「Hiwatari。君に伝えておくことがある」

 昼食後の時間、アルジャーノンは静かにそう切り出した。

「なんだよ。昼休みに説教か?」
「違う、音楽の先生に言われた。君に、『やってみたい楽器はないか』と。個人音楽レッスンは必修なのだ」

「はぁ? めんどくせぇ」

 章吾は気だるげにそっぽを向く。アルジャーノンは動じず、軽く顎で音楽棟の方を示した。

「行こう。どうせ暇だろう」
「おい、引っ張んなって……って、うわ、腕っ……!」

 音楽室に着くまでに、三度章吾は「帰っていい?」と聞いた。アルジャーノンはすべて無視した。


 室内にはグランドピアノと、整然と並んだ譜面台。 その真ん中に置かれた長椅子に、章吾はふてくされたように腰を下ろした。

「ピアノはどうだ?」

 と、アルジャーノン。

「まあまあかな」

 章吾は肩をすくめ、無造作にピアノに手を置いた。 そして、何の前触れもなく──音が溢れ出す。

 指が鍵盤の上を滑るたび、部屋の空気が震えた。

 アルジャーノンは言葉を失った。

「……君、本当にそれ、独学か?」
「まーな。レッスンは子供のころ受けたけど」

 さらりと答える章吾に、アルジャーノンはますます眉をひそめた。

「……お前も、弾いてみろよ」
「ならば、私はヴァイオリンを弾こう」

 そう言って、アルジャーノンは静かに棚からヴァイオリンを取り出した。

 アルジャーノンは黙って、構えた。音が、弦からこぼれ落ちる。

 エルガーの『愛の挨拶』。

 そのやさしい旋律が、音楽室に満ちていく。 章吾は吸い込まれるようにその音に耳を傾けた。

「いいじゃん。教えて」

 その一言に、アルジャーノンの指がふと止まる。

「……私がか?」

「うん。今、弾いてみたい」

 アルジャーノンは少しだけ目を伏せ、ヴァイオリンを差し出した。

「では──構えはこう。右手は弓、左手はネックを支える。そう、そこ……」

 ふたりの距離が、ぐっと近づいた。アルジャーノンの手が、そっと章吾の手を導く。温かい指先が、弓の握り方を教えるように触れる。

「こう。……力を抜いて」
「ち、近くね?」
「君の握りが不器用だからだ」

 からかいのような、真面目なような口調。
 しかし章吾の心臓は、先ほどからずっと落ち着かない。

 耳元で響く低い声。わずかに触れ合う肩と肩。

 そして、アルジャーノンが後ろから腕をまわすようにして、構えを整えた瞬間だった。

 章吾が顔を上げる。
 アルジャーノンも同時に、章吾の手元から顔をのぞき込む。

 ふたりの顔が──ほんの数センチのところで、止まった。

 視線が重なる。息が、かかった。

(……えっ)

 どちらともなく、呼吸が止まる。このまま、ほんの少し動けば、唇が……!
 アルジャーノンの蒼い瞳が、すぐそこにあった。章吾の目が見開かれる。

「っ……すまない!」

 先に離れたのは、アルジャーノンだった。距離を取るように一歩下がり、ヴァイオリンをきゅっと抱え込む。

「ご、ごめん……!」

 章吾も弓を置き、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いた。

 音楽室の空気が、しん、と静まり返る。雷の前のような、張り詰めた静けさだった。


「……その、弾きたいって言ったの、取り消してもいい?」

 沈黙を破ったのは、章吾だった。

「いや。教えよう」

 意外にも、アルジャーノンの声は落ち着いていた。が、その耳はほんのりと赤い。

「さっきのは……事故だからな」
「わかってるよ」

 目を合わさずに言い合うふたりは、まるで何かの稽古のようにぎこちない。だが、その空気は少しずつ和らいでいく。


「もう一度、構えからだ」

 アルジャーノンが再び後ろに立つ。章吾は頬を赤らめながらも、素直に身を預けた。

「右肩にヴァイオリンを乗せて。左手は指板を支えて」

 低い声が、背後から優しく響く。少し前とは違う。指導の声には、ほんのわずかな微笑みが混じっていた。

「こうか?」

「……悪くない」

 章吾の手元に、アルジャーノンの長い指がそっと重なる。弓の木肌ごしに、彼の体温がにじんだ。

 指が、そっと弓を導く。

 弦を擦った瞬間、小さな音がふるえた。不格好でも、それは「ふたりで出した最初の音」だった。

「お、出た……!」

 章吾が小さく笑った。アルジャーノンも、その横顔を見て、ふっと息をついた。

(……この人は、本当に掴みどころがない)

 だからこそ、離したくないのかもしれない──そんな思いが、胸の奥に灯った。



「……さっき、あぶなかったな」

 章吾がぽつりと呟いた。

「……何がだ」
「……わかってんだろ。あと少しで、唇、ぶつかってた」

 アルジャーノンの手が止まる。

「……君は、気にしているのか?」

 章吾は苦笑した。

「するだろ、ふつう」
「そうか」
「……お前は、しないわけ?」

 問い詰めるような章吾の声に、アルジャーノンは言葉を詰まらせた。

「……した。気にしている」

 ふたりの間に、また沈黙が落ちる。その沈黙は、先ほどよりもずっと柔らかかった。

「ま、事故だしな」
 章吾が、ぼそっと言う。

「事故、か」
 アルジャーノンはヴァイオリンをケースに片づける。

「……でも、悪い気はしなかった」
 その言葉に、章吾の手がピクリと動いた。

「……お前、そういうこと、さらっと言うなよ」
「事実だからな」

 どこか照れくさそうに、アルジャーノンはケースを棚に戻す。

「また弾きたいと思ったら、いつでも来るといい」
「勝手に開放していいのかよ、音楽室」
「私の名前を出せば、問題ない」
「……お前、便利だな」

 ふたりは肩を並べて部屋を出た。

 廊下の窓の外には、薄曇りの空が広がっていた。さっきまでの張り詰めた空気は、もうどこにもなかった。


 礼拝堂の鐘が、遠くで鳴った。次の授業が始まるまで、あと数分。

「……なあ」

 章吾がぽつりと声を上げる。

「ん?」
「今日、……たのしかった」
 アルジャーノンの足が、一瞬止まる。そして振り返り、章吾を見る。

「私も、だ」
 
 章吾は照れ隠しのように鼻をこすり、先に歩き出す。

「……また教えろよ」
「もちろん」

 その返事が聞こえてくると、どこかくすぐったくて、うれしくなった。
 
 音楽室の出来事は、誰にも話さない。

 ふたりだけの、ちょっとした「秘密」として、胸にしまっておこうと思った。

 厚い雲の切れ間から差す光が、さっきの弓の一音を思い出させるように、ふたりの肩を照らした。