屋上には何もない


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「……野崎先生の場合は、講義でやったこと以上のことをレポートに書くのが大事。自主学習の成果を見せたら、評価が高くなる。逆に、伊藤先生は、講義で教えてないことをレポートに書いてたら点数低くなるんだよ。プライド高いからさ」

 7月中旬。僕は空調の効いた学食で、森先輩の言葉を真剣に聞きながら、メモ帳にペンを走らす。時間は午後3時。昼を過ぎていることもあり、学食内は人も少なく、やや物寂しい。僕の隣では、剛一と千秋も真剣そうなまなざしを先輩に向けている。

 屋上で先輩に会えなくなって、約一か月が過ぎた。

 僕はといと、大変有意義な時間を過ごしている。先輩に会えなくなってから、僕は思い切った行動を取ってみた。同じ講義を受けていることが多い同級生……剛一と千秋に話しかけてみたのだ。会話のきっかけは大した内容ではなかった。講義の課題か何かの話だ。
 二人は、僕が話しかけたときは少し驚いた顔をしたように見えたが、すんなりと会話を続けてきてくれて、それ以来、一緒にいるようになった。

 今日も前期の科目のレポートの書き方を、千秋の部活の先輩にあたる森先輩に教えてもらっているのだった。森先輩は、くだらないウソもつかず、僕たちに有益な情報を与えてくれている。

「レポートの文字の書体とかサイズってどんなふうにしたらいいんでしょうか? 見やすい書式とかってありますか?」

 剛一が森先輩に真面目そうな表情で尋ねる。剛一も千秋も講義をいつも前のほうで聞いているような優等生なのだった。僕はまじめな同級生と親しくなれたことに満足している。「夏休みになったら、三人でバイトをしよう」なんて話もしていて、大学生活を心地よく送ることができている。

 ただし、ときおり、先輩のことが気になってしまう。

 屋上では会えないけれど、もしかしたら、キャンパス内のどこかで会えたりしないかと思って、なんとなく周囲の人に注目はしていたけれど、先輩にはいまだに会えていない。

「書式は様式通りがいいと思う。講義でそのうちテンプレが配られると思うけど……ちょっと待って。たぶん、データが残ってる」

 森先輩はそんなことを言いながら、ノートパソコンをバッグから取り出そうとする。僕は、なにげなく視線を、学食の入り口に向けた。
 そして、ハッとする。
 ずっと会えずにいた先輩が、学食に入ってくるのが見えたからだ。先輩はというと、食堂で売られているパンを買いにきたようだ。パンが売られている場所に向かっていく。

 僕は先輩に話しかけたいと思ったが、他の3人の手前、動きにくくソワソワしてしまう。先輩のことをどんなふうに3人に伝えたらいいのかわからなかった。

 僕の様子を不審に思ったのか、森先輩もなにげなく僕が見ているほうに視線を向ける。
 そして、不快なものを見たかのように顔をしかめたのだ。僕は、意外な森先輩の態度に、驚いてしまう。剛一と千秋も先輩の表情の変化に気が付いたのか、不思議そうに森先輩を見る。

「先輩、どうかしましたか?」

 最初に口を開いたのは千秋だった。森先輩は、その言葉に表情をゆるめた。そして、先輩のことをさりげなく視線で僕らに示しながら、秘密の話をするかのように、声をひそめて思いがけないことを言ったのだ。

「みんなさ、あの炎上事件って知ってる? 去年の9月に起きたあの事件。モラハラクソ男の事件。あそこにいるあいつが、あのクソ男なんだ」

 なんだその事件は? 僕は“モラハラクソ男”という聞きなれない単語に首をかしげたのだが、剛一も千秋も驚いたように声をあげる。

「ええ!? あの!? 大学、やめてなかったんですか?」
「去年、めっちゃ叩かれてたやつですよね?」

 僕は二人の反応の意味がわからず、「なんのこと?」と、剛一に尋ねた。彼は僕の反応が意外だったのか驚いたような顔をする。

「知らない? 高校で話題にならなかった? あのモラハラ自殺の。すごい炎上してただろ?」

 僕は浪人をしていたから去年の話題には少し疎い。しかし、二人はそんなことを知るわけがない。剛一は自分のスマホを操作して、まとめサイトの記事を僕に示した。僕は、彼からスマホを受け取って、画面を見た。そこには、

『有名大学で「モラハラ」告発自殺騒動! 自殺に追いやった男の本名は? 学部は? 自宅は?』

 そんなセンセーショナルな見出しが躍っていた。僕は記事を読んで信じられない気持ちになる。そこには、大学3年生の女子が“自殺団地”と呼ばれるスポットで飛び降り自殺をしたこと。
 飛び降り自殺をした原因は“彼氏からのモラハラのストレス”。彼女は彼氏から受けたモラハラを“Xに日々投稿”していて、自殺する直前に学科のグループLINEに“彼氏から受けるモラハラに耐えられないから自殺するという遺書”の文章と、XのアカウントのURLを一斉送信したこと。
 彼女の遺書とXのアカウントがネット上で大きな話題になって、モラハラをしていた彼氏が叩かれていて、正義ある人々によって、彼の本名や自宅情報が拡散されている……。そんなことが書かれていた。

 僕は動揺しながらもスマホを剛一に返した。彼はというと、僕の動揺には気が付かない。

「あんな犯罪者が退学になってないって最悪じゃないですか? 大学の先生方、知らないんですか? 彼女を死に追いやったのに、なんで大学に通えてるんですか?」

 剛一は怒ったようにそんなことを言っている。森先輩はというと、剛一をなだめるようにおっとりと話す。 

「知ってるみたいなんだけど、証拠がないから退学にはできないっぽい。確かに、モラハラの現場を見たことのあるやつはいなかったみたいだから」

「そんなのありますか!? モラハラなんて隠れてやるに決まってるじゃないですか? 彼女さんが死んでるのに、退学にしないなんてヤバくないですか?」

 千秋も顔をしかめながら、そんな感想を漏らす。僕は、ざわざわと胸が騒ぐ。先輩が屋上に来ていた理由に察しがつきはじめていたからだ。友人への配慮? そんなのウソだったのだ。

「まぁ、そうなんだけどさ。安心して。こいつ、長期インターンしてたとこに就職できる予定になってたけど、それも取り消しになったし、ネット上に本名とかも残ってるし……。それに、みんなこいつのことを気持ち悪がって、無視してるから」

 森先輩の言葉に、二人は納得したようだった。僕の脳に、“死体蹴り”という単語が頭をよぎった。僕は気が付くと、席を立ちあがっていた。三人は急に立ち上がった僕に、不審な目を向ける。

「すみません! 親から頼まれた用事があるんでした! うっかり忘れてて、今、思い出しました」

 我ながら酷い言い訳だなとは思った。大急ぎで僕は荷物をまとめるや否や、森先輩にとってつけたようなお礼をして、学食から飛び出していた。

 そして、あの先輩の姿を探す。きょろきょろと周囲を見渡して、数十メートル先にいる先輩の姿を認めた。僕は暑い中、駆け出していた。

「先輩ー!!」

 大声を出して、彼に呼びかけた。彼は驚いたように振り返る。そして、走ってきて汗をかいている僕を不審げな目で見る。 

「おお、後輩じゃないか。屋上以外で会うなんて、びっくりだな」

 楽しそうに微笑んでいるが、警戒するように周囲に視線をチラチラと向けている。午後3時という、講義と講義の間の、中途半端な時間にあたるせいだろうか。僕らの視界の周囲には人がいない。しかし、先輩はというと、手招きをしてから、校舎の影にあたる部分へと歩を進める。

「……なるほどな。俺の話を知っちゃった感じ?」

 人目につきにくい場所にたどり着いて、先輩は自虐するかのように言った。僕は、言葉に詰まる。 

「どうして……?」

 ようやく出てきたのは、そんな情けないセリフだった。先輩はというと、大げさに肩をすくめてみせる。

「どうしたもこうしたも……あの噂の通りだよ。俺、モラハラ男でさ、彼女をサンドバッグ代わりにしてたんだ。でもさ、失敗した。彼女、死んじゃうんだもん。迷惑な話だよ」

「嘘をつかないでください!!」

 僕は自分でも驚くような大きな声を出していた。先輩は少しひるんだようではあったけれど、楽しそうな表情で続ける。

「嘘じゃないよ。ほんとに殺したんだよ。楽しかったぞ。誰かを追い詰めて、じわじわと殺すのはさ」

 僕は泣きそうになりながら首を振る。「そんなわけない」と何度も何度も否定する。やがて、先輩は僕から視線を逸らす。それから、吐き捨てるようにいったのだった。 

「そうだよ! 嘘だよ! 俺はモラハラなんてしてねーよ!!!」

「じゃあ、どうして? どうしてこんなことになってるんですか?」

「こっちが聞きたいよ!!!」

 先輩はどこか苦しそうな表情で、しぼりだすように言った。

「普通だったんだ。たまにはケンカをすることもあった。お互いのことを悪く言うこともあった。でも、普通に仲直りして……あの日だって……いつも通りで……明日の講義の課題について話してた」

「あの日って……彼女さんが亡くなった日ですか?」

「そうだよ。その日もだけど……それまでだって、普通に会話してたんだ。それなのに、急に連絡が途絶えて……どうしたのか不安ではあった。でも、なんか急用でもあったんだろうと思って、気にしないようにしてたら……全体LINEに、意味の分からないメッセージが送信されてきた」

「先輩の悪口と……モラハラを受けている日々が綴られていたとかいうXのアカウントのURLですよね」

 僕はさっき読んだまとめサイトの記事を思い出しながら、言葉を続ける。先輩は、顔をしかめながら、頷いた。それから、少し悲しそうな顔をした。

「意味わからないよな。しかも、あいつ、足から落下してたんだ」

「足から……」

 僕は、いつか先輩とした屋上での会話を思い出して、ぞっとする。

「どうしてなんだろうな。何回も何回も考えてる!! でも、わからない。どうしてあいつが死んだのか。死ぬ直前に空なんて見つめて、何を思ってたのか。大学に入って、すぐに仲良くなって……わかりあっていると思たんだけどな。なにもわかってなかった。なんで。なんで、あんなLINEやらXのつぶやきを残して、死んだのか」

 先輩はそこで一旦言葉を切った。じわじわと伝ってくる汗を僕は不快に感じる。

「しばらくは意識があったんだってさ。でも、救急車の中で、息を引き取ったらしくて……。そのことを考えたら、どうしようもなく苦しくなる! どれほど苦しんだんだろうかって。痛みの中で後悔とかしてたら……どうしようかって……。かわいそうでかわいそうで……。そんな日はさ、酒を浴びるみたいに飲まないと、こっちまで死にそうになるんだ」

 先輩はぼそりとつぶやくような声で言う。屋上にいたときと同じように、先輩からはアルコールのニオイが漂ってきて、僕は苦しくなる。泣きそうになる。 

「先輩……彼女さんは、本当に自殺だったんでしょうか? たとえば、誰かに突き落とされたとか――」

「目撃者がいる」

 僕が疑問に思ったことを言おうとしたのだが、先輩は言葉の途中で、そんなことをいう。先輩は僕から目をそらして、空を見上げるようにした。

「動かしがたい事実なんだ。彼女は、あの自殺団地(、、、、、、)に行って、俺の悪口とかをグループLINEに送信した。それから、空を仰ぐようにして、飛び降りた」

 催眠術にでもかかったかのように、僕の思考は停止して、何も言えなくなる。

「もう何もないんだ……もうどうしようもないんだ。彼女は死んだ。俺は残された。何もない。変えられないんだ」

 先輩は僕のほうを見つめる。そのとき、遠くから、何人かの学生の話し声がした。先輩は、一歩後ずさって、僕から距離を取って、声のするほうを警戒したかのように見る。

「まぁ、そういうわけだよ。後輩はさ、ちゃんとした青春を送ったほうがいいよ。俺に何を求めてるのか知らないけど、何もないよ。俺さ、大学をやめようと思ってる。そのうち、ここからいなくなるやつなんかに時間を使うなよ」

 声がしなくなってから、先輩は口を開く。少し慌てた様子で、僕との会話を切り上げようとしているように見えた。そんな先輩の様子を見ていて、僕は催眠術から解けたようになる。

「でも、先輩は……モラハラなんてしてないんでしょ。それなのにおかしいじゃないですか!」

 先輩を問い詰めても仕方がないことはわかっていたが、僕は抗議をせずにはいられない。先輩は少し迷惑そうな顔をして、眉をしかめる。 

「真実なんてどうでもいいんだよ。多数決なんだ。社会ってもんは多数の意見が正義になるんだよ! それで、この大学内では、俺は叩かれるべき犯罪者ということになってるんだ。そんなやつと一緒にいるのは無意味なんだよ。メリットがないんだ」

「メリット……?」

 説教をするような先輩の声を聞きながら僕は思った。
 先輩と交流をすると、まともな青春生活とお別れしないといけないだろうことは察しがついた。モラハラ男として叩かれている先輩。そんな人と親しくしていると、自分まで共犯に思われるだろう。せっかくできた友人も僕から離れていくかもしれない。

「後輩のことを恨まないよ。俺だったら関わらない。それにさ、十分なんだよ。事実を知った後も、こうやって話しかけてきた。それで十分だ。嬉しかった。これで終わりにしよう。な?」

 先輩はそういうと、僕に背を向けた。
 先輩の言うことが正しいのだろう。僕は先輩の厚意に甘えて、ここから立ち去るべきだ。僕は、普通の大学生活に憧れていたはずだ。体裁よくふるまって……。このモラトリアム期間を楽しもうと考えていたはずだ。しかし、

「先輩! 僕は作家志望です!!」

 気が付くと先輩に向かって叫んでいた。先輩は、振り返って、意味がわからないとでもいいたげな様子で僕を見る。僕は少しおかしくなる。僕は、息を吸い込んで続ける。

「いつだったか。先輩は、笑いましたよね? 小説を書くなんてコスパ(、、、)タイパ(、、、)も悪いって。有意義な時間の使い方じゃないって。作家志望者は、バカだって」

 僕はこれから間違えたことをする。正しくない選択をしようとしている。しかし、どうしようもない。僕は少し眉をさげて笑った。

「先輩。どうも僕はそうみたいです。先輩が言った通り、バカみたいです。コスパとかタイパとか意義とか……そういうものを重視できないタイプというか……自分のメリットとか重視できないタイプの人間みたいです」

 僕は先輩の返事を待たず、彼をしっかりと見据えながら、言葉を続ける。

「僕は、メリットとかどうでもいい! 体裁の良い青春なんて、そんなものはどうでもいい! そんなことより、僕はあなたと親しくなりたい。死体蹴りなんて大嫌いです! 誰がしてようが許せない! そんなクソみたいな行為がされてるのを見ていたくもないんですよ!」

 先輩はあっけにとられたような表情をする。そして、僕に近づいてきて、僕の肩をつかんで揺さぶるようにする。

「バカだよ、お前……。大学の4年間って貴重なんだよ。無為に過ごすなよ、もっと有意義なことに時間を使え!」

「だから、有意義かとかどうでもいいんですってば」

「バーカ! ほんとバカだよ! 頼むから関わらないでくれ。巻き込みたくないんだって。バカ! ほんと底抜けにバカだよ」

 僕はバカバカと言い続ける先輩を前にして、少しイラっとする。先輩こそが間違ったことをしているように僕には見えているから。そして、無茶苦茶な提案を彼にしてみた。

「ていうか、先輩こそ、なにやってるんですか!! 先輩こそバカでしょ? 今こそつきましょうよ、嘘を!」

「嘘?」

「何もないなら作ればいいじゃないですか! 創作しましょうよ、先輩にとって都合のいいお話(、、、、、、、)を」

 僕は、先輩と夢を語った日のことを思い出す。“力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、 猛き武士の心をも慰むる”……洗練された言葉は、天地をも神をも、どんな人をも動かすことができる! そんな話をしたことを。

「天地や神を動かすことに比べたら、どう考えてもチョロいですよ、この大学を動かすことくらい。僕みたいな作家志望者でも、先輩が正義の物語を作れますって! それに先輩は嘘をつくのがうまいじゃないですか!」

 嘘をつくなんて間違ったこと。そんなことをしてはいけないのはわかっている。話し合いで真実を模索して、分かり合うのが理想だ。
 しかし、そんなもんは綺麗ごとで、この社会には「話し合い」すらしようとせず、一方的な真実や正義で叩いてくるやつが多いのだ。“お綺麗な理想的な方法”が通じない相手には、「嘘」だの「虚飾」だの……そういう汚い武器を使うしかない。

「動かしましょう! 僕は、創作したくなってます。絶対に面白い話が完成します! ここから先輩が巻き返せるような、そんな都合のいい綺麗ごとを創作してみせますよ! 情報をください。うまいこと話を作ってみせますって」

 あっけにとられている先輩に僕は不敵に宣言してみせた。
 
 僕は先輩といる限り、綺麗な青春は送れなくなるだろう。それでも、僕は、このままでは嫌だったのだ。僕は何もない空間に素敵な結末を生み出したくて仕方なくなってしまった! そんなことに自分の青春のすべてをかけたくなっていた。僕は自分の言葉の力のすべてをかけて、嘘をついてみたくなったのだ。大学で初めてできた友人のために。