『あ、ごめん、いたんだ?』

 カエデの木が燃えるような赤色に染まったあの日、日直の仕事に追われていたわたしは誰もいなくなった放課後の教室で日誌を書いていた。

 夕日の色かカエデの色なのか、わからないくらい教室が真紅に色を変えた時、聞き慣れたあの声がした。

『えっ!』

 その声の主が突然姿を現したものだから跳ね上がるように飛び上がって、思いっきり机の角で腰を打った。

 ど、どうしてここに……

 思うよりも先に腰が砕け、情けないことにわたしはその場に崩れ落ちていた。

 だって、いつもいつも夢でもいいから会えたらと願う憧れのその人が目の前に立って、しかも自分の方を見ていたのだ。

 動揺しないはずがない。

『だ、大丈夫か?』

 大きな音を立てて地べたに座りこんだわたしにぎょっとしたようにあわてて彼も教室の中に飛び込んできた。

 わたしはもう大パニックだった。

『井手《いて》を探してるんだけど、見なかった?』

『……み、見ていません』

『そっか。一度クラスに戻るって言っていたのに。 って、本当に大丈夫?』

 何が起ったのか、わからなかった。

 頭の中が彼でいっぱいになり、わたしに向けて投げかけてきてくれているであろう言葉さえ遠くに聞こえた。

『た、立てるか?』

 と、今度は手を差し伸べてくる。

 大丈夫かと聞いてくれるその声が目の前でひびいている。

 夢にまで見た距離で彼がわたしに話しかけてくれているのを客観的に感じる。

『だ、大丈夫です』

 そういいたかったけど、言えなかった。

 声が声にならなかった。

 嬉しいよりもだんだんむなしくなってきて、今すぐこの場から消えたくさえ思えた。

 彼の手を取らずに立ち上がろうとしてまたへなへなと座りこむわたしを、彼はただじっと眺めていた。

 変なやつだと思われたに違いない。

 最低だ。

 ただ、遠くから見ているだけでよかった。

 そりゃ、少しはわたしという存在を認識してほしいなとも夢のようなことを考えて妄想した日も少なくなかったけど、こんな最低な印象をつけてしまうくらいなら知られないままでいた方がよかったように思う。

 涙があふれてきた。

 なんで、なんで泣くんだろう。

 バカなわたし。

 どうしたらいいかわからなくて、ただ流れる涙を拭うことさえできずにめそめそしているわたしに、彼はぷっと吹き出した。

『……え?』

『なに、おれのこと、そんなに怖い?』

『……』

 もしかして、嫌われてたりする?と絶対に笑いをこらえたような表情で彼はわたしの目の前にひざをついた。

 目の前に彼がいた。

 言葉が見当たらなくて、ただ吸い込まれるように彼を見ていた。

 ふと彼がわたしの名前を呼んだため、なんで知ってるのかと驚いた。

『知ってるよ、ずっと前から』

 なにをいっているのか、頭がしっかり働かない。

 そんなわたしをからかうわけでもなく、穏やかな瞳の彼は言った。

『いっつもおれのこと、見てるよな』

『え……?』

 ええええええええ、な、なんでなんでなんで知ってるのと叫びかけたところで、彼も笑っていったのだった。

『おれも見てたから』

 この日のことは、一生忘れることはない。