世界は真っ赤に染まった。
嫌な嫌な赤色だ。
それは、灼熱の炎を連想させる日差しが世界を照らし、ひまわりの花がまっすぐ空に向かって伸びる、そんな季節の出来事だった。
「あ、ありえねぇ……」
同じようで何かが違う。
しゅっとした切れ長で黒目がちな瞳がどこか落ち着いた様子を醸し出し、加えて背が高い分、実年齢より少し大人びて見えるものの、それでも彼は年相応の動作で大げさに自身の頭を抱え、また同じ言葉を繰り返した。
「む、無理……絶対ない……」
これで何度目だろうか。
見ているだけでも気が滅入りそうになる。
先ほどから彼は蒼白な表情で同じ言葉を繰り返している。まるで呪文のように。
はたから見たら、高校生のわたしが中学生の彼をいじめているように見えるかもしれない。だけど、そんなこと構わない。
「俺、あんたなんて知らな……」
「あんたは知らなくてもわたしは知ってんのよ」
わたしだって自分が何を言っているのかだんだんわからなくなってくる。
それでも何度だって言ってやる。
「三年間、わたしの彼氏だったんだから」
この暑さのせいかもしれない。
わたしは結構おかしくなっていた。
燃え盛る炎の中に置いてきぼりにされたように頭の中は熱に犯されていて、いまにも爆発してしまいそうだった。
見るからに困惑している中学生にいきなり怒鳴りつけるなんていつものわたしじゃありえない行為だったと思う。
それでも我慢できなかった。
(だ、だってこの人は……)
張り裂けんばかりの大声で、全身全霊にたまった黒い影を放出するにはこれしかなかった。
でないと今にも夏の魔物に心を奪われてしまいそうだった。
世の中には、不思議なことがあるものだ。
改めてこの状況にそう思わざるをえない。
奇跡とか願掛けとか神さま仏さまへのお願いを本気で信じているわけではない。
お賽銭だって何度願いを込めて投入したかはわからないし(最もお賽銭は神さまへの感謝の気持ちを込めて投げるものらしいけど)、お守りだって数え切れないほど持っている。
もちろん、人並みに神頼みに勤しんでいることも否めなくはないけど、それらはすべてそのときの自己満足で終わるのだ。
占いだって、朝のニュース番組でちらっと目にして一喜一憂してしまったとしても、どうせ次の瞬間に新しい記憶へと塗り替えられてしまっている。
結局のところ、自分の運命を良くも悪くも変えられるのは自分自身なのである。
なにかに頼ろうと躍起になったとしても、結局すべての結果は自分の努力次第で決まってくるのだと、わたしは知っている。
なぜなら、努力をすればすべてとまではいかなくてもある程度の結果は自分のもとへ返ってくるということを十七年生きてきた上でなんとなく悟ったからだ。
たとえ叶わなくたって、そこで行った努力や試みは決して無駄なものではないし、経験値という自信となっていずれ何らかの形で今の自分の生活に結びついてくる。
今のわたしが存在しているのは、努力を重ねたからといっても過言ではない。
たくさん苦労もしたし、いろんなことを考えて試行錯誤もした。
チャンスがあるなら何でも挑戦した。
だからこそ、大きな壁が目の前に立ちはだかったときだってどうすればうまく乗り越えていけるのだろうかなんて、ほんの少し知恵を使えば簡単な問題だと思っていた。
努力は無限。人を裏切ることはない。
まだまだ怠ることはできない。
いつだってわたしは目に見えない何かに手を伸ばし、それを追い続けていた。
一年後は受験生であり、そろそろ大人として扱われる年齢もだんだん近づいてきたし、自分の身に降りかかるすべてのことに関してはなんとなく知り尽くしたような気持ちでいた。
『井の中の蛙大海を知らず』
もちろん、わたしが狭い世界しか知らず、そんな中で驕り高ぶっていることなんて、このときのわたしは知る由もなかった。
「ふぅ」
大きく息を吸い込むと、蒸せそうになるほど生ぬるい空気が肺に広がったのも束の間、徐々に冷静さが蘇ってきた。
(現実主義者だと思ってたのにな……)
少しずつ心が落ち着いていくのと同時に、目に見える世界が少しずつ広がっていき、思わず苦笑してしまう。
まだまだ知らないことはたくさんある。
すべてをわかったつもりでいた自分につきつけられた現実はあまりにも刺激的で信じがたい出来事だった。
人生はサバイバルだ。
いつも手探りで新しい発見がある……とかなんとか、どこかの実業家の書いた自己啓発本で読んだような気がするけど、敷かれたレールの上をいかに賢く生きていけば良いかばかり考えて前に進んでいたわたしには無縁の言葉だと思っていた。
ある意味この状況はなにかを試されているような気がしてならなかった。
目の前で頭を抱えてしゃがみこむ中学生を意外と冷静に眺めていた。
「ぜ、絶対にありえねぇ……」
彼はまだ同じ言葉を繰り返していた。
いつもは余裕綽々で涼しい顔をしている彼にしては珍しく、なかなか見慣れないその姿は違和感でしか無かったけど、そんな姿にいい気味だ……と思うよりも、だんだん諦めの方が勝り始め、ため息が出てきた。
わたしは、数時間前、三年間の月日を共にしたこの人に別れを告げられたばかりだった。
赤石基樹。
中学に入学してすぐに心を奪われ、恋に落ち、好きで好きでたまらず、それでも目で追うのが精一杯で、ようやく恋が実るまで恋が実るまでずっとずっと長きにわたって片思いをしていた相手でもある。
ここ数か月、お互い来年の受験に向けて塾に行き始めたりなんだかんだと予定が合わないことが増え始め、会うことも少なくなり、会えば会ったケンカばかりで、そろそろ潮時なんじゃないかと思い始めた頃、思ったよりも早く、その日がやってきた。
好きな人がいる。
あっさりした言葉だった。
一瞬、周りの世界が色を失った気がした。
呼び出しておいてなかなか来ない彼を待つ間に、きれいだなと目を向けていたひまわりが咲き誇る美しい公園の景色でさえ、目に入らなくなった。
(好きな人だぁ?)
何をまぁ堂々と開き直ってるんだこの男は!なぁんて思ったりもしたけど、案外すんなり受け入れられた自分に驚いた。
いや、それらすべてを覆す言葉を探すため、瞬時に思考を巡らせたけど、強い眼差しでこちらを見つめる彼にはもう、何を言っても無駄だと心のどこかでわかっていたからだ。
言い返すことなく「そう、わかった」とだけ返答したわたしがいた。というか、それ以外に何と返答したらいいかわからなかった。
もともと終わりも見えていたし、わたしだって遅かれ早かれいつかはこの日が来るだろうと思っていた。それに今の自分ならすぐにでも新しい相手が見つかるだろう。
ただ一つ許せなかったのは、自分がふられたという事実だった。
今までありがとな、なぁんて淡々と言い放ち、この男は背を向けて颯爽と去って行ったけど、その少しあとで自分の中で突然ふつふつと湧き上がる何かを感じた。
これは怒りだ。
別れを告げられた。頭では冷静に理解しているつもりでも、胸の奥に隠れる苛立ちを鎮めることはできなかった。
「本当、俺、あんたのこと知らないんですけど……」
(まだ言うか)
そう思ったけど、中学生の基樹は、今と変わらない強く輝く黒い瞳をわたしに向けた。
どれだけ困惑した様子で訴えかけてきたって同情なんてするものですか。
わたしはこの人に仕返しをすることを決意したのだ。そう、三年の時を超えて。
卒業してから一度も足を踏み入れたことがなかった懐かしい母校を一瞥して、昔はここで泣いたり笑ったり、なかなか忙しい中学生活を送ったものだなぁとしみじみ思いにふける。
雲一つない青空にじりじりとこちらに向かって攻撃的な熱を放つ太陽。けたたましく響く蝉の鳴き声。遠くの方で聞こえる野球部の大きな掛け声が聞こえる。
(変わらない夏なのね)
蜃気楼が揺れる。
朦朧とした頭でぼんやり思いながら、なぜ自分はこんなところにいるのだろうかと今さらながらに現在おかれている状況を考えることとなった。
いや、考えるほどのことでもない。
気付いたらここにいたのだ。
実は思っていた以上に振られたショックは大きかったため、思い出の詰まった母校まで無意識のうちに来てしまったのかとも漠然と考えていた。
しかしながら異変に気付いたのは、そのすぐ後だった。
なぜならこの母校は、わたしたちが高校二年生に上がる頃、隣の中学校と統合されるとかなんとかで校舎拡大のため立て直しになったと聞いていた。
取り壊すことになると聞いて、最後に見に行こうとあわてて開かれた同窓会もあったほどだ。
わたしは都合が合わず、そのときは参加をすることはできなかったけど、何もなくなってしまったこの場所を後日自分の目で確認することはできた。にも関わらず、当時と変わらないその姿が目の前に存在することに違和感を覚えるしかなかった。
そして、夏休みのように見えるが、幾人すれ違う生徒たちの視線を感じ、気付いたことがいくつかあった。
そりゃここでは場違いな高校の制服を着た女子がいきなり校内をうろうろしていたら目に付くだろうとは思うけど、その中に、何人か見知った顔の人間がちらほらいたからだ。
見知った彼女たちよりも少し幼く見える……というかむしろどう見ても今最近目にした雰囲気ではないかつての旧友たちの姿に目を疑った。
姉妹や親族なのかとも思えたが、どうもそうでもないらしい。
現に、すれ違ったほとんどの人間が知り合いたちの兄弟姉妹なはずがない。
恐ろしくめまいがするほどの現実と向き合う必要がありそうだった。
気味が悪くなり、早くこの場から立ち去ろうと校門へ向かうが、向かう途中でまた同じ場所に戻ってきてしまうというまったく信じたくない状況にわたしは陥っていた。
困惑とパニックでいっぱいになりながらも諦めずに校門へ向かうこと数回。
すべては失敗に終わった何度目かの挑戦の末、楽しそうに友人たちと談笑しながら歩いてくるある人物と見つけることになる。
それは怒りの発端である張本人だ。
いや、今よりもかなり子供じみていて、最近ではあまり見かけなくなった馬鹿笑いをしながら周りを盛り上げていた。
信じられなかったが、わたしがこの人の姿を間違えるはずない。
中学生の基樹だとすぐにわかった。
この時、なぜだかわからないけどわたしはこの人に仕返すためにここへ来たのだと、神さまから与えられた試練を確信した。
そして、現在に至る。
「どこの神さまがそんなことすんだよ!」
ここから一歩も通さないと言わんばかりに立ちはだかるわたしに、とうとう降参したのか、基樹は絶望的な面持ちのままその場に座り込んだまま大きなため息をついた。
今から部活に向かうところだったのだろう。一緒にいた仲間には退散してもらった。
「死神かよ!」
「別に命とろうってわけじゃないわ」
「疫病神か!」
「どちらかというとそうかも」
「……」
額の汗を拭い、予想以上に声を荒げて子供っぽいことを言う彼に思わず怒りを忘れて口元が緩みかけた。いつも冷静沈着ですまし顔の大人ぶった今のあいつとはまるで別人だ。
自分の発言に気付いてか、本人も恥ずかしそうに顔をそむける。
ダメだ、耐えられない。
「……うーん、まぁ、神様といえば、北瀬川《きたせがわ》神社の神様かな?」
そういえば、怒りに身を任せて向かった先は北瀬川神社だった。たしか、わたしはそこに向かって……あれ。
「そうよそうよ。わたし、北瀬川神社に行ってから、気付いたらここにいたんだ」
そうだ。そうなのだ。
なんだか一瞬、赤い世界が広がったような気がしたけど、じわじわと靄のかかった霧が晴れ、記憶が少しずつ蘇り始める。
「はぁ? 正気かよ。その神社、俺に復讐させるためにあんたに力を貸したってこと?」
神も仏もあったもんじゃないなと絶望している基樹の姿が面白い。
「そもそもなんでこんな女と付き合ったんだよ、未来の俺……いや、本当にそれ、俺なのか? 俺、ケバい女って一番無理なんだけど……」
「け、けばっ……」
もはやこちらの姿が目に入っていないのだろうか。いや、見えているはずだけどあまりに動揺しているのか本人を目の前にして、ずいぶんと失礼なことをただただ自分に言い聞かせるようにやみくもに繰り返す。
(けばい女が嫌い?)
鼻で笑いそうになる。
「何言ってんの。中学時代からキラキラした高校生のお姉さんたちと付き合ってたくせに」
いつもさり気なくはぐらかしていたけど、知っているんだから。
「はぁ? 付き合ってねぇえよぉおおおおお!」
驚くほど見慣れない様子で困惑する基樹に対し、通り過ぎる人たちもひとり、またひとりと視線を向けていく。
あの、赤石基樹が……とでも思われているのかもしれない。いや、間違いない。中学校時代(まぁ、今も変わらないけど)の基樹は、学校で知らない人がいないくらい人気者だったのだから。
わたしがなにも知らなかったとでも思っているのだろうか。
片思い歴二年半を舐めないでほしい。
ずっと見ていた。
それはそれはもう、遠く遠くから。
毎日毎日飽きもせず、ずっとずっと見ていたのだ。
近づけないのはわかっていても好きで好きでたまらなかった。
でも、基樹は当時から人気者だったし、校門で待ち構える美人な高校生がいたことは当時のわたしもしっかり目撃していた。
じゃあどうして、そんな人気者とわたしが付き合えたのか……うん。それはわたしにとっても永遠の疑問だ。
「落ち込んでるところ大変申し訳ないけど事実なのよ。とっとと受け入れなさいよ。というか、いちいち失礼よね。これでもミス修徳《しゅうとく》高校に選ばれてるんですけど」
結構見た目には自信あるのだと続けると、うそだぁぁぁぁとさらに荒れ狂う彼に、なんだか怒りよりもだんだん可哀そうな気持ちがわいてきた。
つくづくわたしも甘いなって思うけど、何も知らない中学生を捕まえて、知りもしない未来について話すことにだんだん罪悪感が生まれ始めてきたことも確かだ。
「もう、いいわ」
「……は?」
「行けば? 部活、始まるんでしょ」
なんだか、どうでもよくなってきた。
これ以上無防備に直射日光を浴びることも耐えられないし。
「復讐なんて冗談よ。浮かれてバカ笑いしてるあんたを見たらムカッとしただけで、悪いのはわたしの知ってる基樹なわけであんたではないわけだから……まぁ、とりあえず、もういいから」
「でもあんた、校門から出られないんだろ?」
嫌だ嫌だと言いつつも、この嘘のようなわたしの話を信じてくれたのだろう。(いや、信じるしかないのだろうけど)
強い光を放つ瞳がわたしを映す。
ああ、変わってないなと思う。
「……どうにかなるわよ」
今まで見たこともないくらい動揺した基樹が見れた。仕返しをするとしても、きっとここまでだ。これ以上はどうすることもできない。
「まー、もし、あんたが部活終わる頃もまだこのままだったら、何かほかの仕返しを考えとくわ」
「……あんた、名前は?」
「聞く必要ある?」
あんた、このまま部活に行ってそのまま帰る気なんじゃないの?
「い、一応だよ……」
「エマよ」
真剣な表情と驚くほどまっすぐな眼差しで聞かれるものだから、答えるしかなかった。
あんなに嫌がっていた相手なんだから放っておけばいいのにと内心わたしが思ったほどだ。
「……エマか。珍しい名前だな」
「そうね」
「ま、まぁいい。一時休戦だ。部活が終わって何も変わってなかったらまた考え……」
「おいっ、赤石! おまえ、キャプテンが何やってんだっ!」
遠くの方で雷先生と呼ばれたサッカー部顧問、林田《はやしだ》が怒鳴ってるのが聞こえた。
少し離れたグランドにて、大きな声で号令のかかるサッカー部の姿に「やべっ」と勢いよく立ち上がった基樹は、こちらを振り返ることなく駆け出す。サッカーのことになると他が見えなくなる。やっぱり基樹だ。
そんな彼の姿を見ていたら、わたしは彼を再び呼び止めることなんてできなかった。
『新入生代表、赤石基樹』
はいっ、と言う堂々とした声が体育館いっぱいに響き、びくっとした。
ただでさえ人より小さいのだけど、この日は存在が消えてくれることを切に願いながらさらに小さく見えるように立ち、緊張も加わった状態でびくびくしていた。
何もせずただ立っているだけなのに今にも胃液が出てきそうなほど気持ち悪く胸の鼓動が早くなっているのに、人前に立たされて新入生の代表として挨拶までさせられる人を気の毒に思った。
きっとあいうえお順なのだろうけど、前でも後ろでもない苗字でよかったと心から思った。
だけど、まわりがざわっとして、その人がただただ同学年で一番初めに始まる苗字だから選ばれたわけではないことが見て分かったのはそのすぐあとのことだった。
そっと顔を上げた先で、大きなスクリーンに映った彼の芯の強い切れ長の瞳と目が合った……気がした。
「失敗を恐れず、常に前向きに、新しい自分を見つけていきたいと思います」
その圧倒的な存在感は目を奪われるのには十分な迫力があり、意気揚々と語る彼の言葉がまったく耳に届かなかったくらいだ。
窓の外で咲き乱れる満開の桜の色も相まって世界が淡い薄紅色に包まれていくのを感じた。
のちに、その人間とはいつも行動を共にする遠慮のない関係になっていくのだけど、春になると必ずあの光景を思い出したし、桜を見ると彼の姿が脳裏に浮かんだ。
もちろん、彼には言ったことがない。
なんだか惚れた弱みと言うか、言ったら負けたような気がしてなかなか言えなかったし、そんな機会もなかった。
きっとこれからはさらに言うことがないのだろうけど、思えばあれは、わたしの遅い初恋の始まりだった。