「そんな顔しないで。あんたはちゃんと、あんたの未来の恋人のことをしっかり呼んであげればいいじゃない」

 基樹のモットーは、『仲良くなった人はちゃんと名前で呼びたい』だったから。

 呼ばれていなかったわけじゃない。

 でも、だんだん呼ばれなくなっていったんだった。

 もちろん、そうさせたのはわたしだ。

「中学生の基樹に言うのはお門違いなのにね」

 わかっている。

 わかっているのにこぼれ落ちる涙はどうしようもできなくて、しゃくりあげる自分がとめられなかった。

 顔も化粧もぼろぼろだと思うし、本当に最悪でしかなかった。それだけにここまできたらどうにでもなれとさえ思えた。

 ここは、今まで見えなかった基樹の姿を少しずつ思い出させてくれるのだ。

 どうして見えていなかったのかと自分に問いたくもなるけど、気づけて嬉しいとさえ思ってしまう自分もいた。

「……ごめん。なんか辛気臭くなっちゃった」

 ようやく落ち着きを取り戻した時にはなんだか急に恥ずかしさがこみあげてきて、あわてて涙をぬぐう。

 何も知らない彼にこれ以上悲しい顔をさせるわけにはいかなかった。

 解放してあげないと。

 頭の奥でその言葉が廻った。

「何がともあれ、今日は高校生になった今でもまた中学校に入れたわけで、しかも夜の学校内を探検できた。わたしにしてはかなりスリル満点で楽しい一日を過ごせたのは確かよ」

 これは本心だった。

 泣いたり笑ったり、本当にこのごろでは感じたことのない感覚をたくさん味わうことができた。

「最近はずっと考えて生きてきたの。わたしらしい過ごし方とは……って。泣くことだって、素直にできなかった」

 どうやったら傷つかないか、先に考えてこうどうするようになっていた。
 
「でもそれって、すごくつまらない生き方だった」

 無我夢中で手探りで必死に動いて、それはみっともないだろうけど、何もしないうちに諦めてしまうよりは感情のまま行動してみたほうがきっと気持ちがいいのだろう。

「感謝してる」

 もう二度と、見ることがないと思っていた景色。

 この世界ではない世界にいる彼にはこの言葉を伝えることはできないけど、それでももうよかった。

 実際のところ、もうこの校舎だって今はないのだから、本当にこうしてここにこれたのは最後の最後に最高の思い出が作れたのだ。

 もしも無事に帰ることができて、すべてを無事に終わらせられたら、これから先、未来の基樹も笑顔が絶えない生活をしてくれたらいいなと思った。

「基樹、聞いて。あんたはこれから、正しい道をしっかり歩く。まっすぐ、自分の信じた道を、よ」

「……わかってる」

「間違えるとわたしみたいな彼女を作ることになるわよ」

 笑ってみせるとばつが悪そうな表情で睨まれる。

「後悔のない選択をする。これ、あんたの口癖……ううん、格言なんでしょ」

 いつもいつも何をするときもそう言っていた。だからわたしもいつもその隣で自分でこうと決めた生き方をしてきたつもりだった。

「もうね、本当にいっつもいっつもこの言葉ばっかり聞かされるから、ついついわたしもいざとなった時に口にしちゃうようになっちゃったの」

 笑って泣いて、そしてまた笑って。

 そうやってともに成長して、いろんなことがあったけど、そのたびに彼の隣で乗り越えてこられたのだと思う。

 失敗を繰り返しながら、わたしはいつも前を向いていた。

「後悔ないようにしてね」

「俺ばっかり後悔しない選択すんの?」

「……え?」

「エマは未来の俺に振られて、何か言い返したの?」

 突然返されて、言葉を失う。

 目の前の基樹には、心配そうとか困惑でいっぱいの少年の表情はなかった。

 よく見るまっすぐな瞳だ。

 その瞳で彼は今、わたしを見ている。

「最初、怒ってたよな。俺に仕返しにここに来たって。そう言って怒ってた」

「それは……」

 あのときは、何も覚えていなったから怒りの感情でいっぱいだったけど、状況がわかった今、そんなことは言ってはいられない。

「あ、あのときのわたしは、あんなことになっていただなんて、思ってもいなくて……」

「俺が刺されたのはおいておいて、エマは、ふられたとき、ふった張本人の未来の俺に何も言い返さなかったってこと?」

「え?」

「後悔ないように後悔ないようにって、エマが一番後悔してるように見えるよ」

 わたし……わたしは……

「も、基樹が幸せになってくれたらって……」

「絶対嘘だろ」

「え?」

「そんな顔、してない」

 静かに基樹の声が胸に響いた。

 見透かされるのが怖くて、彼の顔が見られない。

 すんなり頷いたほうが、わたしらしいって、そう思ってしまっていたのだから。

「……そうよ」

 後悔しかしていない。

 やり直したいのは、過去じゃない。

 今のわたしだった。