「すぐ戻るから」

 それだけ言い残して基樹は校門の外へ出ていった。

 基樹がこれっきり戻ってこないのではないかと不安にもなったけど、コンビニに走っていく姿が最後まで確認できたため、彼を信じて待とうと大きな月夜のしたで座り込む。

 生ぬるい風が肌に触れる。

 暑くはないのだけど、じわっとした汗がまとわりつく。

 取り出した鏡の向こうに化粧もボロボロに剥げた世にも恐ろしい姿の自分が映り込んでいてぞっとした。

 そりゃ、基樹も怯えるわけだ。

 普段なら一時間と待たずして鏡を眺めては崩れたところがないかと確認していたというのに、すっかり忘れていた。

「メイク落としもないしなぁ……」

 基樹にケバいと言われたこの顔は、わたしにとっての魔法だと思っている。

 人の評価が変わったのも、自信がついて顔を上げられるようになったのもこのメイクのおかげだった。

 初めてメイクをし始めたのは、受験も終わり卒業を目前にした頃だった。

 最初は基樹に釣り合うように可愛くなりない……その一心だったのだけど、メイクを覚えて自分に合う彩りを覚えていくうちに少しずつ上達をしていった。

 初めてまつ毛をビューラーで上げた日、世界がとても広く明るく見えたことは忘れない。

 少しずつ褒められることも増え、調子に乗り出した。

 今だって結局メイクを落としたら、魔法は解けて元の地味なわたしに戻るのだ。

 だからこそ、魔法が解けないように解けないようにといつも必死だった。

「大丈夫」

 鏡の中に笑いかける。

 いつもこうして自分を元気づけてきた。

 そう。大丈夫よ。

 しばらくは、背伸びをすることもなぬ、見た目だってもう無理をしなくていいかもしれない。

「この自分も嫌いじゃなかったんだけどなぁ……わた……えっ……」

 鏡の中が、少しずつ赤色に染まっていく。

「なっ、なにっ!」

 金切り声を上げて投げた鏡は地面に激突して転がっていく。

「はぁ……はぁ……な、なんなの……な……」

 そして、自身の腕もみるみるうちに赤く染まっていくのに気がつく。

「ど、どうして……」

 生暖かい感触が、手のひらに広がる。

「えっ……」

 目の前に、少しずつ赤色が水たまりのようにじわじわと広がっていく。

 真っ赤に染まった世界の中で、うずくまる人影が見えた。

「も……もと……」

 世界と同じ色をした基樹が倒れていた。

「も、もとき……もとき……もとき!! い、いやぁぁぁぁぁ」

 どんどん染まっていく。

 これは、基樹の……

「しっかりしろ! エマ! 聞こえるか!」

「いやぁぁぁ、基樹っ! 基樹!」

「大丈夫だ! 俺はここだ、落ち着け!」

 思いっきり肩を掴まれ、顔を上げると中学生の基樹がいた。

 遠くのほうでビニール袋に入っていたであろういくつかのおにぎりが無残に散らばって見えた。

「エマ、大丈夫。深呼吸して」

「違う……あなたじゃない……あなたじゃない基樹が……」

 思い出した。

 思い出してしまった。

「基樹が死んじゃう……」

「えっ……」

 どうして忘れていたのだろうか。

 忘れてここに逃げたかったのだろうか。

「ご、ごめんなさい……」

 絶対に忘れてはいけなかったのに。

「わたしが……基樹を殺したのに……」

 それだけは絶対に忘れちゃいけなかったんだ。

 赤く赤く染まった手の感触は、忘れることはない。