「見た目が変わって、おまえは変わった。おまえの世界はぐんと広くなったし、俺のこと、少しずつ、本当はもう好きじゃないんだろうなって思うようになった。だからもう、終わりなんだって思ってた」
「そ、そんなこと……」
そんなことないと言いかけるわたしに、大丈夫だと基樹が困ったように笑う。
「昨日までは思ってた。大切な思い出をどんどん嫌なものに変えたくなかったし」
「………」
この人も、やっぱり同じように思っていたんだと胸がちくりとした。
「だったらもう仕方ないなって思った。おまえだって、別れたいって言ってもわかったって、ただそれだけだったし」
「そ、それは……」
あの時はああするしかなくて。
「おまえが意地っ張りだって知ってたし、よく考えたらわかったはずだけど……でも、俺もどうしたらいいかわからなくなったんだ。……それに、結構あれは落ち込んだ」
「……か、カマかけたの?」
「それは謝る」
ごめん、と素直に頭を下げる基樹。
「最近、ふと思い返すことが増えたんだ。こんな蒸し暑い真夏日に、三年前からきたっておまえが騒いでたあの夢を」
「夢?」
「目覚めたら家にいて、いつも通りの朝はやってきて、ずっと夢だと思っていた。でも、誰かにつけられてるって聞いて、あの日のことと、あの日聞いたことを思い出して、もしもあの通り魔がおまえのことを好きなんだったら……あえて夢で見たように距離をおいて様子を見ようかとも思った」
「……わ、わたしが本当に信じちゃってほかに行っちゃうって思わなかったの?」
悔しいことに、行くべきところなんてなかったのだけど。
「おまえ、あの時でっかい声で泣きわめいて俺のこと好きだって叫んだだけど、覚えてない?」
「え、ええっ……」
な、なんですって。
「まだ好きだ、あきらめたくないって……泣いて叫んでた。だから、それでわずかな奇跡を信じてみたんだ」
基樹のまっすぐな瞳が、こちらをとらえる。
「無理なら無理で、諦めるしかないけど」
その中に、今にも泣きだしそうに歯を食いしばり、複雑な表情のあまりに情けない自分の姿が見える。
そっとわたしの手を取り、基樹は瞳を細める。
「戻ってきた結果はどうだったのか、聞いてもいいですか?」
「なっ!」
……し、知ってるくせに。
言葉にならなくて、ぐっとこらえたけど遅かった。
「ああもう、すぐ泣く」
「……わっ、わかってるなら聞かないでよ」
「うん」
そっと優しく触れてくるその指先はよく知る基樹のものだ。
「ずっと、ずっとずっとずっと、わたしばっかり……わたしばっかり好きだった」
「そんなことないよ」
「三年前だって、今だってずっとそう!」
自己満足だったのは認めているけど、わたしのすべてはいつもいつも基樹ただひとりだった。
「お、俺も好きだから」
「なっ! う、うそよ、好きな人がいるって……」
あまりにも言いづらそうに言うものだから、思わず言い返してしまうも柔らかく笑んだ基樹が目に入る。
「俺もちゃんと見てたら、こんなにもわかりやすかったのにな」
ごめんな、と呟いた彼に抱き寄せられるのがわかった。
「散々けばいけばいって言われたし、挙句、好きな女の子についても語られたんだからね。あ、相手は誰であれ……」
心身ともにぼろぼろだと叫んでやりたい。
ぼろぼろだ。
ぼろぼろなのだ。
「す、好きな人がいるって……言ったから。わたしのことはもう好きじゃないと思って……」
「俺も、片想いだと思ってた」
「そ、そんなわけないじゃない! どこをどう見たらそうなるのよっ!」
言葉とは裏腹に、わたしの両手は彼のシャツを必死に握りしめていた。
「告白したのだって、俺だった」
「そ、そうだけど……同情で付き合ってくれたのかと」
「同情で三年間も一緒にいないし」
「そうなんだけど……」
ふくれっつらになりつつ嬉しいやらできっとすごく変な表情になっているに違いない。
「あの日も、わかってたよ」
「え?」
「三年前、謎の高校生に会って、俺は告白することを決意した」
「わ、わたしのこと、気づいてたの?」
どこをどうしたら気づくっていうのよ。
「気づいてたよ。だから話したんだ」
困惑するわたしに対して、基樹は楽しそうだ。
「好きな人について、言っただろ」
「どういう……」
「笑った顔がそっくりだったから」
「……そ、そっくり?」
完全にわけがわからなくなってより一層困惑するわたしに、まぁいっかとわたしの肩に顔をうずめ、とりあえずと彼は続けた。
「おかえり、笑子」
「ちょ!」
待ってたよ、と人の気も知らず声を弾ませる。
「わ、わたしはまだ、ゆ、許してないのよ」
「わかってる。これから改めてゆっくり、許しを乞います」
「……っていうか、そ、その名前で呼ばないでっていつも言ってるでしょ!」
叫んでも基樹は嬉しそうに笑うだけだ。
とても、懐かしいあの笑顔で。
「ああ……本当によかった、笑子が無事で!」
「よ、呼ばないでって、言ってるのに!」
「俺はちゃんと名前で呼びたいの」
言っただろ、と向けられたのは、まるでひまわりのような笑顔だった。
「エマちゃん!」
それから聞き取りがあるということで連れて行かれた警察署にて、入り口に足を踏み入れた途端、大きな声が聞こえて顔を上げると、凄まじいスピードで前方から走ってきた節子さんに思いっきり抱きしめられる。
「エマちゃん……ああ、エマちゃん、エマちゃん……大丈夫だった? 怖かったわね」
ぎゅっと包みこんでくれるその温かさは親子揃った変わらない。
「エマちゃん、エマちゃん……ああ、生きた心地がしなかったわ。……ちょっと、基樹、いい加減エマちゃんを離しなさいよ」
「言っとくけど、被害に遭ってんのは俺の方なんだけどな。ケガもしてるし」
節子さんが指摘するもわたしの手を一向に離そうとしない基樹にもう大丈夫だと何度目かになる言葉を繰り返すも聞いてはくれない。
普段なら絶対に人前で手を繋ごうとさえしなかったのに、今日は気にしていない様子だ。
「大切な彼女を身を挺して守ったのだけは褒めてあげるわ。ただし、親に心配をかけないこと」
「はいはい」
「お父さんも週末帰るそうだから」
「げっ!」
基樹と節子さんのやりとりを眺め、未だ現実とは思えない、宙に浮かんだようなふわふわした心境だった。
それからはしばらく、お母さんと基樹が過保護になって送り迎えをしてくれたし、できるだけひとりで歩くことはなくなった。
結局、基樹を刺した通り魔は、無差別に女子高生を襲っていた愉快犯らしく、わたしの前にも数人女子高生たちが被害に遭っていた。
わたしがずっとつけられていると思っていたのはただのストーカー(いや、これはこれで大問題だけど)をしていたらしく、その男ももれなく事件当日も居合わせたそうで、基樹曰く、基樹が斬りつけられたとき、腰を抜かしてそのときの恐怖から気絶をして、そのまま病院に搬送されてしまったらしい。
それからは恐れをなしたのか、わたしの周りに現れることはなくなった。
とにかく、わたしにとって、本当の意味でようやく再びの平和が訪れたのだった。
それは、暑い暑い夏の日のことだ。
「ねぇ、基樹……毎日大変だと思うから、たまにでいいんだからね」
「別に、好きでやってることだから」
あの日から、変わらずに基樹はいつどこにでもついてきてくれるようになった。
まわりから『過保護の基樹くん』と笑われても、そんなからかいは平然と跳ね除けて彼は気にせずにわたしについてくれた。
「笑子が居心地悪いなら考えるけど」
「や、そういうわけじゃないけど……」
それに、またその呼び方……と、言いかけて、わたしはわたしでまんざらでもないためこっそり口もとが緩みそうになったのを必死に堪える。
あの事件以来、基樹と少しずつ会話をすることが増えた。
わたしたちはずっと、お互いに気ばかり使って、大切なことを話すことから逃げていたように思う。
不幸中の幸いで、良いきっかけになったのかもしれない。
「基樹、大学はどこに行くの?」
空いた時間も一緒に参考書を開く機会が増えた。
だからこそ、ずっと今までは聞けなかったことだって素直に聞けるようになった。
「外国語大学とか、考えてるの?」
「……スペイン語はもう勉強してないよ」
「そ、そうなの?」
やっぱり知ってたのか、というように笑って、基樹がうなずく。
「あ、言っとくけど、中学生の基樹くんよりはちゃんと文法もわかってるはずだから」
「知らなかったから」
「ずっとサッカー選手になりたかったし、スペインにも留学したいと思っていたけど、今の俺の技術じゃまだまだ到底世界には及びそうにないから。堅実に生きていくことを選ぶよ」
「そ、そうなんだ」
「近くで応援もしてほしいし」
「え?」
「いや、笑子は?」
「わ、わたしは……未来への希望はないんだけど、将来の夢を探しに大学には行きたいなって思ってる」
「うん」
塾にも通い始めて、受験勉強という名目で勉強も始めたのだからお互いに大学へ進学することはわかっていたはずなのに、わたしたちはこんな会話すらできていなかった。
「け、県外に行っちゃうの?」
「行ったら、ついてきてくれるの?」
からかうように笑う基樹にいささかムッとしながら「き、聞いただけ……」と答える。
「県内のつもりだよ。家から通いたい」
「そ、そっか」
それを聞いて、少しだけほっとする。
「べ、別に、離れてたって会いに行くから問題ないけどね。わたしは過去の基樹にだって会いに行った人なんだから」
「……はは、笑子が言うとリアルだな」
「覚悟してよね。過去にでも未来にでも訴えかけにいくから」
「待ってるよ」
柔らかな笑顔を見せる基樹には相変わらず敵いそうにない。
三年前の彼はまだ可愛げあったのに。
これからの未来からまた過去に戻ってもどんどん余裕をまとった彼と出会うことになっていくのだろう。
それはそれでさみしいような。
「離れてたら、笑子の方がいろんなやつからちょっかいかけられそうで怖いけど」
「そ、そんなことない」
「どうだか。最近、俺がすさまじく嫉妬深い彼氏だと思われてるけど」
「それこそどうだか。もっと嫉妬してくれてもいいくらい」
「ま、そんなこと言って、知らねぇぞ」
そっと抱き寄せてくる基樹に、わたしも身を寄せる。
わたしたちの未来はわからない。
これからだってまた、何が起こるかわからない。
間違えることだってあるかもしれない。
それでも、この人とはこれから先も、ずっとともにありたいと切に願う。
間違えたって、わたしなりの道を見つけたい。
今という時間を後悔のないようしっかり生きて、自分なりに選び抜いた先の未来へ最高のバトンを繋いでいきたい。
ひまわりが咲くあの季節に起こった、あの奇跡を忘れないように。
わたしたちは一歩一歩、前を向いて歩いていきたい。
『誰かにつけられている気がするの』
笑子がそう言ったとき、すっかり忘れていた記憶が走馬灯のように駆け巡り、ぽっかり空いた記憶のピースを埋めていった。
聞いたことある……なんて話ではなかった。
夢だと思っていた記憶が少しずつ現実味を帯びてきて、不安そうにおびえた笑子の顔が浮かんだ。
三年前の夏、今の笑子とそっくりな高校生が三年後の俺にふられたのだと憤った状態で目の前に現れた。
未来から来たと言われてもそんなの信じられるはずもなく、それでも校門から出られなかったり恐怖に震える彼女を見ていたら、信じるしかなかった。
高校生の笑子は、俺が刺されたのだと言って泣きわめいていた。
ずっと夢だと思っていたあの出来事が本当なら、俺は刺されるのだろう。
笑子のことをつけているやつがいるのは薄々気づいていた。
多分、隣の高校の生徒で、一ヶ月くらい前から笑子のうしろを行ったり来たりしている。
さりげなく後をつけて釘をさしたこともあったけど、笑子自身は気にする様子もなかったため、大きなことをしでかさない限りはこっそり見守ろうと思っていた。
でも、今日は違った。
不安そうな笑子のようすに、あの日の姿が重なってしまったのだろうか。
わからない。
良くも悪くも、それがきっかけで突然あの出来事を思い返すきっかけとなった。
あの気弱そうな男が、そんな暴挙な行動を起こすのだろうか。でも、迷ってる時間はなかった。
それでも三年後の笑子の様子からして、ただごとじゃなかったのだろう。
無意識にも警察官である両親から護身術を習うようになった意味が分かった気がした。
正面に座る笑子は、参考書から目を離さない。
きれいに施されたメイクと隙のない横顔はときどき、知らない人に見えることがある。
お花が好きだとどんな日でも花壇の前で優しい笑顔を浮かべていた笑子が好きだった。
先生たちに話しかけれると顔をくしゃっとして一生懸命笑顔を作っていた。
本当は笑うのが苦手なんだろうな、と気になり始めて、それから意識をして、いつの間にか好きになっていた。
今の笑子のことが嫌いなんじゃない。
勉強もできるし、明るくてきれいで、誰からも好かれていて、すごい人だと尊敬することも増えた。
自慢の彼女ではある。
でも、高評価をするのは俺だけではダメなのかと思ったりもする。
少しずつ少しずつ、確実に距離を感じるようになった。
笑子は、俺のことを好きなんじゃないかもしれない。
そう思うようにもなり始めた。
わかっていた。
夢で見た未来の笑子は泣いていた。
泣いていて、俺とのことを後悔していると嘆いていた。
その姿を見ていたのに、この完ぺきな様子を目の当たりすると何も言えなくなっていた。
修学旅行で買ったキャラクターを取り出す。
本当は毎日持ち歩いてはいたけど、ある時からつけるのをやめてしまったし、笑子は笑子で何もいうことはなかった。
このまんまるいマスコットのことは覚えている。
修学旅行の時、見つけて「げっ……」と思ったほどだ。
笑子が気づかなくても、きっと過去の俺が気づくはずだ。
このマスコットは、この事件を乗り越えるキーアイテムだったのだから。
あのとき、未来の俺はなんて残していただろうか。
たしか、当時勉強していたスペイン語だった気がする。
だけど、なんて書いてあったか、そこの記憶だけぽっかり抜けてしまっている。
またスペイン語で書くべきか。
でも、中学生だった俺がどこまで理解できるだろうか……と、考えて考えたうえで単語だけ並べて、マスコットに書き込んだ。書き込んだうえで、笑子のカバンに忍び込ませた。
笑子がカバンをぶちまけたとき、きっとこのマスコットは過去の俺のもとへ向かうはずだから。
結局、笑子を狙ったのは笑子のあとをついてまわっていた男ではなく、よりにもよって隣町で警察沙汰になっていた通り魔だった。
笑子に好意を寄せる人間であるのなら、少し距離を置いた状態で見張ればいい……などと思って、俺はひどい言動で笑子を心から傷つけてしまった。
それでも平然とした笑子に少し腹が立った。
笑子のあとをつけてすぐ、彼女に向かってナイフを振り上げた男がいた。
あとから聞いたところ、愉快犯だった。
傷つけるつもりはなかったらしい。
それでもそんなことを知らず、俺は飛び出していた。
未来のことは知っていた。
だけど、動かずには居られなかった。
思いっきりナイフが刺さってた腕に跪いたとき、両目いっぱい涙を浮かべて気を失った笑子に、やっぱりどんな未来でも、俺はこの結末を選んだことを悟った。
頼んだぞ、と過去の自分に向けてつぶやき、俺は再び向かってくるその男に向かって構えたのだった。