「大丈夫だから。落ち着いて話して」

 どくん、どくん……ゆっくり聞こえたのは基樹の心臓の音だと気づいたのは、少ししてからだった。

「い……生きて……る……」

「生きてるよ。だから、大丈夫だ」

 基樹に抱きしめられるようにして、わたしは泣いていた。

 もうそこは、真っ赤に染まった世界じゃない。見なれた夜の世界で少しほっとする。

「思い出したくなかったら、今じゃなくてもいいから……言えることだけ教えて」

 基樹は努めて落ち着いて話そうとしているようだった。

「俺を殺したって……」

「わ、わたしの……わたしのせいで……わたしのせいで刺されたの……し、知らない、お、男に……わ、わたし……へんな人につけられてるって……知ってたのに……」

「エマを庇って、俺が刺されたんだ?」

「も、基樹……」

 思い出した途端、体中が心臓になったみたいにガクガクと震える。

「ど、どうしよう……わたし……」

 こんなところにいる場合じゃないのに。

 血に染まった基樹を、一刻も早く病院に連れて行かないといけないのに。

「わた……」

「そっか」

 基樹がすうっと息を吐く。

「やるじゃん、俺」

「は?」

「好きな子、守ったんだな」

「い、いやいやいやいや、何のんきなこと言っちゃってんのよ! ありえないわよ! 別れて間もない女のために人生棒にふるなんて! ば、バカだわ……」

 また涙が溢れてきて、見苦しくもわっと声を上げて泣いた。

「も、基樹が、わたしのせいで死んじゃうなんて……嫌だ……嫌だよぉ……」

「痴情のもつれであんたに殺されたんじゃなくてよかった」

「こ、殺されたも同然でしょ!」

 わたしのせいなんだから。

「俺は、死んでた?」

「えっ……」

 思い出すとあの忌々しい光景が蘇り、吐きそうになる。

「わ、わからない……き、気づいたら基樹が倒れていて、そ、それで……」

「じゃあまだ死んだとは限らない。大丈夫。俺は母親似で意外とタフだから」

「で、でも……」

「大丈夫。なんかあっても節子さんが仇をとってくれるだろうから」

「そ、そんなの絶対嫌だ!」

「……大丈夫。忘れないでおくから」

 顔を上げた先で、真剣な表情で基樹がうなずくのが目に入った。

「大丈夫。未来の俺は何もかも分かった状態でそのときを迎えたんだと思うから」

「えっ……」

「俺が未来の俺なら、過去であんたと会ってるはずだから、ある程度のことは予測していたと思う」

「そ……そんな……」

 言われてみれば、確かにそうだ。

 中学生の基樹が、高校生のわたしに会っていて、それが未来につながっているというのならば、基樹はあの出来事について事前に知っていたはずだ。

「だから……わかれようって……わたしのそばにいたら、自分の命が危ないのを知っていたから……」

 それなのに……

「それなのに、未来は変えられなかった……」

「違う」

「え……」

「俺には何か、絶対に考えがあったはずだ。あんたを守りたいと、絶対、強く思っていたはずだ。未来を変えるなら、自分の未来じゃなくてあんたとの未来を変えたかったんじゃないかって、そう思うんだ……」

「でも……」

「これ、見て」

「えっ……」

 基樹がポケットの中から取り出したのは、わたしのものと同じくらい汚れたまんまるい人形だった。

 でも違う。

 その眠そうな目つきは……

「く、クロック……」

 それは、基樹が持っていたものだ。

「どうして、ここに……」

「さっき、あんたがカバンの中身をぶちまけたときに拾った」

「え……」

「俺にしか読めない文字が書いてあったから、預からせてもらってた」

「文字?」

 基樹がひっくり返したクロックの背に、何かが書き込まれていた。

−−−−novia devolver−−−−

「英語……じゃない? なに、これ……」

「スペイン語」

「え? スペイン語?」

「俺、実はちょっとだけ独学してて、あの……サッカーで食っていけたらなって思ってて」

「え、そうなの?」

「誰にも言ってないけど」

「わ、わたしも聞いてなかった!」

 どう見てもあの、現実主義者の基樹が……信じられなかった。

「彼女、返して……って書いてある」

「えっ……」

「文法は無茶苦茶だけど……勉強を諦めたんじゃなくて、短く収まる言葉を選んだんだと信じたい」

 基樹が柔らかく口角を緩めた基樹はどこかしら嬉しそうだ。

「返してって書かれてるから、返さないといけないんだって思ってる」

「そんな……」

「俺にしかわからないメッセージ」

 俺ならもっとまとまな文脈でメッセージに残すのに、と笑みを浮かべる基樹とわたしのよく知る基樹の姿が重なって見える。

「ご……ごめんなさい……」

 あなたは前向きで、いつだってわたしの背中を押してくれていたのに。

「ごめんなさい……でも、ありがとう……」

 涙をぬぐって顔を上げる。

 どうせまたひどい顔なんだろうけど、気にはしない。

 もう、気にはしない。

「わたし、早く戻って基樹を助ける」

 好きな人ができて、別の未来を歩んでもいいのだ。

 でも、あなたには生きていて欲しい。

 心からそう思ったのだ。