「そんな顔しないで。あんたはちゃんと、あんたの未来の恋人のことをしっかり呼んであげればいいじゃない」
基樹のモットーは、『仲良くなった人はちゃんと名前で呼びたい』だったから。
呼ばれていなかったわけじゃない。
でも、だんだん呼ばれなくなっていったんだった。
もちろん、そうさせたのはわたしだ。
「中学生の基樹に言うのはお門違いなのにね」
わかっている。
わかっているのにこぼれ落ちる涙はどうしようもできなくて、しゃくりあげる自分がとめられなかった。
顔も化粧もぼろぼろだと思うし、本当に最悪でしかなかった。それだけにここまできたらどうにでもなれとさえ思えた。
ここは、今まで見えなかった基樹の姿を少しずつ思い出させてくれるのだ。
どうして見えていなかったのかと自分に問いたくもなるけど、気づけて嬉しいとさえ思ってしまう自分もいた。
「……ごめん。なんか辛気臭くなっちゃった」
ようやく落ち着きを取り戻した時にはなんだか急に恥ずかしさがこみあげてきて、あわてて涙をぬぐう。
何も知らない彼にこれ以上悲しい顔をさせるわけにはいかなかった。
解放してあげないと。
頭の奥でその言葉が廻った。
「何がともあれ、今日は高校生になった今でもまた中学校に入れたわけで、しかも夜の学校内を探検できた。わたしにしてはかなりスリル満点で楽しい一日を過ごせたのは確かよ」
これは本心だった。
泣いたり笑ったり、本当にこのごろでは感じたことのない感覚をたくさん味わうことができた。
「最近はずっと考えて生きてきたの。わたしらしい過ごし方とは……って。泣くことだって、素直にできなかった」
どうやったら傷つかないか、先に考えてこうどうするようになっていた。
「でもそれって、すごくつまらない生き方だった」
無我夢中で手探りで必死に動いて、それはみっともないだろうけど、何もしないうちに諦めてしまうよりは感情のまま行動してみたほうがきっと気持ちがいいのだろう。
「感謝してる」
もう二度と、見ることがないと思っていた景色。
この世界ではない世界にいる彼にはこの言葉を伝えることはできないけど、それでももうよかった。
実際のところ、もうこの校舎だって今はないのだから、本当にこうしてここにこれたのは最後の最後に最高の思い出が作れたのだ。
もしも無事に帰ることができて、すべてを無事に終わらせられたら、これから先、未来の基樹も笑顔が絶えない生活をしてくれたらいいなと思った。
「基樹、聞いて。あんたはこれから、正しい道をしっかり歩く。まっすぐ、自分の信じた道を、よ」
「……わかってる」
「間違えるとわたしみたいな彼女を作ることになるわよ」
笑ってみせるとばつが悪そうな表情で睨まれる。
「後悔のない選択をする。これ、あんたの口癖……ううん、格言なんでしょ」
いつもいつも何をするときもそう言っていた。だからわたしもいつもその隣で自分でこうと決めた生き方をしてきたつもりだった。
「もうね、本当にいっつもいっつもこの言葉ばっかり聞かされるから、ついついわたしもいざとなった時に口にしちゃうようになっちゃったの」
笑って泣いて、そしてまた笑って。
そうやってともに成長して、いろんなことがあったけど、そのたびに彼の隣で乗り越えてこられたのだと思う。
失敗を繰り返しながら、わたしはいつも前を向いていた。
「後悔ないようにしてね」
「俺ばっかり後悔しない選択すんの?」
「……え?」
「エマは未来の俺に振られて、何か言い返したの?」
突然返されて、言葉を失う。
目の前の基樹には、心配そうとか困惑でいっぱいの少年の表情はなかった。
よく見るまっすぐな瞳だ。
その瞳で彼は今、わたしを見ている。
「最初、怒ってたよな。俺に仕返しにここに来たって。そう言って怒ってた」
「それは……」
あのときは、何も覚えていなったから怒りの感情でいっぱいだったけど、状況がわかった今、そんなことは言ってはいられない。
「あ、あのときのわたしは、あんなことになっていただなんて、思ってもいなくて……」
「俺が刺されたのはおいておいて、エマは、ふられたとき、ふった張本人の未来の俺に何も言い返さなかったってこと?」
「え?」
「後悔ないように後悔ないようにって、エマが一番後悔してるように見えるよ」
わたし……わたしは……
「も、基樹が幸せになってくれたらって……」
「絶対嘘だろ」
「え?」
「そんな顔、してない」
静かに基樹の声が胸に響いた。
見透かされるのが怖くて、彼の顔が見られない。
すんなり頷いたほうが、わたしらしいって、そう思ってしまっていたのだから。
「……そうよ」
後悔しかしていない。
やり直したいのは、過去じゃない。
今のわたしだった。
「戻ったら、ちゃんと俺ともう一度向き合ってみたら」
「……うん」
もう一度、素直になれたらいいけど。
「あのさ」
「うん」
首の後ろに手をやった基樹が言いづらそうに口を開く。
これは、基樹のくせだ。
動揺すると平静を装っていても、すぐに首元に手をやる。
「俺、好きなやつがいるんだ」
「……え?」
「笑った顔が、この世で一番かわいいやつ」
「……な、なによ、いきなり」
突然の告白に驚いて顔を上げると、彼の強い眼差しと視線がぶつかった。
「いずれはエマに出会ってしまうかもしれないけど、それは俺が選んだ道だろうし……受け入れるつもりだ。でも、エマが今日この日の出来事のせいでって気にするなら、それなら先に言っておこうと思って」
「うそ、誰か教えてくれるの?」
あんなに言いたがらなかったのに。
「初めて見た時からいっつも笑ってて、何が楽しいんだろうって思った時はもう目で追ってて、ひまわりだと思った」
ゆっくりと落ち着いた基の声が響く。
なんなら頬をちょっと染めて、柔らかな表情を浮かべて。
「俺も、夏休みが終わったら、自分から声をかけようと思う。だったら、その先、何が起きたって後悔はないと思うし」
わたしはこんなに大きな声をあげた彼を見たことはあっただろうか。
いつもいつも見るたびに元気になれたのだと、なぜか突然耳まで真っ赤になった基樹の暴露大会が始まることになる。
「ちょ、ちょっと待って……」
「な、なんだよ」
文句でもあんのか、って顔でわたしを直視してくる基樹。
大人ぶっでいてもその姿はあまりにも少年らしくって、真剣な表情の彼に申し訳ないけど、思わずほほが緩んだ。
「なにそれ! 初耳なんですけど!」
ひまわり、だなんて。
あのころの基樹に、そんなにも熱い感情があったなんて。
そんなことを聞いたら、嫉妬で狂ってしまうかと思っていたけど、不思議と悔しい気持
ちにならなかったのは、やっぱりまだ、この基樹にはもっとふさわしい人がいると思える自分がいるからだろうか。
勢い余って言葉を並べてしまったのかと思いきや、基の表情は変わることなく真剣で、まっすぐな瞳でこちらを見ていた。
怒っている……いや、というより、ぐっと結んだ唇が少し泣きそうに見えた。
「……そ、そういう顔だよ。多分、そっちの世界の赤石基樹が惚れてたあんたの顔は」
「え……」
「なにもかも、諦めたような顔じゃない」
だんだん小さくなる彼の声に、わたしも言葉を失った。
そのひまわりのような女の子は、同じクラスの子だったの? 想いは伝えられたの?
今のわたしだったら、あの頃とは違って、赤石基樹を前にひるんだりしない。
思ったことだってなにを臆することなく言ってやることができる。
それだけ自信がついたのだ。
だけど、わたしは何も言えなかった。
いろんな言葉や感情が文字となってぐるぐると脳内をぐるぐる回ったけど、それは言葉として口から出てくることはなかった。
笑顔が素敵な子。
基樹が好きだった女の子は、友達が数えるくらいしかいなかった当時わたしではないことはわかった。
このことがショックだったわけではない。
だけど、語られた真実にわたしはいつものように軽口がたたけなくなっていた。
「もっと早く……気付けばよかった」
忘れていたんだ。
わたしが楽しいと思えること。
「最近のわたし……基樹の前で最近全然笑ってなかった」
基樹の笑顔が見たかったくせに、彼を笑わせようとできなかった自分に。
「なにやってるんだろう……」
あんなに隣で歩くことを夢見ていたのに。
なにをやってるんだろう。
好きな人ができただなんて言われて、はいそうですかって、平気なふりをして。
「わたしは……」
何を守りたかったんだろう。
プライド?
それともそれとも周囲からの称賛の声?
ううん。そんなもの、本当はどうでもよかった。守りたいものなんて、ただ一つだったのに。
「……その子と基樹がうまくいったら、この世界では基樹とわたしは出会わないかもしれないね」
基樹が無事でいてくれるのなら、それならそれでも良いとさえ思えてきた。
「橋田とは……話したことがないから」
「えっ?」
「どうなるかはわかんねぇけど」
恥ずかしそうに手の甲で口元を覆った基樹に時が止まったのを感じる。
「えっ……、あ、あんた……ちょっと……まさか……」
うそでしょ……同じ言葉が脳内を回る。
「は、橋田さんのことが好きだったの?」
(は、橋田って……あ、あの……)
思わず基樹と花壇を見比べて、あんぐりしてしまう。
ひ、ひまわりという印象とは、失礼ながらあまりに無縁のような。
「あ、あの……お花をよくいじってる……」
下手なことを言ったら怒らせてしまいそうだけど、それでも的確な言葉が見つからない。
「か、花壇にいる……」
「そうだよ、悪いかよ」
赤くなった基樹に、目を疑う。
(う、うそでしょ……)
「い、意外だったんだけど。い、いつから……」
タイプが全然違いすぎる。
「ほら、エマもからかう。バカにするんだったら、言いたくない」
未来の俺に聞いて!とひどく拒絶される。
「や、否定したいわけじゃないの。ちょっと驚いたというか……」
基樹の中で、彼女の存在はないものだと思っていた。
先ほど見た分厚いメガネの女の子に、この明らかに女の子慣れしています!と言わんばかりにキラキラと輝く男が片想いをしているなんて現実、誰が信じるだろうか。でも……
「応援してるよ」
この基樹には言わないけど、彼女も基樹のことは好きだ。
でなかったら、毎日毎日グランドの見える花壇に居座ることはないだろう。
(羨ましいな……)
心の底からそう思ってしまった。
「え、エマ」
基樹の声が聞こえて、はっとする。
「え……」
まばゆい光がわたしの足もとからつづんでいるように見えた。
「こ、これ……」
暖かい。そんな光だ。
「まさか……」
「エマ……俺は……」
基樹の唇が動いたのが目に入った。
彼は何か言いかけた気がする。
でも、聞こえない。
くいしばった口元がわなわな震える。
「も、もと……」
絶対に見られてはいけないと下を向く。
直感で、これが最後だとわかった。
きっともう、彼を前に笑うことなんてないだろうのに、わたしは彼の顔が見られない。
最後だから、叶うことならいっぱい笑ってお別れしたいのに。
自分の足元が見えて、「ああ、本当にいつも肝心なときは下ばっかり向いてるんだ」と朦朧とした頭で思う。
遠くで、基の声がする。
ところどころが途切れた声が耳に届く。
ずっと聞いていたいけど、わたしは零れ落ちる大粒の涙を止めることができなかった。
なんで、なんで今なの……
とてもとても遠くに聞こえる声に、わたしはもう一度、彼の声を聞きたかったけど、顔があげても彼の声は聞こえなかった。
「も、基樹……」
手を取りたかったけどできなかった。
声を張り上げたかったけど、できなかった。
(なんで……また……)
なんでまた、チャンスを逃したの……
本当は、言いたかった。
言いたかったのだ。
言いたかったのだ。
あの日、放課後であの奇跡が起きたあの時から、ずっと言えなかったあの言葉を、わたしは言いたかったのだ。
ずっと、ずっと好きだったのって。
この世で一番一番、あなたが大好きだったんだって。
薄れる彼の姿がさよならを告げる瞬間だとわかった。
ふわふわとした光に包まれていく。
不思議ともう怖くはない。
この道をたどればもう大丈夫……そんな気さえしている。
遠くの方で基樹の声が聞こえた。
今まで見たこともないような笑顔で笑って、同じサッカー部の仲間たちと声を上げてはしゃいでいる。
ああなんて眩しい人なんだろうと思った。
そして、あの光景が脳裏に浮かんだ。
(基樹……)
そして、じっとその姿を見つめる、彼女の姿も。
「あ、あのさ……」
その背中に何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
初対面でいきなり話しかけてくる謎の高校生に何か言われたところでなんなんだって思うだけかもしれないけど、だけど、わたしはゆっくり考えて、言葉を並べた。
「後悔しないように生きなよ」
何のことだよ、と自分でも思った。
そのまんま、自分に返ってくるじゃないか。
だけど、その背中はいつも小さな花壇から、人知れず大好きな人を眺めていた。
「あんたが、わたしに教えてくれたんじゃない」
自己満足だってわかっていた。
だけど、言いたかった。
もちろん、橋田さんも振り返らない。
「大切にできなくて、ごめんなさい」
あなたがあんなにも大切にしていた人だったのに。
あなたから、奪ってしまったのに。
悔やんでも悔やみきれない。
そんなことわかっていたけど、言わざるを得なかった。
「それでも……」
それでも決めたことがある。
「基樹は、わたしが助けるから」
助けるのだから。
橋田さんは、もう振り返らない。
目が覚めた時、見慣れない部屋にいた。
「んっ……」
(ここは……)
次回から入ってくる景色は眩しく、また目を閉じたくなる。
ぼんやりした頭でここはどこだろうと考えたけど、つんと鼻をつくお香のような独特の香りにだんだん意識が体に降りてくるのを感じる。
「……っ」
ズキッと頭が痛んで、口もとがひきつるも先ほどまでと違う澄んだ空気になんとなく戻ってきたんだろうなって思えた。
霞んだ目で、あたりを見渡す。
夢を見て泣いていたのだろうか、頬についた乾いた涙の跡に触れ、鼻を豪快にすする。
えーっと、と、現在の自分の状況を静かに考えてみる。
そうそう。長年付き合った彼氏に振られて、怒り狂って北瀬川神社に来たんだっけ。
そうだそうだ。思い出せば思い出すだけ鮮明に記憶がよみがえってくる。
そして、しみじみ思う。
不思議な夢だった。
あの夢で、本当は自分がどうしたかったのか、わかった気がした。
「も……とき……」
もうどうすることもできない。
そんな自分にまた泣きそうになる。
あれは、一番幸せな時だった。
片思いはつらかったけど、自分自身に素直になって、いつも彼を見ていられた。
「あ、あか……いしく……」
そう呼んでた頃に戻れたなら。
顔を覆って目を閉じると、あのキラキラした笑顔が脳裏に浮かぶ。
「あかい……」
「何?」
「……」
襖が開いて入ってきた人物に、思わず開いた口が塞がらない状態になった。
「あか……あかい……って、もと……基樹……ど、どうして……って」
じわじわと嫌な記憶も一緒に脳裏のあちこちから浮かび上がってくる。
「基樹っ!」
基樹はあのとき、不審な人物に刺されて……
「あ、あんた……だ、大丈夫なのっ? け、怪我は……」
思わず起き上がろうとして視界がぐらりと歪んで倒れそうになるも、必死にもがく。
「け、怪我は……」
基樹の無事を改めて確認したいのに、体が言うことを聞いてくれない。
ここは、天国だろうか。
それなのに、このふらつきはなかなかひどい仕打ちだ。
「いいよ。倒れたんだから。無理に起きるなよ」
ちゃんと説明するから、などと言うなりわたしの体を支え、再びもとの位置に戻そうとする。
「……え? あっ……ちょっと」
「大丈夫。ちょっと腕をかすめただけだから」
ほら、と基樹は包帯の巻かれた手をわたしに向ける。
あまりにも信じがたく衝撃的な光景に、ようやく視界がクリアになった気がした。
「な……んで……」
「通り魔に狙われたんだ。すぐに警察へ行かなきゃいけなかったんだけど、おまえが倒れたから、ひとまずここで休ませてもらうことになって……」
「た、倒れた? ここは……」
「北瀬川神社だよ。俺のクラスメイトがここの娘で」
「いや、そうじゃなくって、た、倒れたのは基樹じゃ……」
「切られた俺を見てぶっ倒れたのはおまえだよ」
「そ……そんな……」
「痛いところはない?」
「ないけど……」
「よかった。じゃあ母さんに連絡するから」
「………」
慣れた手つきでスマホをいじり、電話越しにわたしが目覚めたことを淡々と伝えている基樹はさきほどまで一緒だった彼とは違い、大人びていて堂々として見える。
「………」
(えっとぉおおお……)
状況がうまく読めない。
(なにより、なんで、この人がここに……)
通り魔の件もそうだけど、そもそもわたしはその前に、この人にふられたはずではなかろうか。思考が追いつかない。
「……状況が読めない?」
「よ、読めない……」
通話を終え、ぽかんと眺めるわたしに、基樹は笑う。
「ああ、本当にあの時のおまえは未来から来てたんだな」
「えっ……」
もう二度と近くで話すこともないと思っていた赤石基張本人が目の前で腕を組み何やら感慨深そうに頷いている姿が目に入る。
えーーーっと、これは、夢……ではない。
えーっとえーっと……
「中学生の俺、かわいかったか?」
いったい何がどうなってるんだろうか。
わたしの気も知らないで、表情一つ変えずに、この男は聞いてくる。
ああ、間違いない。
これがわたしのよく知る、現在の赤石基樹その人だ。
「……ど、どうして無茶なことをしたのよ」
再び合えたら言いたいことは山ほどあった。そして、それがあのころに戻った原因なひとつであるということも知っている。
「なんで……わたしを助けたのよ」
でも、言わずにはいられなかった。
どうして好きな人がいるのだと自分をふったはずの男がここにいて、何をどう間違ってこんなにも親しげに話しかけてきてるんだろうか。
なんならわたしのかわりに怪我までさせてしまったのだ。
「好きな人がいるなら……ほっ、ほっとけばよかったのに……」
言いたいことは山ほどあった。
伝えなければならないと、あのときは思っていた。
だけど、夢と現実は別だ。
こんなやつ、見たくない。
他に好きな人がいるのなら、二度と前に現れないでほしい……そう思ったのだけど、夢の余韻からか、胸のあたりがぐっと苦しくなる。
ムキになればなるほど目の前がぐらぐらして、気持ちが悪い。
「もう、また無茶する」
言うだけ言ったわたしが反応しないものだから、ようやく異変に気付いたのか覗き込んでくるこの人に、今までと同じように穏やかな心情で接することなんてできそうになかった。
「まだ体調悪い?」
「わ、悪かったわね。迷惑かけて……」
おせっかいにもこの場所を提供してくれたという同じクラスの女の子とやらにさえ、恨めしい気持ちになった。
いったいどんな恨みがあって今このタイミングで……って、実は今の好きな人なんじゃ……なんてふと考えたら、いてもたってもいられなくなる。
頭がかっかと燃えるように熱くて、落ち着くなんてとてもじゃないけどできそうにない。
「……ったく」
思わず大きな声を出してしまったからか、隣であきれたようなため息が聞こえた。
顔を見なくたってわかる。
もうほうっておいてほしい。
もうこれ以上、わたしの中に入って来ないでほしいのだ。
「戻ってきてもいじっぱりのままか」
まだ物申し足りなくて、無理に起き上がろうとしたわたしをさりげなく支えてくれる基樹はまた大げさなため息をはく。
「ムキになった俺も悪かったけど……」
「ムキに? な、何言ってるの? ほかに好きな人がいるってふっといて、こうやって堂々と目の前に現れるほうが理解に苦しむんだけど」
顔をあげて思いっきりにらんでやる。
こんなことを言いたかったわけじゃないのに、結局こうなってしまうのだ。
「ええ、そうね。めちゃくちゃかわいかったわよ、中学生のあんた。今とは比べ物にならないくらい、すっごくかわいかった」
むしろ、わたし自身はこういうところがはかわいくないんだろうなと思いながらも、嫌味たっぷりに言ってやった。
それでもこの気持ちは収まらない。本当に、嫌になってしまう。
怒るかと思ったけど、何も言わない基樹の瞳は優しい色をしていた。
「も、もと……」
「待ってたんだ」
「え?」
「今日、この日を待ってた。おまえが返ってくるのを、俺はずっと待ってたんだ」
その瞳には、メイクはぼろぼろで、髪は髪でぼさぼさになったわたしが写ったいた。
「見た目が変わって、おまえは変わった。おまえの世界はぐんと広くなったし、俺のこと、少しずつ、本当はもう好きじゃないんだろうなって思うようになった。だからもう、終わりなんだって思ってた」
「そ、そんなこと……」
そんなことないと言いかけるわたしに、大丈夫だと基樹が困ったように笑う。
「昨日までは思ってた。大切な思い出をどんどん嫌なものに変えたくなかったし」
「………」
この人も、やっぱり同じように思っていたんだと胸がちくりとした。
「だったらもう仕方ないなって思った。おまえだって、別れたいって言ってもわかったって、ただそれだけだったし」
「そ、それは……」
あの時はああするしかなくて。
「おまえが意地っ張りだって知ってたし、よく考えたらわかったはずだけど……でも、俺もどうしたらいいかわからなくなったんだ。……それに、結構あれは落ち込んだ」
「……か、カマかけたの?」
「それは謝る」
ごめん、と素直に頭を下げる基樹。
「最近、ふと思い返すことが増えたんだ。こんな蒸し暑い真夏日に、三年前からきたっておまえが騒いでたあの夢を」
「夢?」
「目覚めたら家にいて、いつも通りの朝はやってきて、ずっと夢だと思っていた。でも、誰かにつけられてるって聞いて、あの日のことと、あの日聞いたことを思い出して、もしもあの通り魔がおまえのことを好きなんだったら……あえて夢で見たように距離をおいて様子を見ようかとも思った」
「……わ、わたしが本当に信じちゃってほかに行っちゃうって思わなかったの?」
悔しいことに、行くべきところなんてなかったのだけど。
「おまえ、あの時でっかい声で泣きわめいて俺のこと好きだって叫んだだけど、覚えてない?」
「え、ええっ……」
な、なんですって。
「まだ好きだ、あきらめたくないって……泣いて叫んでた。だから、それでわずかな奇跡を信じてみたんだ」
基樹のまっすぐな瞳が、こちらをとらえる。
「無理なら無理で、諦めるしかないけど」
その中に、今にも泣きだしそうに歯を食いしばり、複雑な表情のあまりに情けない自分の姿が見える。
そっとわたしの手を取り、基樹は瞳を細める。
「戻ってきた結果はどうだったのか、聞いてもいいですか?」
「なっ!」
……し、知ってるくせに。
言葉にならなくて、ぐっとこらえたけど遅かった。
「ああもう、すぐ泣く」
「……わっ、わかってるなら聞かないでよ」
「うん」
そっと優しく触れてくるその指先はよく知る基樹のものだ。
「ずっと、ずっとずっとずっと、わたしばっかり……わたしばっかり好きだった」
「そんなことないよ」
「三年前だって、今だってずっとそう!」
自己満足だったのは認めているけど、わたしのすべてはいつもいつも基樹ただひとりだった。
「お、俺も好きだから」
「なっ! う、うそよ、好きな人がいるって……」
あまりにも言いづらそうに言うものだから、思わず言い返してしまうも柔らかく笑んだ基樹が目に入る。
「俺もちゃんと見てたら、こんなにもわかりやすかったのにな」
ごめんな、と呟いた彼に抱き寄せられるのがわかった。
「散々けばいけばいって言われたし、挙句、好きな女の子についても語られたんだからね。あ、相手は誰であれ……」
心身ともにぼろぼろだと叫んでやりたい。
ぼろぼろだ。
ぼろぼろなのだ。
「す、好きな人がいるって……言ったから。わたしのことはもう好きじゃないと思って……」
「俺も、片想いだと思ってた」
「そ、そんなわけないじゃない! どこをどう見たらそうなるのよっ!」
言葉とは裏腹に、わたしの両手は彼のシャツを必死に握りしめていた。
「告白したのだって、俺だった」
「そ、そうだけど……同情で付き合ってくれたのかと」
「同情で三年間も一緒にいないし」
「そうなんだけど……」
ふくれっつらになりつつ嬉しいやらできっとすごく変な表情になっているに違いない。
「あの日も、わかってたよ」
「え?」
「三年前、謎の高校生に会って、俺は告白することを決意した」
「わ、わたしのこと、気づいてたの?」
どこをどうしたら気づくっていうのよ。
「気づいてたよ。だから話したんだ」
困惑するわたしに対して、基樹は楽しそうだ。
「好きな人について、言っただろ」
「どういう……」
「笑った顔がそっくりだったから」
「……そ、そっくり?」
完全にわけがわからなくなってより一層困惑するわたしに、まぁいっかとわたしの肩に顔をうずめ、とりあえずと彼は続けた。
「おかえり、笑子」
「ちょ!」
待ってたよ、と人の気も知らず声を弾ませる。
「わ、わたしはまだ、ゆ、許してないのよ」
「わかってる。これから改めてゆっくり、許しを乞います」
「……っていうか、そ、その名前で呼ばないでっていつも言ってるでしょ!」
叫んでも基樹は嬉しそうに笑うだけだ。
とても、懐かしいあの笑顔で。
「ああ……本当によかった、笑子が無事で!」
「よ、呼ばないでって、言ってるのに!」
「俺はちゃんと名前で呼びたいの」
言っただろ、と向けられたのは、まるでひまわりのような笑顔だった。
「エマちゃん!」
それから聞き取りがあるということで連れて行かれた警察署にて、入り口に足を踏み入れた途端、大きな声が聞こえて顔を上げると、凄まじいスピードで前方から走ってきた節子さんに思いっきり抱きしめられる。
「エマちゃん……ああ、エマちゃん、エマちゃん……大丈夫だった? 怖かったわね」
ぎゅっと包みこんでくれるその温かさは親子揃った変わらない。
「エマちゃん、エマちゃん……ああ、生きた心地がしなかったわ。……ちょっと、基樹、いい加減エマちゃんを離しなさいよ」
「言っとくけど、被害に遭ってんのは俺の方なんだけどな。ケガもしてるし」
節子さんが指摘するもわたしの手を一向に離そうとしない基樹にもう大丈夫だと何度目かになる言葉を繰り返すも聞いてはくれない。
普段なら絶対に人前で手を繋ごうとさえしなかったのに、今日は気にしていない様子だ。
「大切な彼女を身を挺して守ったのだけは褒めてあげるわ。ただし、親に心配をかけないこと」
「はいはい」
「お父さんも週末帰るそうだから」
「げっ!」
基樹と節子さんのやりとりを眺め、未だ現実とは思えない、宙に浮かんだようなふわふわした心境だった。
それからはしばらく、お母さんと基樹が過保護になって送り迎えをしてくれたし、できるだけひとりで歩くことはなくなった。
結局、基樹を刺した通り魔は、無差別に女子高生を襲っていた愉快犯らしく、わたしの前にも数人女子高生たちが被害に遭っていた。
わたしがずっとつけられていると思っていたのはただのストーカー(いや、これはこれで大問題だけど)をしていたらしく、その男ももれなく事件当日も居合わせたそうで、基樹曰く、基樹が斬りつけられたとき、腰を抜かしてそのときの恐怖から気絶をして、そのまま病院に搬送されてしまったらしい。
それからは恐れをなしたのか、わたしの周りに現れることはなくなった。
とにかく、わたしにとって、本当の意味でようやく再びの平和が訪れたのだった。
それは、暑い暑い夏の日のことだ。