あの日のきみにさよなら

 振り返ったはいいけど、がくがく震えて動けなくなった橋田さんになんだか申し訳なくなった。

 彼女に会うのも久しぶりだ。

 彼女はわたしがぶらんと見せたお守りが目に入った途端、はっとしたように瞳を大きく見開いた。わたしは知っている。

「大事なものなんでしょ?」

 彼女がいつもこのお守りを大切にしていたことをわたしは知っていた。

「あなたの大切なお守り」

 橋田さんは親友の福岡さんとお揃いのお守りを買ったのだと嬉しそうにしていたのが記憶にあるからだ。

 少しずつ、あのころの記憶が蘇ってくる。

「あ……りがとう……ございます」

 強引にひったくるようにしてわたしの手から奪い取ったそれをしっかり握りしめた彼女の方から、消えそうな声が聞こえた。

 いつも彼女はこのお守りを福岡さんのようにカバンやどこかにつけるのではなく、大切そうに握りしめていた覚えがある。

 ピンク色のかわいいお守りだ。右下の方に黄色いミモザのお花の刺繍が施されている。

 当時、このお守りはわたしたちの間でとても人気だったのだ。

(北瀬川神社か)

 確かに、わたしも昔は何かあるごとにあれやこれやといつもお願いしに行った。

 テストのこととか、体育祭のこととか、もちろん、恋のこととか。

 高校生になってからはたいていのお願いごとは自分で何とかできるようになったため行くことがなくなったけど、中学校の時はよく助けてもらったことを思い出す。

 基樹にふられて無意識にまず向かおうとしたのもこの神社だったし、わたしも今でも変わらずお世話になっているのだとしみじみ思ったらあんなに神頼みはしないと強気だったのがあまりにも滑稽な姿に思える。

 思わず笑ってしまったことに驚いたのか、橋田さんは泣きそうな顔で固まっていた。

「あ、ごめん。わたしも昔は同じようなお守りを大切に持ってたなぁって勝手に思い出してただけだから」

「……」

 そうですか、の一言くらい適当に言えばいいのに、などと思ったけど、彼女は唇をへの字にしたまま、無言を貫く。

 わたしの前で何も言えなくなってしまった橋田さんはどう見ても限界のようだ。

 思わずまた口を開きかけてやめる。

 たしか彼女はこんな子だったなぁと今さらながら思い出し、これ以上困らせるのはさすがに可哀想に思えてきた。

 暑い夏に、しかも夏休みの真っ最中に、部活もないのにわざわざ制服を着てお花に水をあげにきたのだろうか。

 額に光る汗が見える。

 陰ながら行動しても報われない努力。

 目立つ子たちは何もしなくても人の前に立ち、キラキラしているのに不公平なものだとさえ思えてしまう。

 だけど、橋田さんは真っすぐな人だ。

 それに、わたしはこの光景を知っている。
 基樹と付き合うようになってからのわたしは、毎日が自分に精一杯で、あまり気にすることはなくなってしまっていたけど、覚えている限りでは、この花壇は年中美しく色とりどりのお花が咲き誇って学校を色鮮やかに見せてくれていた。

 入学した時にあまりの美しさに言葉を失ったほどで、それからも毎日この花壇のそばを通るのが楽しみだった。

 いつもきれいだと思っていた。

 ここのお花を見ると元気になれたし、また明日からも頑張ろうと思えたものだ。

 これはわたしの中学校時代の記憶。

 そういえば、学校が立て替えられているという今でも、この花壇は健在なのだろうか?もしなくなっていたら……少し悲しい。

「あのさ」

 沈黙が続き、自分でも驚いたけど、先に口を開きかけたのはわたしだった。

 橋田さんは変わらず今すぐにでもこの場を立ち去りたい様子だったけど、どちらかというと恐怖で動けないといった様子だ。

 だから、柄にもなく、何か言うべきかとふとそんな気がしたのだ。

 中学時代のわたしといえば、特にこれといった特技もなかったし、目立つ要素はひとつもなかった。

 基樹と付き合うことになるまでは誰からも注目されることもなかったし、それどころかわたしの存在さえ意識する人はほとんどいないに等しいだろうと改めて思う。

 でも、この人は……橋田さんなら、なんとなく今のわたしを見て違和感を感じてくれるんじゃないかなって思ったけど、そうでもないようだった。というより、今のわたしの姿は彼女にとって、猛獣のような姿で写っているのかもしれない。それくらい怯えているため、逆に申し訳なくなった。

「いや、いいや。ごめん」

 何が言いたいのか自分でもよくわからなかったけど、なんとなく、気付いてほしいような気がした。勝手な話である。

「い、いえ、ひ、拾ってくださって、あ、あああありがとうございました」

 そんなわたしとは裏腹に、早くこの話を切り上げてこの場から立ち去りたかったのだろう。今にも消えてしまいそうな声で無理やりお礼の言葉をぶちこんで、当の橋田さんは横目で後方を気にし始めた。

 そして私が返答するよりも前に小さく一礼すると、すぐさまこちらに背を向け、足早に去って行こうとした。

 力いっぱい握られた如雨露を胸に抱え込み、一刻も早くここから存在を消したいのか自信なく丸まった背中とくせっ毛の髪の毛をぐしゃっと一つにまとめた、そんな後姿が最後に目に入った。

 わたしの記憶の中のままのその姿だった。

 下ばかり見ている女の子。

 別に引き留めてまで話すこともない。

 わたしだってもともとわざわざ自分から話題を作って話すタイプでもないし。

 だからもう彼女を呼び止めようとは思わなかったけど、少し懐かしい気持ちになった。

 足元にはマリーゴールドが美しく咲き誇っていた。艶やかなオレンジ色の光がまぶしい。

 彼女が大切にしていた花壇を眺め、思わず頬が緩む。絶望的な気持ちだったけど、心なしかなんだかまた頑張れそうな気がした。

 この気持ちは、あの頃のものと少し似ている。
『わぁ、きれい……』

 思わず声がもれた。

 入学式が終わって、小学校からの同級生の母親と親同士の会話が盛り上がってしまった母を待つため、一人で外へ出たわたしは、初めてこの花壇を見つけた。

 その時は、美しいガーベラとカスミソウが春の訪れを喜ぶかのように並んで咲いていた。優しい色に心が温かくなった。

 まるで春の訪れを喜ぶ妖精たちのようだと小さいころに読んだ絵本を思い出してしまったほどだ。

 校門のところに咲く満開の桜並木もとてもとてもきれいだったけど、同じくらいこの花壇も一目で好きになった。

 小さく深呼吸をして座りこむ。

 誰も見ているはずはないのにコソッと辺りを見渡して、ほっとする。

 入学式からずっと高鳴る胸の高まりをなかなか抑えることができない。

 絶対にあの人せいだ……と燃えるように熱い頬に手を当て、ひとりで照れて、そして耐えきれなくなってしまいにはわっと顔を両手で覆った。

 はたから見たらずいぶん怪しい光景だったと思うけど、そんなこと考えていられなかった。

 突然、壇上の上に現れた同級生の男の子に目を奪われたあのとき、あの瞬間からわたしの中の世界の色が変わった気がしてならなかった。

 うまくは言えないけど、その時から胸の奥で高鳴る音を抑えることができなくなった。息が荒くて苦しいほどだ。

 おかげで壇上で話したその人が何を話したのか聞こえなかったし、名前さえ聞き取れなかった。

 ただただ時を止められたのだ。

 恋愛に興味がなかったわけではないけど、お世辞にも可愛いとか愛嬌があって友だちが多いというタイプでもなく、わたしが恋愛をするという機会があるならば奇跡だと思っていた。

 一方的に恋をすることはあるだろうけど、きっと片想いに終わるだろうし、それならそれで仕方はないからほろ苦い思い出だって当たって砕けたときに後悔のないようにできたらいいなと少女漫画を読んでは想像のできない未来の自分像を想像しては勝手な妄想を繰り広げた。

 まさか自分が、あんなにも視線を集めて笑顔を振りまいて平然と歩く人間に心を奪われることになるとは思っても見なかった。

 きっと、これからは想像の中にあの人が出てくるのだろう。

 桜の花を思い出そうとして、またあの光景が脳裏によみがえり、心のなかで『きゃっ!』と小さく悲鳴を上げる。

 わたしにはキャパオーバーな心境だった。

 それでも、これから先の中学生活で何か今までにはない新しいことが起こるような気がして、そんなふわふわした気持ちと目に見えない大きな希望が胸いっぱいに広がり、何だか嬉しくなった。

 よく考えれば、あれはわたしが初めて恋をした日のことだった。

 わたしの淡い片想いのはじまりは、桜色のあの日からはじまったのだ。
 すっかり日も落ち、夏場とはいえ、だんだん心細くなるような空の色を見つめ、ぐったり力なく座り込んだわたしは深い深いため息をついた。

 頑張ろうと思えた気持ちが、遠い昔のことのように感じられる。顔を伏せたらもう上を向けそうになかった。

「何話してたの?」

 頭上から聞こえる声に、頭をあげる気力さえなかった。

「……誰のこと?」

 あまりに惨敗の続いた時間が長すぎたため、徐々に溜まっていった疲労とともにいったいいつのことなのか正確に思い出して考える余裕なんてどこにもなくなっていた。

 あれからも何度か高崎さんたちと同じように怪しんだ女子生徒たちに話しかけられたり、ひそひそ後ろから指をさされたりした。

 先生や大人の人に怪しまれて声をかけられなかったのが幸いだったけど、当時の懐かしい仲間を見つけても彼らはわたしのことを警戒して遠目に見ていたくらいだった。

 誰かひとりくらいはわたしだと気付いてくれたり、当時のわたしの親族のひとりと思ってくれないだろうか……なんて、徐々に弱気になっていく胸のうちを肌で感じたものだけど、残念ながら誰一人としてわたしに気付いてくれる人はいなかった。

「やっぱり戻れなかったんだ?」

 あーあ、というように隣に腰を下ろす彼にわたしは唖然とする。

「あんたは逆に、わざわざ戻ってきてくれたんだ?」

 そのまま逃げ帰ってもよかったってのに。

 仕方ないだろ、とだけ呟いて基樹は面白くなさそうに顔をそむける。

 悪いかよ、と言う声が小さく聞こえた。

「な、なんだよ、その顔……」

「……え?」

 彼が言うとおり、自分でもわかるくらい相当間抜けな表情をしていたのだろう。まさに言葉通り、唖然とした。

 そんな場合じゃないのはわかっているものの、なんだかいろいろと信じられなかった。

 中学生の基樹の一つ一つの動作があまりに新鮮でたまらないというか、今ではほとんど見ることのない彼の姿に目が離せない。

「なんかよくわかんねぇけど、未来の俺のせいであんたは今、こんなことになっちゃってるんだろ? だったら、帰れねぇし」

 こういう面倒なことは好きでないと思っていた。でも、彼が困った人をほうっておけない性格だということも知っていた。

 罪悪感なのか、責任感からなのだろうか、意外な彼の一面に失礼ながら驚いた。

「いまだに信じらんねぇけど、俺もなにか考えてやるから」

「も、基樹……」

「ちょ、なんだよ。慣れ慣れしい呼び方すんなよっ!」

 恥ずかしそうに手の甲で口元を押さえた彼に目を疑いつつ、続ける。

「えー、なに、照れてんの? かわいいとこあんのね。ずっとそう呼んでたのよ」

 一応彼女だったんだから。

 それに、高崎さんたちだって普通にそう呼んでいた。今さら照れることなのか……なんて思ったものだったけど、珍しく言葉に詰まって固まっている彼に思わずぷっと吹き出してしまった。

「……あはははははっ!」

「ちょっ、おいっ!」

 ダメだとは思ったけど、笑いが止まらなかった。本当はこのままきっとここで夜を迎えるんだ……とそんな風に思っていた。

 だからとても不安で、今にも泣いてしまいそうだったけど、なんだかとてもほっとした気持ちになったのは本心だった。
「し、心配して損した」

 ぶっきらぼうにつぶやく彼に、これ以上は怒らせるだけだろうけどますます頬が緩む。

「……変わんないね」

「は?」

「全く無関心なようでお人よし」

 意外だとか、見慣れないとか……とんでもなかった。

 わたしは覚えている。

 わたしがずっとずっと遠くから眺め続けていた人は、こんな人だったなぁって。

「ば、バカにしてんの?」

「ううん。今日一日で、いろいろと懐かしいあれやこれや昔のことをいろいろ思い出してね。それであんたのことも思い出したのよ」

 ふふっと笑うと、意味わかんねぇとまた頭を抱える基樹。

 そのしぐさがあまりにかわいくて、目頭が熱くなった。あたりが暗くてよかったとさえ思う。

「お人よしのばーか」

「はぁ?」

「懐かしい」

 もうこうやって基樹とああだこうだ話すことなんて、最近のわたしにはなかったから。

 笑いあったのだっていつぶりだろう。

 そういえば、いつも一応付き合っているということで、帰りもどちらから誘うわけでもなく一緒に帰ってはいたけどお互いにこれといって積極的に話題を出すタイプでもなかったし、どちらかというと無言が続くことのほうが多かった。

 たまに話題のカフェができたと一緒に向かっても、結局途中からお互い自分のスマホの画面に釘づけだったような気もする。

 最初は隣に並んで歩くだけでも夢かと思って足がすくみ、一歩あとを歩こうとしがちで見かねた基樹に手を引かれて無理やり隣に並ばされたこともある。

 初めて手をつかまれた時なんて、それどころではないのに腰を抜かしかけ、彼を呆れさせたものだ。

(そんな突然に初めて手をつなぐことになるなんて思っていなかったんだもん……仕方ないわよ)

 だけど、このごろは手だって繋いでもどちらからともなくすぐに離してしまって、それからはもう離れた指先は繋がることはほとんどない。

 いつの日からか、初めて背伸びをして飲んだアップルティの味もあの頃とは別の意味でわからなくなっていた。

 いつからこんな風になってしまったのだったか……それさえももはや覚えていない。

「あっ、といっても、わたし……こんなかわいらしいあんたは知らなかったかも」

「はぁっ?」

 わたしがあまりに自分の世界に浸っているものだから、罰が悪そうな表情になった基樹にわざとからかうように言ってやる。

「なんだろうな。わたしが付き合った時のあんたは……そうだな、もう少し今よりもあとの姿なのかな。もう現在のほぼ完成形のようなもので、完璧だったというか……だからわたしもわたしで緊張してしまってたからあんまりこうやってふたりでバカなことを言い合うこともなかったんだよね」

 しみじみ思い出して言葉をつなげていく。

 もちろん彼も基樹本人ではあるのだけれども、現在の高校生の彼ではない分、言いやすいというか、状況も状況なのでこの際だからまぁいっかって……なんて、そんなノリで何でも言えそうな気がした。

 こんなにも基樹と自然に会話をするのは、付き合っていてもなかったようにさえ思えた。

 だからこそ、彼には申し訳ないけど心のどこかで楽しいとさえ思ってしまった。
「……あんたさ」

「ん?」

「ほんとに、未来から来たの?」

 基樹が言いづらそうに口を開いた。

「何を今さら……」

 何度も言ったし、何度校門に向かっても同じ場所に引き戻されるというありえない光景も見たはずなのに。

「本当に、俺と付き合ってたの?」

 一層低く聞こえる彼の声にびくっとする。

「え?」

 付き合ってたのかって……

 言われましても……

「……わ、わたしはそのつもりでしたけど」

 改めて本人にそんなことを言われて自信を無くすなんて情けないったらないけど、ふと本当はどう思われていたんだろうと考えてしまった自分がいた。

 まさか、最初からそう思っていたのはわたしだけだったのだろうか。

 あの日、あの放課後に聞き間違えて……

「あ、でも、別れてくれって最後に言われたから、付き合ってたんだと思う」

 そうだそうだ。そうよ!

 付き合っていない限り、別れるなんて言葉はでてこないはずだ。

 威張ることでもないが、どうだと言わんばかりに自信満々に返してやると、基樹は一言、そうか、とだけ呟くように言った。

 表情は見えなかったけど、その姿になんだか申し訳ない気持ちがわいてきた。

「た、多分、パラレルワールドなんだと思う」

「……え?」

「ここの世界と、わたしのいた世界は別なんだと思うの」

 だからこそ、慌てて言葉を探した。

「あっちの基樹はなんらかの手違い……って自分で言うのもなんとも残念な話だけど、わたしと付き合ってしまった。でも、ここは違う。別の世界。だから、あんたの未来とは何も関係ないんだと思う。うん」

 どう言えばうまく伝わるだろうか。

 静かに顔を上げた基樹の瞳に、わたしが映る。

「さっきと言ってること違うけど……」

「半日もここに閉じ込められて一生懸命考えたのよ」

 嘘だ。

 たった今、思ったままの言葉を並べただけだ。でも、

「だから安心しなさい。あんたの未来は、今からあんたが自分で見つけて、自分の手でつかんで作り上げていくものだから」

 なんだかこれ以上、この基樹に未来の自分たちの姿を伝えるべきではない気がした。

 彼の未来は、まだまだ可能性は無限大だ。

 勝手にまだ見ぬ世界のことを押し付けてはいけない……そう思えてならなかった。

 いや、間違いなくそうだ。

 当たり前のことだ。考えなくてもわかったはずである。

 よくアニメとかでありがちな、先のことを言ってしまったことにより未来を変えてしまった……とかそういう問題よりも、わたしとしては、いきなり未来から現れたという怪しい人間に、自分の未来だと信じがたい先の将来の話を一方的に聞かされたところで未来への希望がなくなるというか、自分だっていい気がしないであろうことは間違いなかった。

 ましてや、絶対ない!とまで言われた相手と付き合っただなんて未来を、中学生の彼に押し付けるのはなんだか違う気がした。

「変なこといって申し訳なかったわ」

 忘れて、と付け加える。

「さ、もう結構暗くなってきたし、下校時間もすぎたんじゃないの? わたしのことはいいから帰りなさい」

 ひとりになるのはとても怖かったけど、こうするべきだと思った。

 解放してあげないといけない。

「……あんたは、どうすんの?」

「わたし? 適当にすればなんとかなるわよ」

「今の今までどうしようもなくてここにずっとへばりついてたくせに?」

「………」

 ああいえばこういう。

 確かに強がったところでその通りなだけに言い返せない自分が悔しい。

「……仕方ないじゃない。なんでここにきたのかもわからないし、何か未練があってやり直しに来たのかと思っても、そうでもなさそうだし」

 第一、中学校の頃の懐かしい基樹にも会えたし、なかなか満足している。

 いろいろと懐かしい気持ちも味わえたことだしなんとなく勝手ながら満足はしていた。

 できるものならもうそろそろ元の世界に戻ってもいいはずなんだけど……それでも一向に変化がないならもうお手上げだった。

 わたしの気持ちとは裏腹に、時間だけは刻一刻と変わらず過ぎていく。

 あっという間に辺りは暗くなって夜という時間を連れてきた。

 容赦なく進む時間も一向に止まってくれそうにないし、それなら彼まで巻き込むわけにはいきそうにない。いつまでこうしているのかという不安はぬぐえないけど、どうにか朝までには答えが出したいと思う。

「だからあんたは……」

「一緒に探してやるよ」

「え……」

「本当にあんたが未来から来てるんだったら、元に戻れるきっかけを」

「は、はぁ? な、何言ってんの……」

「あんた、未来で俺に振られて、ここでも俺においてかれるとか、哀れすぎるだろ」

「ちょっ、その言い方……って、み、未来じゃなくて、パラレルワールド、ね?」

 本人にまで言われていささかダメージを受けたのは否めないけど、一応最後に訂正しておいたのは年上としてのわたしのなけなしの意地である。

「ああ、まぁそういうことにしといてやるけど……」

 そんなわたしに意地悪く基樹は笑って続けた。心なしか、どこかわたしの知る彼の姿と重なって見えた。

「こんな機会もめったにないし、付き合ってやるよ」

「はぁ?」

 こんな機会って……。

「多分この中学校でやりたいことでもあったんだろ。戻れるように協力してやる」

「あ……あんた、自分が何言ってるかわかってんの?」

「それに、未来の俺のせいで復讐なんてされたくねぇし」

 ニヤッと笑う。

 それは、年相応の表情だった。

 何か、新しいゲームを見つけた時の少年のような、そんな生き生きとした瞳で彼がこちらを見るものだから、これ以上はこのお人好しを前に断れそうになかった。
「そもそも、あんたはどんな中学生だったの?」

「え?」

 唐突に投げかけられた問いに驚いた。

「俺が知ってる人?」

「……」

「あんたみたいな目立つ容姿だったら、俺も知ってると思うんだけど……」

 別のクラスなのかな?と頭をひねる基樹。

 非常に言いたくない。

「わ、わたしは……」

 このころの彼の中にわたしの存在はなかったと断言できる。知られていなかった。

 まさに一方的な気持ちだったのだから。

「地味な学生だった」

「は?」

「今とは違って、スカートもこれくらい長くて……」

「嘘だろ……」

 本気で捉えたかどうかはわからないけど、ジェスチャーを加えて伝えると、複雑そうな表情を向けられた。

「まじめだったのよ」

「そんな学生が……どうしてこんな……」

「どういう意味よ」

 さきほどから散々失礼なことを言ってくれちゃう彼を無視して、あの頃の自分を思い出してみる。

 だけど、絶対に知られてはいけない気がした。未来は操作してはいけない。そう思ったからだ。

「俺の知り合い?」

「さぁね」

「それじゃわかんねぇだろっ!」

「よ、よく覚えてないのよ」

「……え」

「いつの間にか出会っていたというか……あの頃の思い出ってあやふやであんまりちゃんと覚えてないの」

 思わず語調を強めて言い切ったわたしに、「そうか」と基樹が小さく息をついた。

 その様子に罪悪感を覚えるも仕方がなかった。

 嘘だった。

 覚えないないなんて嘘だ。

 彼のことで覚えてないことなんてひとつもない。むしろ、付き合う前ならなおさらだ。

 だけど、そんなこと口が裂けても言えやしなかった。

 夏を過ぎたころ、わたしたちは出会った。

 きっとこの基樹が中学二年生の基樹だから、このすぐあとの秋のことだ。

 カエデの木が燃えるような朱色に染まった頃のことだった。

 わたしが腰を抜かしてしまって、彼が助けに来てくれた。

 あれは、わたしの中では大切な思い出だ。

 絶対に絶対に一生忘れられない思い出だけど、今の彼に言うわけにはいかない。

 彼の未来に、それこそ影響してしまうと思うととても怖くなった。

 嫌な沈黙が続く。

 こんなことなら、いくら夜の学校が怖いとか不安だとはいえ、やっぱり先に帰ってもらった方がまだ気が楽だったような気がする。

 未来をこれ以上告げられない彼に、どうやって一緒に元の世界に戻るきっかけを探してもらうというのだ。

「高校デビューってやつ?」

「……え」

 先に重い口を開いたのは、基樹だった。

 とても言いづらそうだったけど、視線を合わそうとせずに、それでも声をかけてくれた彼が気を使ってくれたのがわかった。

「そうよ」

 発する言葉を慎重に選びながら口を開く。

「中学校の時は、自分に自信がなかったから、変わりたいって思ったの」

 あんたと釣り合える女性になりたかったのだとは、さすがに言えなかったけど。

 そんなところだ。

「それじゃないの?」

「え?」

「地味な中学校時代にやり残したことをするためにここに来たとか?」

「ええ? 中学校時代にやり残したことをするために?」

 そんなまさか。

「中学時代に未練なんてないと思うんだけど……」

 思い返してみてもこれといってやり残したと思えることはない。

 片想い期間もそれはそれでそれなりにこっそりと楽しんでいたし、付き合ってからなんて夢のようにバラ色な毎日だった。

 平凡だったけど、誰よりも贅沢で満喫した毎日を過ごしていたと改めて振り返っても満足な日々のみが思い出される。

 むしろあのころのわたしには出来すぎな中学時代だったといっても過言ではない。

「でも、それしか今は考えられないと思うんだけど……あんた地味な中学生活送ってたって言ってたし、派手なその身なりでここで過ごしてみたかったとか」

「じょ、冗談じゃないわ」

 冗談じゃなさすぎる。

「そ、そんな、それだったらわたし……あまりにも残念な人じゃない。地味だったのは事実だけど、それなりに充実した学生時代だったわよ」

 それだけの理由だけで未練があってタイムスリップしてここへ戻ってきたのなら、ただただ自分に絶望してしまうし、なにより当時の姿に戻ってもよかったはずだ。いくらでも今の技術で着飾って見せられるのだから。

「じゃあ、ダメもとで試してみようぜ!」

「え? なにを?」

「ただここにいるだけよりはましだって!」

 そう言うなり勢いよく立ち上がる基樹に言葉を失う。

「ちょ、ちょっと待って! 何をするつもりなの?」

「後悔のない選択をする! これ、俺の格言。あんたにとって、今はそれが必要なことなんじゃないかって思うんだけど」

「こ、後悔のない選択……やりのこしたことを探すっていうの?」

「そのとおり!」

 やり残したことさえ想像がつかないけど、確かに基樹の言うとおり、何もしないままただここにいるよりは何か試してみる方がましだろう。

「わ、わかったわよ」

 だからしぶしぶ立ち上がるしかなかった。もうなんとでもなればいい。

「地味だった中学校生活でできなかったことを今から片っ端から制覇してやるわ!」

「その意気だ!」

 楽しそうに笑う基樹に、なんだかもう悩んでいるのも馬鹿らしくなった。この笑顔がもう少し見られるのならまぁいっかとさえ思えるようになった自分がいた。
 いつだって、基樹のそばには誰かがいた。

 大きな口を開けて楽しそうに笑う男子たちや身なりをきれいに整えた女の子たち。はたまた大人びていてきれいなメイクを施した高校生とか。

 いつも基樹の周りには誰かがいて、基樹基樹と彼のことを慕っていた。

 付き合ってから彼らのことを紹介してもらえたけど、彼らも大切な基樹が付き合い出したという新しい恋人があまりにも地味な人間で、最初の頃は言葉を失わせたり、かなり気を使わせていたのは知っている。

 隣に並べるなんて思っていなかった。

 ただただ毎日後ろから眺めている日々が幸せで嬉しくて、彼の初めて見る様子をひとつでも多く見つけられた日は飛び上がるほど嬉しかった。

 二年生の文化祭で、基樹がシンデレラの演目で王子様役を演じたときは、周りの方たちはとても嘆いていたように思うけど、わたしは学年で一番可愛いと言われていた麗華(れいか)ちゃんが基樹の相手役であるシンデレラ役を演じていて、あまりにもお似合いなふたりの様子に思わず見入ってしまったのを覚えている。

 基樹の近くにはいつもたくさん人がいて、彼は中心にいた。

 これからは彼の人生の登場人物のひとりにさえなれないけど、どうせこれからもまた彼はいろんな人を笑顔にして、虜にしていくのだろうなと思ったら、少しだけさみしい気持ちがした。

 彼の未来には、もうわたしはいないのだから。
「でも、どうやんのよ?」

「え?」

 中学生の基樹の案を採用して、意気込んで『地味だった中学生活をやりなおそう大計画☆』を決行し始めたのはいいものの、いきなり大問題にぶち当たる。

 ここは、すべての生徒が帰ったであろう誰もいなくなった夜の学校だ。

 見上げた先の時計の時刻は間もなく八時になろうとしていた。

「もう校内に入れる時間じゃないと思うけど」

 きっと先生たちだってそろそろ帰宅しようとしている時間なはずだ。というより、誰もいなくなった学校に入るほど恐ろしいことはない。別に私は夜の学校でのスリルを体験したかったわけでもない。

「ああ、それなら問題ないよ」

「ええ?」

(いや、問題大ありでしょ!)

 と叫びたくなったけど、そんなのお構いなしというように基樹は走り出す。

「ほら、早く!」

「え? えええええええ、どこ行くのよっ」

 運動だって全然得意じゃないし、できればしたくないと思っているのに、早くついてこいと急かす彼に、なんだかもうわけがわからなくも必死に続く。

 こちらに気遣ってかペースを緩めながら走ってくれる基樹の後ろを一生懸命その姿を見失わないように追いかける。

「ほら、やっぱり」

 こんなに走ったのは久しぶりだ。

 日頃の運動不足が祟って息は上がりまくって今にも心臓が口からこんにちはしてきそうな状況で、わたしは必死に呼吸を整えていた。

 口内に血の味がしたし、汗で制服が体にピタッとくっついてきて気持ちが悪い。

「中に入れるぞ」

 そんなわたしとは裏腹に、息ひとつ乱れていない基樹の誇らしそうな声が聞こえた。

 ファンデーションが浮いているだろうなと頬を伝う汗を拭いながら、ありったけの力を振り絞って顔を上げると、いつの間にやら基樹の背中が目の前から消えてしまっていたことに気づく。

「えっ……」

 どこにいるのだろうとふらつく頭を抱えながら暗闇に目をこらすと、いつの間に開けたのだろうか、校舎の窓に足をひっかけ、よじ登る基の姿が見えた。

「ちょっ、なにやってんのよっ」

「ほら、手、貸してやるからあんたも早く!」

 言葉の通り、手を差し伸べてくるのだけど、ま、まさか、まさかわたしにもここをよじ登れと言っているのだろうか。

「じょ、冗談でしょ」

「誰かいるかもしれないから、早く……」

「わ、わかったわよ」

 無茶苦茶にもほどがある要望だったけど、あまりに急かしてくるものだからもうどうにでもなれと彼の指示のまま、壁にあるでっぱりに足をかけて、後半はほとんど引きずり上げられるような形で、無理やり窓をよじ登ることに成功した。

 重い重いと基樹は随時失礼なことを言っていたけど、わたしはもうやけくそで壁にへばりついた。きっとこんなこと、今後生きていくうえで一生ない出来事だと思う。

「な、なにここ? 倉庫?」

 ようやく窓のヘリに重心を移動することに成功し、安堵したのもつかの間、見たこともない部屋の中にいた。

「家庭科準備室だよ」

「な、なんでこんなところ……」

 家庭科の授業の記憶も曖昧だけど、この場所は入った記憶すらない。

「最近鍵が壊れた場所があるって聞いたのを思い出したんだよ」

「……あ、あんた、こうしていつも女の子を連れ込んで夜の学校でやらしいことを……」

「してねぇよ! ここへ来たのは今日が初めてだよ!」

 ふざけんな!と真っ赤になって憤慨してくるものだからさすがにそれ以上何も言えなかったし、嘘ではなさそうだ。

 そんなわたしだって、もしも基樹の過去にそんなアバンチュールな思い出があったのならと少し胸がチクチクしたため、この反応にはいささかほっとした。

「仕方ねぇだろ、ここしか思いつかなかったんだから」

 ほら、行くぞ!というように座り込んで動けなくなったわたしに手を差し出してくる基樹。

「それにしても、不用心ね」

 こんな所の鍵をあけておくなんて……と照れ隠しに呟いて、わたしはその手を取った。

「聞いてなかったらここの鍵が壊れてるなんて誰も思わないと思うぞ」

「まぁ、準備室に入ろうとは、確かに思わないわね」

「俺らの間で、だけど……」

「うん」

 歩き出すのと同時に思い出したように口元を緩ませて話し出した基樹の声を静かに聞き入る。

 誰ひとりいない廊下には音はなく、まるで時間が静止しているようだ。

 静寂に包まれた空間に、一応努めて声を落としているつもりなのだろう基樹の声とわたしたちの足音だけが響く。

小坂(こさか)ってわかる?」

「小坂くん……?」

 ああ、覚えている。

 基樹の仲間のひとりで、彼もヒエラルキーの氷山の一角に存在したうちのひとりだ。

「あいつ、遅刻の常習犯だったんだけど、先生たちが張ってる下駄箱じゃなくって、いっつもこっから侵入して登校してたんだ」

「うわ、最悪」

 だから俺たちだけの秘密なんだよ、と基樹は悪びれる様子もなくケラケラ笑う。

「先生にちくってやんなさいよ、そんなの」

 小坂くんとは、基と同様によく目立つと思っていた同級生だ。

 そんな彼がから家庭科準備室からコソドロのように侵入して登校していただなんて、あまり知りたい情報ではなかったのが正直のところだ。

「なぁ」

「まだなんかあんの?」

 そんなわたしに、基樹は声を上げて楽しそうに笑っていた。

「上から攻めるか、下から攻めるか」

 まるで財宝のある洞窟に侵入したトレジャーハンターのように目を光らせ、彼は聞いてくる。

 音楽室や保健室とか、専門的な教室は鍵がかかってそうだけど……なぁんて言いながら。

(いやいや、家庭科準備室はかかってなかったじゃないの!)

 見てる分にも生き生きしている彼に、やっぱり中学生の少年なんだなぁとなんだかんだでこちらも仕方ないな、という気持ちになり始めていた。

 とはいえ、どうするべきなのだろうか。

 いざ校内に入ってみたものの、やり残したということを今さら思い出してもピンとこないのが困った所だった。

 言葉に詰まるわたしに、じゃあ屋上から攻めようと意気込んで上ったわたしたちだったけど、もちろんのこと、屋上も鍵がかかった状態だったため行き場を失い、俺の教室にでも言ってみる?と少し悩んだ末に基樹が言い出したことに従うことにしたのだった。