいにベッドの軋む音がした。

 章吾が振り返ると、アルジャーノンがゆっくりと起き上がっていた。

 髪は乱れていたが、制服のシャツのボタンはきちんと留まっている。それだけで、いつも通りの彼に見えた。

 しかし、目は赤かった。

「起きたんなら、こっち来れば?」
 
 そう言うと、章吾は黙ってカップを押し出した。
アルジャーノンは数秒のあいだ迷っていたが、やがて歩み寄ってきた。

 向かい合って座ると、ふたりの間には湯気だけが揺れていた。

「昨日は、悪かった」

 アルジャーノンが言った。その声は、ひどく低くて小さかった。

 章吾はひと口だけ、紅茶を飲んだ。熱さが喉を通り、胸の奥で静かに溶けていく。

「俺も、怒りすぎた」

 それだけ言って、目をそらす。するとアルジャーノンが、珍しく少しだけ笑ったような気がした。

 ふたりの間に、まだ拭いきれないものはあった。
それでも──今はそれでいい。

 その朝の紅茶は、どこか苦くて、でもほんの少しだけ甘かった。
 ──名前ひとつ、呼べないくせに。それでも俺は、あいつの隣にいたかった。


 談話室へ向かう途中、章吾はひとり苛立っていた。

 視線の先、ベンチに並んで座るふたり──アルジャーノンと、レジナルド。

 レジナルドはにこやかに笑いながら、アルジャーノンの肩に軽く手を置いていた。

「ねぇ、アルジー。君、昔はもっと素直だった気がするけど?」

 章吾の胸に、じわりと熱がにじんだ。

(……アルジー?なんだよそれ)

 自分は──いまだに。あいつの名前を、口に出せたことすらない。隣にいるくせに。それなのに、レジナルドには、あたりまえのように許されている。

 視線を逸らそうとした、そのとき。

「……やめろ、レジー」

 低く、静かな声が響いた。アルジャーノンだった。
 その呼び方すら、章吾には遠かった。
 ──やめろ、レジー。

 ふたりだけに許された、親しい響き。
 レジナルドは肩をすくめた。

「昔は僕のこと、朝も夜も呼び出してたくせに。懐かしいね」

 軽く、からかうように。そして何事もなかったかのように、話題を切り替える。

「そういえば、今年のクリケット大会、また僕らがペアになるかもね」
「ああ」

 アルジャーノンが、短く答えた。レジナルドは、満足げに微笑む。

 章吾は、ただ黙ってそのやりとりを見つめていた。胸の奥でぐるぐると渦巻くものを、必死に押し殺しながら。

 ──俺には、呼べないくせに。

 隣にいるのに、どうしてこんなにも遠いのか。改めて思い知らされた。

 やがてレジナルドは、満面の笑みのまま章吾に向き直った。

「そうだ、Hiwatari君」

 章吾は、無言で視線を返す。

「君、クリケットの経験ある?」

 軽い調子。無邪気に聞こえるその声の奥に、微かな意図が透けていた。

「……ねぇよ」

 短く答える。それ以上、言葉を重ねる気になれなかった。

 レジナルドは、肩をすくめる。

「そっか。まぁ、アルジーと組むには、まだ早いかもしれないね」

 さらりと、何でもないふうに。それがかえって、章吾の心を波立たせた。

「『アルジー』って、そんなに軽く呼べる名前かよ」
 気づいたら、口に出していた。

「そうだよ?だって僕の幼馴染みだから」
 レジナルドは、負けじと言い返す。

「それ、嫉妬?Hiwatari君」
「……嫉妬?」
 その言葉が、胸に鈍く刺さった。冗談にしては、鋭すぎた。心のなかで何かが壊れる音がした。

 そのとき。
「……レジー!」
 低く鋭い声が、章吾の前に割って入った。

 アルジャーノンだった。彼はまっすぐレジナルドを見据えたまま、静かに告げる。

「言葉を選べ」

 滅多に見せない、張り詰めた声音だった。レジナルドは、小さく目を見開いた。

 そして、困ったように笑いながら言った。

「……ごめん、アルジー。冗談のつもりだったんだけど」

 あくまで軽く、場をなだめるように。
 章吾には、その一瞬、アルジャーノンの瞳に浮かんだ色が焼き付いて離れなかった。

 守ろうとする目。自分に向けられた、はっきりとした、意志。

 章吾は、そっと拳をほどいた。小さな音を立てて。

 レジナルドは、困ったように笑ったまま、軽く手を上げ、その場を離れていった。

 朝の光が、芝生の上に静かに伸びていく。
 寄宿舎の庭に、新しい風が吹いた。




 談話室に静寂が戻る。残されたのは章吾と、アルジャーノン。春の空気が、どこか気まずく流れていた。

 章吾は、両手をポケットに突っ込んだまま、ベンチの端に立っていた。何か言いたかった。

 怒鳴りたかった。ふざけんな、って。俺だって、ちゃんと──でも口が動かなかった。

 何をどう言えばいいのか、わからなかった。
 
 アルジャーノンが、ゆっくりと章吾に近づく。

「……すまない」

 ぽつりと落とされた声に、章吾は驚いた。
 悪いのはレジナルドだ。無神経にあんなことを言ったあいつのほうだ。

 それなのに、アルジャーノンはまっすぐ章吾を見ていた。蒼い瞳が、まるで章吾の痛みをすべて受け止めようとするみたいに。

(……やめろ)

 そんなふうに、優しくすんな。章吾は奥歯を噛みしめた。

「……別に、気にしてねぇし」
 吐き捨てるように言うと、アルジャーノンの表情が陰った。

 言葉が途切れ、沈黙が落ちる。

 章吾は目をそらしたまま、小さく息をついた。

 春の風が中庭を抜け、ふたりの間に、どうしようもない遠さを残していった。



 夜の寄宿舎は静まり返っていた。消灯後の廊下は、月明かりだけが薄く照らしている。

 章吾はベッドに横たわり、天井をじっと見つめていた。何度目を閉じても、蒼い瞳が脳裏に浮かんだ。

 シーツを握りしめる。

「……なんで、俺じゃないんだよ」
 胸の奥で、小さく崩れた声がした。


 同じ頃、同じ部屋で、アルジャーノンもまたベッドに座り、カーテン越しに夜空を眺めていた。

 高く昇る月。けれどその美しさも、今の彼にはただ遠く、冷たく感じられた。

(……Shogo Hiwatari)

 心の中で、そっと名前を呼ぶ。ただ呼ぶだけで、胸が痛んだ。その名を呼んでも、君は気づいてくれない。私が何を願っているのか。
 放課後の図書室。

 最初はただ、本を返すだけのつもりだった。

 けれど、棚の向こうにあの姿を見つけた瞬間、時間の流れが変わった気がした。

 白いシャツ、整ったネクタイ、そして指先に一冊の古書。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、まるで何百年前からそこにいたかのように、静かにページをめくっていた。

「……やぁ、Hiwatari」

 ふと棚の向こうから声がかかった。章吾は、ほんの少しだけ肩を強張らせた。

「……おう」

 短く返す。ぎこちない沈黙。昨日のレジナルドとの一件。その後、うまく言えなかった自分の言葉。胸にしこりのように残っていた。

 アルジャーノンはそんな様子を気にするふうもなく、静かに本を開く。ぱらぱらとページをめくる繊細な指先。章吾は、思わず覗き込んだ。

 そこには、びっしりと、見たこともない文字列が並んでいる。

「……なに、それ」

 思わず問いかけると、アルジャーノンは顔を上げずに答えた。

「ラテン語だよ。この学校の図書室には、何世紀も前の古書が保管されている」

 それから、自然な仕草で──ページを指でなぞりながら、流れるように読み上げた。

「……『In silentio crescit anima』」

 柔らかな発音。耳に心地よい響き。アルジャーノンは顔を上げ、さらりと訳した。

「『静けさの中で、魂は成長する』――アウグスティヌスの言葉だ」

 さらっとした説明。それが、彼にとってどれほど自然なものか、痛いほど伝わった。

(……すげぇ)

 素直に、そう思った。同時に、胸の奥が、きゅうっと痛んだ。

(……やっぱ、こいつは──)

 本物なんだ。エラグレイヴ・カレッジの頂点に立つ、本物の貴族。
 届かない。胸の奥で、誰にも言えない言葉が、静かに沈んでいった。

 章吾は、黙ったまま立ち尽くしていた。

 すると、アルジャーノンが手にしていた古書を閉じ、章吾に差し出した。

「……読んでみる?」

 驚いて顔を上げる。

「……いや、俺……ラテン語なんか、わかんねぇし」

 ぼそっと答えると、アルジャーノンはほんの少しだけ口元を緩めた。

「わからなくてもいい。最初は、言葉の響きだけでも感じればいいさ」

 柔らかい声だった。押しつけがましくもなく、ただ自然に。

 章吾は、差し出された本をぎこちなく受け取った。分厚くて、重たい。擦り切れた革装の表紙。長い年月を超えてきた本。

(……俺なんかが、触れていいもんなのか)

 そんな考えがよぎったけれど、手の中には、たしかな温もりが残っていた。アルジャーノンが、触れていたもの。

 胸の奥が、そっと震える。

「……ありがと」

 かろうじて、それだけを呟いた。アルジャーノンは静かにうなずく。図書室の静寂がふたりを包み込んだ。

 外では、春の風が木々を揺らしている。その音が遠く聴こえて、別世界みたいだった。



 数日後。また図書室。

 章吾は、自分でも驚くほど自然に、そこにいた。

 借りた本を返すため。それだけだったはずなのに、棚の向こうに白いシャツの背中を見つけたとき、思わず足を止めていた。

 アルジャーノンも気づき、軽く会釈する。ごく自然な動作。

 章吾が近づくと、彼は手にしていた本をゆっくりと閉じた。その表紙に見覚えがあった。

 ──『冬の翳りに花は咲く』。
 祖父・日渡秋水の代表作。世界的に評価され、英訳版も多く出ている。

 章吾の視線に気づいたのか、アルジャーノンが穏やかに問いかける。

「……もしかして、『日渡秋水』と君は血縁か?」
「ああ。祖父だよ」

 章吾はそう言って、椅子に腰を落とした。

「『日渡』って名前、出した瞬間から空気変わるんだよ。親切なやつもいたけど、勝手に期待してくるやつもいた。……それがしんどくて、ずっと黙ってた」

 その言葉を、アルジャーノンは一言も遮らなかった。

 彼は静かに、章吾の正面に立ったままだった。

「こっちでも言うつもりなかった。でも、おまえが読んだから、もう意味ねぇな」

「……名とは、ただの記号だ。だが時に、人間そのものより重くなる」

「わかってんじゃん」

 章吾は、ふっと苦く笑った。その笑いには、自嘲と、どこか安心の影があった。

 自分の背負うものを、言葉にせずとも理解する相手が、いま目の前にいる。その事実だけで、胸の奥がじんと熱を帯びていく。

 そのとき。

「Yoー!Shogo!アルジーー!」

 元気すぎる声が、図書室の静寂を破った。チャドだった。大きな荷物を肩に抱えたまま、にこにこ笑いながら近づいてくる。

「お前ら、また一緒かよー! もしかして、運命の赤い糸ってやつ?」

 ふざけたチャドの声に、章吾の顔が一瞬で熱を帯びた。

「……ちげーし!」

 即答したものの、声は裏返り、説得力などどこにもなかった。

 チャドは、珍しく押し黙った。
 
 隣のアルジャーノンは、いつも通り静かに本を閉じていたが──耳が、わずかに赤い。

(……バカか、チャド)

 内心で悪態をつきながらも、胸の奥が落ち着かなかった。

(赤い糸、だなんて)

 笑い飛ばせばよかった。くだらねえ、って鼻で笑ってやればよかった。なのに、頭のどこかで想像してしまう。指と指が、目に見えない糸で繋がってるなんて。そんな、馬鹿げた話。

 でも、もしそれが本当にあるとしたら──

 自分でも気づきたくなかった気持ちが、輪郭を持ち始めていた。

 章吾は、ページをめくる手を止めた。

 遠くに座っているアルジャーノン──姿勢よく、穏やかな指先でページをめくるその横顔。

(……あいつの、隣にいたい)

 自分でも、あっけないほど自然に思った。

 でも、すぐに胸の奥がひりついた。その人は、ただのクラスメイトじゃない。レイヴンズデイル家の嫡男。気高く、正確に言葉を選び、伝統の重みとともに息をしている。

(……わかってる。俺とは、生きてる世界が違う)

 たとえば、肩がふいに触れたとして。笑いあったとして。その隣に立つには、覚悟がいると思った。

 この気持ちは、手放しに笑って言えるものじゃない。「隣にいたい」なんて、軽く告げた瞬間に──この関係のすべてが壊れてしまいそうで。

 視線を伏せ、唇を噛んだ。手のひらが、うっすらと汗ばんでいた。


 アルジャーノンは、何も気づかずに本を閉じた。

 願わくば、まだ名前をつけないままで。傷つけないままで。

 この時間を、少しでも長く守っていたかった。
 ──また「伝統」かよ。

 白いシャツの襟が、妙に首に重たかった。ここに来てから何度目かわからない、疎外感。

「今年のFounders' Day Ceremony(創立祭)に向けて、今日からカレッジソングの練習を始める!」

 担任の声が響いた瞬間、教室にため息が渦巻いた。

 そんな教室の最前列でひときわ背筋を伸ばして座っている存在があった。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。白いシャツに、ぴったりと整えられたブレザー。

 蒼い瞳で前を見据える姿は、このエラグレイヴ・カレッジの伝統そのもののようだった。

(……こいつは、完璧に馴染んでやがる)

 胸の奥にひりつく感情が走った。


 午後、ホールに集められた生徒たち。

 パイプオルガンの伴奏が鳴る中、章吾は必死で口を開いた。ふと隣を見ると、アルジャーノンがまっすぐに歌っていた。

 完璧な発音。正確な音程。その姿は、この伝統に完全に溶け込んでいた。

(……俺は)

 どれだけ声を出しても、自分だけが場違いだった。しかし──

「Hoooow graaand the laaand of oooour foooorefaaaathers〜〜!」

 突如、斜め後ろから飛び出した破壊的な歌声に、章吾は思わず吹き出しそうになった。

 チャド。背は高く、髪は金色でくるくると跳ねている。

 いつも陽気で騒がしい彼は、今日もまた絶妙なタイミングで空気をぶち壊してくれた。

「おい、チャド、黙れ!音痴すぎんだろ!」

 前の席から誰かが笑いながらツッコミを入れる。

 チャドはまるで気にした様子もなく、得意げに親指を立ててみせた。

「Don't worry, guys!これは心のハーモニーだ!」

 言いながら、今度は調子っぱずれなビートボックスまで始める始末。指揮の教師がこめかみを押さえている。

(……バカだな、ほんと)

 そのバカさが、どこか救いだった。
 チャドはたぶん、ここに馴染めてなんかいない。

 でも、それを気にするでもなく、自分をそのままぶつけてくる。まるで「ここが自分の場所じゃない」なんて、一度も思ったことがないように。

「SHOGO!」

 また名前を呼ばれて、章吾が振り返ると、チャドが満面の笑みで親指を立てていた。

「お前、けっこうイケてたぜ。日本の侍パワー、見た!」

「……あほか」

 ぼそりと返しながらも、口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。


 礼拝堂の控室。

 和やかな雰囲気が一変して、静寂が辺りを包み込む。

 章吾の緊張はピークに達していた。アルジャーノンや他の貴族のような、歌の素養もない。音痴でも開き直る、チャドのような度胸もない。

 握った拳からは、汗が滴り落ちていた。

「Hiwatari」

 静かな声が、すぐ傍で響いた。驚いて振り向くと、そこにいたのはアルジャーノンだった。

「……歌詞、忘れたか?」

 淡々としたその声が、なぜだか無性にあたたかかった。

「いや」

 章吾は首を振った。本当は、歌詞の問題じゃなかったからだ。

「なら、問題ない」

 そう言って、アルジャーノンは章吾の肩を軽く叩いた。ごく自然に、ごくさりげなく。その手のひらが、熱かった。

(ああ、やっぱり)

 この男は、俺のこと、見てくれてるんだ。誰にもわからない痛みも、どうしようもない孤独も。きっと──どこかで、わかろうとしてくれてる。

 章吾はまっすぐ顔を上げ、隣にいるアルジャーノンを、そっと見た。その姿は、誰よりもまぶしくて、誰よりも近く感じた。


 礼拝堂の扉が、重たく静かに閉まる音がした。

 壇上。生徒たちが所定の位置に並んでいく。章吾は、アルジャーノンの隣に立った。

 横顔が、すぐそこにあった。

(……遠いな)
 と思った。

 ふとアルジャーノンがこちらを見た。言葉はない。ただ、頷いた。

(わかってる)

 章吾は胸の奥でそっと答えた。

 パイプオルガンの前奏が流れ、空気が震えた。歌声が、ひとつ、ふたつ、重なり始める。章吾も声を出した。

 最初は震えた。でも、隣でアルジャーノンが歌っている。彼のまっすぐな歌声に導かれるようにして、自分の声も、まっすぐに伸びていった。

 それだけで、怖くなかった。ふたりの声が、礼拝堂に溶けていく。誰の目も気にならなかった。

 隣にいる、このひとりだけを見つめていた。

 Founders' Day。伝統を歌い上げるこの瞬間。

 俺はこの世界で、お前と並んでいたいんだ。

 心の奥底から、そう思った。
 Founders' Day Ceremonyが終わった礼拝堂。さっきまでの厳かな空気がうそのように、行き交う人々でざわめいていた。

 生徒たちは互いにスーツの袖を引き、ネクタイを直しながら、来賓たちの間を縫って歩いている。章吾は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。

 そこに、近づく足音。

「あの!」

 背後から聞き覚えのある声がして、振り返ると──栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女が立っていた。
 どこかで見た顔だ、と思うよりも早く、彼女がぺこりと頭を下げた。

「ガーデンパーティーのとき、お見かけしました。
わたし、ここの在校生の妹で……チャドって知っていますか?」
「そうだったのか。チャド、いい奴だよな」

 彼女の顔がぱっと明るくなった。

「あのときは、あまりちゃんとお話できなかったので……今日また会えて嬉しいです」
「そりゃ、どーも」
「私、日本のアニメが大好きで!ずっと日本の方と話してみたかったんです」

 笑顔でそう言われて、章吾は戸惑いながらも、軽く会釈を返す。

「……そっか。アニメ、何観てるの?」
「いろいろ観てますけど……最近は『蒼月の双剣』です!あと、昔の『光のグレイス』も!」
「……まさかの名作チョイスだな」

 少女は嬉しそうに笑ったあと、ふっと視線を逸らすように言った。

「……でも、正直それより気になってるのは、あなたとアルジャーノンさんのことなんです」

 心臓が、どくんと跳ねた。

「すごく……仲がいいんですね。見てると、恋人同士みたいに見えるから。私まで、見てると嬉しくなっちゃいます」

 思わず息を呑む。ごまかそうとする前に、少女は慌てて首を振った。

「ごめんなさい、変なこと言いました!でも、きっと、他にもそう思ってる人、いると思います」

 ──他人から、そう見えるんだ。あいつがどう思ってるかじゃない。もう、周りには「そう見える」距離感なんだ。

「……迷惑、かけてないかな」

 ぽつりとこぼした言葉に、少女は静かに微笑んだ。

「そんなふうには、見えませんでしたよ。アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした」

 しばし沈黙していると、
「あっ!チャドだ!──いつかまた、お話しましょうねっ!」と少女は一礼してから駆けていった。



 少女と別れた後、章吾は、礼拝堂を抜け、人気のない談話室へと逃げ込んだ。

 昼間でも薄暗いその部屋には、大きな暖炉がある。春とはいえまだ肌寒い寄宿舎の空気の中で、炭火が赤く光っていた。

 外は春の陽気が満ちていても、この場所だけは冬の名残を留めたまま、ひっそりと静かだった。

 章吾はソファに沈み込み、少女の言葉を反芻していた。

(恋人、みたい……か)

 他人にそう見られるほど、俺たちは近かったのか。目をつぶると、あのやさしい声が蘇る。

『アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした』

 苦い思いが胸の奥でにじんで、思わず顔を伏せる。

 ──カツン。廊下に、小さな靴音が響いた。
 
 章吾は無意識に顔を上げる。談話室のドアが、静かに、ためらうように開いた。

 そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。

 一瞬、ふたりの視線が重なる。章吾の喉が、ごくりと鳴った。

 アルジャーノンも、わずかに足を止めたが、何も言わず、ゆっくりと歩を進める。

 そして、章吾の隣のソファへ。距離は、ほんの数十センチ。触れそうで、触れない、静かな緊張。

 その存在感が、胸の奥をかすかにざわつかせた。

 沈黙が落ちる。暖炉の赤い火だけが、ぱち、と音を立てた。

 章吾はちらりと横目で隣を盗み見る。アルジャーノンは手を組み、燃え残る炭火を見つめていた。

 ちらちらと揺れる炎が、彼の横顔を柔らかく照らす。蒼い瞳に、赤い光がゆらりと映っている。

(……なんで、俺の隣に座るんだよ)

 聞きたかった。でも、聞けなかった。この時間が、壊れてしまいそうで。

 章吾はそっと目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。

「……俺、歌……下手だったろ」

 それは、自分でも驚くほど素直な声だった。沈黙が一瞬、深くなる。

 やがて──

「……君の声は、よく響いていた」

 低く、芯のある声が返ってきた。

「……きれいだった」

 思わず、章吾はアルジャーノンを見つめた。彼はまっすぐに章吾の目を見ていた。一切のためらいも、飾りもない視線で。

「私には、そう聴こえた」

 声もまなざしも、あまりに真っ直ぐで、逃げ場がなかった。

 章吾は反射的に視線をそらす。こめかみにじんわりと熱が広がる。

「……やめろよ、からかうな」

 言いながら、唇をかすかに噛む。自分でも、声が少し震えていたのがわかる。そのとき、すぐに返ってきた。

「からかっていない」

 思わず振り返ると、アルジャーノンが、すぐそこにいた。距離が、さっきより近い。

「私は、君の声が好きだ」

 ぽつりと落とされたその言葉に、章吾の胸は高鳴った。心臓の音が、やけにうるさい。

「……バカじゃねーの」

 呟いたその声に、どこかすがるような照れが滲む。思わず目を伏せた。

 アルジャーノンは何も言わなかった。ただ隣で、じっと章吾を見つめていた。

 そのときだった。

 ──「君たち」

 静かに開いた扉の隙間から、老教授が顔をのぞかせた。

「……よく『ふたり』でいるのかね? ずいぶんと仲がよいようだ」

 一瞬にして、談話室の空気が凍りついた。

 ぽつりと落ちたその言葉は、軽口にも冗談にも聞こえなかった。どこか探るようで、含みがあって──皮肉よりも残酷だった。

 教授は、何も気づかぬふりでにこやかに微笑み、そのまま扉を閉めた。


 章吾は固まったまま、呼吸の仕方さえ忘れていた。鼓動が、耳の奥で嫌な音を立てている。

 隣で、ソファがきしむ。アルジャーノンが、ゆっくりと立ち上がった。

「……悪かった」

 その一言は、驚くほど小さくて。でも確かに震えていた。

 章吾は思わず顔を向けた。
 ──逃げるような背中。

「待って──」

 声が、出ない。喉の奥が焼けついたみたいで、言葉にならなかった。

(なんで……謝るんだよ)

 謝られる理由なんて、なかった。でも──それは、明らかに「線を引く」ための言葉だった。

 何かを拒まれた気がして、胸がぎゅっと締めつけられた。

 章吾は、なにもできずに、その背中を見送った。扉が閉まる音が、妙に遠くで聞こえた。



 夜。

 ベッドに背を沈めながら、章吾は天井の暗がりを見つめていた。手足は冷えきっているのに、胸の奥だけがずっと熱い。

(……あのとき、呼び止めればよかった)

 あんなの、「教授も冗談を言うんだな」って笑えばよかった。何も変わらないって、言えばよかったのに。

 でも、できなかった。手を伸ばす勇気が、出なかった。

(あいつ……俺と一緒にいると、恥ずかしいと思ったのか?)

 考えるたびに、心臓がぎゅうっと痛む。呼吸の仕方さえ、わからなくなりそうだった。

 ただひとつ、はっきりしているのは──あのとき、あの背中が、世界でいちばん、遠かったということ。

 どれだけ声を上げても、届かないところへ行ってしまう気がした。

 目を閉じると、胸の奥で、ぐしゃりと音がした。

 それが、泣きたいという感情なのか、好きという気持ちの破片なのか──自分でも、もうわからなかった。
 扉が、ノックされた。

「Hiwatariくん。修理が完了したそうだ」

 寮監督の落ち着いた声に、章吾は思わず振り向いた。扉の外に立つ男の背後には、別の職員がふたり、控えるように立っていた。

「えっ……?」
「君の部屋だよ。今朝には家具も整っていたらしい」

 まるで予約していた部屋に案内されるような調子だった。

 章吾は一瞬、言葉を失った。そんな急な話、昨日の時点では何も聞いていなかったはずだ。

 目をやると、アルジャーノンが窓際でティーカップを手にしていた。その目は外の景色の一点を見つめたまま動かない。

「……急だな」

 ようやく絞り出した章吾の言葉に、アルジャーノンはゆっくりとこちらを見た。

「そうだな」

 それ以上、彼は何も言わなかった。

 監督生が一歩下がり、「案内します」と促す。

 章吾は立ち上がり、最後にもう一度部屋を見渡した。数日前には見知らぬ場所だった空間が、なぜか今は、背中にひっかかるように名残を残す。

 何もなかったように整った部屋。何も言わないままの相手。それでも、章吾は直感していた。

 ──これは、誰かの「意思」だ。

 そしてその誰かが、ただの寮職員ではないことも、薄々わかっていた。



 食堂を出たあと、ふたりは並んで廊下を歩いた。靴音だけが、石造りの床に小さく響く。落ち着かない気持ちで、章吾はただ前を向く。

(……なんだよ、この空気)

 何か言わなきゃ、と思った。沈黙が、耐えられなかった。

「……そろそろ、荷物まとめないとな」

 軽い調子のつもりだった。でも、声は思った以上に乾いていた。

 アルジャーノンが、ぴたりと足を止める。章吾も立ち止まった。振り返ると、アルジャーノンは何かを言いかけて、やめた。

 無言で、並んで歩き出した。それぞれ、胸の中に答えのないざわざわを抱えながら。春の光だけが、廊下の先を白く照らしていた。




 章吾はスーツケースの前で、手を止めた。荷物は少ない。すぐに終わる。しかし、ひとつずつ物を詰めるたび、胸の奥がざわついた。

(……ここで終わりにするのが、いちばん平和なんだろ)

 ふたりでいることで、何かを壊してしまうくらいなら。

 これ以上、あいつが周囲から変な目で見られるくらいなら。自分が引くのが、きっと正解なのだ。

(これが、あいつのため……かもしれない)

 理由づけのように、そう思った。そう思うことでしか、自分の胸の苦しさに抗えなかった。

 ──そのときだった。

「……夜まで、ここにいてくれないか」

 後ろから、低く落ちる声。章吾は、驚いて振り返った。

「……は?」

 アルジャーノンは視線を落としたまま、もう一度、言った。

「……夜まで。今日で最後だなんて、……思いたくなかった」

 その声は、震えてはいなかった。それでも、どこか切実だった。

 章吾は、言葉を失った。

(なんで、そんな顔で言うんだよ)

(俺は、おまえのために離れようとしてたのに……)

 理屈も距離も、胸の奥のざわつきも、全部が意味を失っていく。

(ずるいよ、おまえ……そんな顔すんなよ)

 断れるはずがなかった。

「……わかった」

 小さくうなずいたとき、アルジャーノンの肩が、すこしだけ落ちた。

 ほんのわずかでも、安心したような気配が漂っていた。

 なにか、大切なものがひっそりと結び直された気がした。